夕暮れのリビングは、柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。窓際の観葉植物の影が床に長く伸び、落ち着いた空気を漂わせている。
最初に声を発したのは、中沢悟だった。大学を中退したばかりの二十歳の青年。
「……ここのコーヒー、ちょっと苦いな」
小さく呟いた声に、隣の席の杉村光輝が思わず笑った。
「そうだな。缶コーヒーのほうがまだマシかもしれない」
そのやり取りに、場の空気がわずかに和らいだ。
机の向かいに座っていた杉山翔子が、おそるおそる顔を上げた。
「……あの、私も思いました。なんか薬っぽい味がするというか」
彼女の声は震えていたが、その瞬間、悟が「だよな」と頷いたことで少し笑みがこぼれた。
会話はゆっくりと広がっていった。
「俺は、働くのが嫌になってさ。大学も中退して、ここに来た」悟がそう語ると、翔子はしばらく黙ったあと、「私も、学校が嫌で……」と小さく打ち明けた。
光輝は二人を見つめながら、自分の胸に溜め込んでいた言葉を吐き出した。
「俺は商社マンだった。仕事に追われて、気がついたら何も残ってなかった。家庭も、友達も。俺には、もう“居場所”がないんだ」
翔子の瞳が揺れた。
「……私も、居場所がなかった」
その声はか細かったが、確かな共鳴があった。
そのとき、杖をついた塩谷正弘と妻の弘子がリビングに入ってきた。二人はソファに腰を下ろし、若者たちの会話に耳を傾けていた。
「若い人まで、ここに来るんだね」弘子がしみじみと呟く。
悟は少し居心地悪そうに肩をすくめた。
「まあ……逃げ場が、ここしかなかったんで」
正弘はゆっくりと頷いた。
「俺たちも同じだよ。働きづめで、最後に残ったのは借金と病気ばかりだった。逃げ場を探して……ここに辿り着いた」
弘子が続ける。
「でも、こうして話せるのはありがたいわね。お互い、少しは楽になる」
その言葉に、翔子が涙ぐんだ。自分の気持ちを正直に話しても、誰も笑わず、否定しない――それだけで救われるような思いがあった。
その夜、リビングには自然と輪ができた。
悟が持ってきたノートに、みんなで「好きなもの」を書き出してみる。
翔子は「読書」と書き、光輝は「ジャズ」と書いた。弘子は「花」、正弘は「将棋」。悟は少し迷って「カレーライス」と書いた。
些細なやり取りだったが、不思議と笑いが生まれた。
「最期を待つ場所なのに、笑えるのだな」
光輝が呟くと、正弘が静かに答えた。
「死ぬ前だからこそ、笑っておくのだよ」
深夜、翔子は自室に戻る前にふと立ち止まり、振り返った。
悟も光輝も、塩谷夫妻も、それぞれ疲れた表情の奥にほんのわずかな温もりを宿していた。
「……まだ、生きているんだな」
胸の奥でそう呟き、翔子はそっとドアを閉めた。
それは、この施設で初めて芽生えた小さな絆だった。
脆く、不確かなものかもしれない。だがその夜、誰もがほんの少しだけ、孤独から解き放たれていた。
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