深夜二時。
施設の廊下は、息を潜めるように静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が規則正しく並ぶその下を、看護師・荒川澄江は巡回していた。
ふと、背後から足音が聞こえた。
――カツ、カツ。
振り返ると、誰もいない。足音は止んで、ただ冷たい風だけが残っていた。
「また……」
荒川は小さく息を吐いた。職員たちの間では、この施設には「去った者の声が残る」と囁かれている。彼女自身、すでに何度か説明のつかない現象に遭遇していた。
翌朝、志願者のひとり、翔子もまた奇妙な体験をした。
洗面所で顔を上げると、鏡の奥に「もう大丈夫」という女の人の唇の動きが映った。
驚いて振り返るが、誰もいない。
胸が凍りつき、手の中のタオルが落ちた。
「……私を、呼んだの?」
その声は、自分にしか届かなかった。
一方、商社マンの光輝は夜中に目を覚ました。
ベッドの横に誰かが立っている気配がする。
「……どちらさまですか?」
返事はなかった。ただ、肩に重い手が触れたような感覚が残り、光輝は飛び起きた。
明かりを点けると、そこには誰もいない。机の上のノートだけが開かれ、見覚えのない文字が書き加えられていた。
《あなたもすぐに仲間になる》
震える指でページを閉じた光輝は、しばらくベッドに戻れなかった。
中沢悟もまた、廊下を歩くときに低い囁きを聞いた。
「――逃げても無駄だ」
声の出所を探しても、ただ非常口のランプが光っているだけ。
悟は足を早め、心臓の鼓動が耳に響くのを感じながら部屋へ駆け込んだ。
――ここは死を与えるだけの場所じゃない。何か別のものが潜んでいる。
探偵・宮本誠もまた、こうした現象に気づき始めていた。
ノートに符号を写し取っていた彼は、ふと廊下の先に見覚えのある少女の姿を見た。
依頼人が捜している娘に酷似していた。
「待て!」
声をかけて追いかけるが、曲がり角を抜けた瞬間、その姿は煙のように消えていた。
代わりに壁に貼られた紙切れだけが残っていた。
《ここでは死んだ者が消えない》
怪異は、静かにしかし確実に広がっていた。
志願者も職員も探偵も、皆それぞれの方法で気配を感じている。
それは幻覚なのか、心の闇が見せる影なのか。
あるいは、本当に“この世ならざるもの”が存在しているのか。
いずれにせよ、彼らの心に深く食い込み、逃れられない重石となりつつあった。
朝の食堂。窓から射す陽光はやわらかく、テーブルには栄養の整った朝食が並んでいた。だが、空気はどこか重かった。昨夜、誰もが心に影を残していたからだ。
最初に口を開いたのは悟だった。
「……なあ、変なこと、あったりしないか?」
曖昧に投げかけた問いに、翔子がピクリと肩を揺らした。
「わたし……鏡で、知らない人が映っていたのです。」
その言葉に、光輝が苦笑しようとしたが、すぐに表情を曇らせた。
「俺も、だ。ノートに勝手に文字が書かれていた。《あなたもすぐに仲間になる》って」
テーブルに沈黙が落ちた。塩谷夫妻も顔を見合わせ、弘子が小さく呟いた。
「私たちも、夜中に声を聞きました。『一緒に来い』って……」
誰も笑わなかった。冗談にする余裕もなかった。
悟が小声で続けた。
「これって……ここに“何か”いるんじゃないか?」
「死んだ人の……?」翔子の声は震えていた。
正弘は腕を組み、険しい表情を見せた。
「単なる気のせいじゃ済まされんな。俺も長いこと生きてきたが、あんな生々しい声は聞いたことがない」
光輝は唇を噛みしめた。
「死ぬために来たはずなのに……逆に死がまとわりついてくる。そんな感じだ」
そこに、職員の川添幸雄が食堂に入ってきた。彼は皆の沈んだ顔に気づき、立ち止まった。
「どうかされましたか?」
悟が思わず言いかけたが、光輝が手で制した。職員に話すのは得策ではない――そう直感したからだ。
川添はしばらく彼らを見つめ、やがて静かに言った。
「……もし眠れない夜が続くようなら、相談してください。ここではよくあることですから」
その一言に、翔子は青ざめた。
「“よくあること”って……」
だが川添はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。
食後、志願者たちは庭に集まり、改めて話し合った。
「隠していても仕方ない。俺たちは皆、何かを、感じている」悟の言葉に、全員がうなずいた。
「でも、ここから出るわけにはいかないでしょう?」弘子が言った。
翔子は強く首を振った。
「……でも、このまま“待つだけ”なんて、怖い」
光輝が口を開いた。
「俺は探したい。この施設が何を隠しているのか。あの囁きや影の正体を」
その声には、営業マンとして鍛えられた論理性よりも、孤独な男の必死さが滲んでいた。
悟は彼を見て頷いた。
「俺もやる。……死ぬ前に、せめて確かめたい」
こうして彼らの間に、新たな絆が芽生えた。
それは「死を共に望む仲間」から、「施設の真実を探ろうとする同志」へと姿を変えた瞬間だった。
だがその背後で、誰かがじっと見ていた。
窓越しに覗く視線。
それが人間なのか、あるいは――