杉山翔子は、まだ十七歳だった。
けれども、その瞳には年齢に似つかわしくない陰りが宿っていた。
学校に行く朝は、体の奥が重くなる。制服のボタンを留めるたびに、首が絞められるような感覚が走った。教室の扉を開けた瞬間に降り注ぐ視線。机の上に置かれる落書き、椅子を引こうとすれば転がる画鋲。笑い声が後ろから聞こえるたび、それが自分に向けられたものだと悟ってしまう。
――わたしなんて、生きている意味はあるのだろうか。
両親は優しかった。放課後の食卓で、母が作った味噌汁をすすりながら「学校どう?」と尋ねられるたび、翔子は「うん、普通」と答えていた。嘘ではなかった。ただ、真実を語る言葉が喉につかえて出てこなかっただけだ。父は遅くまで働き、休日には疲れた顔を隠して笑っていた。二人に余計な心配をかけたくなかった。
友達もいなかったわけではない。けれど「一緒にいよう」と口にした瞬間、彼女にまで矛先が向かうのではないかと怯え、翔子は自ら距離を取った。孤独は苦しい。けれど、それ以上に他人を傷つけることのほうが恐ろしかった。
そんなある日、スマートフォンの画面に一つの書き込みが流れてきた。
《静寂を望む人へ。ここなら安らぎがある》
匿名掲示板に貼られていたリンクを開くと、緩和ケアセンターの公式ページが現れた。淡いブルーの背景に、穏やかな音楽と花々の写真。表向きは病に苦しむ人を癒す施設だと説明されていた。だが、その奥に込められたメッセージを翔子はすぐに理解した。
「ここなら、痛まずに終われる」
ページを閉じると、胸の奥で何かが静かに鳴った。それは絶望の鐘ではなく、むしろ救いの合図のように感じられた。
夏休みが始まる朝、翔子は制服ではなく私服を身にまとい、小さなリュックを背負った。中には財布と、母から誕生日にもらった文庫本が一冊。駅のホームで電車を待ちながら、彼女は何度も周囲を見回した。
誰も、自分がこれから向かう場所を知らない。知られるはずもない。
電車の窓に映る自分の顔は、少し大人びて見えた。
「もう、戻れないんだよね」
小さな声でつぶやき、唇をかんだ。
施設に着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
白い外壁と大きな窓。その佇まいは、病院というより高級ホテルに近い。翔子はしばらく立ち尽くし、リュックの紐を強く握った。
自動ドアが静かに開く。中から流れてきた冷房の涼しさと、どこかで響くピアノの旋律が、彼女の足を自然と前へ運んだ。
受付カウンターの女性がにこやかに頭を下げる。
「杉山翔子さんですね。遠いところをようこそ」
その声に導かれるように、翔子は名前を告げ、震える指で必要な書類にサインをした。
廊下を歩きながら、窓の外に広がる庭園が目に映った。色とりどりの花が揺れ、池には鯉が泳いでいる。美しいはずの光景なのに、翔子の目にはどこか現実感がなかった。
「ここが、わたしの終着駅なんだ」
そう心の中でつぶやいた瞬間、胸の奥で小さな安堵が広がった。
個室に案内されると、ベッドと机とソファが整然と置かれていた。
翔子はリュックを床に下ろし、窓辺に立った。外には青空と、遠くに連なる山々の稜線。しばらく見つめていると、胸の奥に沈んでいた重石が、少しだけ和らいだ気がした。
ベッドに腰を下ろすと、スマートフォンを取り出した。通知はほとんどない。未読のメッセージアプリには、同級生たちの楽しげなやり取りが並んでいる。翔子は一瞬指を伸ばしかけたが、すぐに画面を閉じた。
「もう、わたしは関係ない」
その言葉を心の中で繰り返すと、涙がにじんだ。
それでも、この場所に来たことを後悔はしていなかった。
――誰にも気づかれずに消えてしまうのは、あまりに孤独だ。
けれど、ここなら。
ここなら、少なくとも誰かが見届けてくれる。
翔子はベッドに横たわり、天井を見つめた。
遠くからまた、ピアノの旋律が響いてくる。静かな調べが、心のひび割れにそっと染み込んでいくようだった。
そのとき彼女はまだ知らなかった。
この施設で、自分と同じように絶望を抱えた者と出会い、思いもよらぬ絆を結ぶことになるということを。