静寂の最期   作:suzuki00

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夫婦の選択

 

 塩谷正弘は七十を過ぎたばかりだった。

 

 定年退職を迎え、ようやく妻と静かな日々を送れるはずだった。だが現実は、想像していた穏やかな老後とはほど遠かった。

 

 

 

 年金だけでは暮らしていけない。足腰の痛みを抱えながらも、週に数度はスーパーの品出しの仕事に通う。妻の弘子もパートで家計を支えた。二人合わせても、医療費や増税で生活はじりじりと削られていく。

 

 「これ以上、どうやって暮らしていけばいいのか」

 

 正弘は夜ごと布団の中でため息をついた。

 

 

 

 弘子はそんな夫の背中を見て、胸を痛めていた。長年連れ添った夫が、かつてのように笑わなくなった。食卓に座っても無言が増え、テレビを見ても心ここにあらず。

 

 「正弘さん、もう無理しなくていいのよ」

 

 そう声をかけても、夫は首を振るばかりだった。

 

 

 

 ある晩、二人は同じ記事を目にした。

 

 ――緩和ケアセンター。安らぎの場所。

 

 「ここなら、静かに終われるらしい」

 

 弘子が呟いたとき、正弘は長く閉ざされていた心を開くように小さくうなずいた。

 

 

 

 施設を訪れた日、二人は互いの手を強く握り合っていた。

 

 「最後まで一緒にいよう」

 

 言葉にするまでもなく、その想いが指先から伝わった。

 

 

 

 受付で手続きを終えると、若いスタッフが笑顔で部屋へと案内してくれた。広めの個室。ベッドが二つ並び、窓からは庭園が見渡せる。

 

 弘子は思わず声を漏らした。

 

 「まあ、きれいね。まるでホテルみたい」

 

 正弘は窓辺に立ち、庭の池で泳ぐ鯉を見つめながらうなずいた。

 

 「ここなら……静かに過ごせるかもしれないな」

 

 

 

 その夜、二人はベッドに腰掛け、窓の外に浮かぶ月を眺めた。

 

 「ねえ、正弘さん。私たち、こんな形で終わるのは間違っているのかしら」

 

 弘子の声には揺らぎがあった。

 

 正弘は少し考え込み、やがて静かに答えた。

 

 「正しいとか間違っているとか、もうどうでもいいんだ。俺たちが望むのは、せめて苦しまないで終われること。それだけだろう」

 

 弘子は夫の横顔を見つめ、目に涙を浮かべた。

 

 「ええ……そうね」

 

 

 

 翌朝、二人は施設の庭を散歩した。

 

 四季折々の花が咲き、柔らかな風が頬を撫でる。庭の端にある東屋で腰を下ろすと、弘子が小さく笑った。

 

 「こんなにゆっくり花を見たの、いつ以来かしら」

 

 「俺たちは働いてばかりだったからな」

 

 正弘も目を細めた。若い頃、二人で必死に働き、子どもを育て、家のローンを返した。振り返れば、人生の大半を「生きるため」に費やしてきた。ようやく自由になったと思った矢先、待っていたのは経済的な行き詰まりだった。

 

 

 

 「私たちの人生、報われたのかしらね」

 

 弘子の問いに、正弘は少し黙り込み、やがて答えた。

 

 「報いなんて、きっと誰も与えてはくれない。ただ、俺たちが一緒に歩いてきたこと、それが答えなんじゃないか」

 

 

 

 弘子はその言葉に目を潤ませ、夫の手を握った。

 

 「最後まで、一緒ね」

 

 「当たり前だ」

 

 

 

 その日から二人は、施設の中で穏やかな日々を過ごし始めた。食堂では栄養の整った食事が提供され、夜には静かな音楽が流れる。まるで長い旅行に来たような、不思議な安らぎがあった。

 

 

 

 だが心の奥には常に問いが渦巻いていた。

 

 ――本当に、これでいいのだろうか。

 

 それでも答えは出ない。ただ、互いの手を離さずにいられることが、唯一の救いだった。

 

 

 

 そして二人は少しずつ覚悟を固めていった。

 

 静かな最期を迎えるその日を、共に歩んできた人生の締めくくりとして。

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