杉村光輝は、三十代半ばの商社マンだった。
十矢商事という中堅企業で働き、営業部の主力として長年走り続けてきた。取引先との会食、終わりの見えない資料作成、上司の期待と叱責。社会人として「普通に成功している部類」だと誰もが思うだろう。実際、給与にも不満はなかった。
だが、光輝はふと気づいた。
――自分の人生に、喜びが残っていない。
同期は結婚し、子どもを育てている。部下は家庭の愚痴をこぼしながらも、家に帰れば誰かが待っている。その姿を横目に見ながら、光輝は深夜のオフィスで一人キーボードを叩き続けた。帰宅しても、暗い部屋があるだけだ。
婚活にも挑戦した。けれども遅すぎたのか、うまくいかない。仕事帰りの疲れた顔、休日の虚ろな眼差し。相手に伝わるのは誠実さではなく、ただの倦怠感だった。
「自分は結局、誰にも選ばれないんだな」
そう呟いた夜、胸にぽっかりと穴が開いたように感じた。
ある日、会社の帰り道、スマートフォンのニュースアプリに奇妙な広告が表示された。
《静寂を求める方へ。最期の場所をご案内します》
半ば冗談のような気持ちでリンクを開いた。だが、そこに映し出された施設の写真は妙に心を惹きつけた。白い壁、静かな庭、そして「苦痛のない最期を」という言葉。
光輝は画面を閉じ、電車の窓に映る自分を見つめた。
ネクタイが緩み、目の下には濃いクマ。そこにいるのは、疲れ切った男だった。
「……もう、いいんじゃないか」
その呟きは、誰にも聞かれなかった。
施設に着いたのは、夏の夕暮れだった。
門をくぐると、沈みかけた陽が庭園の池に反射して、赤い光を放っていた。光輝は思わず足を止め、その光景に見入った。
「きれいだな……」
久しく感じていなかった感情が、胸の奥でかすかに震えた。
受付で名前を告げると、若い職員が柔らかい声で応じた。
「ようこそお越しくださいました。こちらへどうぞ」
案内される廊下の壁には、入居者が描いたという絵が飾られていた。どれも鮮やかで、力強い。けれど光輝には、その色彩がなぜか遠い世界のもののように思えた。
個室に入ると、既に整えられたベッドと机が待っていた。窓からは夕焼けが差し込み、部屋を柔らかく照らしている。光輝はジャケットを脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。
「ここで、終わるのか」
呟いた声は驚くほど静かで、まるで長い一日の終わりを告げる挨拶のようだった。
その夜、共有リビングに足を運んでみた。ソファには年配の夫婦が座り、穏やかな会話を交わしていた。隅の席では若い女子高生が本を開き、ページをめくっている。窓際には、まだ学生のような青年が、黙ってスマートフォンを眺めていた。
光輝は少し驚いた。
――こんな若い人まで、この場所に来るのか。
彼は自販機で缶コーヒーを買い、窓際の席に腰を下ろした。缶を開ける音がやけに大きく響く。青年がちらりと顔を上げ、軽く会釈した。光輝も小さくうなずき返した。
その短いやり取りが、妙に心に残った。
部屋に戻ると、光輝は机に向かい、久しぶりにノートを開いた。
そこに書きつけたのは、ただの断片だった。
「働いた。疲れた。選ばれなかった」
「生きる意味は、もう分からない」
「でも、誰かと話したい」
ペンを置いたとき、光輝の胸には小さな願いが芽生えていた。
――ここでなら、最後にほんの少しだけ、人間らしく過ごせるかもしれない。