川添幸雄は、施設の制服に袖を通しながら、鏡に映る自分の顔を見つめた。
四十代半ば。かつての活力は失せ、瞳には倦怠と諦めの色が漂っていた。
この施設に勤めて三年。入居者の案内から清掃、日常のケアまで、幅広い雑務を担ってきた。志願者たちの最後を見届けるのも、彼の役目の一つだ。
柔らかな照明のもとで静かに薬が投与され、志願者の呼吸が少しずつ浅くなっていく。その瞬間、川添は何度も立ち会った。
――人は、こんなにも穏やかに死ねるのか。
そう思うたびに胸を締めつける感情があった。それは恐怖ではなかった。むしろ、羨望に近い。
川添はかつて、地方の製造業の工場で働いていた。長時間労働、低賃金、不安定な雇用。結婚を夢見た時期もあったが、経済的な余裕はなく、恋人とも別れた。気がつけば、親の介護に追われ、自分の人生はすり減っていった。
数年前、両親を立て続けに看取ったとき、心にぽっかりと穴が空いた。家庭もなく、貯金も乏しい。残ったのは疲弊した身体と、先の見えない日々だった。
そんなときに出会ったのが、この施設だった。
「志願者として申し込みましたが、働き口も探していまして」
面接の場で口にした言葉は、半分冗談のようで、半分は本心だった。採用担当者は意外にも笑顔で頷いた。
「ここでは、支える人手も必要です。もし本当に望むなら、あなた自身の最期も尊重します」
こうして川添は、職員であり志願者でもあるという立場を手に入れた。
勤務の合間、彼はよく庭園を歩いた。季節ごとに植え替えられる花々の香りが、かすかな癒しを与えてくれる。けれど、その安らぎは長続きしない。
――自分も、いつかはあのベッドに横たわる。
そう思うと、胸に奇妙な安堵が広がった。
ある日、共有リビングでの出来事。
中沢悟という青年が、女子高生の杉山翔子に話しかけているのを見かけた。二人は年の近さもあってか、ぎこちなくも会話を交わしていた。その隣で、商社マンらしい杉村光輝が静かに耳を傾けている。
――若いのに、こんな場所に来るのか。
川添は胸の奥でため息をついた。同時に、彼らの姿にどこか羨ましさを覚えた。自分にはもう二度と戻らない若さ、まだ続いていたかもしれない未来。
そのとき翔子がふと視線を上げ、川添と目が合った。彼は思わず会釈した。少女は少し戸惑いながらも、小さく頭を下げた。そのわずかな仕草が、川添の心を不思議に温めた。
夜勤の日、廊下の明かりを確認して回ると、不意に冷たい風が吹き抜けたように感じた。誰もいないはずの廊下で、足音が微かに響く。
――またか。
職員の間では、時折「亡くなった志願者の気配を感じる」と噂されていた。川添も何度か、不思議な現象に出会っていた。けれど恐怖はなかった。むしろ、それらは自分にとって慰めだった。
「先に逝った人たちが、待っていてくれるのかもしれない」
独り言のように呟き、川添は廊下の先を見つめた。闇の向こうに何かが佇んでいるような気がしたが、目を凝らすとただの影に過ぎなかった。
職員室に戻ると、机の上に自分宛のメモが置かれていた。
《あなたの順番は、いつですか》
悪戯か、それとも本心からの問いかけか。川添は苦笑しながら紙を畳んだ。
――その時が来たら、きっと迷わない。
彼の胸には、静かだが確かな決意が芽生えていた。