静寂の最期   作:suzuki00

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医療者の葛藤

1. 医師・古平誠司の記録

 

 

 

 古平誠司は五十歳を過ぎた内科医だった。

 

 大学病院で長年勤務し、救急や終末期医療にも携わってきた。しかし、命を延ばすことが必ずしも「患者の幸福」に繋がらない現実を、彼は幾度となく目の当たりにしてきた。

 

 

 

 人工呼吸器に繋がれ、意識もなく、ただ機械に命を預けるだけの日々。家族は「もう楽にしてあげたい」と涙を流すが、制度や法律がそれを許さない。

 

 ――生きることは本当に善なのか。

 

 その問いが心に深く刻まれたまま、彼はこの施設に辿り着いた。

 

 

 

 医師としての役割は、志願者の健康状態を見極めること。必要な処方を行い、安楽死に向けた準備を整えること。

 

 「医師が命を奪う」――そう批判されても仕方がない。だが古平は、これは奪う行為ではなく「苦しみを解き放つ行為」だと信じていた。

 

 

 

 カルテに志願者の経過を記すとき、彼の手は時折震えた。

 

 「これで本当にいいのか」

 

 自問は尽きない。けれど、その問いを抱き続けなければ、彼は人間であることをやめてしまうだろう。

 

 

 

2. 看護師・荒川澄江の日常

 

 

 

 荒川澄江は三十代前半の看護師だった。

 

 小柄で物腰は柔らかいが、眼差しには強い芯が宿っていた。彼女がこの施設に来た理由もまた、前職での経験にあった。

 

 

 

 病院で働いていた頃、患者の苦しみを間近で見続けた。延命治療に疲れ果てた人々の呻き、家族の葛藤、医師の板挟み。夜勤のナースステーションで泣き崩れることも少なくなかった。

 

 「本当にこれが患者さんの望むことなの?」

 

 その疑問に答えられないまま、荒川は仕事を続けてきた。

 

 

 

 そんな彼女がこの施設で出会ったのは、穏やかな笑顔で眠りにつく志願者たちだった。

 

 「ここを選んでよかった」

 

 そう言い残す人の声が、荒川の心を救った。

 

 

 

 けれど、決して慣れることはなかった。

 

 薬を準備する手は、いつも少しだけ震える。志願者の手を握るとき、胸の奥に冷たい痛みが走る。

 

 ――私たちは、本当に正しいことをしているの?

 

 その問いは、夜の自室でひとり涙を流すたびに蘇った。

 

 

 

3. 二人の会話

 

 

 

 ある夜、当直室で古平と荒川は珍しく腰を落ち着けて話をしていた。

 

 コーヒーの湯気が小さく揺れる中、古平が口を開いた。

 

 「澄江さん、君は……怖くないのか?」

 

 荒川は少し黙り込み、やがて静かに答えた。

 

 「怖いです。毎回。慣れるなんて、きっと一生ないと思います」

 

 

 

 古平は苦笑した。

 

 「それでいいのかもしれないな。我々が怖さを失ったとき、この仕事はただの作業になる」

 

 

 

 沈黙が落ちた。時計の針の音だけが響く。

 

 やがて荒川が小さく言った。

 

 「でも、私はここに来て……少なくとも“誰かを救えている”って思えるようになったんです。延命の現場では、それを信じられなかった」

 

 

 

 古平は頷いた。

 

 「私も同じだ。だが同時に、ここでしか生きられない自分に恐怖を覚えることもある」

 

 

 

 二人は目を合わせ、言葉を交わさずに微笑んだ。互いの胸に、同じ重さを抱えていることを知っていたからだ。

 

 

 

4. 揺れる心

 

 

 

 その頃、施設では新たな志願者が次々に入居していた。大学生の悟、女子高生の翔子、老夫婦の塩谷夫妻、そして商社マンの杉村光輝。彼らの若さや人生の背景は、古平や荒川に強い衝撃を与えた。

 

 

 

 「まだやり直せる年齢じゃないか」

 

 そう思う一方で、「それでもここを選ばざるを得なかった理由」を目の当たりにし、胸が締めつけられる。

 

 

 

 荒川は夜勤中、翔子が静かに泣いているのを見かけた。声をかけると、少女は首を振り「大丈夫です」とだけ答えた。

 

 大丈夫なはずがない。だが、それ以上言葉をかけることができなかった。

 

 

 

 古平は診察室で悟の健康状態を確認したとき、真っ直ぐな目で「これでいいんです」と告げられた。若者の口から放たれるその言葉に、彼は胸の奥で叫んだ。

 

 ――本当は、これでいいはずがない!

 

 

 

 それでも、彼はカルテに淡々と記録を残した。

 

 

 

 二人は知っていた。

 

 医療者である自分たちが、この施設の存在を正当化していることを。

 

 その重みと矛盾を抱えながらも、彼らは明日もまた志願者たちの最期を支え続けるのだろう。

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