公園へ夏の日光が照りつける。不健康なころは気温で体調を崩すこともあったけれども、今となっては燦々としたこの光が清々しいばかりである。
その公園は広々とひらけている。運動をするには絶好の場所だった。
「デトロイト……」
スマッシュ! とまでは不審者になるので叫ばないけれども、言ったつもりで右手の中の円盤を遠くに投げる。
途端に傍で佇んでいたシェパードが走りだす。遠くに投げすぎたかな? ──それでもシェパードは追う──追って、追って──着陸しそうなフリスビーへ見事に噛みついた。
その様子に俊典は呟く。
「フルカウルのようだな」
四パーセントくらいかな? 考えているとシェパードの“ツィーゲ”がうれしそうに戻ってくる。
頭を撫でるとツィーゲは姿勢を整えて、何かをねだるように俊典と目を合わせた。
俊典は笑う。
「おまえは賢いな」
懐のオヤツをツィーゲの口元に差しだした。骨のあるデザート。待ちきれないと言わんばかりにそれに噛みついてくる。
ひとりでいるとメリハリがないので犬でも飼いなさい
それが数年前の根津の言葉だった。誕生日の祝いにシェパードを押しつけられたときは困ったけれども、喉元を過ぎればそれも気にならなくなっていた。それに生活に色がついたのも事実だった。
弟子とほかの生徒が卒業して、本格的に治療も終わりはじめたころ。子供たちは自立して、大人の力も不要になった。あるいは彼等が“大人の力”になったころ──あの校長は自分の寂しさを感じとったのではなかろうか。
全員がヒーローになったわけではない。三年間の学びの中でヒーローとは別の道を見つける。そんな生徒もすくなくないはないのだ。
しかし、あの学校の過酷な授業はどんな道を進もうとも糧になるはずだ。
不意に横をランナーが走りぬけた。
気合を入れるために大音量で音楽を聴いているのだろう。耳元のイヤホンからヒーローのように世の中を鼓舞するミュージシャン──イヤホンジャックの歌声が漏れだしていた。
「わたしたちも走ろうか?」
言葉が分かるはずもないのに、ツィーゲの返事は逞しかった。
俊典とツィーゲは競うように走りだし、すぐにランナーの横を通りすぎる。
「オン・ユア・レフト!」
シェパードと並走するヘンな老人をランナーは呆然と眺めていた。
思ったよりも走れたな。と俊典は木陰で飲料水を口にする。
心肺機能の回復が著しいのだろう。久々の猛烈な運動は苦にならなかった。過酷なリハビリと真面目な通院の甲斐があったと言うものだ。
視界の先に立像があった。市民が周囲に集まっており、何人かの子供たちが親に持ちあげられて、その像の足元を拭いているのが見えた。
その写真──それは戦後にマイナーな雑誌の一面を飾り、大いに世間で取りあげられることになった。
争乱のさなかにオールマイトの像を拭く、どこにでもいるような女性の背中。その姿は平和のジンクスとなり、行為は未来へ受けつがれている。
しかし俊典のほかは知ることもない。その女性が誰であるのかも。そして女性を誰が撮影したのかも。それからマイナーな雑誌にそれが贈られたワケも。
狂人の断末魔が脳裏を通りすぎた。
その写真を送ったのは狂人の尊敬心なのか。あるいは良心の残滓なのか。俊典でもそれを知ることはできなかった。
女々しいな。と俊典は自嘲した。
もちろん家が近いと言うのもあった。しかし自分の像があるところに行くのは、本質的に俊典の感傷でしかなかったのである。
像の周囲に人々がいると安心する。必要とされていたころを逡巡できる。まだ──生きていても、良いと思える。
俊典の感傷を察知したのだろうか。ツィーゲが彼の膝に頭を乗せた。木陰だと言うのに犬の体温はひだまりのようだ。それを如実に感じているときだった。
前方でほかの犬の元気な声がした。俊典がそちらに顔を向けると──すでに白黒のけむくじゃらが眼前に迫ってきていた。
けむくじゃらの視界のフチに女性の姿が見えていたけれども、その人影が俊典の近くに辿りついたのは彼がそのハスキーに飛びこまれたあとだった。
「ごめんなさい! ウチの犬……本当に馬鹿でして……!」
その女性の謝罪が頭にはいらない。いまだに驚いていたわけではない。しかし、この三度目の接触に誰が表情を変えずにいられるだろうか。
あの女性。どこにでもいるような普通の女性──珠葦萌胡はたしかに自分へ頭を振りさげまくっていた。
「あの……本当に大丈夫ですか? 頭を打ったりとか……」
俊典の返事がないので萌胡は心配そうに彼の顔を覗きこむ。
「いや……大丈夫ですよ」
俊典は取りつくろう。かろうじて──驚愕を悟られなかったのだろうか。あるいは驚愕をハスキーの突撃のためと捉えられたのだろうか。
俊典の内心の嵐を萌胡が知るはずもなかった。
「元気で良いじゃないですか、これの匂いに釣られたのかな」
俊典が懐のデザートを取りだすと、ハスキーが尻尾を猛烈に振った。
「こら!」
「かまいませんよ」
萌胡は自分の犬のはしたなさに顔を真赤にした。それに比べるとツィーゲはなんと誠実なのだろう。デザートがほかの犬に差しだされているのに、それをいやがっているわけでもないようだ。施しの精神なのだろうか。
ハスキーがデザートを食べると犬たちが対話をしはじめた。互いの匂いを嗅ぎ、体を相手に擦りつける。その様子を見ていると必然的に飼主たちも、彼等と同じように会話へ流れてゆくのである。
「珠葦萌胡と言います。さきほどは本当に失礼をしました」
「これは親切に。八木俊典と申します。この公園にはよく?」
「はい。すこし……御縁があって」
わずかに距離を開けながら、萌胡が俊典の隣に座った。それは俊典の人柄が成せることだろうか。それに異性ではあったけれども、警戒するほどの年齢ではない。
萌胡が像のほうを眺めた。
この場所が平和記念公園になったのは争乱の数年後だった。それにあの写真の影響力がなかった──とは考えられないだろう。萌胡の心境はどのようなものなのだろうか。
誇り? それとも静謐な意識?
俊典は萌胡の顔を横目で見た。
そうではない。その表情にあるのは慈しみだった。それにわずかの寂しさも。
「オールマイト」
「……オールマイトがどうかしましたか」
「小さいほうの銅像は立たないのかな?」
「小さいほう?」
「ほら! あの……引退したあとの」
萌胡はトゥルーフォームのことを言っているらしかった。
「どうしても迫力がないですからね」
俊典の言葉は自虐的だった。しかし、あの姿が平和の象徴としては力不足なのも事実だった。
「わたしは好きですよ。テレビに出ていたときも……なんと言うのか……目が良いですよね」
「目?」
「目が」
萌胡がやさしげに俊典を見る。
「強くて」
俊典の内心は壮絶だった。それは無風の海なのに──船が不思議な力で動かされているようだった。感動しているのに凪なのだ。
しかし、あなたのほうが強いではないか。と俊典は思った。
俊典は萌胡の献身を知っている。それは他者を力で黙らせるよりも遥かに強いことだった。
「……オールマイトもうれしいと思いますよ」
がんばれ。
「そうですかね?」
がんばれ。
「どんな姿でも戦っていたんだから」
がんばれ。
「あの。失礼ですが……どこかで会いましたか?」
がんばれ。
「思いちがいでしょう。どうして?」
がんばれ。
「……なんとなく」
がんばれ。