八百万百視点
冷たいコンクリート造りの地下室で一人ただ横になって虚空を眺める。…ここに誘拐されてからもう…食事の回数からして5日経過しているのでしょうか。二時間に一回はアーティカがやってきて、こちらの様子を伺って去っていくのです。
恐怖で眠ることもできず、ただ震えながら辛うじて生きている。
…お母様は二日目の食事の時にアーティカと名乗る敵に連れられて上へと連れていかれてしまった…。
私達を分断してどちらかが仮に『創造』の生成物で拘束を解いても、片方を人質にできるようにでしょう。戦闘に慣れていないお母様を手元に置くことで、拘束を解いても心理的に私を縛り付けている。
打つ手なし。…何より、あの相澤先生達を歯牙にもかけずに負かしたあの女に…私なんかが…
「……ぅ…ぐすっ…うう…。」
みっともない。本当に情けない。目から地面へと流れる涙を止めることすらできない。何が優等生でしょうか。何が八百万家の…
私は…ただの落ちこぼれだ。
敵に堕ちた学友を止めるどころか、その学友を攫った誘拐犯に無様に抵抗すらできずにお母様もろとも捕まって…。
ただ、ただ震えることすらできない…。
怖い。自分が傷つくことも怖いけれど、私の"せい"でお母様まで傷つくのが怖い。
『常に下学上達!一意専心に励まねばトップヒーローになどなれませんので!』
ヒーロー学の初回の授業の戦闘訓練にて。オールマイト先生を相手に、淡々とそう講評を行なった末に述べた自論。…どうしようもないですわね、本当に。プロの世界…その重さ。本物の敵の前では、そんな自論何の役にも立たなかった…。私は…どうすればいいのでしょうか。分からない…。
昨日の食事を無造作に地面に置いた後、アーティカは腹が立つほどの美貌の無表情な顔で、いつものように見下ろして尋ねてきました。
「…俺の女になる気はないか?」
「……私は、
その答えを聞くと、ため息をついてアーティカはやれやれと首を横に振って呆れたように私に呟きました。
「ある意味感心するぜ。…嘘を吐かないその姿勢は見事だ。流石にお嬢様の真面目ちゃんってところかな。」
そして酷く冷たい目で部屋の隅で蹲っている無様な私を観察すると、淡々と言葉を続けました。
「…自信の喪失に恐怖…まだ15だろ?私だって別に君を傷つけたいわけじゃないんだ。何故そんなに敵になりたくないんだい?」
「…私は君の味方だよ。友達になろう。」
穏やかな、心を解きほぐすような声。まるで甘い蜜のように、心の隙間にそっと入り込んでくるような気さえする。…だからこそ恐ろしい。少しずつ、この人のことを敵だと思えなくなってくる自分が確実に居るのが実感できるのが恐ろしいのです。まるで何年も付き合いのある友人のように感じられる部分が、少しずつ増えていく実感が恐ろしいのですわ。
私は必死になって目の前の穏やかに微笑むアーティカを睨みつけて無我夢中で叫んだ。
「…な、なんと言われようと!私は誉ある八百万家の娘です!犯罪者になどなりませんわ!貴女達は平気で人を傷つける…!」
瞬間、私の頭をアーティカの右手が掴んだ。そして信じられないほど強い力で私の顔面を地面に叩きつけた。
「ゥッ…!?ぃ…いたい…。」
頭に火花が走ったかのよな衝撃を受けて、ぼんやりとする。鼻からドロリとした赤い血が流れ出てくる。咄嗟に両手で鼻を押さえて血を止めようとする。すると、アーティカは立ち上がって壁際に置いてある救急箱からガーゼと止血薬らしき液体の入った瓶を取り出して、液体につけたガーゼで私の顔を掴んで鼻に丁寧にガーゼを詰め始めた。
「な、なにを…?」
「…分かるだろ?治療だよ。ったく…ほんっとにお前恵まれてきたんだな。」
「ヒーローは正しくて、何もしなくても三食は食べられて、勉学に当然のように励める環境に居たんだろ?」
その言葉は今までのような甘ったるさではなく、棘のある刺すような威圧感を感じさせるものでした。思わず硬直してなすがままにされていると、ガーゼを詰め終えたアーティカは吐き捨てるように言いました。
「…なら見せてやるよ。お前の信じる正義のヒーロー様と社会が、どんだけ薄汚れてるかをな。」
「俺と同じ視点にお前を引き摺り下ろしてやる。…ま、楽しみにしとけよ。」
そう言い終わると、アーティカは階段を上ってまた去っていった。…私はただ、彼女の言葉の意味を理解することすらできずに、そんな自分にまた自己嫌悪を募らせることしかできなかったのです。
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…それから二日ほど経過したであろうその日に、ふらりとまたアーティカは食事の載ったトレーを持ってやってきた。ただ今日来たのは、アーティカ一人だけではなかった。
「耳郎さん…!」
「八百万、思ったより元気そうじゃん。…どう?決心ついた?ウチもいい加減折れてくれると嬉しいんだけど。」
その既に敵そのものの言動をする耳郎さんに目眩を覚えるほどの絶望感を感じながらも、震えながらも私は言葉を返した。
知っている。彼女が人を殺すほどに堕ちてしまっているのも知っている。何回あの動画を見て、級友も救えなかった自信の無力さに絶望したか分からない。でもそれでも。
彼女は雄英のヒーロー科に受かった一人なのだ。
「耳郎さん…正気に戻ってくださいまし!あなたの夢はヒーローになることでしょう!?」
「………今は違うよ。ウチにもうそんな資格ない。」
「八百万だって分かってるでしょ?ウチはもう人を殺したんだ。そんなウチの居場所はここだけなんだよ。」
その淡々とした耳郎さんの言葉に私は反論しようとして、口を開くが言葉を出すことができなかった。…彼女の言葉を、否定することができなかったのです。
実際、今の彼女を取り巻くメディアの言説、そして世論の反応は冷淡そのものですわ。
敵に唆されて人を殺した人間。
毎日のようにテレビで取り上げられる彼女への恐れ、そして傍観者としての冷めた声。
もう人を殺したのなら敵なんだと。
その一線を超えた人間に同情など不要なのだと。
未成年のはずの彼女なのに。敵に攫われてまともな判断などできるはずがないでしょうに。
「ですが…そんなこと…理不尽すぎますわ…。」
私はただ、現実の残酷さを受け入れることができずに呟くことしかできません。
…情けない。目の前の悟ったような少女の絶望に、希望を与えることすらできやしない。
「八百万…。」
絞り出した私の言葉に耳郎さんの瞳が少し揺らいだ。すると、耳郎さんの隣でそのやり取りを眺めていたアーティカが、穏やかに耳郎さんの頭を撫でながら私に語りかけてくる。…改めて思うがアーティカは長身だ。173cmある私より高い。
スラリとしてまるでモデルのような体型をしている。…その粗暴な敵とは思えない美しさがまた恐ろしい。
「…そうだ。世の中は理不尽しかねェ。おかしな話だよな。耳郎ちゃんの保護を訴えてたメディアが、今じゃ耳郎ちゃんをやいのやいの批判してる。」
「安全な上から眺めて、好き放題批判するほどあいつら偉いのか?…恵まれた奴らはいつもそうじゃないか?」
そう穏やかにアーティカは毒を吐く。…共感を覚えるような、甘い媚毒を。だが、その言葉を吐いているのは、全ての元凶。騙されてはいけないわ、百!無理やり自分を奮い立たせて反論する。
「だとしても!そもそもこの事態を招いたのは貴女でしょう!?無理やり耳郎さんに人殺しをさせて!お父様を痛めつけて…!相澤先生を理不尽に嬲った!」
「理不尽な人殺しを容認するようなこと、私にはできませんわ!」
そう大声で半ばやけっぱちに言い切ると、私は我に返って顔を青くする。…しまった。言い過ぎた。今はお母様も人質に囚われているというのに…!冷静な判断力を失って…!も、もしアーティカの怒りを買えば、お母様が…!
私は恐怖にまた縛られてアーティカの顔をそっと覗き込む。すると、意外なことに彼女は微笑んでいた。
そして優しく囁いた。
「…へえ。そうだよな。ならお前はきっと…。」
「これを観て、耐えることはできない。どこまでも美しい君だから。恵まれて、穢れを知らずに蝶よ花よと育てられたお前だから。」
そう言い終わると、アーティカは耳郎さんへと合図をした。すると、耳郎さんは脇で抱えていたノートパソコンを地面に置いて、何やらUSBを挿して、一つの動画を開いた。そこに映っていたのは、私がかつて憧れていたヒーローの一人だった。女性ながらに狙撃界の頂点に立っていた女傑。
ピンクとダークブルーの髪色に、その美貌。
揉めたヒーローを殺害し、タルタロスへと収容されたと聞いた時には、かなりショックで、暫く子供ながらに信じられませんでしたわ。
元トップヒーロー、レディ・ナガン。
…これは、監視カメラの映像だろうか。建物内の簡素な一室で、レディ・ナガンと眼鏡をかけた真面目そうな中年の男性が向き合っている。
…この人、どこかで見たことあるような…。
『…そいつらを殺れば社会はより良くなるのか?』
『ナガン…必要なことだ。表のヒーロー達が紡いでくれた希望を誰かが維持しなければ。』
『維持して…その先に何がある。』
レディ・ナガンの声は、疲れ切っていた。その会話をしている男性の方の素性も思い出した。確か公安委員会の会長‥。数年前に事故死したと報道されていたのを覚えています。
何の動画でしょうか。…だが無性に嫌な予感を感じ始めた。その瞬間、レディ・ナガンは右手にライフルを生成した。そして銃口が向けられ…
パンッ
「…え?」
公安委員会の会長の頭を、綺麗に撃ち抜いた。
…なんですの。これは…。
レディ・ナガンは暫く呆然と立ち尽くしていたが、数分すると慌ただしい足音が聞こえ始め、部屋の中に複数人の男性が入り込んで、無抵抗のレディ・ナガンを押さえつけた。
そこで、動画は終わった。
「君はさっき、人殺しを容認できないと言ったね。」
「公安直属ヒーロー、レディ・ナガン。彼女はね。」
「政府公認の、殺し屋だったんだよ。」
そう淡々と言って、アーティカはゾッとするほど朗らかに微笑んだ。
…嘘。そんな話報道されたこともない…!
「レディ・ナガンは、ヒーローと言い合いになり殺害したと…報道が…そんな。嘘ですわ。そんなこと…!」
「事実さ。この動画を入手するの苦労したんだよ?公安に一人俺の女が居てね。最重要機密の動画は現公安委員会の会長のパソコンにひっそりと眠っていた。」
「戒めだろうな。…無意味なことだ。結局何も変わっちゃいない。」
…落ち着いて。落ち着きなさい百…。相手は敵だ。巧妙な加工動画を作ることだって、きっとできるはず…!
そうだわ。こんなこと信じるなんてそんな馬鹿なことを…!
「あ、加工だと思ってる?ま〜無理もないか…。公安は実際よくやってるよな。上手くヒーロー社会のハリボテを守ってる。」
そうあっけらかんとアーティカはこちらの考えを見透かして言葉を紡ぐ。
「でもな。これは事実だ。そしてそれを知った君は、もう表社会で満足に今のままじゃ生きていけないだろう。」
「何を…。」
そう言葉の意味を測りかねて言葉を返すと、アーティカは微笑んだまま淡々と説明し始めた。
「考えてもみろよ。これを公表されたら、ヒーロー社会には致命的な傷になる。…まあ、俺はそうするつもりないが。俺の女が危険に晒されるし。」
「つまり、知ったお前はもう公安からすれば守るべき無垢な市民じゃない。レディ・ナガンと同じように手駒にされるか…。」
「排除すべき、敵として消されるだろうな。」
…嘘だわ。嘘に決まっている。でも、そんな私の頭にちらりとよぎった疑惑。
もし、本当だったら?
…私の恵まれた暮らしの、純粋なヒーローへの憧れの、その基盤が、無数の死体だったとしたら。
そう思った途端、自分がまるで途轍もなく思い罪を背負って暮らしているように感じて…。
すると、アーティカは私の瞳を覗き込んで、顔を手で掴みながら、穏やかに語り始めた。
「何を悩んでるんだ?…別に悩むことなんてないじゃないか。君の手は綺麗なんだから。」
「君の穏やかで、平和で、豪邸の恵まれた暮らしを支えている社会は、同じ国のちょっと道を違えた人間を罵倒して、後ろ指で指して、しまいには殺してしまうけれど。」
「しょうがない!ニホンのトップヒーロー達は、後進国のヒーロー育成もおぼつかない国を尻目にヒーロー社会を維持して、さも全員守れてますって面をするけれど!」
…その熱に押し切られる。嘘の話を、ここまで確信を持って話せるだろうか。…それに、後半の話は否定しきれない事実ですわ。
日本の敵犯罪発生率は、平和の象徴、オールマイトによって5%を維持している。それを素直に誇らしいと私は…思っていましたわ。でも、それとは対照的に、敵のテロが収まらない国もある…。
「そ、れは…。ヒーローだって人間なのです!全員を守れないからと糾弾するのは、ただの逆恨みですわ。」
「第一、そもそも貴女がた敵が犯罪など起こさなければ…!」
そう反論すると、アーティカはドスの利いた低い声で呟いた。
「それは恵まれた人間の理論だ。」
「知らねェだろ。俺の母親が…テロリストに支配された街で、最後までもがいて人を助けようとした女がどんな死に様を遂げたか。」
「興味ないんだろ。ニュースにもならないからな。見たくないもんに蓋をした上っ面の平和だけ見るのは気分いいだろ?」
…言葉が出なかった。それほどまでに、目の前のアーティカの雰囲気が変わったから。どこまでも憎悪に満ちた、暗い瞳。まるで飲み込まれるかのような感覚を覚えてしまう。
「じゃあ語ろう、俺の故郷の話を。…お前らが見捨てた、薄汚え話を。」
そしてアーティカは"その"話を淡々と語り始めましたわ。
数十分でしょうか。その話を聞き終わった後の私は…目の前の女性を、ただの敵として認識することが、できなくなってしまいましたわ。
アーティカは語り終えると、私にやんわりと問いかけました。
「君がこの話を知らないふりをして、恵まれたままで恵まれたヒーローになって、幸せな人生を送りたいなら俺は止めない。」
「ただ、本当にこの社会の闇を直視して、この社会を変えたいと思うのなら。」
「俺と…死柄木の坊主の手を取れ。あの男はな。」
「いずれこの世界をぶっ壊す男だ。」
その言葉には、どうしようもなく抗えないほどの力強さがありました。
私は…差し出されたアーティカ"さん"の、手を振り払うことができなかったのです。
お父様、お母様…私は…どうすればよいのか、分からなくなってしまいました。
正義とは何なのでしょうか。目の前のアーティカさんは嘘をついているのでしょうか。…私にはもう、私なんかにはもう…。真っ直ぐにヒーローを目指すことなど、できないのかもしれません。
だってもう、目の前のアーティカさんの、限りない憎悪に飲み込まれてしまった気がするのです。