栞葉るりには悩みがある。
一つではない。年頃の症状である彼女には、悩みと呼べるものはそれなりにある。
野球部外の友人とあまり時間が取れないことや、お気に入りの化粧品が高くてなかなか手が出ないことや。三半規管が弱く主観視点ゲームですぐ酔ってしまうことや。
だが現状最大の悩みが何かと言われれば、これだと断言できるものがある。それ即ち――
「お兄ちゃんに任せなさい!」
「ごめんなさい、妹ではないです!っていうか、私、先輩!!」
――最近、部活に、兄を名乗る不審な後輩が出来たことである。
不審者の名は葛葉。野球部にひょっこり入って来た天才だ。
そう、葛葉は天才だ。捕手志望で入ったがポジションの兼ね合いからショートに転向。そのコンバートをあっさり済ませ、なんと1年ながらレギュラーに抜擢される。
そして夏の県大会第一戦で、打ってはホームランを含む2安打の活躍。守っては試合を決めるダブルプレイ。その後の試合でも着実に活躍を重ねている。
また試合での活躍のみならず、野球の知識の面でも造詣が非常に深く、練習姿勢だって真面目だ。
文句のつけようのない願ヶ丘高校野球部期待の星。そんな彼に欠点があるとすれば
「栞葉の兄です」
と、なぜか栞葉の兄を名乗る点である。勿論事実ではない。
「兄とかいないです」
「全く、恥ずかしがり屋なんだから」
と、ことこの件に関しては梃でも話を聞かない。
天才は変わり者が多い、という話を聞くが、こんな尖り方ってあるものか?
しかも葛葉が兄を名乗り続けた結果、部員達も葛葉=栞葉兄という図式を受け入れ始め
「栞葉君!葛葉君を知らないかい?」
「いえ、知りませんけど」
「そうか。妹の君が知らないとすると……」
「ちょっと待って」
葛葉と同じ1年部員のレオスが持ち前の大きな声で教室で言われた結果、クラスメイトから葛葉と言う兄がいる、と誤解を受ける羽目になった。
なにが起きているんだろうか?
市に虎ありとはいうけれど、その為には最低限3人くらい必要なはずでは?葛葉さんは知らないうちに3人くらいに分身している?
知らん兄という謎の存在が生まれるという、ちょっとしたホラーな環境が、今の栞葉の日常だった。
そんな日々を過ごすうちに、願ヶ丘高校の夏は準々決勝にて終わりを迎えた。
中堅福知山南に対して10-12で敗北。9回表、最後の攻撃。2アウトから葛葉がデッドボールで出塁。4番福田の打順となったが、力及ばず3アウト。
試合を終えて撤収作業をする時だった。
「るり嬢。葛葉の事、みてやって」
こっそりと、叶監督が栞葉に言った。
「監督も気づいてたんですか?」
「うん。けれど俺が言っても効かなそうだからさ。妹の君からなら効くと思って」
「妹じゃないですけど、わかりました」
栞葉は葛葉の手を引き
「デッドボールの痕、処理するのでついてきてください」
球場裏手のスペースで、栞葉は顔をしかめた。ユニフォーム下、葛葉の肩には内出血が広がっていた。デッドボールによるものだ。色白な分、内出血がより痛々しく広がって見える。
「湿布を当て、その上からテーピングしておきます。明日には病院に行きますよ」
「えー、大丈夫だって」
「大丈夫じゃないです」
子供っぽい挙措で言う葛葉を座らせて、栞葉は処置を勧める。
しばらくの無言の後、包帯を巻きながら栞葉は言った。
「……わざと当たりに行きましたよね」
「んー、どうだろ」
「誤魔化さないでください」
斜め上を見てとぼける葛葉の横顔を、栞葉は睨むようにして見つめる。
葛葉は天才だ。あのボールを咄嗟によけることくらいはできただろう。だが、あえてそれをしなかった。
「危険ですし、そういう風にされて勝てても、嬉しくないです。」
葛葉は気まずそうに言葉にならない声をこぼした後、観念したように
「わかった。もうしない。――妹にそこまで言われたら、お兄ちゃんとして断れないや」
「兄とかいないです!」
そんなこんなで、願ヶ丘高校野球部新体制は始まるのだった。