光の中、坊は不思議な光景を見た。
ゆらゆらと揺れる視界。
何故か満足に目が開かず、薄らとした景色の中。坊は自分が幼く誰かに抱かれているのだと気が付いた。
どうやら、夢でも見ているようだ。
『――――』
穏やかな
葉月が歌っていたあの歌によく似た旋律。
それは、きっと子守唄なのだろう。
自分を抱いている誰かの周囲に、赤い花弁が舞っている。
ひらひらと、赤く淡い光を纏ったその1つが坊の頬に触れ、直ぐに手が優しくそれを取り払った。
『可愛い坊や。私の坊や』
そのまま、誰かの手は自身の頬に添えられる。
暖かな感触は、坊が呪物殿で目覚めたときに感じたものによく似ていた。
『大赤桜の力が、必ずやあなたを導いてくれます』
耳に響く誰かの声。
暖かくて柔らかくて、心の奥がずくりと動いた。
『あなたは心のままに生き、進むのです。時が来れば、何をすればいいのかがきっとわかります。……だからその時まで、決して諦めないで』
ふと、その声が震えているように感じた。
声だけではない。自身を抱える腕さえも。
でも、何が起きているのか確かめられる程視界は明瞭ではなく。
ただただもどかしく、その手を伸ばした。
『あなたを生んでしまった母を、どうか許して。でも、それでも』
暖かな手が、坊の小さな手を包み込む。
『あなたが生まれた意味はきっとある。だから、どうか――』
その暖かさに導かれ、坊の意識は、ゆっくりと沈み落ちていった。
***
『――坊、おい、坊!』
「……っ」
ふと、坊は意識を取り戻した。
直ぐに自分が玉桜に手を触れたまま止まってしまっていたことに気が付く。
あの光の爆発で、一瞬意識が飛んでしまっていたのだ。
「……?」
今の光景はなんだったのだろうかと、坊は首を傾げる。
自分が失った、過去の記憶なのだろうか。それにしては随分と曖昧で不鮮明ではあったけれど……。
それでも、暖かかった。残った温度を確かめようと、無意識のうちに自身の頬に手を触れていた。
『坊、大丈夫か?』
『坊様?』
「……うん、大丈夫」
いつの間にか剣に戻っていた2人に頷きを返して、坊は自身の身体を調べ始める。
特に最後に真っ赤に光った両腕を掲げて眺めてみる。
外見も、感覚的にも異常はない。接ぎ木の力が失われていたりもしなさそうだ。
何より、赤く光っていたり巨大化したりしていないことに、坊は安堵の息を吐き出した。
『良かったです。急に光がぶわっと起きて……心配いたしました』
「そうだね」
『そうだね……ではありません! もっとよく診せてください。……あら? 坊様、魔剣が……』
「え?」
葉月に言われて坊とキュウが背負っていた剣を見つめると、裸に紐でくくっていた筈の剣が、鞘に納められていた。
赤桜の花びらを押し固めたような美しい文様のその鞘は、上部と中央部に括られた紐によって坊の背中に吊られており、長い魔剣の刀身をすっぽりと覆っている。
いつの間にか形成されていたらしいが、坊は全く気が付かなかった。
『今の一瞬で作られたってことか?』
『そのようですね……。玉桜からの、贈り物なのでしょうか』
『んなわけ……あるのか?』
「……」
試しに坊が魔剣の柄を掴んで引き抜こうとすると、信じられないことに
そのまま坊が剣を軽く振って見せ、背中に戻すと――今度は浮かんでいた花びらが刃の周りに集まって、再び鞘の形へと戻った。
坊の動きを邪魔せず、鞘の役割を果たしてくれているらしい。とんでもない高性能である。
「すごい!」
『…………』
巨大化などはしなかったが、別の、それもとてつもない変化が起きていたらしい。
玉桜が――言ってしまえばただの樹が坊のために
『玉桜にお礼を言わないといけませんね。……ただ、それはそれとして! 先ほどの光でお身体がないか、尚更調べますよ!』
「はあい」
そう言って坊の様子を調べだした葉月に彼を任せ、キュウは周囲の様子を調べることにしたが、飛び出した直後彼の視界に映ったのは、そんな大層なことをする必要もないほどの、とびきりの変化であった。
『それより坊、見てみろよ、この樹』
「……わあ!」
キュウに告げられ見上げた玉桜は、先ほどまでの黒い樹ではなく。
美しい真っ赤な樹冠を輝かせる、巨大な赤桜へとその姿を変えていた。
薄暗い曇天模様の中、傘状に広がる枝に宿った透き通る赤い花弁が光を帯びている。
それらは空に幾つもの光輪を生み出し、殻の中を赤く照らしていた。
黒く染まっていた幹も膜が剥がれ落ちたかのように赤褐色のそれが姿を見せている。
剥がれ落ちた黒い幹や灰の葉は塵となって消えていき、その分厚い塵が晴れた先に、見惚れるほどに美しい真っ赤な大桜が現れていたのだった。
『すげえな、これ……』
「奇麗……」
『これぞ、私の知る玉桜です! やはり坊様の力で解放出来たのですよ! 私の見立て通りです!』
黒と灰だらけの世界で目覚めた坊にとって、それは初めて見る幻想的な光景だった。
警戒も恐れも忘れて、ただただ呆然と見上げてしまっていた。
『おい、お前らあれ見ろ』
そう叫ぶように言ってキュウが指示した先。赤桜の樹冠からぶわりと膨らんだ光の輪が、幹を通って根元へと降りてきた。
煙のようにゆっくりとした速度だが、呆然としていた坊たちからすればそれが足元へと到達するのはあっという間の出来事であった。
『え? え? なんですか?』
『俺らが知るかよ! 坊、気を付け――』
だが光は坊の目の前を通り過ぎて地面へと到達すると、そのまま周囲へと放たれた。
花弁舞う光の波が、坊たちを通り抜けて大地を這うように駆け抜けていく。
「見て!」
『今度はなんだ!?』
そう言って坊がしゃがみ込み、足元を指さした。
瞬く間に起こり続ける変化、その次は彼の指の示す先で起きていた。
先ほどまで黒い樹に覆われていた筈の地面が、美しい緑色の草地へと姿を変えていたのだ。
そのまま光を追うように視線を上げていくと、光輪が通り過ぎていった先全てが同じような緑の――本来の大地の姿を取り戻していっているように見えた。
そしてその先端は、玉桜を覆っていた殻の外へと飛び出していった。
「待って!」
坊が慌てて走り出し、殻を飛び出した。
するとそこには――。
『なんじゃ、こりゃ……』
「戻ってる……」
玉桜と同じように、見える景色の全てが、本来の姿を取り戻しつつあった。
灰の地面は草地へ、黒い森は緑へ変わり、遠くを歩いていた樹者が光に呑まれ、黒い塵を立ち昇らせながら消失していた。
玉塚邸から幾つも突き出ていた太い木の枝たちも、折れ、剥がれ落ち、同じように塵に還っていった。
時を巻き戻すかのように、汚染されていた景色の全てが元のものに戻っていっているのだ。
『お二人とも、空が!』
葉月が叫ぶのに合わせて更に顔を上げると、玉桜を覆っていた光輪が、どくりどくりと鼓動のような拍子で空に放たれていた。
それは遠く、空の遥か上まで到達し。天を覆っていた分厚い黒雲を、ほんの僅かであるが消し飛ばしてみせた。
それでもまだ、空は雲に覆われてはいたけれど。
その僅かな隙間から差し込んできた光が、坊たちの立つ場所を照らした。
『……光だ』
『緑に、光までも。この国が失ったものが取り戻されたのですね……』
――なんだそりゃ、ありえねえ。
それが、この国をよく知らないキュウの、正直な感想であった。
いくら赤桜がとんでもない力を持ってるからといって、それを修復――そう呼んでいいのかはわからないけれど、それをするだけで失われた大地が元通りになるだなんて。
こうして目の前で見ていても、まだ信じられない光景である。
ひょっとして、自分は先ほど光に包まれた際に魔剣に吸収されて、ありえない夢でも見ているのでは、と。
ありえない想像だが、目の前の光景も同じくらいありえないのだから仕方がない。
だが、夢でもなんでも治ったものは治ったのだ。
ならば見えているものを信じればいい。
黒い塵が去った後、目の前に広がるのは、キュウもよく知る当たり前の自然の風景。
……屋敷は穴が開き、庭園の装飾たちは砕けて蔦が絡むものになってはしまっているけれど。それでも、これまで見てきたあの黒い景色は奇麗さっぱり消え失せたのだ。
『玉桜1つでこれなんだ。大赤桜を治しちまえば……』
「元に戻る。だよね、葉月」
『……はい。きっと』
この修復がどこまで続いたのかはわからないが、恐らくはこの玉桜の管轄範囲、玉塚家の領内までだろう。
つまり大赤桜を治せれば、この国全てが元通りになる筈だ。
……途方もないことではあるが、これで可能性が見えてしまった。
適当に目的をあきらめる落としどころを探すつもりだったキュウだったが、まさかの解決の糸口が見つかってしまったのだ。
――こうなったらもう、止まらねえよな……。
それが少ない時間で見てきた坊の性格だろう。
そして余程のことがない限りは彼は魔剣を手放さない。最後まで付き合うことが決まった瞬間でもあった。
『じゃあ頑張らないとな、坊』
「……うん!」
自分にも言い聞かせるように、キュウはそう言うのだった。
ただキュウとしても、この地がこのまま元通りになり、また国が生まれるのであれば、残りの余生を穏やかに過ごすことができそうだ。
葉月も、無念のまま死に、守ることができなかった国を取り戻すことができる。
そして坊は言わずもがな。
「待っててね。必ず、治すから」
玉桜を見つめて、彼はそう呟いた。
これでもう、大赤桜を治すことは全員の目標となった。
呪いの樹々を取り除き、この国を本来の姿に取り戻す。
そのためには――。
意気込み、これからを話そうとしたキュウと坊は、しかし更にありえないものを目にした。
『――!!』
咄嗟に叫ぼうとした口を慌てて塞いで、なんとか堪える。
がさりと音を鳴らして現れたそれを、全員がはっきりと捉えていた。
『……おい、坊』
『坊様』
「……うん」
目の前に現れたそれを、坊たちは先ほどの修復よりも驚き、呆然とした目で見つめていただろう。
それほどに、衝撃的な存在がやってきたのだ。
――それは森の中から現れ、坊たちの前に降り立った。
『――?』
くう、と鳴ったのは、果たして彼の声か坊の腹の音か。
現れたのは――。
『……鳥、だよな』
『鳥ですね』
「……鳥だ」
茶と白の色が混じった柔らかな羽に包まれ、対の翼をばたばたと動かすその姿は、生きた、坊たちのよく知る野生動物そのものであった。
つまりは――。
『『「食糧!」』』
焦がれるほどに探し求めた、食べ物が現れたのだった。
『坊、捕まえろ!!』
『逃がしてはなりませんよ!』
「うん……!!」
玉桜を解放し、一部ではあるが本来の姿を取り戻した世界の中。
凄まじい速度で飛び出した坊と、飛び上がった鳥による決死の競争が玉塚邸にて巻き起こったのだった。