私がまだ幼い子供だった頃。
祖父から接ぎ木を受け継いだ父が新たな菖蒲家当主となった。
その頃の父は武人と呼ぶにはあまりに身体が細く、当主になるには頼りない、優しい人であったそうだ。
でも私の知る父は菖蒲家で最も強い武人であり、隠密術に長け、白兵戦でも他領家の衛士たちに劣らぬ強者であった。
そのあまりの違いに、いつしか私はあの優しい人は「亡くなった父の兄弟か誰か」だったのだろうと思い込んでいたのだが、それは勘違いなのだと母が教えてくれた。
『それはどっちもあなたの父上よ。でも、そう思うのも仕方がないわね。本当に、びっくりするくらい変わったから』
母曰く、父は若いころから古書殿に籠りきりで武よりも文を好む人だったそうだ。
彼女は都でも大きな商家の出身で、国外から取り寄せた書の取引のために菖蒲家にはよく出入りをしていた。
その時父は常に自ら全ての書物を検め、気に入ったものがあると古書殿内に作った自分用の居室に籠って読みふけっていたのだという。
『取引前の商品よ? それを持ってっちゃうんだから、菖蒲家の人は困ってたわね。文吾選書なんて言って予算を立てていたくらいよ』
わが父ながら立派な駄目人間である。
でもそんな彼が何の気まぐれで武人になろうなんて思ったのだろう。
私が母に尋ねると、彼女はとても優しい顔で笑った。
『あなたのためよ、詩乃』
『私の……?』
『そう。お母さんと出会って、あなたが生まれてね。その時、あなたがあの人の指をぎゅーっと掴んだの。そしたらあの人『俺は決めたぞ!』っていきなり叫びだしてねえ。そこからあの人は変わったのよ。今まで避けてた訓練も始めて……あなたや私を守れるように強くならなきゃって。そこから心配になるくらいひたすら訓練よ。勿論五家の血もあるんだろうけど、あっという間にあんなに強くなったのよ』
『……そうなんだ、私のため……』
あの時はとっても嬉しかったのを覚えている。
そして思ったのだ。
次は私が強くなって、父を、母を守れるようになろうと。
それでも。あの崩壊の日。
父は自分の命を捨てて私を守り、私は誰も守ることなく封じられてしまった。
菖蒲家で私は父に次いで強かった。それは父も承知していた筈だ。そんな私を封印して、勝つ見込みなんてなかっただろう。
私が目覚めた時にこの状況が好転して、私が平和な日々を過ごせる……なんて甘い想像もしていなかった筈だ。
そう。つまりはただの父の自己満足なのだ。
娘が殺され樹者になるのを見たくなくて、彼は信じもしていない奇跡に賭けて私を封じたのだから。
強くなったなんてとんでもない。
父は甘く、優しく――そして弱い人だったのだ。
だから、あなたは私の手で殺す。
そして崩壊したこの国を救ってやるのだ。
あなたが信じたありもしない奇跡を、私が実現して見せる。
そしたら、父は臆病者ではなくなる。
自分のために貴重な戦力を減らして民を殺した……そんな愚かな人間ではなくなるのだ。
私は、私と父のために奇跡を起こしてみせる。
……なんて、そんな大それたことを考えるのだけれど、私はただの端役でしかない。
本当の『奇跡』は、西の呪物殿で眠っていたという彼――坊君だろう。
不思議な子だった。
本家を思わせる鮮やかな赤髪。そして星弓の矢をあっさりと切り裂いてみせたその身体能力。
まだ幼いのに、私なんかじゃ足元にも及ばない程に強い子。
身体だけじゃなく、その心さえも。
彼と出会い、洞窟で作戦会議を終えた後。
私は、彼に1つだけお願いをしたのだ。
「……ねえ坊君。お父様の接ぎ木、星弓なんだけど……」
「うん。詩乃にあげる」
彼は大赤桜の解放を目指していた。
それには多くの接ぎ木が必要だろうに、彼は躊躇することなくそう言ったのだ。
「いいの?」
「だって、元々詩乃のものでしょ?」
そう言って、彼は微笑んでくれた。
その時思ったんだ。
ああ、父はきっと彼と私を引き合わせるために、私を封印したのだと。
あなたの行動には、きっと意味があったのだと。
だからあなたが望んだ通り、私はあなたを殺します。
あなたが愛した娘と、この国を守るために。
***
星弓の渾身の狙撃が外れたことを認識した坊は、その瞬間に全速力で駆け出していた。
「はっ……はぁ……っ!!」
いくら身体能力が優れている坊でも呼吸が荒れ、視界が霞む。
それでも休んでいる暇はないと走り抜け、菖蒲邸へとたどり着く。
花弁で跳躍し屋根に飛び乗り、そこからさらに跳躍をして――屋上へ到達し、氷魚の拳で叩き潰した。
「……ふう、間に合った」
「坊君! 流石!」
少し離れた位置に立っていた詩乃が笑みを浮かべて叫ぶ。
だがまだ構えは解かないどころか、倒れた星弓に駆け寄ると両手の短剣を閃かせてその首を狙う。
今度こそその首を落とすと放った一撃は、しかし蠢く何かに弾かれ短剣が吹き飛んだ。
「……っ、しぶといですよ、お父様……!!」
身体は倒れたままだというのに、弓から伸びた蔦が怪しく蠢き、本体を守ろうと周囲を威嚇する。
腕より太い蔦には殻がまとわりついており、あれの1本に打たれるだけで骨が砕けるだろう。
だがそのままでは星弓が回復してしまう。今も立ち上がろうと震える腕に力が込められている。
躊躇する時間はない。
短剣の穴に指をかけ、蔦が反応できない速度で投擲し仕留める。
そう思考した刹那、反対側の坊から赤い光が立ち昇る。
『詩乃、跳べ!』
「――!?」
耳元で聞こえたその言葉にびくりと震えつつも、なんとか咄嗟に跳び上がる。
直後、坊が右腕を分厚い刃に――緋太刀に変えて振りぬいた。
赤い一閃が駆け抜け、伸びていた蔦が残らず刈り取られる。
だが相手は異形の樹者。直ぐにその断面から再生が始まろうとしていた。
「――させない!」
着地と同時に飛び込んで、詩乃は2本の短剣を星弓の首へと突き立てた。
鋭く反応した蔦の根本に殴打されるも、根本では勢いが足りない。交差させた腕の手甲でなんとか防いで、元居た方へと弾き飛ばされる。
『詩乃様!?』
「……っ、平気!」
何とか立ち上がり、砕けた手甲を脱ぎ捨てる。次はないが、成果は十分だ。
『――――!!?』
声にならない絶叫が上がり、星弓の身体がのたうち回る。
首に3つも短剣が突き立っているのだ。いくら樹者とて無事ではいられまい。
『そのまま仕留めちまえ!』
坊は魔剣を、詩乃は短剣を引き抜き止めを刺そうと走り出す。
だが――。
『――――!!』
蔦のぶわりと断面から黒煙のような光が立ち昇り、突如として
瞬く間に伸びた蔦が辺りをやたらめったら打ちつけ――屋上の床を崩壊させた。
「わっ……!?」
「きゃぁ……!?」
『坊様、詩乃様……!?』
経年劣化でボロボロになっていた屋上は簡単に崩れ、2人と星弓は1階まで落ちていった。
詩乃は蔦で、坊は花弁で落下を免れる中、星弓は落下を利用して着地し立ち上がってみせた。
『――――』
『まずいな、起きちまった……』
自由になった弓を振るい、再生しつつある蔦が蠢いている。
短剣の突き立った右腕と首は殆ど動いていない。恐らく視界もないだろう。
だがそれでも、弓さえ動けば攻撃ができる。
手負いでも接ぎ木の樹者。最後までその戦力は凶悪である。
「……」
『どうする、坊』
ただやはり視界はなく、他の感知能力もないらしい。空中にいる2人を見つけられておらず、辺りを窺いながら慎重に構えているだけであった。
だがその代わりに、坊たちも音を立てない様に動けなかった。
流石にまだ耳は生きている筈。迂闊には近づけない。
じっと構え続ける星弓に対し、どう攻めるか逡巡する坊だったが、ふと視界の端――詩乃が何か動きを見せた。
目線を向けると彼女はふっと微笑み、自分を指さしてからこちらへ掌を向けた。
――私に任せて、待ってて。
無言でそう告げた彼女が短剣を引き抜き、蔦を外して梁を蹴飛ばして星弓へと飛び出した。
『――――!!』
当然のように音に素早く反応した星弓が、詩乃へと腕を向ける。
その弓は、いつの間にか矢が3本つがえられ、引き絞られていた。
片腕を使えないのにどうして――そう思った束の間、坊は見る。
触手が弦を引き絞り、既にいつでも矢を放てる状態にまでなっていたのだ。
しかも何も見えていないだろうに、鏃は正確に彼女の軌道を捉えている。
咄嗟に後を追って飛んだ坊だったが、間に合わない。
そのまま3本の矢は、詩乃に向かって解き放たれた。
「――詩乃!!」
「……」
迫る剛矢に怯むことなく飛び込んだ詩乃は、ただひたすらに星弓の顔を見つめていた。
――やはり、使うならその技ですよね。
蔦操術で弓を引くその技は、星弓を扱う菖蒲家だからこそできる秘技で、古くから星弓を受け継いできた歴代当主が編み出した奥義の1つ。
そのやり方も弱点も、詩乃は父から教わったのだ。
『――いいか、詩乃。この技を使うのは最後の最後。もう、弓を引く力もなくなった時に、相手の意表をついて使うんだ』
部下も、母ですら知らないたった2人だけの秘密。
それを知るこの異形はやはり――
――ああ、やはりそこに居るのはあなたなのですね、お父様。
詩乃はふっと笑みを浮かべると、跳躍と同時に放っていた蔓を全力で引き――空中で軌道をぐいと下へと変えた。
放たれた強弓を潜り抜け、
「――お父様! 今、お救いします!」
飛び込んだ勢いはそのままに、詩乃は星弓の足元へと滑り込む。
解いた蔦を今度は星弓の首に結び床を蹴飛ばして高く跳び上がる。
その手に握られた銀の刃が閃き、ひび割れた星弓の首筋へと全力の一撃を叩き込んだ。
『――――』
度重なる追撃により、遂に分厚い星弓の首が半ばで断たれた。
重たい頭はそのままばきりと折れ、鈍い音を立てて足元へと落ちていく。
当然の如く巨体は力を失い、矢を放ったその勢いのままに背中から地面へと激突する。
それでも、首を失ってさえも蔦と右腕は微かに動き続けていた。
――なんて、惨めな……!!
敬愛した父の最期の姿に震えながらも、詩乃は決して目を逸らさなかった。
そこへ、遅れて飛び込んだ坊が到達する。
「坊君、とどめを!」
「――うん!」
背から魔剣を引き抜いて、坊は倒れ込んだ星弓の心臓部へと突き立てた。
瞬間、彼からぶわりと赤い光が解き放たれ、星弓へと注ぎ込まれ――遂に星弓は完全に力を失い、地面へと倒れ込んだのだった。
「……」
『……終わったのか?』
『……どうでしょう』
魔剣の中に引っ込んでいたキュウと葉月が囁く以外は、静寂が辺りを包み込んだ。
はらはらと崩れた天井から木屑が舞い散る中、呆然としていた詩乃がハッと我に返って駆け出した。
「……お父様!」
既に星弓の身体は外側から崩れ始めており、黒い靄が立ち昇っていた。
自身が斬り落とした首へと駆け寄ると、そっとそれを抱き上げる。
「お父様、お父様……!!」
『…………』
「申し訳ございません。私は、あなたを……!!」
既に事切れているのだろう。彼が何かを言うことはなかった。
それでも霧散していく身体を詩乃がぎゅっと抱きしめ続け、消えるその瞬間。
消えかけた頭部から赤い光が煌めいて、詩乃の胸の中へと消えていった。
――すまなかった、詩乃。後は、任せた。
ふと、声が聞こえた気がした。
正直ただの幻聴で、詩乃自身がそう思いたいだけだったのかもしれないが……。
「……ご安心ください、お父様。私が必ずあなたの跡を継ぎます」
そう呟き、詩乃は立ち上がった。
その視線の先では長大な剣を背負った赤髪の少年が、昇っていく黒い塵を見つめていた。
――
「詩乃」
彼に呼ばれて近づくと、坊は自身の足元を指さした。
そこには星弓の胴体があった筈で、今は眩いほどの赤い光がそこに留まっている。
間違いなく接ぎ木だろう。
「……本当に私でいいの?」
「うん。2つあれば十分」
そう言って笑う坊に頷きを返してから、詩乃は屈みこんで接ぎ木へと左手を差し出した。
手が触れた瞬間眩い光が迸り――接ぎ木・星弓は詩乃へと継承された。
『やったな!』
「うん!」
「……ええ。ありがとう、みんな。おかげで、私は――」
言葉の途中で、詩乃は意識を失い、そのまま倒れ込んでしまった。
『詩乃様!?』
「……大丈夫、寝てるだけ」
慌てて抱きとめた坊は、詩乃の穏やかな寝息を聞いて頷いた。
『……良かった』
『張り詰めていただろうからな。坊もだろ? 今日はこのまま休もうぜ』
「うん」
詩乃を抱きかかえ、坊はまだ無事な建物の奥へと歩き出す。
唐突に始まった星弓討伐戦は、こうして終わりを迎えたのだった。