星弓との戦いを終え、坊たちは菖蒲邸の無事だった部屋を見つけて休むことにした。
『休める場所があってよかったですね』
『ああ……まあ、埃だらけなんだがな』
『仕方ないではありませんか。菖桜の解放は詩乃様が起きてから、と決めたのですから』
そのせいで屋敷は未だ黒く染まった樹が所々から生えているし、澱んだ空気が漂っている。
正直満足に休めるような状態には見えないが、詩乃は意識を失い坊も疲労の限界だった。
なのでまずは休む。ささっと換気だけ済ませてから、坊も腰を下ろして、ようやく一息つくことができた。
幸いなことに玉塚邸とは違い樹者はうろついてはいなかった。
恐らくは星弓が近づく樹者をことごとく撃ち抜いていたのだろう。
その証拠に、屋敷の周辺には突き立った矢が森のように並んでいるのをキュウたちは見た。
よく坊と詩乃は無事にいられたもんだと、その時は2人して震えたものである。
だが、それももう終わったこと。
不可能に思えた星弓討伐すら成し遂げて、今は静寂の中穏やかな時間を過ごすことができている。
『……詩乃様、よく眠ってますね』
『だな。あんな埃だらけの布団でよく寝られるよ』
『それだけ疲れてたってことですよ。……はい、よく巻けましたね。後は縛って……そうです』
「ふんふん」
あれから詩乃は眠り続け、そのまま夜を迎えた。
坊たちは少しの休憩の後、大きめの火鉢で火を焚いて暖と明かりを確保して、葉月の指導の下で止血を行っていた。
結構な量の血が流れていた筈だが、止血のために拭ってみたら大きな傷口は塞がり始めているようだった。
それだけ坊の再生能力が高いのだろう。
葉月も慣れているようだったから、きっと接ぎ木の力を得た者たちの共通の特徴なのかもしれない。
『……はい。これでよし! 坊様、立ってください。そうそう、両手を上げて……はい、残った傷はありませんね。もう休んで大丈夫ですよ』
「葉月、ありがとう!」
『ふふっ、どういたしまして』
坊も布団の上に倒れ込んで寝転がると、うん、とひと伸びをする。
「つかれたあ……」
『そりゃあ走り通しだったからな。周りは俺らが見とくから、今日はゆっくり休め』
「うん。……ねえ、キュウ、葉月」
『あん? どうした?』
「詩乃がね、温かかったんだ」
『は?』
いきなり何を言い出すのか、思春期でも来たかと寝転がる坊の顔を覗き込んだが、その顔は鼻の下を伸ばしている――わけではなく、どちらかというと疑問を浮かべている表情であった。
「詩乃に触ってると、不思議な気持ちになるんだ。これ、なんなんだろう」
――ああ、そうか。こいつは目覚めてから初めて生きてるやつに触れたんだったな。
目覚めてからは魔剣ばかり握っていたし、出会ったのは魂であるキュウと葉月に、後は樹者だけである。
生きた誰かに触れたのは、詩乃が初めてだったのだ。
互いに目を合わせて安堵の笑みを交わしてから、葉月が坊へと向き直り頷きを返した。
『そうですよ。詩乃様も坊様と同じく、生きている人間なのです。温かいのは生きている証拠です』
「……そっか。そうなんだよね」
『はい。ですから、おふたりはこれから手を取り合って生きていかなければなりません。この国の、恐らくたった2人の生き残りなのですから』
「手を取り合って? それって……どうすればいいの?」
『へ? それは……』
流暢に喋っていた葉月も言葉を詰まらせる。
子孫を作っていけばいいとでもいう気だったのだろうが、まだ幼い坊にどう説明すればいいのか、とようやくそのことに思い至ったのだろう。
あからさまに視線が泳ぎ始め、かと思えばキュウの方へとしきりに顔を向けてきた。
……仕方ない、と今度はキュウが口を開く。
『簡単だ。大赤桜を治しゃあいい』
「……それでいいの?」
『ああ。お前はそう頼まれたんだろ? なら、治したら全部解決するさ。だからお前は樹者を倒して、詩乃を守ってやれ。それでいいさ』
「……そっか。じゃあ、そうする。ありがとう、キュウ、葉月」
満足そうに頷いたので、2人で安堵の息を吐き出した。
『ほら、今日は疲れただろ? さっさと寝ろ』
「はーい……お休み」
そう呟いて、目を閉じた直後から坊は寝息を立て始めた。
『……早すぎるだろ』
『疲れてたんですよ』
元々が家令である葉月からすれば、正直今思い返しても何が起きていたのかよくわからない程に凄まじい戦いであった。
ほとんど休むことなく一刻以上戦い続けた2人だ。泥のように眠るのも無理はない。
『……本当に、お二人ともよく戦われました』
まだ成人前の子供が背負うにはあまりにも重い責務。
止血痕ばかりの2人の身体を見て、自分が治療できればいいのにと歯がゆい思いが葉月の中に浮かび上がる。
この身が生身であればもっと手助けができるのにと思う反面、魂だったからこそ今ここに入れるのだということも理解している。
――ままならないものですね。
何も出ない溜息を吐き出していると、キュウがこちらへ手招きをしているのに気が付く。
2人して壁を抜けて外へと出ると、分厚い雲夜が出迎える。
明日になって菖桜が解放されれば、月を見ることもできるのだろうか。
そんなことを考えていたら、彼がぼそりと口を開く。
『なあ、ここから先は都になるんだよな?』
てっきり先ほどのやり取りについて言われるかと思ったが、違ったらしい。
同じように隣に浮かび上がって、頷きを返した。
『……ええ、そうですね。ここから東に向かえば、赤桜の都ですよ』
何度も地図で確認した通り。
対して広くないこの国。2日も歩けば都へと辿り着く。
だがそんなことはもう彼も知っている筈。
『でも、それがどうしたのですか?』
『いやな、坊は何者なんだって、ふと思ってな』
雲しか見えない夜空を眺めつつ、胡坐をかいた彼は気だるげに宙に寝転ぶ。
だらしがないと言いかけて、魂にそんなこと関係ないかと、どうでもいいことを葉月は思う。どうやらすっかりこの状態に慣れ切ってしまったらしい。
さっきも当たり前のように壁を通り抜けたし、もう地面を歩く感触も思い出せない。
そして、そのことになんの悲しみも浮かばない自分自身に少しだけ驚いている。
こうして、時間をかけて人としてのあらゆるものを失っていくのだろう。
だというのに数百年そんな状態で過ごしてきた筈の目の前の男は、まるで普通の人間のように、つい先日まで他人だった少年の心配をしている。
正直、葉月としては坊よりもこの男の方が得体が知れない。
『……おい、聞いてんのか?』
『あっ、すみません。ちゃんと聞いてますよ。坊様の事でしょう?』
『……ああ。昨日お前も言ってたろ? 坊が接ぎ木を2つも使えるのは、あいつが本家の血を継いでるからかもしれねえって。だがお前もあの嬢ちゃんも、坊の事は知らないときた』
『そうですねえ。てっきり本家の方だと思っていたので、詩乃様もご存じないとは驚きました』
彼女はこの国において本家に次ぐ地位にある五家の次期当主だ。
都で行われた様々な儀式に顔を出している。
もし坊が本家の人間であるならば、必ず面識がある筈なのだ。
『お前が知らねえのはまだわかる。王族はそう簡単に市民に姿を見せねえもんだ。だが、あの嬢ちゃんまで見たことねえってのは、どうも腑に落ちねえ』
『……そうなんですよねえ』
この国の主である赤桜本家は子を1人しか作らない。
それが男であれ、女であれ。必ず1人だけだ。
葉月は坊がこの御子息――親王ではないかと考えていたのだが、詩乃が知らないというのなら違うのだろう。
だがそれでは辻褄が合わないのだ。
ならば坊は一体何者なのだろうか。
考え込んでいると、『それによ』とキュウが続ける。
『もし坊が王族だってのが真実ならよ、当時の王様も王子様も、坊より間違いなく強え筈だろ? ……それが負けたってのがどうも信じられなくてな』
『それは私たちも不思議でした』
なにせ樹者たちや呪いの黒い樹は、国の中心――都から現れたのだ。
坊より強く、なんならこれまで戦ってきた接ぎ木の衛士たちの誰よりも強い筈の御屋形様やその子息が戦っただろうに、この国は今こうなっている。
つまり彼らが負ける程の何かがいたということだ。
『大赤桜の力が真っ先に奪われたのだと、玉塚の者たちは話しておりました。きっと御屋形様たちもそのせいで……』
『……力を奪われたから負けたってか? まあありえなくはないが……』
そもそも、この黒い樹々はなんなのだろうと、キュウは浮かんだ疑問を口に出さずに呑み込んだ。
葉月も詩乃も、そのことは口に出しもしていない。
全く知らないのか、それとも話すまでもない当然のことなのか。
余所者のキュウにはわからない何かが、都には待っているのだろう。
『……まあ、行ってみりゃあわかるか』
『ええ。先ずは菖桜の解放からですね』
せめて坊が――あの幼い少年が傷つかないものであることを願いながら。
2人はそれ以上言葉を交わすことなく、周囲の警戒に向かっていった。
***
そして翌朝。坊が長い眠りから目覚めると、周囲は明るくなっていた。
火は消えており少し肌寒い。
身体にはまだ少し硬さが残るが、熱さを感じるほどに溜まっていた手足の疲れはすっかりと取れていた。
『坊様、起きましたか』
うん、とひと伸びをしていると葉月が壁の向こうから顔を出した。
見る人によっては絶叫ものだが、坊にとっては当たり前の光景である。
「うん、おはよう」
『おはようございます』
「……詩乃は?」
見れば、先に寝ていた筈の彼女の姿はない。
『先に起きて、今は周囲の探索をされていますよ。菖桜までの道を確認すると言っておられました』
「そっか。元気かな?」
『ええ。とっても。さ、坊様も行きましょう』
「うん!」
実際の詩乃は目覚めるやいなや気絶してしまったことを恥じて大騒ぎしていたのだが、彼女の名誉のためにも黙っている葉月であった。
服を整え魔剣を背負うと、未だ黒い気配漂う屋敷の中を進んでいく。
昨日とは真逆の方へと向かって外に出ると、先回りしていたキュウが天井から顔を出した。
『おう、坊。起きたか』
「うん。詩乃は?」
『丁度戻ってきたぜ』
「――坊君!」
昨日ぶりの詩乃が笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「ごめんなさいね、昨日は意識を失っちゃって……」
「ううん、平気だよ。詩乃は?」
「ええ。おかげさまで回復したわ。あ、そうだ。これ見て?」
そう言うと、彼女は左手を赤く輝かせて、接ぎ木を――星弓を呼び出した。
大きさも彼女に合わせたものになっており、彼女が弦に触れると弓から樹が分かれて矢を生み出す。
「
そう笑みを浮かべると、彼女は番えた矢を放った。
ひゅんと鳴る風切り音がして離れた位置にある樹の幹に矢が深く突き刺さった。
「軽く引いただけでこの威力よ。本当、接ぎ木の力は凄いのね……」
「うん。星弓も強かった」
「……そうね。私ひとりじゃ絶対にお父様を倒せなかったわ。改めて、本当にありがとう」
星弓を消してから、彼女は坊へと深く頭を下げた。
そして直ぐに顔を上げ、ぱっと笑みを浮かべる。
「今度は私がお返しする番よ。菖桜へと案内するわね。ついてきて!」
坊の手を取って、詩乃は走り出した。
それを見送りながら、魂2人はのんびりと浮かび上がっている。
『おーおー、楽しそうにしてんなあ……』
『良かったですね、詩乃様がいて』
『……そうだな。大赤桜を治しても坊1人じゃ意味もねえしな』
坊にとって、生きた誰かが隣にいるというのはとても大切なことだろう。
何せこの国は崩壊している。大赤桜を解放しても、1人で生きていくのは困難なことだろうから。
「キュウ、葉月!」
『はーい! さ、私たちも行きましょう?』
『おう』
そうして、2人は魔剣へと戻っていくのだった。
しばらく進んだ先、切り開かれた森の先に、その建造物はあった。
木と天幕に囲われた半球状の社。その中に、目的の菖桜はあるのだろう。
「玉桜と一緒だ」
「どこも同じ構造をしている筈よ?」
『樹で塞がってるのも一緒だな。坊、斬っちまえ』
唯一開かれている入口も玉桜同様に黒い樹で埋まっていたので、坊が緋太刀で切り裂いた。
詩乃は目をぱちくりとしながら、その様子を眺めている。
「葉月さんに聞いていたけど、本当にあっさりと切ってしまうのね。緋太刀の力なのか、あなたの力なのか……」
『どっちもだろ。てか、その程度で驚いてたらこの後腰抜かすぞ』
「ええ……? それも一応聞いてるけど、そんなに凄いの……?」
怯える詩乃を残して坊は社の奥へと進んでいく。
その視線の先には真っ黒に染まった巨大な桜。
『あれが菖桜ですね』
「……うん」
近づくにつれ、坊の髪が赤く輝きを増していく。
そして彼に呼応するように、黒い幹がひび割れる様にして赤い光が溢れ出す。
渦巻いていた黒い靄が、坊を恐れるように遠ざかっていた。
「……なに、これ」
その不思議な現象に、詩乃はただただ呆然としていた。
あれほど苦しめられた黒い呪いが、坊の力に触れて消滅しつつあるのだ。
まるで赤桜の力に焼かれるように、菖桜を中心にして赤い光と黒い靄がそれぞれ渦巻き立ち昇っている。
思わず震えて後ずさってしまう程に美しく、悍ましい光景が詩乃の目の前で繰り広げられていた。
「坊君、あなたは一体……」
「……解放するよ」
もうやり方は分かっている。
樹の下まで歩み進むと、坊は内側に赤い光を込めた幹に手を触れた。
再び爆発するような光が迸り、周囲を包み込んでいった。
「――――っ!?」
眩い光に、詩乃は咄嗟に目を閉じる。それでも真っ白に視界が焼かれるように感じるが、それもほんの一瞬。
閉じた視界が落ち着いたのを確認すると、詩乃は恐る恐る目を開いた。
そこに映るのは――。
「……菖桜!!」
放たれた赤い光と共に本来の姿を取り戻した菖桜であった。
慌てて殻の外に出て、緑色に姿を変えていく森を眺める。
まるで時が巻き戻っていくように。詩乃にとっては少し前までいた筈の、菖蒲の森が蘇りつつあった。
「……凄い、本当に元通りになるのね」
吹き抜けた風が、むせ返るような草の匂いを運んでくれる。
その懐かしさにいつの間にか涙が溢れ出てしまっていた。
「嘘、たった1日かそこらだっていうのに……」
慌てて目尻を拭いながら、これが紛れもない現実なのだとようやく実感することができた詩乃であった。
――お父様、あなたのしたことは、ちゃんと未来に繋がりました。
彼だってこんなことになるとは予想もしていなかった……いや、もしかしたら父だったら知っていたのかもしれない。
古書殿の管理者としてこの国の歴史を守ってきた彼なら、あの時何が起きていたのかを把握していた可能性もある。
ならばせめて娘である自分に教えて欲しかったが、そんなことをしていられる余裕はなかったのだろう。
――それに、もし何か原因があるなら私が調べればいい。
今日、目覚めて真っ先に確かめたことは、古書殿の無事だった。
屋敷が奇麗に残っていたから、古書殿もあるいは……と考えての事だったが、案の定扉は奇麗なままそこにあった。ただし赤く光る木々によって厳重な封がされており、中に入ることは叶わなかった。
恐らくは父があそこを封じ、守るために近づくもの全てを射殺していたのだろう。
いつか、待ち望んだ誰かが自分を倒すその日まで。
この菖桜の解放によって、あそこも封が解かれている筈だ。
「……確かめないとね」
詩乃は手をぐっと握りしめながら、浄化されていく景色を見つめていた。
同じようにその光景を眺めるのは、坊とその両隣に浮かぶ魂2人。
『やったな』
『ええ。……そして、いよいよですね』
『……ああ』
玉桜に続いて大赤桜の幼木である菖桜の解放を達成できた。
これで2本目。国の西側の一部は取り戻し、そして都への道も確保できたことになる。
「……うん。でも、その前に」
『ですね』
『だな』
真剣な表情で頷き合う彼らに、詩乃が近づいて声をかけた。
「3人とも、本当にありがとう。これで菖蒲領は元通りになったのね?」
『ああ、その筈だぜ』
「……そう。あなたたちはこれから都に向かうんでしょう?」
「うん、そのつもり」
次こそが本丸。大赤桜の解放である。
頷く坊に、詩乃は逡巡しながらも口を開く。
「そのことについてなんだけれど、私、やらなければならないことがあって……」
『詩乃様!』
「へっ!?」
葉月の唐突な声に、びくりと身体を震わせる。
「何……?」
『その通りです! 今から大忙しですよ!』
「へ?」
『坊、お前は左手側を見張っとけ。俺は反対側だ』
「うん!」
『詩乃様も! 探してください』
「な、何を……?」
そう。
その前に、やらなければならない重要なことがある。
それは――。
『『「食糧!」』――です!』
「……ええ?」
そう言えば、玉塚を解放した後に狩りをしたと言っていたけれど。
困惑する詩乃を置いて、3人は慌ただしく動いている。
「――見つけた! 猪!」
『おう、そりゃデカブツだな。詩乃、アンタも行くぞ!』
「ええ!?」
『その弓は何のためにある! 食糧を獲るためだろ!』
「行こう!」
「ええー!?」
こうして、第二の五家、菖蒲家の解放は慌ただしくも終わるのであった。