その日、望花殿に座す赤桜本家の屋敷は大騒ぎであった。
懐妊していた奥方が俄に産気づき、いよいよ跡継ぎたる子が生まれようとしていたのだ。
『落ち着け、桜武。そう焦っても子は生まれん。奥方と産婆たちに任せろ』
『親父殿、そうは言ってもだな……』
赤桜本家当主、桜武は執務を行うも手につかず、頻繁に顔を上げては戸が開くのを待っていた。
当主である桜武は1人しか子を設けることはできない。そういう規則だ。
つまり桜武にとっては最初で最後の子。仕事など手につかないのも仕方がなかった。
『ほら、来たぞ。しゃんとしていろ』
『む……』
近づいてくる足音に顔を上げると、襖が開かれ家令が顔を覗かせた。
『御屋形様、たった今お生まれになりました!』
『本当か!? それは……良かった……。ああ、本当に良かった!』
『なんとめでたい。良かったな、桜武』
『うむ、うむ。それで、凛よ。あやつは……和泉は無事か?』
そう問いかけると、何故か家令の女は表情を曇らせた。
『は、はい。奥方様もお子様も健康でございます。ですが……』
『……? どうした、何か問題が?』
こんなめでたい日に何かがあってはならぬと、桜武は努めて優しい声でそう言った。
呼吸を整えた家令が、しかし変わらず曇った表情のまま、口を開いた。
『それが、お子様は双子でして……』
『……何?』
『本家のお子が双子というのは初めてだと、皆困惑しておりまして……』
『……』
『……桜武』
浮かんでいた喜びが、一瞬で引いていくのを感じた。
隣にいた父親と目を合わせ、震えた身体で桜武はなんとか頷きを返した。
そんなまさか、ありえない。
夢であってくれ。
駆けつけた桜武の淡い願いは、子を産んだばかりの妻・和泉の青ざめた表情にあっさりと打ち砕かれてしまった。
幸せになる筈だった筈の出産は、本家に暗い影を落としたのだった。
『――御屋形様。お子が生まれたとのこと、おめでとうございます』
『――御屋形様。双子だったとのこと、まこと驚きでございます』
『――双子は吉兆の証。これで大赤桜がますます繫栄することでしょう』
どこから話を聞きつけたのか、笑みを浮かべた役人たちがそう告げる。
何が吉兆か。ただの生贄ではないか。
そう叫びたくなるのを堪え、桜武は次々に祝言を告げにやってくる役人たちを歓待した。
『桜武、堪えろよ』
『……わかっているさ』
彼らは規則に厳格だ。この狭く、個人が強力な力を持つ国では、僅かな破綻が国の崩壊を招く。
それは分かる。
例えば桜武が本気で暴れれば、都を落とすことなど容易なのだから。
それ故、特に強い力を持つ接ぎ木の衛士たちへの疑心は常に存在している。
僅かな噂が流れるだけで役人たちは謀反だと騒ぎたて、何か禁を犯そうものなら、すぐさま更迭しようとするくらいに。
桜武がこの地位にいるのも、この国が大きな事件もなく統治を続けられたのも、全ては規則のおかげだ。
だから、生まれた子の1人を差し出さなければいけないのも決定事項なのだった。
『俺が代わってやれればいいのだが、この身体じゃな……』
『……親父殿が代わっても無駄だろうさ。ここはそういう国だ』
桜武の両親は、母親の方が本家の生まれで先代当主であった。
父は五家ではない領地の生まれで、役人をしていたところを見染められたそうだ。
ただ若いころに狩りで片足を失っており、長らく政務の面で国主を支えてくれていた。
だからこの国の事も、役人の事も良く知っている。
これが、逃れられない定めであるということも。
『桜武、よく聞け。規則によればあの子が捧げられるのは桜浸の儀式――10歳の誕生日だ。それまでに、あの子を助ける方法を考えるぞ』
『親父殿……すまない』
暗い影が落ちた家だったが、それでも子どもたちは太陽のように明るく、愛おしかった。
双子だったため、桜武も子を抱いてあやすのが日課となっていたのだ。
後に坊――双子の弟が隔離されることになる離れで、桜武とその妻・和泉は子どもたちと触れ合っていた。
『ねえ桜武。見て、仁桜も朱為も笑ってる』
『……本当だ。何がそんなに面白いんだ?』
『嬉しいのよ、きっと。父も母も傍にいるからね』
『……そうだな』
兄の仁桜に弟の朱為。
まだ小さなその命は、重く温かく、懸命に生きようとしていた。
その片方だけを殺すなんてことは、とてもできなかった。
『……なあ、和泉。俺は――』
『わかってる。多分、貴方と同じ気持ちよ。……この子を犠牲になんて、できない』
『いいのか? 国主が禁を破るなど、この国始まって以来の重罪だぞ?』
『何を今更。この私を妻にした男が何を恐れるというの?』
『……そうだったな』
桜武と和泉。その出会いは都の役場でも当主たちの社交場でもない、狩りを行う国土外縁に広がる森の中だった。
和泉はどこかの領家の生まれではない。狩りを生業とする平民の娘だった。
幼いころから武勇に秀で、凄まじい怪力で大人でも苦労する獣を1人で狩った。
時折彼女のような、赤桜の力を十二分に引き出す者が現れるのだ。血に濡れた彼女は美しく、桜武はその場で求婚を申し出た。
当然の如く、周囲からは非難の嵐。
だが和泉を気に入った先代当主――桜武の母の声もあり、異例の婚礼は決まったのだった。
その時から桜武は役人たちに嫌われているのだ。
憎き相手の子どもが双子ならば、彼らは必ず規則を守ろうとするだろう。
『私たちで必ず朱為を守る。約束よ』
『ああ、必ずだ』
子どもを守り、大赤桜も維持する。
誰にも明かせない、2人だけの戦いがひそかに始まったのだ。
規則では身体がある程度成長したと判断される10歳の誕生日に、朱為は捧げられる。
それまでに方法を考えなければならなかった。
『ねえ、こうするのはどう? あの子そっくりの人形を作ってそれを桜浸の間に入れるの』
『……儀式が始まれば我らは手が出せない。仁桜の式典があるからな。関わる役人たち全てを抱き込むのは不可能だ』
執務の合間を縫って方策を探し求め、夜毎できることはないかと話し合った。
『いっそ、朱為を逃がしてしまおうか。皆で狩りに出て、その時に獣に襲われたことにすればいい』
『それこそ役人たちが許さないでしょう? それに本家の狩りなんて、そこら中に人がいて逃げ場はないわよ。……良い人攫いとか、いないかしら?』
『いるわけないだろう。……何かある筈なんだ。何か……』
そんな話を繰り返しながら、時間だけが過ぎていった。
なにせ秘密裏に進めていたためにこの悩みを共有できるものは少なかった。話せるのは父親と、相棒たる根猫、そして彼らの頭領たる長老だけだった。
『なあ長老様。俺たちは一体どうすればいい?』
『人間の些事など知らんよ。ただ、子どもを1人捧げた所で、大赤桜の澱みは消えん』
『……それほどか?』
『お前も見ただろう。既に根の奥は腐り始めている。延命したとしても、僅かしか持たん』
『……仁桜か、もしくはあいつの子どもの治世で、大赤桜は腐るということか。なら、何のために朱為は……』
『それが決まりだから、だろう。でなければ直ぐにお前らの言う国は腐る。大赤桜よりよほど早くな』
『……わかっている。わかっているさ』
そんな例は国外に目を向ければいくらでもある。
そういう意味では、この国はとても寛大だと言える。老いた前当主と子を1人差し出せば権力は守られるのだから。
そういった甘さが許されるのも、この国には赤桜の力があるからだ。
獣も他国も寄せ付けずに数百年国が維持される程の超常の力で守ってきたからなのだ。
『大赤桜がなくなっても、この国は生きていけるか?』
『そんなことは知らん。ただ我ら一族は、こんな腐り始めた家に住みたくはないな』
『……それは、そうだな。どうせ腐るなら、早い方がいいか』
そうだ。大赤桜の腐敗はずっと昔から進んでいた。
単に大きすぎてわからなかっただけ。そして単に人々が目をそらしていただけだ。
このままでは腐敗が表面化したその時に、ようやく諦めて動き出す事になるだろう。
その前に誰かが非難を浴びながらも決断する方がずっといい。
何より子どもを守るためにはそれしか道はなかった。
『和泉、俺は決めたぞ。大赤桜を代替わりさせる』
『うんうん、良く決断した! 流石私の旦那様だ。で、どうやるの?』
『長老様に聞いたんだが、遥か昔、大赤桜を入れ替えた事が1度だけあるそうなんだ』
この国の大赤桜は2代目と聞く。
1代目は腐り落ち、慌てて2代目が植えられて今に至る。
『あの時にはなかった五家桜もある。大赤桜の役目を終わらせ、五家桜の1つを植えればいい』
『……たしかに、それが五家桜の本来の役割だものね。……うん、それでいきましょう。でも、どの五家桜がいいかしら?』
『……菖桜にしよう。文吾なら、誰にも言わずに協力してくれる筈だ』
『そうね。私も彼がいいと思う。それに彼は古書殿の主でしょう? 歴史にも詳しい筈よ』
そうして協力者を増やして、準備は進められていった。
問題は2つ。
そもそもどうやって大赤桜を枯らすのか。
そして、いつそれを実行するのかだった。
『腐らせたいなら簡単だ。封を解けばいい』
『……封?』
そう答えたのは、菖蒲家当主の文吾であった。
誰もが寝静まった夜、ひっそりと屋敷を訪れた桜武を彼はここに招いたのだ。
暗く沈んだ夜の中、僅かな灯りが古書殿を照らしていた。
無数に積み上がった書物に半ば埋もれるようにして、彼はゆっくりと頷いた。
『ああ。どうして歴代当主だけが澱みを受け継ぐのか、それは当主ならば時封じの力が使えるからだ。大赤桜のへそには、澱みを枝葉に流さないように封がしてあるのさ。桜浸の間に入った当主は、それをほんのわずかな間解いて、自分へと流してまた封をする。そうして大赤桜を生き永らえさせてきた』
『なら、その封を完全に解けば……』
『澱みは樹の全身へ行き渡り、腐り落ちる』
揺らめく光に照らされながら、菖蒲文吾がぎろりと桜武を見た。
『ただ、気をつけろよ。封の開け方を間違えれば澱みは外に流れ出る。そうなったら、都全てが澱みに吞まれるぞ』
『……上手くやるさ。もう、誰も死なせはしない』
『……そうだな。大赤桜の寿命が来たら、五家桜に入れ替える。本来あれはそのためのものだ。ただ、どれかの家の赤桜を使えば、その家が力を増す。昔の人間たちはそう考えたらしい』
『この狭い国でも、人の業には抗えないか。愚かだ。どうして俺の子がその後始末をしなければならない……!!』
『落ち着け。だからやるんだろうが。お前の手で、息子を救うんだ』
『……ああ、必ず成し遂げてみせる』
こうして、『どうやるか』は決まった。
後は『いつやるか』。
大赤桜は常に衛士や役人たちが厳重に管理をしていた。
特に大赤桜の封がある桜浸の間は常に警備が付いている上に、開くには桜武を含めた複数の役人が管理する鍵が要る。
当主だからといって、おいそれと近づける場所ではなかった。
『あの子たちの10歳の誕生日。それしかないわね』
『桜浸の儀の日か。確かに、あそこが開かれるとなるとその日しかないが……民に不吉と思われないか?』
『むしろ、私たちから宣言するのよ。大赤桜が既に腐っていて、新たに植え替えるって。それが仁桜と朱為の最初の、当主としての仕事になるの。新たな門出には相応しいでしょう?』
『……わかった。そうしよう』
仁桜の儀を済ませる前に、家族で朱為を見送りたいと、そう言い訳を並べたて、本来同時に行われる筈の儀式を手前にずらした。
後は鍵が開かれたその時に無理やり桜武が押し入って封を解き、大赤桜の枝葉に澱みを流せばいい。
これで『いつやるか』も決まった。後は実行するだけだ。
準備を整え、決行の前日となった。
桜武と和泉は仁桜を連れ、朱為のいる離れを訪れた。
『いい? 仁桜、朱為。あなたたちはこの国で初めて、双子の当主様となるの』
子どもたちに計画は明かさなかった。
これはあくまで親である2人の我儘。罪は2人だけで背負って、子どもたちは未来を担ってくれればいい。
だから、これからのことを子どもたちには話した。
『……でも、明日は桜浸の儀式があるって。だから、封じの力も覚えたんだよ?』
『大丈夫。もう大丈夫なの。もうすぐ、家族一緒に暮らせるようになるの』
『……本当?』
『やったな、朱為! これからはずっと一緒だ!』
『兄様……いいの?』
『いいの! お前に教えたいこと、いっぱいあるんだ。勿論お玉にもな?』
『――――』
『ほら、お玉もお鈴も嬉しそうだぞ』
『……うん。ありがとう』
2人がどう思うか、それだけが不安だったけれど、仁桜は満面の笑みを浮かべて朱為を抱きしめた。
兄の仁桜は責任感が強く、既に次期当主に見合うだけの人格を兼ね備えていた。
弟の朱為はその境遇から自分の意見を強くは言わなかったが、我慢強く心優しく、何より赤桜の力への順応が特別強かった。
父どころか、歴代当主と比べても異様な程に。
役人たちはそれを、澱みを受け継ぐために生まれたのだと考えているようだけれど。
親からすればそれぞれが強みを補える、理想の兄弟だった。
『俺、ずっと嫌だったんだ。俺だけが正式な跡取りで、お前はずっとここにいて。……兄弟なのに、一緒なのに』
『うん』
『でも、これからは全部一緒だ。お前も、同じ赤桜の家の子なんだ』
『……うん』
ようやく、朱為も笑ってくれて。
そこからは根猫たちも一緒になって遊び始めた。
それを眺めながら、桜武と和泉は手を取り合う。
『……いよいよ、明日だな』
『ええ。必ず、成功させましょう』
だが明くる日。桜浸の儀のその当日。
桜武たちが目覚めた時には、朱為の姿は離れから消えていた。
『……朱為! どこだ!』
『――御屋形様』
『お前ら! 朱為をどこにやった!』
殺す勢いで吼えた桜武だったが、役人は微動だにしない。
ただただ笑みを浮かべて、深く丁寧な礼をする。
『――何をおっしゃいます。双子の弟は、桜浸の間に行く。それが務め』
『――大赤桜の澱みを引き継ぎ、次代の礎とする。それが定め』
『――双子の当主などあってはならない。それが決まり』
『……お前らは、どこまでも……!!』
桜武たちの動きは、気付かれていたのだ。
先手を打って朱為を桜浸の間に閉じ込め、封を開けさせるつもりなのだろう。
当然そこには仕掛けが組み込まれている筈。朱為が万が一封を解けば、彼は瞬く間に澱みに呑まれてしまうだろう。
――朱為!
何とかして防がなければ。
桜武は慌てて屋敷へと引き返した。
『親父殿!』
『どうした、桜武。こんな朝早くに』
『朱為が消えた! 恐らくはもう、桜浸の間に……』
『……朱為? それなら屋敷にいるぞ』
『……何?』
『昨晩遅くに仁桜のお付きが連れてきたんだ。お前の計画だと聞いていたが、違うのか?』
『……!? ……じゃあまさか、仁桜が!?』
あの日、役人たちの策略によって、桜武たちの計画は狂った。
双子の片割れは規則通りに桜浸の間に連れていかれ、澱みの封を解いた。
同時に桜浸の間自体を硬く閉ざし、決して出られないようにして。
当然の如く封には仕込みがされており、桜浸の間に澱みが溢れたことだろう。
役人たちの目論見は確かに成功した……が、ただ1つ、双子が入れ替わっていたことには誰も気づかなかった。
『――仁桜!』
武器を携えた桜武が桜浸の間に辿り着いた時、全てが遅かった。
狭くない空間は奥が見通せない程の黒い霧に包まれており、その中心には血を流し倒れる役人たちと、見たことのない異形がいた。
真っ黒な樹の甲冑に身を包んだ武者と、巨大な四肢の怪物。
灰色の光を放つそれの正体に、しかし桜武は直ぐに気が付いた。
『……仁桜、なのか?』
『――――』
『……そんな、どうして……』
応える声はなく。
代わりに振り向いた兜と面貌の奥で、灰色の光が虚ろに灯った。
そして後ずさる桜武の周囲、壁代わりになっていた大赤桜の幹が、溢れ出た霧に侵され、瞬く間に黒く染まっていくのだった。