翌日、大店で眠っていた坊がお玉の上で目覚めると御屋形猫が呼びに来た。
「魚を捕るぞ。ついて来い」
どうやら昨日のうちに食事について考えてくれていたらしい。
彼に連れられ、集落の奥にあった根の通路を下っていく。
かつては上下を結ぶ通用路だったのだろう。根の両端には柵の跡が残っているのが見えた。
ちなみに、坊はお玉に乗っている。
これから騎乗して戦う可能性を考えて……なんてのは建前で、ただただ仲良く触れ合っている2人であった。
「この下は大赤桜の根元にある清流に繋がってる。そこを通るとな、国の外まで通じてるのさ」
『外って……まさか海か!』
赤桜の国がある半島は、南を除いて海に囲まれている。
その大半は断崖絶壁であるために放置されており、それが更に数百年経過したせいで完全に手つかずの状態になっているだろう。
『海……実は見た事ないんですよね』
『そうなのか? 玉塚領なんて端っこだろ』
『端は樹海と山脈に覆われていますから、我々のような庶民は近付かないのですよ』
葉月のように、住人でも海を見たことがないものが多い。
そんな中、根猫たちは国の中央に居ながら海へと通じていたようだ。
「……あ、だから魚?」
昨日お玉が食べさせようとしてくれたものの中にも魚があったことを坊が思い出す。
「そういうことだ。実際は都周辺の湖に外から流れてきた魚がいて、その一部がこの先の支流にもやってくる」
澱みによる汚染も、流れ続ける河川には影響が少ないらしい。
「澱み自体は世界中に存在しているからな。流れて薄まれば、大した影響もない」
『……なるほどね。それにしちゃ、外の湖は真っ黒だったが』
「外は暗いから余計にそう見えるだけじゃないか? それに澱みは外に放出されている。根の中や下は案外安全なのさ」
『おお、そっちの理屈はわかりやすいな』
実際食べられる魚が生息しているというから、彼の言葉は正しいのだろう。
『なら今からその魚を捕りに行くのか?』
「ああ。他の場所からは都の外にも抜けられて、何匹か遠征に向かわせて肉も狩ってるんだが、今日帰ってくる予定はない。だから魚を捕るぞ」
「はーい」
複雑に入り組んだ根の階段を降り、目的の地下河川へと向かっていく。
その中で、昨日の続きを御屋形猫が語りだす。
「それで昨日は、お前の兄が樹者になったところまで話したんだったか」
「うん。……兄様とお父様はその後どうしたの?」
まさか、兄が父を殺したわけでも、その逆でもないだろう。
兄はああして生きているし、父は根猫の巣に民たちを封印している。
坊の問いかけに、前を進む御屋形猫が頷きを返す。
「しばらく戦ったそうだが、まだ生まれたばかりだった仁桜は桜武に勝てず、桜武は仁桜を殺せなかった。あいつは愚かにも元に戻す術があると信じ、息子を捕えようとしたのさ。だが、失敗した」
『坊の親父なら強えだろうに、何かあったのか?』
「……殺されていた役人どもが樹者として動き出したそうだ。その混乱の隙をついて、仁桜は逃げ出した。……それに」
言葉を切って、御屋形猫は根の先の大赤桜を見上げる。
「大赤桜から澱みが溢れ出て、それどころではなかった」
あの日の都の混乱は、壮絶を極めていた。
何せ生まれたころから輝いていた大赤桜が突如黒く染まり、そこから黒い澱みが溢れ出したのだから。
澱み自体は緩やかな噴煙のような動きで、最初に巻き込まれた者たち以外には被害者は少なかったという。
ただ、その被害者たちが樹者に変わったことで、悲劇は一気に加速して広まった。
「樹者に倒された者たちが澱みに呑まれて樹者へと変わる。それがまた人を倒して……その繰り返しだ。あっという間だったよ。この都が奴らの楽園に変わるのは」
そこまで話をしたところで目的の清流までたどり着く。
久しぶりに見た気がする地面の向こうに、お玉が複数は並んで入れそうな大きな流れが存在していた。
淡く光る苔に照らされ、大量の水が流れる大きな音が根に反響してごうごうと響いていた。
「さあ魚を捕るぞ。小僧、手伝え」
「はーい!」
魚とりの手順はとても簡単で、御屋形猫とお玉が風を纏って中へと入り、魚を弾くのを坊が掴んでいくだけだ。
パシャパシャと飛んでくる魚を見つめながら、葉月が口を開いた。
『澱みが溢れたその時、坊様はどうなったのですか?』
御屋形猫の話を聞く限りは、兄仁桜と入れ替わって屋敷に逃がされていたところまで。
そこから先、坊は呪物殿で長い眠りにつくことになるのだが、その間は一体どうしていたのだろうか。
だが当の本人は困ったように首を傾げた。
「……何も覚えてないんだよね」
『そりゃそうだろ。まだ大して思い出せてないんだろ?』
「……うん」
都に入ってからそれなりに記憶を取り戻している坊だが、崩壊が起きたあの日の記憶はまだ何も思い出していない。
「無理もない。お前は時封じを受けていたからな」
「え? ……いたっ」
飛んできた小魚を顔面で受け止め、坊は蹲る。
跳ね回る魚を何とか捕まえてから御屋形猫を見た。
「そうだったの?」
「呪物殿で何百年も眠っていただろう、忘れたのか?」
「……そうだった」
詩乃や若菜達と違った眠り方だったので忘れていたが、坊も長い時間を飛び越して今この場所にいるのであった。
呑気な坊に呆れた息を吐き出して、御屋形猫は続ける。
「和泉は都でお前に封を施し、眠ったお前を箱に入れて運んだんだ。……玉塚も通った筈だぞ? お前は玉塚の家令だったんだろう?」
「じゃあ葉月、知ってたの?」
『え? えーっと……』
全員の視線を向けられ、葉月は困ったように首を傾げた。
『実は、都から逃げてこられた方がいるとは聞いておりました。屋敷の奥で丁重に保護されていたようなのですが、私は藤雄様に近づくことが許されておりませんでしたから……』
『顔は合わせてねえんだな』
『……はい。藤雄様とは時折話していましたが、詳細は教えてはいただけませんでした』
「小僧の存在は極秘だっただろうからな。知らないのも仕方がないか」
ぱしゃりと再び魚を飛ばしながら、御屋形猫がそういった。
『そうか。坊が寝てたのはあの棺のせいじゃなかったのか』
「棺? ……ああ、呪物殿の代物だな」
ぶるりと身を震わせて、御屋形猫が水辺から上がってきた。
既に坊1人が食べるには十分な量を捕れているので、後はお玉に任せるつもりらしい。
『あの棺がなんなのか知ってるのか?』
「知らんよ。そもそも和泉が何故小僧をあそこに連れて行ったのかも儂にはわからん」
くあっ、と欠伸をしながら御屋形猫は言う。
『そうなのか?』
「ああ。ただ、
『そうなんですか!?』
『……だから、お前が驚いてどうするんだよ。管理者だろ一応』
手持ち無沙汰な魂2人に御屋形猫が加わって、途端に川岸は騒がしくなった。
そんな彼らを余所にお玉が捕る魚を受け取りながら、坊が口を開く。
「お母様は僕を連れて逃げて……お父様は? その後どうしたの?」
「それはお前らも見たとおりだ。逃がせる民を逃がして、逃げ遅れた連中はあそこに封じた。その後は、今度こそ仁桜を倒し、大赤桜を壊しに向かったよ。儂が知ってるのはそこまでだ」
坊を――朱為を妻である和泉に託し、自分は戦いに向かったという。
そしてその結果が今である。ということは――
『……大赤桜は壊されてねえんだよな?』
「ああ。あいつはきっと、失敗したのだろう」
仁桜に殺されたのか、あるいは別の理由かはわからないけれど、帰ってこなかったのならば、そういうことだろう。
「姿は見ていないが、ほぼ間違いなく樹者になった筈だ。恐らく最上層で大赤桜を守っているだろう。進めば間違いなく戦うことになる」
「……お父様の樹者、強そうだ」
思い出した記憶の中では、兄も父も戦っていたことはなかったけれど、少なくとも仁桜とは一度遭遇している。
根猫に跨った甲冑武者。その手には魔剣に並ぶほどの巨大な槍が握られていた。
「桜武の得物は剣だった。その魔剣とやらよりも大きな、幅広の大剣だ。甘えたら両断させるから気をつけろ」
「おっきい剣……緋太刀とどっちが強いかな」
坊が右手を真っ赤な刀身に変化させた。
それを見た御屋形猫が首を横に振る。
「それよりもかなり大型だ。下手したら割れるかもな」
『マジかよ。どんな化け物だ……お、そうだ。その兄貴と親父は接ぎ木の技は使うのか?』
当主の持つ接ぎ木の力は凄そうだとキュウは問いかけるが、帰ってきたのは否定の首振り。
「本家の人間は技を使わず、甲冑を身に纏う。仁桜は鎧を身に纏っていただろ?」
「うん」
「あの甲冑は大赤桜が本家の人間に贈ったものだ。その装甲は何よりも硬く、接ぎ木の技も簡単には通さない」
『坊様も五家桜から貰ってましたもんね』
『一部だけだけどな。……というか、渡すもんって大赤桜が決めてるのか……?』
まるで赤桜に知能があるみたいな言いぶりである。
「本家の人間が鎧以外の品を受け取った試しはない。儂は世話係への報酬みたいなものだと思っているがね。……小僧、その装備見せてみろ」
坊が身に着けていた装備を見せる。
大きな爪でそれらを叩いて、御屋形猫が鼻息を鳴らす。
「それは五家桜がお前を新たな主と認めている証拠だ。本当なら全ての五家桜を回れれば良かったのだろうが、そうも言ってられん」
『のんびりしている時間はねえよな。ただ、やっぱり防御面は不安が残るな……』
何せ相手は全身甲冑。こちらは腕や脚の一部を保護しているだけだ。
今までは何とかなったが、この先の樹者は、間違いなく坊と同等かそれ以上の相手。
接ぎ木の技があるとはいえ準備はできる限りしておきたいが……。
「そこはお玉が補佐するさ。この長い間で、こいつはお鈴と仁桜を倒すために準備を続けてきたんだ。お前と共に戦うためにな」
『――――!!』
「お玉……うん、一緒に頑張ろう!」
最後の魚を受け取って掲げ、食糧確保は完了するのだった。
「さあ、戻るぞ。腹ごしらえをしたら準備をして――決戦だ」
この国を再生するための最後の戦いへと、坊たちは向かっていくのであった。