あのお方に仕えることが、俺には何よりの誉れであった。
まだ俺が何もわからぬ子供であった時分、森に迷い込んで獣に食われかけた所を、あのお方に救われたのだ。
『ふむ、なんで小僧がこんなところにいるのだ? ……何? 外を見たかった? なんだ小僧、我が国の赤桜では満足できぬと?』
不思議な人だった。
鮮やかな赤い髪を無造作に纏めあげ、背には俺より大きな剣を担いで。
頬も服も獣の赤い血で染めて、その女性は、誰よりも大きな声で笑うのだ。
『ほら、帰るぞ。ここは小僧のいる場所じゃない。お前、名前は?』
そのまま家まで肩に担いで運ばれ、慌てて飛び出して土下座し始めた両親から、そのお方がこの国の主――御屋形様の奥方様だと聞かされた。
奥方様は気高く美しい、貴きお方だと言われて育ってきた俺は、思わず嘘だ! と叫んで、更に大きな声で笑われてしまった。
『面白い小僧だな』
そう言って、頭をなでられた。
あんなに暖かく、けれど重さを感じた手は初めてだった。
『お前は獣を前にしても決して泣かなかった。その気骨があれば、きっといい男になる。そうなったら、また会おう』
鮮やかな赤の色を俺の記憶に残して、彼女は颯爽と帰っていった。
血で汚れていても、いや、自ら危険な獣を討伐するその姿こそ貴く、美しいと俺は心が震えるのを感じた。
その時思ったのだ。
もう一度、あの人の笑顔が見たい。良くやったと認められたい、と。
そこから俺は衛士となるために、一心不乱に努力を続けた。
そして10年をかけて、彼女の傍までたどり着いた。
今度は彼女を守るための剣として隣に立つことができ、今日、この場所まで付き従うことができたのだ。
これ以上の誉れはない。
例え今日、この国が滅ぶのだとしても。
『――氷魚』
棺に手を触れていた奥方様が、俺の名を呼ぶ。
あれから15年が経った今でも、この国が崩壊する寸前でも、彼女は気高く美しかった。
『どうか、この子を頼みます』
『――はい。この命に変えても』
ああ、この日、この場所にいられたことを俺は誇りに思う。
貴女に救われたこの命。
貴女の最期の願いのために、使い果たしてみせましょう。
***
外を目指して、キュウと坊は呪物殿内を進んでいく。
最初こそ何が出てくるのか警戒しながらの、ゆっくりとした進行だったが、あの樹の異形が数体徘徊している程度と分かってからは止まることなく駆け抜けていった。
「――ふっ!」
坊の身体能力は凄まじく、出会い頭に突撃して一太刀。そのまま勢いを活かして繰り出す連撃で大抵の奴らは切り伏せてしまうのだ。
視界外から襲われても、素早く反応して飛び上がって奇襲の一撃を避け、なんなら空中でくるりと身を翻し、相手の首を切り飛ばしてしまった。
あっちも化け物だが、こっちも化け物である。
樹の流れを辿り入口に向かうにつれ、呪物殿を覆う岩壁が狭まり天井が近づいてくる。
いつしか2階程度の高さになったところで、キュウが剣から顔を出した。
『もうすぐ入口の筈だが……おっと、坊、止まれ』
警備も殆どいないこの建物だが、流石に入口だけは厳重であり、管理者用の通用口が設置され、出入りの監視は行っていた様だ。
その殆どは樹の雪崩で埋もれているが、その分出口は狭い。
外に出るにはそこを通らなければならないが……。
『まずいな。3体もいやがる』
偵察に向かったキュウが見たのは、半ばまで樹で埋まった、馬車が1台ようやく通れそうな岩の通路付近にたむろする異形が3体。
異形同士は攻撃しないらしく、ぶつかりそうな距離にいても反応すら見せない。
そのくせ坊が近づくと全員が凄まじい速度で振り返り襲い掛かってくるのだから理不尽である。
『どうする? このまま行くか?』
「……どうしよう」
流石の坊も3体相手は躊躇する様だ。
力任せにいかないのは頼もしい限りだが、さて、どうしたものか。
『……ふむ』
――要は、倒せりゃいいんだよな。
周囲を見回してから、キュウは坊に触れるくらいまで近づき、上側を指さした。
『坊、上を見ろ』
「……?」
『瓦礫と樹を伝えば奴らの真上に回れる。そこから一撃食らわせれば、1人は潰せるだろ』
「……!!」
すぐさま意図を理解した坊は、じっと上を――キュウが指し示した地形を眺めてから動き始めた。
音なく瓦礫を飛び越え、樹をするすると上って異形たちの真上に回ると、剣をするりと抜いて飛び降りた。
柄と
『――――』
突然現れた坊に、他の2体が弾かれたように反応する。
だが坊は柄を肩に乗せ、剣の腹を蹴飛ばし持ち上げるとそのまま横に一閃。
異形をもう1体、手にした得物を振り下ろす前に両断してみせた。
『――――!?』
ようやく反応しきった最後の異形の剣を飛びのいて躱す。
こうなれば、後は1対1。
飛び込んだ坊が連撃で仕留めて、終えた。
全員が動かなくなったのを確かめると、強張っていた坊の表情は緩み、みるみると満面の笑みに変わり飛んできたキュウへと振り向いた。
『やったな、坊!』
「キュウ、凄い!」
『へっ、俺は泥棒だからな。忍び寄るならお手のもんよ』
長いこと魂だったのですっかり錆びついていると思った技だったが、自然と思い出すことができた。
気が触れないのと同様に、記憶も摩耗せず残っているのかもしれない。だとしたらとんでもない魔剣である。
まあともかく、これで道は開けた。
『これで通れる。行こうぜ』
「うん!」
剣を背中に戻し、樹で埋もれて人ひとりがやっと通れそうな、かつての通用口を抜けていく。
先程から、その先から漏れる光を2人共認識していた。外に繋がっているのだ。
「……引っかかる」
『魔剣、デケェからなあ。安心しろ、外には何もいねえからゆっくり通れ』
「うん」
やはり黒い樹は入口から雪崩れ込むように入り込んでいるらしく、上下左右の岩を這うそれらを潜り抜けて、2人はようやく呪物殿の外へと出ることに成功した。
恐らく数百年ぶりの外の世界。
果たしてどんな光景が広がっているのか。
期待と不安を抱えながら開けた視界を覗くと、そこに広がるのは――。
『なんだあ、こりゃあ……』
現れたのは澱んだ、どこまでも真っ黒な景色だった。
空は墨を流したような漆黒の分厚い雲に覆われ、そこから僅かに漏れ出る光のお陰で、ここが外で、今が日中であることがかろうじて分かる。
「真っ暗……」
『ただの曇り空ってわけじゃ、なさそうだな』
雷鳴の音もなく、地面も――相変わらずあの黒い樹が敷き詰められているのだが、濡れてはいない。
それどころか、足元には灰のような何かがたっぷりと積もって砂地のようになっており、坊の足は身じろぎしただけで僅かに埋もれてしまった。
樹に生えた葉も灰色になっているせいで、周囲は灰塗れの景色になっている。
そして、その灰色を突き破るようにして真っ黒な木々が生い茂っていた。
妙に捩くれた幹、その樹冠には灰が降り積もっている。
まるで周囲一帯が大火事にでもなってその跡を見ているかのようだが、黒い木々には一切のムラがなく、枝には葉がしっかりと生えている。葉といっても色は灰色だが、燃えてできたわけではなさそうだ。
やはり呪物殿内に雪崩れ込んできたのはあの木々らしい。
たまたま上を向いて伸びた樹がああして森になり、横向きに伸びたのが入り込んできた……のかもしれない。
そんな樹があるか? と思うキュウだが、実際にそうなっているのだから信じる他ない。
その上、あの徘徊する人型の異形だ。
入口のそばにこそいないが、木々の向こうに浮かび上がる灰色の光がいくつか見える。
相当な数の異形がうろついているらしい。
呪物殿の中だけならキュウのように呪物のどれかに呪われたのだと思えるが、こうして蠢く奴らを見て、逆なのだと嫌でも理解する。
あの異形は外に溢れていて、たまたま迷い込んだ個体が呪物殿を徘徊していたのだ、と。
そしてそんな異形がうろつき回る国がまともに機能している筈もない。
『……』
生命が残らず枯れてしまったようなその光景に、坊もキュウも何も言えずに押し黙った。
キュウがこの国にやってきたのは随分と前のことだが、その時は茶の幹に緑の鮮やかな葉の揺れる美しい森が広がっていた筈だ。
こんな奇怪な植物と異形だらけの光景では決してなかった。
どうやら、この国は本当に滅んでしまったらしい。
そう嫌でも理解させられたキュウであった。
『あのおっさんの言っていたことは本当だったんだな……』
「……」
『坊?』
しみじみと頷いていたキュウとは異なり、坊は剣から手を放し、口を開いたまま呆然と周囲の光景を見つめていた。
――そうか。こいつは、目覚めたら国を失っちまったんだよな。
その赤い髪も、瞳も、この赤桜の国の人間の特徴だ。
キュウと違って、彼がこの国の人間であることは間違いないだろう。
彼の境遇は分からないが、長い眠りから目覚めたら自分の国がこんな有様になっていたのだ。驚きもするし、悲しみもするだろう。
だから決して急かすことはせず、キュウはぼんやりと周囲の景色を眺めていた。
その間に考えるのはまさにこの少年について。
――おっさんの言ったことが本当だったんだ。ならこいつの言うことも、案外本当なのかもしれねえな……。
突如として目覚めたこの少年。
彼がいつからあの棺の中にいたのかは知らないが、わざわざ今、こうして目覚めたということは何か理由やら原因がある筈だ。
そして彼の告げた『目的』。
このどう見ても崩壊したこの国の中枢であった巨木・大赤桜を治すという、普通なら一笑に付すその目的も、本当に誰かに頼まれたのかもしれない。
そいつは、この少年なら大赤桜を治せるのだと知っていた筈なのだ。でなけりゃこんな子供にそんな無理難題を頼まないだろう。
そしてキュウも、彼ならその無理難題を実現してしまえるような、そんな気持ちを抱き始めていた。
異常な身体能力に、この色彩を失くした世界で鮮やかに光を帯びる彼の赤髪。
どこか神々しさを感じるその佇まいに、キュウもまた言葉を失い、眺め続けてしまっていた。
そんな彼の意識を引き戻したのは、森の奥から響く葉擦れの音だった。
――おっと、いけねえ。
ここはあの化け物がうようよしているのだ。のんびりしてはいられない。
それに身体はともかく、彼の精神は見た目通りの『坊』なのだ。見てあげる誰かが必要だろう。
『柄じゃねえんだがな……』
こうなれば乗り掛かった舟だと、キュウが『坊!』と呼びかける。
『お前の探してる大赤桜はどこにあるんだ?』
「……多分、あっち」
『ええと、あっちは多分、東の方だな。……よし、じゃあとっとと行って治しちまおうぜ! そしたらこのおかしな状態も治るだろ』
「……!! うん」
この呪物殿は赤桜の国の西の果てにある。
一先ずは東へと街道を進んでいけばいいだろう。
……街道なんて呼べる道は見る限りどこにもないが、良く見れば微かに木々の隙間が大きい所がある。そこが街道跡なのだろう。
『途中で休めるところも探さねえとな』
「ありがとう、キュウ」
今が何時か分からないが、のんびりしていたら日が暮れる。
こんな化け物だらけの森で夜を明かすのはいくら坊でも危険な筈だ。
なんて、そんなことを考えていたら。
地響きとともに足元が揺れた。
『……何だあ?』
地震というには短く、断続的に揺れと木々の砕ける音が襲ってくる。
しかもそれは、どんどんと大きさを増していて――。
「キュウ、なにか来る!」
何度かの揺れの後、木々を打ち倒して巨大な影が現れた。
見上げるほどの巨体。
明らかに尋常ではないそいつは、分厚い樹の殻を纏った巨人であった。
――あんな化け物がいやがるのか!?
当然、この世界にこんな『人間』は存在しない。
だというのに人型のその異形は当たり前のように存在し、灰色の光を全身から吐き出しながら、長く発達した両腕を振り上げる。
空虚に光るその双眸は確実に坊の姿を捉えていた。
『――――!!』
『坊、避けろぉ!!』
地の底から響き渡るような、呻く咆哮と共に、樹の巨人との戦闘が始まったのだった。