その危機を、“マンハッタン”と名乗る一人の女性が救い出す。
なんとも数奇で歪な出会い。
しかしこの夜の邂逅が、少女を“女性”に変えていく。
暗闇の中で目を覚ました。
意識を得た胎児とは、こういう感覚なのだろうかと、判然としない中で薄らに思う。
理性が糸をたぐるほどに、わたしの無意味な思考は眠っていって、今の状況を理解しようとする心が、不安と手を繋いでやってきた。
今わたしは横になっている。寝心地は最悪。木の床にそのまま投げ捨てられているのだから当然だが。
揺れていることから、ここは部屋の中ではないことがわかる。一定の揺れじゃないから、電車でもないのだろう。
じゃあ、トラック?妥当だ。
けどそこまで大きくない。暗闇に慣れた目が言っている。狭くて、居心地は最高なほどに悪い。軽トラくらいだろうか。
手首には縄か何かが巻かれている。後ろ手で縛られているおかげで腕は使えない。足首にもご丁寧に巻かれているようだ。おかげで歩くことはおろか、立てもしない。
なるほど、理解した。わたしは今何者かに連れ去られているんだな。
では、何故?どうしてこうなった?
わたしは確か、いつも通りの帰り道を歩いていたはずだ。
すっかり暗くなった夜道。遅くなっていたんだ。わたしはやることがあったから残っていた。
そのせいであの、無表情な街頭の下を歩かなければならなかった。
そうして、わたしは、そこで…
その先には靄がある。
何も見えない。
ようやく晴れたと思ったら、この今だ。
今の状況はだいたいわかった。どうやら随分嫌なことになったらしい。
同時に、芽生える至極当然な感情。
〝助けて欲しい。〟
足を抜こうと足掻いてみる。意味はない。
手を抜こうともがいてみる。意義はない。
波立つ心を必死に抑えつけながら、できる限りの抵抗をする。けどそれらは、わたしの無力さを見せつけるのみに落ち着いた。
だらりと脱力する。力なき者でも抜ける力はあるのかと、乾いた笑みがまろび落ちる。
光なき檻の中で、揺れる世界に揉まれながら、わたしはとっくのとうにわかっていた事実を、改めて飲み込んだ。
きっとわたしを助けてくれる人は、この世にはいないのだろう。
途端のことだった。わたしの今唯一の世界が大きく揺らいだ。
わたしはなす術もなくそれに巻き込まれ、壁に一度背中が大きく打ち付けられた。口から意味なき音が吐き出されて、わたしは再び床に転がされた。
だがその大波が過ぎ去ると、揺れる世界は凪さえもなくなった。
恐怖と惑いを共に抱きながら、ままならぬ四肢のまま、餌を求める芋虫のような動きで起き上がり、周りを見回す。
変化のないことに少しの安堵を覚えつつ、それが変革の前の静けさである事実に怯える。
そして、それは現れた。
光。
溢れるような光ではない。差し込む優しい明かり。
けどわたしには影が差していた。
わたしにだけ、影が差していた。
「うぅわ、最っ悪な場所ねぇ。私なら3分と居られないわ」
声に含まれた感情は侮蔑。けどわたしに対してじゃない。わたしに押し付けられた世界に対してだ。
その声の主は乗り込んできた。
正体不明のその人間に、わたしの本能は警戒を示す。
後ずさろうとするわたしに、その人は迷いなく手を伸ばした。
抱擁するようにしてわたしの後ろに手を回す。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。
迷いのない手つきで手と足の縄をナイフで切ると、手元のそれを二つに畳んで、花弁のような赤のスカートの中にしまいこんだ。
最後に顎に指を添えて、眼差しでわたしの顔を撫でる。
「顔に傷は…無いわね。よかった。綺麗が1番だもの」
胸を撫で下ろして出たその声には一切の多義がなかった。
心から心配して、心から安心していた。
その様はあまりにも、不可解が過ぎるものではあった。
離れる手を目で追っていると、その人は玉を転がすような声で、わたしに問いかけた。
「その青い瞳…あなたが
葛城夢美。
そんな名前をしている人間は、この場においては確かにわたし以外には存在しない。
けど何故わたしの名前を知っている。
「そうです…って言ったら?」
濁すように、けど暗に肯定するようにして答えた。
わたしの睨む目を、その人は正面から受け止めて、そして答える。
「そうですって言ったら、こう答えてあげるわ」
笑っていた。
声は自信に満ち満ちて、顔は確信を灯していた。
月明かりを背にしながら、それ以上の輝きを纏うかのように。
その人は唇のルージュを艶めかせた。
「あなたを救いに来た。こんな世界は似合わないもの」
差し出されたその手はきっと、後にして思えば予兆だったんだろう。
わたしがわたしでなくなる、その予兆。
この世界を逸脱していく、そんな予兆。
◇
手を引かれて殻から落ちた。
わたしを縛ったものは、殻の中の闇に取り残された。
わたしの世界に空が現れた。
わたしの世界に大地が訪れた。
わたしの世界に風が吹いた。
空は夜空。星が散る宵。
大地はアスファルト。人の作る確かな足場。
風は海風。鋼橋を駆ける潮の香り。
わたしの世界が、広がった。
抜け殻の世界を見る。
それはフロント部分が壮絶な惨状だった。
ガードレールに衝突し、擦り続けて、歪み切っていた。
タイヤは見える部分は無事だったけど、あの車体の傾き方から左前部分はパンクしていることは請け合いだろう。
「あなたがやったの?」
わたしは問いかけた。それを知るべきだと思ったから。
しかし件の女性は、手を広げて肩をすくめるだけだった。言葉なく濁されたが、この人がやっただろうことは恐らく相違ない。
「あなたは誰?どうしてわたしの名前を知ってるの?」
次の問いには、答えが返った。
「私はマンハッタン。夜に咲く深紅の薔薇」
…本気で言っているんだろうか。
深紅の薔薇。確かにそう呼ぶに相応しい真っ赤なドレスを着ている。
ホルターネックのロングドレス。右脚部分にはスリットが入っていて、左脚側には薔薇の意匠がある。覗かせる脚から、その下はタイトなパンツスタイルということが窺える。靴は赤いローヒール。ミディアムくらいのエアリーボブで、右からかき上げた前髪を左に流している。
そよぐ風を心地よく受ける彼女からは、言った言葉に嘘でも冗談でもない様子が見えるが…
「異名、ダサいね…」
「はぁ!?ちょ、あんったっ…!かっわいくないわねぇ〜…!」
呆れる…本当に大人か?
「それで、どうしてわたしのことを知ってるの。何者?」
「依頼をもらったから。私は何でも屋。
言って、奥に見えていた車のドアを開ける。これまた真っ赤で、スポーティーなフォルムをしている。
「乗んなさい」
優しくわたしに促す、マンハッタンと名乗った女性。
得体は未だ知れない。
信用していいかもわからない。
けど、今だけはこの人に委ねるしかない。
わたしは、一歩を踏み出した。
街頭をいくつも背にしていく。
無感情な明かりに照らされては、陰り、照らされては、陰り。
それをながめているわたしもまた、無感情。
窓にはわたしが薄く反射する。
長いストレートの黒髪。少しタレ目がちな目。紺のブレザーに、赤いリボン。わたしが通う学校の制服。あの人の望まない制服。
わたしの持つ中で、唯一愛せるのは、この青い瞳だけ。
「葛城夢美」
突如、マンハッタンさんはわたしの名前を口にした。
「国会議員、葛城慶子の娘。3人娘の三女。現在16歳の高校2年生。県内でも有数の進学校に通っていて、成績は上から数えた方が早い。部活動は無所属。趣味なし。特技体操。すごいわね」
わたしのプロフィールが、何も見ることなく読み上げられる。それには一切の澱みがない。
「よく調べてるんだね」
「当然。基本中の基本よ。無駄と思うことさえやる。それが依頼の成功率を左右するの」
依頼。マンハッタンさんはまた言った。
わたしは単純な疑問を投げかける。
およそ答えの予測できる疑問を。
「その依頼って、誰からどんな依頼を受けたの?」
「あなたのお母さんから、娘を見つけて欲しいって内容よ」
やはりだ。知っていた。あの人ならそういうことをする。
ポケットの中を探ってみる。案の定、スマホがなかった。
なるほど、大方スマホのGPSの場所が動かないこと、あまりに帰りが遅いこと、そしてGPSの場所にわたしがいないことから、誘拐されたか失踪したと思ったんだろう。
「葛城慶子。野党議員の中でも敏腕ってことで有名ね。最近はメディア露出も増えてきて、認知度も上がってきてるんじゃないの?」
「おかげさまで」
窓の外に視線を移して相槌を打つ。
「にしても私みたいな、半ば闇稼業の人間にまで依頼を出してまで探すなんて、何考えてるのかしらねぇ」
そんなこと決まっている。
こんなことを表に出さないようにするためだ。
あの人にとって、家族というものは〝ポイント〟でしかない。
お父さんは超有名大をトップの成績で卒業し、教師としてエリートたちが通う私立高校に着任している。
姉さんたちはそれぞれ名のある国立大学生と、指折りの進学校在学とで、2人とも成績は超優秀。ほとんど1番か、落ちたとて上から3番目以内には絶対にいる。
すごい人たちでしょう。実際わたしもすごいって思ってる。
そんなエリートたちを家庭に持っている敏腕議員。誰もが目を引く肩書きだ。
あの人が欲しいのはそれだ。
人気、知名度、尊敬。そういったポイントを得たいがためにこんな家庭を望んだ。暖かい家庭なんかではなく、使える家庭だ。メディアに出てきているのも、そうした方が知名度や人気も上がるから。
さて、一方わたしはどうだろう。いくらかぐらいの進学校で、成績でも1番になったことなんて一度もない。
下の姉さんは部活動の部長もしているが、わたしは成績が伸び悩んだせいで、辞めさられる始末。
誇れるところなどない。そんな人間、あの人にとってはノイズでしかない。
成績を見せるたびに何度怒鳴られたか。
帰るたびに何度除け者として扱われたか。
かといえばわたしの一挙手一投足に気に入らないところがあれば、何度嫌味を言われたか。
何度、失望されたか。
あの人にとって、わたしは姉たちのようにできて当然なのだ。
裏を返せば、〝前提〟でもある。それを満たせないうちは、あの人の中では
姉さんたちは贔屓にされているから何も言わない。
お父さんはお母さんの教育方針に賛同しているから見て見ぬふり。おろか味方することさえある。
平均は外れ値に左右される。
わたしは下の外れ値だ。
全体を引き下げる落ちこぼれだ。
そんなもの、弾きたいに決まってる。
娘が誘拐されただなんて知られたら大きな騒ぎになる。さらにその娘がよりにもよって出来損ない。
美談にもできやしないと悟ったから、こんな怪しい人に頼んで、内密に終わらせようと思ったんだろう。
これ以上、厄介の種に減点なんてされたくないから。
ただ、それとは別に気になることがある。
「マンハッタンさん」
なぁにぃ、だなんて気の抜けた返事をする、運転手の女性。
「あなたはどうしてわたしを知っているかはわかった。けれどあなたが何者かはまだ聞いてない。あなたは誰。何者なの」
「言わなかった?私はマンハッタン。何でも屋。それともそれだけじゃ不満?」
思わず目が細まる。
この人はあくまでも、それ以上の自分を曝け出すつもりはないらしい。
「っふふ、不満ってカンジね」
「というより、それじゃあなたを信用できない」
「そうねぇ、まあ確かにそう。けど私は私の素性を教える気はないわよ。
あくまで私とあなたは
それに、とマンハッタンは繋げた。
「そんなことよりも、秘密が多い方が女の魅力は上がるのよ。嘘はジュエリー、秘密はドレス。それが女というものよ。覚えておきなさい、ガール」
その言葉は瞳なき言葉だった。
一度もわたしを見なかった。
けれどまるで向かい合い、正面から目を見て言われたかのような錯覚を覚えた。
そう、それで?
そんなことで嬉しいと思ったの?
もっと上にいきなさい。
できるでしょう、あなたなら。
あなたは、そんなこともできないのね。
思えば最後に家族と目を見て会話したの、いつだっけ。
「チッ…」
悪寒が走った。
わたしの回想を引き裂く音がした。
反射のようにマンハッタンさんを見る。マンハッタンさんはわたしを見ていなかった。
自分へ向けられたものではない。そのことに安堵した。
しかし次に浮かぶのは疑問だ。一体何が、マンハッタンさんに不満を与えたのか。
わたしの疑問をよそに、ギアが入れ替えられた。
そこで異常に気づいた。流れていく世界があまりにも早すぎる。
メーターを見れば、既に速度は制限速度をはるかにオーバーしているだろう数値だ。
「マンハッタンさん、一体…!?」
「喋らない!舌噛んでも知らないわよ!」
ハンドブレーキに手がかけられる。
その意味に気づいた時には、覚悟を決めるまでには遅すぎた。
刹那に、全てを置き去りにするようにして、車体が急転回する。
わたしの体が大きく左に投げ出される。歯を食いしばり、取り残されないようにアシストグリップを握る。
視界はない。目を開けて瞬間の超スピードを楽しむ余裕などないのだから。今はただ、呻くような声で耐えるしかない。
ただ、唯一薄目で見えたものがあった。
黒い車とすれ違う一瞬に、わたしの視界を占領するそれは、
挑発するように窓を挟んだ向こうへ手を振る、マンハッタンさんの姿。
そのまま道をしばらく右往左往して、やっと通常運転だ。
永遠を思わせる一瞬が過ぎ去って、車内は一時の静寂を宿していた。
死を思わせるあのドリフトは、もう今後の人生で二度と経験したくないこととして脳内に刻まれた。本当に。
「っはぁ〜〜〜っ!!」
マンハッタンさんが勢いよく息を吐き出した。肺の中の二酸化炭素を全て吐き出すような勢い。
シートに背を一身に預け、無気力に片手でハンドルを操作する。緊張の糸が途切れた様子だということは、見て容易にわかる。
「ごめんね〜、夢美ちゃん。怖かったでしょ」
「いや…まあ…一体どうしたの」
「端的に言えば尾けられてた。だから振り切るのにちょっと無茶をさせてもらったわ。ごめんなさいね。土壇場だったからどうしてもねぇ…」
苦々しく笑うマンハッタンさん。
口元こそ笑っているが、申し訳なさは全身、なにより表情から滲み出ている。
怒る気は起きない。責める気も。この笑みは誤魔化しのためのものでも、開き直りを示すようなものでもない。それがわかっているから。
今までわたしは、こんな笑みを見たことがあったろうか。
◇
車が停まる。
そこは怪しげなネオンサイトが輝く店の駐車場だった。
周囲にもそんな店がいくつもある。繁華街だろうか。
「ここは…」
「降りるわよー」
マンハッタンさんは、わたしの困惑を置いていくように先に降車した。
親猫についていく子猫のように、わたしは何もわからないまま後を追う。
店の前まで来て、改めてまじまじと見る。
外観はそんなに大きくはない。白のモダンな外観で、ドアの上にはランタンの形をした電灯がある。
ネオンサイトで描かれた文字を判読する。
「
…バー?バーと読んだのか、わたしは?
いや、そうだな、そうだ。確かにバーだ。
「夢美ちゃん?」
マンハッタンさんの声。
…まあ、考えても仕方のないことか。今は信用するほかない。
マンハッタンさんは、ドアの前で待っている。
そこへ誘われるように、わたしは足を踏み出す。
軽やかな鈴の音が、わたしたちという来訪者を知らせた。
入ってすぐに見える、お酒の並んだ棚。てんで全く知らないが、ここまで綺麗に整列されたなら壮観な光景ではある。
右手に奥まで並ぶカウンター席と、挟んで向かいの左手にはテーブル席がいくつか。中央奥にはまたドアが見える。
白を基調とした外観とは打って変わって、黒をベースとしたスマートな内装だ。薄暗さも起因しているだろうか。
「いらっしゃいませ」
若い男性の声。
迎える言葉を贈ったのは、カウンターの内の色白の男性。
グレーのベストに黒いシャツ。故に白いネクタイがよく映える。
髪は左側をバックに固めて、右側は軽く流している。
淡麗な顔立ちで、恐らく声を聞かなければ一瞬性別が分からなかったと思う。
というか、本当に肌が白い。ちょっと僻むくらいには…
「ハイ、ミスター。調子はどう?」
「まあまあです。そちらはご壮健のご様子、何よりと存じます。が…」
男性は一瞬わたしを見た。
心臓が跳ね上がる音が聞こえるのが早いか、それとも男性が目線を戻すのが早いか、続けるようにして男性はマンハッタンさんに、呆れたような様子で言う。
「中学生を店に入れるのはどうかと…」
「ちゅうがっ…!?」
驚愕に打たれるわたし。
吹き出すマンハッタンさん。
二つの異なる感情が交わる。
わたしは言い返す言葉を喉元まで迫り上げたが、わずかに残った理性がすんでのところで押し留める。
どっちにせよ、ここにいること自体が問題な年齢なのだから。
だからわたしはただ面白がるマンハッタンさんを、歯軋りしながら眺めるしかなかった。
ひとしきり笑って、マンハッタンさんは男性に弁解する。
「まあまあ、許してあげてよ。仕事なの、仕事」
それを聞くと、男性は納得したような面持ちで返した。
「では、オーダーは?」
マンハッタンさんは、先程までが嘘のような微笑を浮かべた。
「ええ、いつもので」
「かしこまりました。ではVIPルームにてご提供いたしますゆえ、奥の部屋へどうぞ」
聞くや否や、マンハッタンさんは迷いなく、奥のドアへと歩を進めた。
ただ背を呆然と眺めていると、マンハッタンさんが歩を止め、向き返った。その顔が見えて、わたしの意識が引き戻される。
〝いらっしゃい〟。
軽い手招きが伝えた。
戸惑うわたしに、男性は一言、
「どうぞ」
と、優しい声音で背を押した。
ひたり、ひたりと、わからないまま、わたしはマンハッタンさんへと寄っていく。
そして、マンハッタンさんの隣まで来ると、マンハッタンさんはその細い指をドアの取っ手にかける。
軽く開かれた先では、下りの階段をランプが頼りなく照らしていた。
「暗いから足元気をつけてね。私ここ何度も転げ落ちてるから」
返答に困りながら、降りていくマンハッタンさんの背につく。その赤さも相まって、今のこの人は足元を照らすランタンのようだ。
「あの…」
踊り場の辺りで、わたしはマンハッタンさんに声をかけた。
マンハッタンさんは振り返る。
どうしても気になっていたことを、思い切って聞いてみる。
「お酒飲むの…?」
マンハッタンさんは少し驚いたような表情をした。
目を丸く開いて、わたしを静かに見る。
「夢美ちゃん…」
わたしは思わず生唾を飲む。
言葉を待つわたしに、マンハッタンさんは重たく口を開く。
「純粋なのねぇ…」
「えっ」
声が漏れた。
予想だにせぬ言葉に、わたしの口は意味を持たせるより早く音を出してしまった。
一瞬意味が分からず、しかし、すぐさまその意味を理解した、その刹那の思考回路の余剰物。
いや、普通思うだろう。…思う、よね?
「ま、ついてらっしゃいな」
向き直るマンハッタンさん。わたしは困惑と共にその背を追う。
降った先は、またドア。薔薇の焼き印が微かに見える。
マンハッタンさんは左の壁の機械にカードを当てる。途端、解錠音が聞こえた。
ドアを押し開けて、マンハッタンさんはわたしを中に招き入れる。
「ここは…」
すぐ見えた部屋の真ん中にはテーブルを挟んでソファが二つ。奥には書類の散らばったデスクと、そしてチェア。さらに右奥のには冷蔵庫がぽつんと佇んでいた。
左手には本やらバインダーやらが並ぶ棚があり、右手には棚と化粧台、そしてまた通路があった。
上のバーからは想像もつかない、リビングと仕事場を合体したような部屋。
「私の隠れ家兼オフィス。ここで生活したり事務仕事したりしているの」
「そんなところにわたしを連れてきてよかったの?さっき、深くは入り込まれる気はないって…」
「それとこれとは話が別よ。誘拐されてお風呂入ってないでしょ。綺麗を保つのは女の義務。ほら、シャワーくらい浴びてきなさい」
指されたところは右手の通路。どうやらその向こうにシャワールームがあるらしい。
だが言っている意味はわかるが、言っている意図がわからない。何が目的なのか、全くの不明だ。
考えが読めないまま、マンハッタンさんをもう一度見る。
マンハッタンさんは微笑んでいた。悪意など一切ないような笑みだ。
「ね?」
最後のダメ押しかのごとく、マンハッタンさんはウインクをする。
「では、お言葉に甘えて…」
そう言ってわたしが通路の奥へ消えていこうとすると、
「あ、ちょっと待って」
と、マンハッタンさんは制止の言葉をかけた。
足を止めて振り返る。
何事かと思っていると、マンハッタンさんはこれもまた、わたしの想像していなかった質問をした。
「夢美ちゃん、普段使ってる化粧水と乳液、何?」
◇
温かなシャワーを浴びながら、わたしはこの夜を振り返る。
時間にしてきっと、目が覚めてから2時間あるかないか程度のわずかに、わたしは一生をかけてでも巡り会えないような瞬間を経ている。
何より、あのマンハッタンと名乗る女性。
わたしはあの人を信用していいのだろうか。
このままついていて、本当に大丈夫なのだろうか。
思い返してみればあの人は、依頼のため、つまり金のためにわたしを母親に突き出そうとしている。事情を知らないとはいえ、わたしにとっては最悪だ。
いっそこのまま逃げてしまっても…
…いや、それはなんだか、違う気がする。
あの人は依頼のためにわたしを保護している。それは誤つことのない事実だ。しかし、あの人の時折見せる優しさもまた、裏表のない真実。
嘘も秘密も纏っていながら、その部分だけは頑として揺るぐことはないだろう。
それに背を向ける行為は、気が起きない。
そもそも、この閉鎖空間ではあの人の目を盗んで外に出ることなど不可能だ。どう抗ってもあの部屋を通ることになるのだから。
下手なことはやめよう。ただ今は、あの人を信じてみたい。
♡
目の前には真っ白な天井。
よぉく見知った天井。
ただ電灯と混ざり合う白を視界に塗り広げて、私はこの夜を振り返る。
トラックの男たちはあからさまなゴロツキだった。取るに足りないつまらない人たち。
けど途中で追ってきたあの黒い車は違った。
何がと問われれば答えには澱む。けど、明らかに何かが違った。雰囲気と呼ぶべき何かが。
別のグループか?たまたま夢美ちゃんを見つけたから、身代金か何かを目当てに連れ去ろうと追ってきた?
いや、線は薄い。私が見えていないはずがない。それでありながらあの子を強奪しようと目論むのは無理がある。女2人だけならなんとかなるだなんて魂胆なら、業腹極まりないところではあるけど。
とにもかくにも、奴らは私がいながら追ってきた。ならばあのトラックの男たちと黒い車はグル?
実行犯と指示役と考えたなら、なるほど、関係性は飲み込める。しかしあんなにも近くにいたというのは、どうにも不自然。
結局帰着するところはただひとつ。
「わからない…か」
「失礼します」
唐突にドアが開いた。
「ひゃい!」
思わず奇声に近しい大声をあげる。
ミスターが銀盆と共に、何の前触れもなく入ってきたせいだ。夢美ちゃんに聞かれてないことを願う。
「ちょっと!いくらキー持ってるからって急に入ってこないでよ!レディにあるまじき声出したじゃない!」
「ああ、これは失礼しました。レディの自信はあったんですね」
「どういう意味?」
「真なるレディは謙遜を覚えている、ということです」
澄ました顔で言い放たれた。
ため息をつく。いつもながら。口数の減らない男だこと。
「それを言うなら、優秀なバーテンダーは慎ましきを纏っているんじゃなくて?」
「優秀、というのは正道にいる者を指すのですか?」
ミスターは含蓄を忍ばせていた。
それを知ってしまったから、私は何も言わず、ただその目を彼から外すだけだった。
「それならばよろしいです、ミズ.マンハッタン」
無言の肯定と、彼は受け取ってはいまい。〝優秀〟なボーイだから。
「とにもかくにもノックはしてちょうだい。ため息は小ジワを増やすの」
「ため息が小ジワを増やす科学的根拠はないかと存じますが…」
本っ当にこの男はああ言えばこう言う…心の持ちようでしょうが、そんなもん。
それはさておき、私は向き直って本題を切り出す。
「で、一体何の用?上の客は放ったらかしにしてていいの?」
彼は滅多には入ってこない。私がそう言いつけているから。
そんな彼が今ここにいるということは、何がしかがあると思ってのことだが…
「問題ありません。そもいませんし。こちらのサービスドリンクをお届けに参りました」
呆れる。そんなこと?
確かに彼の左手の銀盆には、ブランデーグラスの上にレモンと砂糖を重ねたものがあった。グラスの中には透き通る黄金色。
「私、また運転するんだけど」
「貴女にではありません。ミス.カツラギにです」
夢美ちゃんに?
「ご心配なく。中身はノンアルコールワインです。本来のニコラシカとは別物になってしまいますが、趣ぐらいは味わえるでしょう」
先に置いたコースターの上に、ブランデーグラスが音なく置かれる。
「どういう風の吹き回しかしら。あなた、そういうことする人だったかしら?」
ミスターはドライな男。よく言えば割り切りがいい。しかし悪く言えばそっけない。
こういう店だからこそそのルックスと共に、クールなバーテンダーとして落ち着けられるが、他のところでは苦しいだろう。
そんな彼が、サービスと称して何かを振る舞うなどまずない。少なくとも私には一度もない。
「一つは先の非礼のお詫びです」
「他は?」
「慰めです」
「…驚いた。本当にそういうことする人だったかしら」
「まあ、そうですね。人は時に気まぐれを起こす、ということです」
煮え切らない言葉だった。
ますます疑問は膨れる。
「あの人の口以外で述べられるのは忍びないですから、詳細は伏せさせていただきますが」
ドアノブに手をかけて、彼は振り返る。
「ま、あれですよ。同類ゆえの同情という話です」
その言葉と酔えないニコラシカを残して、彼は部屋を出た。
残留する疑問を片付けられないまま、私はデスクに座するしかなかった。
〝同類〟。
思考を渦巻かせ始めた時、示し合わせたかのようなタイミングで、シャワールームのドアが開く音がした。
◇
シャワーを浴び終えたわたしは、あの大広間へと戻る道を辿る。
あの人、綺麗な人だとは思っていたけど、なんとなく頷けた。シャンプーもトリートメントも、リンスもボディソープも、全部高いやつだった。正直使うのをちょっと躊躇った。自由に使っていいって言われなければ、多分シャワーだけで頑張ってたと思う。
横の髪を摘む。つやつやで、さらさら。嗅いでみると上品で甘い、いい香り。
あの人と同じ香り。
「あれ!?夢美ちゃん!?」
戻ると、マンハッタンさんは驚きの声をあげた。
思わず一瞬、身が震えた。
「なんで制服!?替えの服…ああ、ごめんなさい、用意してなかったわね」
服…ああ、服か。
確かに着るものが他になかったから、着てきたものをそのまま再度着ていた。けど、そんなに驚かれるとは思わなかった。
「いや、別にわたしは…」
「だーめよ!汗とか砂とか色々ついてるでしょ!ああでも、その前にはい、スキンケア!」
マンハッタンさんはわたしの両肩を掴んで、化粧台の方へ押していき、圧の強さにされるがまま、化粧台に座らされる。
LEDで囲われた鏡面に、わたしが映された。
「普段使ってるの、コンプリートエッセンスって言ってたからさ、オールインワンだからもしかして違うかもしれないけど、それならごめんなさいね」
わたしは化粧台を見る。
そうしてわたしは乗せられているそれらを見て、目を見開いた。
「一応混合肌だと思って用意したんだけど、大丈夫?」
並ぶコスメ、全て相当の値段がするものではないのか?
170mlなのにかなりする化粧水。
買おうと思って、値段で断念した美白美容液。
乳液だって、保湿力抜群なことで大人気なデパコスのでしょ?
知ってる、全部。有名なやつだもん。
「だ、大丈夫、です…」
もうなんだか目の前がキラキラすぎて、目眩がしてきそうだ。
「じゃあとりあえずブースターからね」
まだ出てくるの?正気か、この女?
スキンケアを終えて、ドライヤーをかける。さらさらの髪通りが風に揺れて、指が心地いい。
肌の仕上がりは何度見ても新鮮に驚ける。しっとりもちもち。わたしの肌とは思えない。
「服あったわよー」
シャワールームのある方の通路から、マンハッタンさんがひょこりと顔を出した。
「あ、ありがとうございます…」
ドライヤーをオフにして、畳まれた服を受け取りに行く。
マンハッタンさんの手元には、襟元に薔薇の刺繍が施された白のブラウスと、黒のプリーツスカート。
「薔薇、好きなんだね」
「ま、私の二つ名ですから?」
得意げに言うマンハッタンさん。大人の女性の姿とは思えないが、それはそれで今はどうでもいい。
ほのかに湧いた感情と共に、その手にある服に目を落とす。
「もしかして、趣味じゃなかった?」
不安そうな声音だった。
「ああいや、違う。そうじゃない」
手を振って否定する。この感情はそういうものじゃない。
だけどいい機会だからずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ねえ、どうしてここまでしてくれるの?」
するとマンハッタンさんは、何を聞かれているのかわならないといった表情をした。
わたしは付け加えるようにして、
「だって、普通ここまでしないでしょ」
と言うと、
「あら、そうなの?」
と、さもこれこそ当然であるかのように言われて、わたしも目を丸くする。
「まあそうねぇ、理由があるとするなら…」
そう置いて、マンハッタンさんは答える。
「あなたが、女の子だからかしらね」
「女の子だから?」
言葉を反復する。
「それって一体どういう…?」
「いずれわかるわ」
服を差し出したマンハッタンさんは、笑んでいた。
その笑みは柔らかく、優しく、意味を包み隠す。
けど逃げるようなものではない。
今はまだ知る必要はないと、暗に告げている。
それがわかるのはきっと、これまでのこの人を見てきたから。
「それはそうと、ごめんなさいね、ブラウスがカットソーのやつしかなかったんだけど、大丈夫?」
カットソー…つまり…
「半袖ってこと…?」
「ええ、そうだけど…嫌だった?」
「いや、そういうわけじゃない、けど…ううん、ありがとう」
わたしは受け取って、すぐにシャワールームの脱衣所まで、逃げ込むように走った。
ぶっきらぼうだと思われてしまったろうか。
態度の悪い子どもだと思われたろうか。
ここまでの行為に背くような、そんなことをしてしまっただろう。
けど…
スカートを下ろし、シャツを脱いで、鏡を見る。
わたしの剥き出しの肢体が写される。
やはりいつ見ても、見るに堪えない。
こんな身体を晒すなど、それこそ堪えられない。
もらった服に袖を通して、長さを確認する。
よかった。
「夢美ちゃん」
急に顔を覗かせてきた、突然の来訪者。
わたしは反射的に腕で胸から腹を覆い、さらに背を向けて隠す。
「長袖見つかったから持ってきたけど…どうしたの?具合悪い?」
心配の声音だ。
けど、今のわたしにとっては煩わしさでしかない。
「大丈夫。行って」
「けど…」
「行って!」
言い返そうとするマンハッタンさんに、精一杯の怒声で返す。
今はどうしても、そこにいることそれ自体が鬱陶しい。
この身体を見せるわけにはいかない。だからどこかへ行って欲しかった。この場から去って欲しかった。
けどどうやらこの人は、そんなわたしの思い通りにはなってくれないらしい。
マンハッタンさんはわたしの右腕に手をかけた。
精一杯の抵抗で腕を払っても、熟練の業の前には児戯に過ぎない。払った腕をそのままもう片方の腕だろう手で掴まれ、容易く体ごと引かれる。
マンハッタンさんと向き合わされる。
その目は、冷たかった。
けど、わたしの身体を見た途端、氷は溶け落ち、眉を顰め、苦渋を噛み潰すように歯軋りをした。
「ああそう、同類ってそういうこと…」
わたしの知らない納得をして、ようやくわたしの腕は自由を得る。
「夢美ちゃん。これは女の子としてだけじゃなく、仕事の保護対象としてでも聞くわ」
目を伏せる。
…ああ、やっぱりそうなるか。知っていた。
見れば誰もが思うだろう。
侮蔑は無論、それが憂慮だとしても、向けられることそのものが嫌だから、隠しておきたかった。
青あざや傷跡に塗り潰された、醜く汚い身体を。
「それは一体、何があったの…?」
◇
わたしの目は青い。
ひいおじいちゃんがイタリア系の人で、その目が青かったらしい。
それが隔世遺伝して、わたしに発現した。
他の人とは違う目。姉とも、両親とも違う目。
いつかおばあちゃんは、それをこう言った。
〝夢美の目にはいつでも青空が広がっている。〟
わたしはその言葉が大好きだった。おばあちゃんは快晴の空が似合う、快活な人だったから。言っていた時のおばあちゃんも、晴れ渡るように笑っていたことを覚えている。
だからこの目も、特別な目なんだと思っていた。
わたしの〝特別〟は、周囲の〝異端〟だった。
わたしの目は他の人と違う。他の人と違うものは目立つ。
当然の如くこの目は入学当初から話題にされ、それを起点にわたしの交流は広がっていった。国会議員の娘という肩書きもあったのかもしれないが。
けどそれが癪に触ったのか、わたしはクラスのあるグループから目をつけられるようになった。
初めはほんの少しの嫌がらせだった。ものがなくなったとか、そのくらいだった。
けどそれは日を追うごとに過激になっていった。気づけばそれは暴行にまで発展した。陰湿だったのは、顔や膝下、前腕など見える部分はほとんど傷つけられず、胴体や肩周り、腿など服で隠れる部分に集中していたこと。
もちろん、ものがなくなるっていうのも続いた。
服が変な液体で汚されてた時もあった。
机の上が水浸しだった時もあった。
ロッカーに閉じ込められた時もあった。
そうだ、今日も履いてきた外靴の中に、変などろどろしたのが入ってたから、それを取り除くのに遅くなっていた。
わたしの周りから人は消えていった。飛び火を恐れたから。いや、わたしにまつわる変な噂もあったせいだろう。
事実無根なことを振り撒かれ、わたしの立場は徐々になくなっていった。
結果、わたしに関わろうとする人はいなくなり、わたしを傷つける人だけが残った。
親には言えない。いや、言わない。どうせ助けてくれやしないから、言うだけ無駄だ。
通学路はいつも気が重い。外の景色も見たくなくて、ずっと俯きながら歩いている。
学校は地獄だ。けど、家もまた地獄だ。地獄を往復する行為の、どこに楽しさを見出せる。
どこへ行けば、楽になれる。
「それは一体、何があったの…?」
顔を伏せるしかなかった。
今はこの人に顔を見せられない。
わたしの心が、弱々しく拒むから。
「夢美ちゃん、ねえ、どうしたの?」
「関係ない…」
ぽつりと溢れ出た言葉だった。
「え…?」
「関係ないって、そう言ってるでしょ!」
それは、まさに怒号。
感情を発露させ、掴む手を振り払う。
「あんたに言ったとこで、何も変わんないから…!あんたなんかに、わたしのこと、何もわかるはずない!そうでしょ!?」
混沌とする心で言葉をぶつける。
目も合わせぬまま、ただ一方的に暴言を吐くその様はまさに、駄々をこねる子どものようだ。
「だから…もう…!!」
ブラウスの前を掴んで無理矢理に閉じて、マンハッタンさんを押し退ける。
たとえ仕事人であっても、虚をついたなら押し通ることなど容易らしい。
「待って!」
「来ないで!」
叫ぶマンハッタンさんを拒絶する。
「深く入り込む気はないんでしょ。だったら放っといてよ」
そんな陳腐な捨て台詞だけ吐いて、俯くままこの部屋から逃げるように、リビングのドアを乱暴に開けて出た。
〝あんたに言ったとこで、何も変わんないから〟
違う。
〝あんたなんかに、わたしのこと、何もわかるはずない〟
違う。
違う違う違う。
わたしの言いたいことはそんなことじゃない。
けどわからない。なんて言えばいいのかわからない。なのに感情を先駆けに、言葉が口をついて出てきてしまった。
やがていよいよ言葉にすら変えられなくなった心に、わたし自身が耐えられなくなって、気づけば体が動いていた。
醜い身体のわたしが嫌い。
それを詮索されることも嫌だ。
けど最も嫌なのは、何もかもがぐちゃぐちゃな今のわたし。
何がしたいのかも、言いたいのかもわからなくて、薄っぺらな身勝手に身を堕とすわたし。
こんなわたし、大っ嫌い。
バーに出た。
お客さんはいない。薄暗さの中に、白いネクタイの彼ただ1人が見える。
けど、その人も今は見たくない。
今のわたしじゃ、何をするかわからない。
目を伏せる。見なければ、視界に入らなければ感情が波立つこともない。
そのまま通り過ぎようとして、
「ミス.カツラギ」
声をかけられて、足を止めた。
人の反射とは恐ろしい。突如に名を呼ばれれば、気を向けずにはいられないらしい。
「一杯飲んで行かれますか?」
「いらない。未成年だし」
「まあそう仰らず。ノンアルコールのカクテルもありますゆえ。それに、その服の状態で外に出られるのは、流石にどうかと」
言われて視線を落とす。
掴んで閉じているとはいえ、開いたままのブラウス。そういえば下さえ履いていない。激情のもとに忘れていたが、確かにこれは街を歩ける格好ではない。
それに気がつくと怒りがしずまり、代わりに羞恥がふつふつと湧いて出てきた。
「失礼します」
バーテンダーさんはそう断ると、わたしの腰に黒いエプロンを巻く。
「急場しのぎですが。けれどこれで多少はマシになるかと」
確かに、さっきよりかはまだいい。依然としてものすごい格好なことに変わりはないが。
彼はそのままわたしに席を促した。渋々わたしは腰を下ろす。
「少しお待ちを」
バーテンダーさんはそう言って、奥の電話の受話器を取った。
聞こえてきた名前は、マンハッタン。
「っ…」
思わず精神が反応する。
今だけは聞きたくない名前だったから。
電話を終えたバーテンダーさんは、少し大きめのワイングラスのようなものを手に取った。
「あの」
興味を留めきれず、声をかけてしまった。
「さっきの電話って…」
「ただの内線です。お気になさらず」
淡々と述べる彼は、その手にボトルを取った。中は透明な黄色の液体。
「マンハッタンさんと何を話していたんですか」
バーテンダーさんの動きが一瞬止まった。
「いえ、貴女が気に留めるようなことでもございません。ただ少しお待ちくださいと進言したのみにございます」
反応したとはいえ、口振りは変わらない。嘘をついてるようには見えないけど、どうしても引っかかる。
「本当ですか?」
「本当です。この場において嘘など申しても意味はありますまい」
グラスに黄色の液を注ぐ彼は、またもいたって平静に言った。
流石にこの場は納得せざるを得ないが、どうしてもわたしの心中は穏やかになれない。
「そうですか…」
両手を机に置いて、初めて知った。
爪の先が赤い。手のひらを見てみれば、ちょうど手を閉じれば爪の当たる位置に傷があった。
それほどに強い力で握り込んでいたのか。
いや、それもそうだが、それにも気づかぬほどの激情だったのか。
なら、それほどの激情の中で吐いた言葉は、どれだけの鋭さを持っていただろうか。
「お待たせしました」
思考に堕ちる寸前、わたしの目の前に一杯のグラスが置かれた。
上には切られたレモンと、白い粉。見た目はカクテルとは思えない。
「これは…?」
「ニコラシカです」
ニコラシカ。
聞いたことのないカクテルだ。
「ブランデーを注いだグラスの上に、蓋をするようにスライスレモンをのせて、上に砂糖の山を作り上げて提供するカクテルです。ですがミス.カツラギにはまだブランデーはお早いですから、今回はノンアルコールワインを使用しております」
「これは…どうやって飲むんですか?」
「上のレモンをそのまま食べて、レモンと砂糖の織りなす甘酸っぱさが広がったところで、イッキです」
イッキ。この雰囲気の店ではおそらく聞くことがないものだろう言葉が聞こえた。けどわかりやすくはある。
言われるまま、レモンを手に取って口に入れる。
噛むと爽やかな香りと、砂糖の甘みが広がる。皮の苦味も意外といいアクセントになる。
少し咀嚼して、グラスを取り、意を決して一気に流し込む。
ぶどうジュースのような甘味ではないが、上品で果実元来の甘みと渋みをかけ合わせたような、味わったことのない味だ。
それがレモンの香りと混ざり合う、新感覚。
「如何ですか」
「なん…というか、新鮮です。カクテルってこういうものもあるんですね」
「ええ。まあこの子はそれなりの変わり種ですがね」
言いながら瓶から透明な液がグラスに注がれ、新たにわたしの前に置かれた。
「お水です」
水も、ああいったものに入れてあるのか。素直に感心してしまう。
「ニコラシカは不完全なカクテルです」
瓶の蓋を閉めながら、バーテンダーさんが口を開いた。
「ブランデーを注いだグラスの上にスライス・レモンと砂糖を乗せる。それがレシピにはございますが、その時はまだ未完成です。お客様に召し上がっていただいて、初めて完成する。そしてその飲み方が故に、味はカクテルベース、即ち使うブランデーに大きく左右されます」
突然の話に、要領を得られないわたしは
「何が言いたいんですか」
と、問いかけた。
「貴女と同じだと言いたいんです、ミス.カツラギ」
その答えに、わたしはわたしの意思を置き去りにして、
「えっ」
と、意味を乗せられなかった言葉をこぼしてしまっていた。
バーテンダーさんはそれを気にも留めていないのか、グラスを拭きながら淡々と言葉を重ねる。
「貴女の人生はまだ途中です。そして貴女の人生の味は、それこそ貴女次第で大きく変わる。
拭われたグラスを棚に納めるバーテンダーさん。
そして、グラスに視線を落としたまま、彼は言った。
「俺とは違ってな」
背中越しの言葉は、これまでとは何も変わらぬ声だった。けど、物悲しさを覚えるのは、恐らく顔が見えないせいじゃない。
「バーテンダーさん、あなたは一体…」
「別に。ただの同じ穴の狢です。ただ、穴の中しか住むところのない者と、穴の中しか
バーテンダーさんが、わたしの方へ向き直る。
「ミス,カツラギ」
わたしを、その目に捉える。
「
♡
「で?」
「で?って、何がですか」
傍に不思議なモクテルを置きながら、背中越しの会話をクールなバーテンダーとする。
「夢美ちゃんよ。何話したの」
「いや別に、何も」
「嘘つき。特別なことを何も話さないなら、あなたがわざわざ私を待たせるはずがない」
「いや本当ですって。特段何も。ただちょっと、昔語りといいますか、人生経験からくるアドバイスといいますか」
「……」
呆れ返る。
けれど同時に驚く。
あのドライなミスターが、そんなことをするなど。
「それは、
「そんなところです」
「そう…わかったわ」
彼を背に、私はスライスレモンを口にして、中のノンアルコールワインを飲み干した。ブランデーというにはあまりに未熟な味がする。
よりかかっていたカウンターから身を起こして、それを背にお店のドアに手をかけた。
「ミズ.マンハッタン」
呼び止められて、振り返る。
「ご武運を」
「言われなくともよ」
◇
駐車場に1人立ちながら、わたしは空を見た。
明け方の近づく頃と思いきや、その実まだそれは遠いらしい。
わたしの世界とこの世界の時の軋轢を実感する。
それはきっと、それほどに今日とも昨日ともいえる今が鮮烈だったという証左なのだろう。
「お待たせ」
その鮮烈を呼び寄せた、その人が来た。
無機質な街頭は、今は気にもならない。
ただわたしを照らして、去り、照らして、去り。
明るさは見慣れないわたしを窓に写して、暗さはそんなわたしを黒く塗りつぶす。
この反復をよそに、車内は静けさに満ちていた。
だがその静けさも、長くは続かない。
「夢見ちゃん」
なに、と端的に返す。
「ミスターと何を話したの」
問いが返ってきた。
その名前に聞き覚えはなかったが、
「あのバーテンダーさんと?」
と、およそ見当がついていたがために問い返した。
「そう。何を話してたの」
肯定が返ったから、わたしは改めて答えを返す。
「大した話はしてないよ。ただニコラシカをもらっただけ」
「ニコラシカを…ね」
マンハッタンさんはわたしの言葉を反復した。
途端、大きくため息をついたかと思えば、
「好かれてるのねぇ、あいつから」
と、思いもよらない言葉が出てきた。
「好か…れてるの?」
「そうよ。だってあの無愛想さしかないあいつが、わざわざそんなことするなんて意外も意外だもの」
その発言こそ意外だった。
けど、少しだけ納得もある。
あの人は言った、同じ穴の狢だと。
だとすればきっと…
「あの人、お節介なんだね」
でもなければ、その行いに意味を持ち得ないでしょう。
わからないとばかりに呆気に取られた顔をするマンハッタンさんだけど、わたしはそれを気に留めない。
狢には、狢なりの傷の舐め合い方がある。それだけの話だから。
しかしその顔はすぐに次の感情に塗り潰された。
その感情の名は〝警戒〟。
目の前には数台の車が、交差点の向こうを塞ぐように横並びになっていた。
「何あれ、警察……じゃない…?」
車が右折する。いや、
「そう、そうくるのね…」
だが逃げるようにして走る先にもまた、同じような車の壁が現れた。
「お出迎えってわけ?ご丁寧だこと!」
仰々しく並ぶ黒塗りの壁は、異常を物静かに語るには雄弁すぎる。
またも避ける…否、同じように〝避けさせられる〟。
「ねえ!一体何なのあいつら!」
「さあ…けど、厄介ごとには間違いなさそうね」
汗を伝せるその顔には、余裕と焦燥が混在していた。
奴らの、相手の術中にあることは恐らく濃厚。だがしかし、今はそれに従う以外に、字義通り道がない。
迷路を潜り抜けるように、しかし誘導されるようにハンドルを切らされる。
やがて抜けた先を見て、
「しまっ…!」
初めてマンハッタンさんは、明確に焦りを表に出した。
急ハンドルで目の前のそれを回避する。
出た先は、埠頭。潮風の舞い込む行き止まり。
「やられた!確かにここなら隠れられない…!」
だがそれでも、マンハッタンさんはアクセルを止めない。止めたら〝詰み〟だと、本能と経験が言っているのだろう。
それを示すように、後方から黒い影が迫る。
「あいつら、さっきの…!」
「しつっこい!嫌われるわよ!」
埠頭を横に、赤と黒が疾駆する。
赤い薔薇を捕らえるために、黒の機体が猛追する。
捕らわれずとも振り切れず、逃さずとも届かず、拮抗する追走と逃走が夜を疾走する。
しかし、これは速さを比べる戦いではない。
〝狩り〟なのだ。
眼前に現れる、夜を割く白い光。
無機質で、無表情で、無感情な白は、夜より冷たい黒の躰から打ち出されていた。
「―――――――――――!」
視界が潰れる。
轟音に飛び込んだ以外に、何もわからない。
いや、それは嘘だ。轟音に飛び込んだことがわかっているなら、自分がまだ生きていることも必然なのだから。
世界が揺れる。体が振り回される。
わたしの生が、まどろんでいく。
「………」
マンハッタンさんが何かを言っている。
わたしが何かに引かれる。
糸のようだ。わたしはさしずめ人形か。
だとすればお似合いだ。
わたしは所詮、できそこないの傀儡に過ぎないのだから…
「夢美ちゃん!」
名を呼ばれて目を覚ます。
そうだ、わたしは今どうなっている。
辺りは暗くてよくわからないが、恐らく廃工場か廃倉庫のような何かだろう。天井と、壁までの距離を見るに、大きさはそれなりか。
今わたしは物陰に隠れているような状態だ。右側には高く積み上がった箱やら何やら。
目の前にはマンハッタンさんがいた。不安そうな顔だった。けどわたしの意識の覚醒を察すると共に、安堵の顔に移り変わった。
「よかった…」
言葉を漏らすマンハッタンさん。
だがわたしは、その安堵に添うことはなかった。
疑問が勝った。わたしたちは車に乗っていたはず。なのに今はその車は見えない。
いや、見えた。よく目を凝らせば、光を失いフロントを凹ませた赤い車が、マンハッタンさんの後ろにあった。
なるほど。この状況、相当にまずいと言える。
記憶がよみがえってきて、何が起こったかが理解できてきた。
あの前から突如現れた黒い車を避けようとして、急ハンドルでこの建物内に突っ込んだ。
荷物群に飛び込んだ程度で済みはしたが、行き止まりには変わりない。
「大丈夫?歩ける?」
言われて、わたしは首肯して、自身の体を確認する。
飛び込んだ衝撃でぶつけたのか、痛むところはあるけど、動けないほどではない。
「マンハッタンさん、今って…」
「そこにいるんだね、葛城の娘」
知らない声だった。
男の人の声。威圧的で、けどどこか歓喜を孕んだ声。
マンハッタンさんは顔を歪め、その目を声に向けた。
「いるならば出てくるがいい。まあ、いることが判明しているのだから、出てくる以外の選択肢などないのだがね」
まるで歌劇に酔いしれているような口振りでわたしを煽る。
だが、わたしはその煽動には乗らない。乗って痛い目を見ることは火を見るより明らかだからだ。
相手のことなど何もわからぬまま、ただ一つ理解できたそれには、確信を持つことができた。
〝彼は敵だ〟。
「夢美ちゃん」
わたしの名を呼ぶ。
その視線は、外の敵に向けられたままに。
「私がなんとかする。だからここから動かないで」
その手を一度握り込んで、敵を臨んだ。
背に覚悟を滲ませ、対峙する。
「ん…?」
マンハッタンさんが突如足を止めた。
いや、止められた。
その手を掴む人がいたから。
わたしでさえ知らない間に、縋るように掴むわたしの手があったから。
「あ…」
違う。頭が白くなる。
その空白に、見苦しい言い訳が塗りたくられる。
邪魔したいわけじゃない。
だが、その覚悟に水を差してしまった。
「ちが、ごめ…な…さ…」
声が震える。
裏腹に、手は放せず。
ただ無意味な声を、口からこぼすしかなかった。
マンハッタンさんがわたしの手を取り直して、向き直った。
「えっ」
膝をついて、スカートの中の腿辺りに手を入れた。
何かを抜き取って、取り直したわたしの手に置く。
手にあったものは、リップ。
ブラックのケースに、シルバーのブランドロゴの意匠が施された、いかにも高そうなもの。
「お守りよ」
わたしの指を畳む。
リップの感触が、より鮮明になっていく。
「大丈夫よ。こんなの、これまで何度も潜り抜けてきたもの」
マンハッタンさんは、わたしの手を両手で包む。
細く綺麗な指で優しく包み込まれているというのに、不思議と力強く感じる。
「待っててね」
マンハッタンさんは、そう言って微笑んだ。
わたしの、そして自分自身の不安をかき消すように。
手から指が解けていく。
立ち上がって、わたしをその背にする。
滲む覚悟は変わらず、むしろより強く。
そしてブロードウェイを歩くように、赤いドレスのその人は、戦場に躍り出た。
顔の見えなくなるその時まで、その顔は笑っていた。
♡
既にミスターには連絡済み。
できる女は仕事が早いの。
あとはあいつが来るまで、ここで待つ。
だからこそ、それを悟られぬよう、なによりあの子を不安にしないよう、私は堂々とこの窮地に降り立つの。
「ハァイ、待たせたわね」
気さくに挨拶を贈る。
ローヒールを小気味よく響かせて、彼に笑って、そして嗤って言った。
「やっぱりあなただったのね、
シャッターの開いた向こう側に、逆光を侍らせて男が立っている。
グレースーツに白のシャツ、そして黒いネクタイ。その色でなければ、今からでも式場に行けそうな出立ちだ。
金の髪を綺麗にセンターで分けた彼は、私の挨拶を無碍にするように睨んでいる。
「
「君じゃないんだよ、マンハッタン。僕が用があるのは」
私は肩をすくめて言う。
「あら残念。けど私もあなたに用がないの。どいてくださる?」
舌打ちで返答された。
さすがに腹が立つ。けど、それを表に出さないのが真のレディ。
「ならなぜ、あの子にそんなに執着するのかしら?」
「君の知ることじゃない」
彼はそう言いながら右手を挙げた。
それが合図であることは、誰の目から見ても明らかだった。
刹那、見える2つの黒い影。
右手にハンドガンを携えた彼らは、プログラムされた機械のようにしたたかに、死の表情を携えて私を狙う。
向けられた銃口に、私を刈り取る静かな殺意を込めて、容赦などなく引き金を引く。
だが惜しい。全て見えている。
狙いは頭。ならば首を傾ければ問題ない。
二つの弾頭をわずかな所作のみで躱す。
ただのチンピラなら驚くところだろうが、さすがは吾郷会、動揺もなく二射目へと移行する。
その練度に敬意を表しよう。並々ならぬ統率に喝采を贈ろう。
故に、私も加減なく相手する。
○
少女は二度息を呑んだ。
一度目はマンハッタンが撃たれた時。
死んだ。葛城夢美は刹那の間に直感した。
しかしそれが一瞬の杞憂だったことを、二度目が突き付ける。
薔薇は炎の如く揺らめいた。
焔に鉛玉など到底意味を持つはずなどない。遍く弾頭は形持たぬ火炎を通り抜けていく。
しかし炎は意志を持つ。自我のある火焔なれば。
その肢体は熱風となって黒い影を襲い、
女豹の如く獲物を狩る――――――
鈍い音がした。
男の顎を女の膝が穿った音。
衝撃を逃さぬよう左手で捕らえた頭骨は、その細い指をひしゃぐほどの力が込められていた。
そのまま男の頭を叩きつけるようにして伏せたマンハッタンは、腿のホルスターより銀の得物を抜く。
得物は意思を持つが如く、その砲身の先でもう一人を睨んだ。
その口から咆哮が轟いた時、鮮血の花が男の右肩を彩る。
一瞬にして二人の制圧を果たした女は、花びらを散らす男の手から拳銃を取り上げながら、おもむろに立ち上がる。
「…さすが、と言うべきか」
頬に汗を伝わせながら、北村圭吾は口の半分を釣り上げて言った。
夜の暗い光を一身に受ける彼を、その光すら受けられ得ぬマンハッタンは視線で突き刺し、煽るように笑う。
「称賛なら素直に受け取るわ。油断と呼ぶなら、
北村圭吾は鼻で笑い、右手を挙げて軽く払う。
「そうこなくちゃね」
黒の尖兵たちがマンハッタンの前に現れる。手には、命を奪うためだけに作られた火花を携えて。
薔薇は惑うでもなく、焦るでもなく、恐るでもなく、ただ不敵に笑う。
「来なさい、無粋な男たち。私を満足させられる自信はあるかしら。お前たちの目の前にいるのは、その身を焦がす紅蓮の薔薇」
高らかに謳って、マンハッタンは煽情するように挑発的に左手を差し伸べる。
「さあ、私と情熱のタンゴを踊りましょう?」
◇
鉄火場という言葉を聞いたことがある。
それは映画や小説の中だけの話だと思っていた。
否、そんなことはなかった。その幻想のことごとくはとうに砕かれた。
赤いドレスが舞って、人が地に倒れる。
ローヒールの靴音の後に、乾いた轟音が鳴り響く。
私の目の前に広がる光景はまさしく、鉄火場と呼ばれるそれに相違なかった。
最後の黒の人間が倒れた時、その砲門は唯一残る白のスーツの男に向けられる。
だがその手から火花が弾けた。
手元にあった銀の銃が弾け飛び、地を滑る。
「降伏の意思は?」
キタムラと呼ばれたその人は、煙を吐く銃を向けたまま低く問う。
「あると思う?」
「あって欲しかったものだよ」
言葉を吐き切るが早いか、引き金が引かれる。
当たれば死、致命傷も避けられないそれを、マンハッタンさんはことごとく躱す。
その姿は風にゆらめく火が如く。或いは風に舞う花弁のように。
最後に、その紅は空き箱の物陰に身を潜めた。
「ねえ!ひとつよろしいかしら?」
マンハッタンさんの声。切れた息の間であの人は声をあげた。
「どうしてそんなにもあの子にご執心なのよ?チンピラが1人の女の子を追いかけ回すなんて、みっともないわよ」
そう問いかけながら、マンハッタンさんはわたしに言葉なく指示をした。
〝あそこにある裏口から外に出て〟。
確かに目と指をもって、わたしに訴える。
「随分見下げてくれるものだな」
男の声を背に、私は音を立てないよう、目に留まらないよう、身を屈めながら向かう。
「あらまあ、違ったの?これはごめんなさい、あんまりにも品がないものだから間違えてしまったわ」
「好き放題言ってくれる。だがいいだろう。せっかくだから答えてやる。取引の材料なのだよ、その娘は」
取引の材料。
確かにあの男はそう言った。
その言葉の意味を考察し始めようとする暇もなく、男は答えを語る。
「僕ら吾郷会は葛城慶子にシノギの一部を上納する代わりに、その立ち位置を盤石なものとしていた。議員の後ろ盾を得ながら商売ができる、いい話だろ?」
立ち止まってしまった。
初めて聞く話だった。
思わず声が溢れそうになる。
自分の母親が、あんな人たちと関わりを持っていただなんて、思いもよらなかった。
「だが突如、葛城慶子は我々との縁を切る決断に踏み切った。メディア露出による好感度獲得には、僕らのような後ろ髪を引く組織は邪魔だったんだろうな。いわば脱臭、クリーンさの獲得、全く自分勝手な話だが、理解はできる。
だがそれはそれだ。葛城慶子の後ろ盾がなくなれば、僕らは安定した立ち位置ではいられなくなってしまう。故にその娘を材料にして、改めて以前と同等の関係性を約束させる」
となると、つまりわたしは…
「つまり、夢美ちゃんは人質ってこと?」
「言い方を悪くすればな」
そうか。
ずっとわかっていた事実を、いま一度再認識させられた。
ここまでの全ては、マンハッタンさんをこんなことにしてしまったのは、全て、全てわたしが、あの人の娘だったから。
ここでもわたしは、他人に迷惑をかけている。
ダメな人だ。
わたしが全ての原因だ。
なら、マンハッタンさんがこれ以上傷つかないために、わたしは…
「ふざけてるわね。あなたの理論は、全てふざけてる」
力強い否定だった。
「何…?」
「あなたは葛城慶子を自分勝手だと言ったわね。けれど気づいてる?夢美ちゃんを巻き込んだあなたも、十分自分勝手なのよ。あの子はあの子、大人の身勝手なんかで振り回すだなんて、言語道断!」
毅然とマンハッタンさんは反論する。
その言葉に後押しされるように、わたしは一歩を改めて踏み出す。
そうだ、マンハッタンさんはわたしのためにここまで身を砕いてくれた。
そんなあの人の奮戦に報いるために、わたしは無事でいなければ、生き延びなければならない。
すべては、あの人のために…
◇
音を立てないように戸を開ける。
ほんの少し前にも空の下にいたのに、随分長らくぶりに感じる。
いや、感傷に浸っている場合じゃない。気を引き締め直す。
けれどここからどうすれば?
外に出ろと言われたから外に出た。けどそれ以上はどうしたらよいのか、何もわからない。
下手をすればまたあの人たちに見つかるかもしれない。
けど、ここに留まっているのもまた、危険かもしれない。
「ミス.カツラギ」
逡巡の最中、声をかけられ身を震わす。
だがその呼び名は、危機を纏うそれではない。
「バーテンダー、さん…」
「ミズ.マンハッタンの用命により馳せ参じました。状況は承知済みです。行きましょう」
バーテンダーさんはわたしの手を掴んで引く。あまりの強さに少しよろけてしまう。
♡
眼前に迫る北村。
「好き勝手言ってくれたがな、これもビジネスだ!」
鎌のように振るわれる足を、すんだのところで躱す。そのまま手にある拳銃に、今度は私の足を振るう。
虚をついたことが功を奏し、蹴り飛ばすことには成功した。
だが、このまま近くにいることはできない。私は即座に飛び退いて、彼と距離を取る。
私は私に絶対の自信を持っている。それはもう、この世の人間が向ける信頼の中で、頂点に立てるほどに。
けれど過ぎた自信は持っていない。それは慢心に他ならないからだ。
私はこの男に膂力で勝つことはできない。それは確信に等しい。
だからつかず離れず、あくまで注意は私に向けさせたまま、真っ向勝負だけを回避する。
しかしそれはこちらの最善。向こうにとっては御構い無し。
白の男は私に猛然と迫ってくる。
その肉弾をもって繰り出される打撃。その全てを見切りいなす。
「ビジネス…?人の命を弄んで自分のために消費する、それの何がビジネスよ!」
これは銃撃と変わらない。喰らうことは許されない。
この体に筋肉の打ち出す衝撃は耐えきれない。
「知ったことではないな!僕たちが生きるためだ!」
三日月のように、美しい上段蹴り。
けれど見惚れることはない。仰反って躱して、そのまま後転の勢いで後退し、着地とともに左に跳んで、無力化した男の手から黒の得物を拾い上げる。
気づけば月明かりを後ろに、私はその照準を北村に合わせる。
狙うは顔面。
ここまでのやつらは、あの子に余計な瑕を与えないために全員生かしたまま無力化するに留めておいた。血飛沫の刺激だけは許してほしいけど。
けれと経過時間から考えて、もう夢美ちゃんは逃げられているはず。
ゆえにもはや遠慮することなどない。お前にだけは死の花束を贈ってやる。
◇
「バーテンダーさん、一体どこへ…?」
倉庫の間を縫うようにして、わたしはバーテンダーさんに連れられていた。
「代わりの車です」
「代わりの、車…?」
言われた言葉を反復してしまった。
その真意を聞き出すために。
そして、自分の耳を疑ったがために。
「はい。貴女を護送するためのミズ.マンハッタンの車が使えなくなったために、代わりの車を用意しました。それで貴女を目的のポイントまで送ります」
代わりの車で、わたしを?
それの意味するところを理解したわたしは、掴む手を無理矢理に振り解いた。
「ミス.カツラギ!?何の真似です!?」
「行くって…マンハッタンさんはどうするの…」
手に力が入る。
先走る感情を、必死に抑える。
「あの人なら問題ありません。すぐに追いつきます」
「でも、あの人はわたしのために戦ってる。わたしだけ逃げ出すなんてできない」
「彼女が戦っているのは、貴女を無事に逃がすためです。貴女がそれを放棄することは、ミズ.マンハッタンの頑張りを、祈りを無碍にすることと同義です!」
正しい。
理解している。
この人の言ってることはあまりにも正しい。もしかすれば暴力的なほどに真っ当で、攻撃的なほどに正当だ。
けど、理解できても、納得できない。
わたしのためにあんなに傷ついている人をみすみす置いていくだなんてこと、わたしには耐え難い。
たとえそれがあの人の祈りを、願いを無碍にするとしても。
「それでも、わたしは…!」
〝ーーー貴女は、どうしたいですか?〟
「わたしは!あの人と一緒にいきたい!」
わたしは踵を返して駆け出した。
わたしはきっと、悪い子だ。
言うことを聞けない悪い子だ。
他人の期待を裏切る悪い子だ。
けど、それでもいい。
それで誰かを助けられるなら、わたしはどれだけでも悪い子になってやる。
わたしがいけない子になることで、わたしの大切な人を守れるなら。
わたしはとことんまで、堕ちてやる。
♡
私の手から弾ける火花。しかしそれは私の意図したものではなかった。
いや、それは火ではない。真っ赤な花びら。私の右手首から花を咲かす、赤黒い鮮血。
「っづ…!」
銃が手から地に落ちる。
反射的に傷口を手で押さえながら、即座に状況を確認する。それが飛んできたのは私の右から。
見れば、震える手で私を狙う、うつ伏せの男。
ぬかった。足りなかった。
だが悔いる一瞬すら惜しい。
まだ綺麗な左手で落ちた黒の金属塊を拾って、乱暴に投げつける。
鈍い音がして、男は倒れ込んだ。鼻が折れただろうが、それで済ませたことに感謝して欲しい。
だがそれが一瞬の隙となって、私の命に鎌首をもたげた。
「がっ…!?」
捕まった。
へし折らんばかりの力で、北村は私の首を締め上げてくる。
呼吸がうまくできない。意識に靄がかかりかける。
「終わりだ、マンハッタン。これで詰みだ」
なるほど、確かにそれはそうかもしれない。この男の手を振り解けるほどの力は、私の体のどこにもない。
だが、それが諦める理由にはならない。
手に指をかけ、足を振り回す。
なんと儚い抵抗だろう。だが、それでもやらないよりはマシだ。
「そこまで足掻くか。一体なぜだ、マンハッタン。お前はなぜそこまであの娘のために命を尽くす」
なぜ?なぜですって?
「そんなの…決まってるじゃない…」
彼の問いを嘲笑して、私は答える。
「あの子が…
「何…?」
彼の戸惑いを一笑に付す。
口元を挑発的に吊り上げて、私は続ける。
理解は不要、最初からお前のような下賎には求めていない。
ただ叩きつけるのみ。
「女ってのはね、誰もが平等に美しく、可愛く、綺麗に生きる権利を持っている…そして自分だけの強さを、気高さを持って、自分だけの道を歩く権利があるの…!」
酸素も上手く回らない体で力を振り絞り、脚を持ち上げる。
首の血管がはち切れそうだが、それを気にしてなどいられるものか。
「女の子はそんな女になるまでの成長過程…!いずれ輝く、星の雛!」
叫ぶと共に渾身の力で、北村の胸を両足で蹴り抜く。
手から放された全身は空中に投げ出され、重力に叩き落とされる。
地に手をつき身を起こすも、急激に再びもたらされる空気に、肺は驚愕の拒絶をする。
だが、それでも私は断続する咳の合間で、彼を睨んで説教を続ける。
「あの子もまたその一人なのよ…けどまだ、今はまだそれに気づいていないだけ。いつかあの子も、自らの足で立ち、自分だけの美しさを胸に、己の道を歩んでいける…私はそれを確信している!」
力の入りきらない脚で地を踏みしめる。
再び、三度倒れそうになる身体を、脚に鞭打ち立ち上がらせる。
「そのためなら…その未来のためなら、私はどんなになっても戦える…!この命だってかけられる!」
眼前の敵を睨み、そしてあの子の…あの輝きを内包するあの子の想いを、その先に見て、
「いいことを教えてあげるわ。嘘はジュエリー、秘密はドレス。そして…」
私は不敵に笑った。
「覚悟というヒールを履いて、女は美しく笑うのよ」
だからこそ、私はここで折れてはならない。
「来なさい。私はマンハッタン。宵闇に咲く真紅の薔薇」
今、この身を燃やせ。
「お前に捧げられる最期の花にして、あの子を祝福する情熱の一輪よ」
あの子のために、全霊を尽くせ。
「そうか、ならば散れ」
その声は低く、狩りの直前の唸り声のように。
刹那の間に、猛進してくる、白の男。
最終局面といったところか。いいだろう。
差し違えてでも、あの子を逃がす。
…はずだった。
◇
気づけば駆け出していた。
わたしの未来を信じる人のために。
わたしの未来に期待する人のために。
わたしを、心から想ってくれる人のために。
その純粋な祈りに敬意を。
その純白な願いに感謝を。
ゆえに、わたしはわたしの心のままに動き出して、今。
小さな覚悟とともに、あの人のもとへ駆けていく。
「やめろぉぉおお!!」
叫びながら、キタムラのところまで走る。
愚かしい行為だろうが、それでもいい。
そのまま最速で、最短で駆けつける…!
「葛城の娘!!」
白い男はわたしに標的を変えた。
マンハッタンさんはあくまでわたしを捕えるまでの障壁だ。当然の行為だろう。
だが好都合。
わたしを見ろ。
わたしの方に注意しろ。
わたしはここにいるのだから。
その剛腕を、わたしに荒々しく突き出す。
わたしを捕えるための雄々しい右手。
…怖い。
恐ろしい。
目の前の相手に恐怖してしまう。
けど、ここで今更止まることなどできない。
わたしの恐れが誰かを殺すなら、わたしはこの恐れを殺してみせる。
眼前までその手が迫った一瞬。
肢体その全ての力を使い、
これでわたしは、彼の眼前から一瞬で消える。
「なっ…?」
困惑の隙を許すな。
やつの脚に腕を絡ませて、力の限りに引く。
けど強い。倒せない。
流石に力が足りない。
「この…!いい加減に…!」
再びわたしを捕えようと、両の手が迫る。
この状況では逃れようがない。精一杯抵抗することが関の山だろう。
ならせめて、そうしてやる。
しかしわたしに手が触れる、その寸前の刹那の間に、真紅の薔薇は宙を舞う。
燃える体と裏腹に、冷たい目をもって、男を見据えて。
そしてその足は紅蓮の弾丸と化して体に装填され、
全力の火炎をもって、男の顎を撃ち抜いた。
「Adieu」
支えを失ったように揺れて、白いスーツの男は地に伏す。
すべて終わった。闇夜の戦いは、今この瞬間をもって終結した。
わたしの心臓はうるさいほどに鼓動していた。
脈打つ振動が体全体を震わせているようだった。
「夢美ちゃん」
わたしの名を呼ぶ、あの人の声。
わたしは立ち上がり、彼女の方に向き直る。
「マンハッタンさん」
「夢美ちゃん。どうして戻ってきたの」
その声音は、純粋な心配に満ちていた。
「あなたが心配だったから」
「でも私は…!」
「わかってる。けど、わたしがそうしたかったの」
真っ直ぐにマンハッタンを見て応える。
わたしの言葉に、マンハッタンさんは続けようとした言葉と共に飲み込んだ。
そして一瞬顔を伏せて、また顔を上げる。
「あなたのやったことは、本当に危ないこと。本来ならダメなことよ」
険しく諌められ、目を伏せる。
けどすぐに、わたしの身体を包み込む熱があった。
マンハッタンさんの体の温かさが、わたしにじわりと染み込む。
「でも、ありがとう。助かったわ」
優しくささやく、マンハッタンさんの声。
その感謝の言葉は、きっとこれまでの人生で初めてもらった、肯定の言葉だった。
わたしを認めてくれる、最初の言葉だった。
心がほのかに暖かくなる。雪解けに注ぐ日のような、柔らかな暖かさ。
そうだ、これは喜びだ。
わたしの行いをよしとしてくれた。その事実がたまらなく嬉しい。
わたしの考えを是としてくれた。その事実がなによりも嬉しい。
わたしの選択を認めてくれたことに、心から歓喜しているんだ。
「ちょ、ねえ、夢美ちゃん!?」
驚きと戸惑いのマンハッタンさんの声。
「大丈夫!?痛かった!?」
今度はわたしが戸惑う。
だが気づく。頬を伝うものの存在に。
驚いた。こんな時でも涙が出るなんて、お話の中だけだと思っていた。
「ううん、大丈夫。ただ、嬉しくって…」
「そう…よかったわ」
安堵するマンハッタンさん。
解ける糸のように、頬が緩んでいた。
「マンハッタンさんこそ、その手…」
「ああ、いつものことよ。傷跡残さないように治さなきゃいけないのがめんどっちいけど」
あからさまな重傷を、あっけらかんと笑い飛ばす。
強い人だと思った。心配だとは思うが、けど、ここで下手な深慮もこの人には煩わしいだろう。
「そっか。無理しないでね」
マンハッタンさんは笑って返した。本当に、どこまでも強い人だ。
わたしはふと思い立って、受け取ったリップをポケットから出す。
「ねえ、塗ってみてもいい?」
「いいけど、夢美ちゃんには少し赤みが強いかもよ?」
「いいの」
言って、わたしは車のサイドミラーを覗き込む。角度的に少し見にくいけど、そこは我慢して。
記憶を辿りながら、見様見真似で塗ってみる。
そして確か、唇同士を何度か合わせるんだったっけか。
できあがれば、わたしの唇は鮮やかに赤く彩られていた。
「どう?」
マンハッタンさんの方に向き直る。見やすいように、少し唇を突き出して。
マンハッタンさんはまじまじと見て、そして微笑んだ。
「似合ってるわ。綺麗な赤色」
「本当?」
からかうような声音で聞き直す。
今の微笑みが苦笑いのように見えたからだ。
マンハッタンさんはまた改めて
「本当よ!疑ってるの?」
だなんて笑う。本心ではあるみたい。まあ、嘘でも全然いいんだけど。
ひとしきり笑い合って、わたしは改めてマンハッタンさんを見つめる。
「ねえ、マンハッタンさん」
マンハッタンさんもわたしのそれに気づいて、真剣な眼差しでわたしに向き直った。
「なにかしら?」
続きを待つ、マンハッタンさんの瞳。
わたしは一呼吸おいて、切り出す。
「わたしさ…」
◇
埠頭。
潮風の香る、夜明けの下。
さざなみはささやかに、静けさに乗る。
「遅かったわね。しかもこんなところに呼び出して」
「失礼。トラブっちゃったものですから」
マンハッタンさんの返答を、不機嫌そうに鼻で笑う眼鏡の女性は、誰あろうわたしの母だ。
「まあいいです。娘を発見していただけたのですから」
言って、お母さんはアタッシュケースをマンハッタンさんに渡す。
マンハッタンさんは中身を確認して、
「ありがとうございます。これにて依頼完了ということで」
と、淡々と口にした。
そして、わたしをお母さんのもとへ促す。
「いらっしゃい、夢美」
促されるまま、わたしはお母さんの前まで、ゆっくりと歩いていく。
「全く、よく手を煩わせてくれたものね。っていうかあなた…そんな口紅までつけて、いいご身分だこと」
つらつらと流れるように嫌味を口にする。
いつもと変わらない、わたしへの精神攻撃。
ひとしきりそれを終えると、お母さんは冷たく踵を返す。
その背中は言葉なく、追随の命令を下していた。
だが数歩歩いたところで、またわたしの方を見た。
「…夢美?」
わたしは
「夢美、何してるの。行くわよ」
首を横に振る。
それは明確な反抗の印。
「あなた…そんな子どもみたいな…行くわよ!」
「行きません」
わたしの否定に、お母さんは面食らったような顔をした。
当然だ。わたしがいうことを聞かないことなんて、この人は考えてすらないことだろうから。
「…夢美…!なにばかなこと言ってるのよ!そんなわがまま言って…!自分の立場をわかって…」
瞬間、乾いた音がした。
言葉を遮るように、わたしが母の頬を平手で打った、その音だ。
明確な反旗の音がこの海に響き渡った。
「わたしは…」
震える手を握りしめて、わたしは自分の意志を突きつける。
「わたしはあなたの所有物じゃない。わたしはあなたのために生きてるんじゃない。わたしは、わたしのために生きてる」
お母さんは困惑の表情を浮かべる。
そして怒りとも戸惑いとも混乱ともいえぬ、複雑怪奇な心情を表出させた顔でわたしに迫る。
「何を言っているの、夢美…」
「違う」
毅然と、力強くその名を否定する。
そして青の眼差しを真っ直ぐに向ける。
「わたしは葛城夢美じゃない。それはもう捨てた」
声に決意を満ち満ちさせ、顔には覚悟を灯す。
朝焼けを全身に受けながら、それ以上の輝きを纏えるように。
「
わたしは唇のルージュを艶めかせて告げる。
「わたしの名前は、ニコラシカよ」
踵を返す。
そしてバーテンダーさんの車のドアに手をかけた。
それは母への、明確な決別の宣言であった。
「…そんな…!許さない!許せない!ねえ、あんた!これは明確な契約違反!依頼の反故ではないの!?」
母が金切り声のような声で叫んで、感情を発露する。
けどマンハッタンさんは余裕を含んだ笑みで、いたって平静に返した。
「今回の依頼は〝娘を見つけること〟。それは既に完了してます。その後のことまでは仕事の範囲にはありませんので」
その後母はまた何か喚いていたけど、わたしにとっては知らないこと。
二人で車に乗り込んで、バーテンダーさんのアクセルと共に、颯爽と走り去っていく。
「っはぁーー!言ってやった!」
車の中、わたしはそれはそれは爽快な気分だった。
「あなた…流石に容赦なさすぎなんじゃないの?」
隣に座るマンハッタンさんは、そう苦笑いをした。
「いいの、あれで。もう知ったこっちゃないし」
それよりさ、と話を転換して、
「帰ったらもっと似合うリップ、教えてくれる?」
と尋ねるとマンハッタンさんはため息をついて、そして答える。
「いいわよ。リップだけじゃなく、メイク全部教えてあげる」
その答えにわたしは喜びの笑みを浮かべた。
笑顔の満ちる車は、太陽の下を軽快に駆けていく。
つきものが取れる、とはこんな感覚だろうか。心がとても晴れやかだ。
親、家族、学校。色んなものを捨て去ってしまった。真っ当な人間ではなくなってしまった。
きっと周りから見たら、馬鹿に見えるかもしれない。
軽率と呆れられてしまうかもしれない。
愚かと笑われるかもしれない。
けどそれでもいい。
わたしがわたしらしく生きるために、他ならぬ自分自身で選んだ道なのだから。
自分だけの選択なのだから。
だからわたしは
誰に何を言われようと構わない。
これがわたしなんだと、どこまでも声高に叫んでやる。
◇
静かな空、そして地に満ちる騒がしい光。
夜とはこの二つが共存する、不思議な時間。
「ほぉーら、行くわよニコ」
「ちょ、待ってってば」
マンハッタンさんに急かされて、ラペルの縁を青のラインで彩ったジャケットのポケットに、慌てながら持ち物を入れる。
「ってか、いっつも言ってるけどニコって呼ばないでよ!」
「いいじゃない。可愛いんだから」
よくない、と声を張り上げる。
マンハッタンさんは何食わぬ顔で、赤のネイルが映える指で車のキーを回している。
「行ってらっしゃいませ、ミズ.マンハッタン。そして…」
感情の見えない声で、けれど優しく、ミスターさんは送り出す言葉を紡いだ。
「ミス.ニコラシカ」
「はい、行ってきます!」
「ええ、行ってくるわ」
そして、わたしたち二人は飛び出した。
わたしの世界の空は高く。
わたしの世界の大地は広く。
わたしの世界の風はどこまでも遠く。
地を足で蹴って、風を我が身で切り、そして宵に広がる光の中で、
燃えるような真紅の薔薇と、
輝く未来を抱く青の花、
人知れずこの夜に、二輪の花を咲かせていく。
〜 よっこらしょういち人物紹介 〜
・マンハッタン
本作の主人公的立ち位置。薔薇が大好き。もう完全に同じ名前のあの曲に触発されてる。私の理想の女像をこれでもかというくらい反映させてるキャラで、バチクソつよつよワールドビューティーレディーをイメージしてたけど、なんかちらほらミサトさんがこんにちはしてた気がした。気のせいってことにする。
・葛城夢美
本作の主人公的立ち位置その2。殺せんせーに対する潮田渚的なポジションをイメージ。いじめられてた理由をどうするかでちょっと悩んだ。身体能力えぐないかこの子って思いながら書いてた。なんか最後のムーブが完全にロクローなのは知らないふりしといてもろて。
・ミスター
バーテンダー。丁寧な物腰のくせに言ってる内容が不遜なのすげぇ私の癖。色素薄い系も癖。中性的な顔立ちも癖。癖の塊。癖ぇぇええ。個人的に宮野ボイスだと私が嬉しい。
・葛城慶子
お母さん。見た目は想像にお任せするけど目だけは青くないからな。嫌な女をイメージして書いてたけどこいつ普通に変な奴らと繋がりあんの怖いな。
・北村圭悟
やべーやつ。最初半グレにしようと思ってたけどなんかいつの間にか任侠のもんになってた。見た目的には逆転する裁判の5番目に出てきた刑事さんみたいなのを想像してた。
・葛城お姉さんズ
見た目の説明はない。こいつらハイスペすぎ怖い。
・葛城お父さん
母親以外名前も見た目も設定されてないのかわいそう。
・黒い人たち
みんなよく頑張ったね。安らかに眠れ。
・作者
テスト近いのに現実逃避してこんなもん書いてたアホ。いつの間にか30000字超えて驚き。今回の物語というか登場人物たちの設定はかなり好きなので続編ないし流用した作品を書くかもしれない。