人知を超えた存在、ウマ娘。
時速七十キロで走るその脚と、それを支える強靭な骨格、膨大な酸素を供給する心肺機能、そして莫大なエネルギーを動かす循環器系。
果たして、彼女たちは、いったいどのような光景を見ているのだろう。
理解している。
その体の構造を、わたしは理解している。
あたまのてっぺんからつまさきに至るまで、わたしはそのすべてを頭の中に叩き込んでいる。
だが、しらない。
わたしは彼女のたちのことを知らない。
彼女たちの体の感覚を。彼女たちの走る感覚を。彼女たちの生きる感覚を。
彼女たちの、見ている景色を。
彼女たちは、一体、どのような世界を、見て、感じて、生きて。
そして、走っているのだろう。
わたしは。
知りたい。
ワアアアアアアァアアアアアアアアアア――――――――
弥生賞 中山 2000m 芝 重
「さあ、そろってスタートしました。まずは先行の、スギサーシャンが飛び出ていきます。三番手からキカイジカケも今日は先団につけました。そしてやってきましたヨコノショウユウは現在四番手」
――三月後半、開催されるこのレース、弥生賞。
GⅡレースの栄誉をつかみ取るウマ娘を見に、中山競馬場には、何万人もの観客が押し寄せ、ひしめき合っていた。
「――一気にかわしてフジキセキ、フジキセキが、一気にかわしていこうとしています――」
その名前が呼ばれた瞬間、スタジアムは沸き上がった。
その気迫に、全身が沸き立つような感覚がする。
「テラスゴーインとフジキセキ、この二人が並んで緩い流れになりました。第一コーナーを回って、テラスゴーインがわずかに先手を取ったか。それから一バ身差で三頭、ウィナースターも大外から上がっていきます――――」
十六人のウマ娘が、この2000メートルの距離を、一瞬の時間をもってかけていく。
その一瞬の時間に、人々は熱狂し、応援し、そしてウマ娘たちは全力をかけてそれに応えようと走っていく。
「――向こう正面中間に入って残り1000メートル通過。先頭はテラスゴーイン、フジキセキに半馬身のリード――フジキセキ並んできました。クビぐらいの差まで詰めていきます。第三コーナーカーブに入りました。ウィナースター三番手、そのうちから――――」
スタートから、ほんの十数秒の短い時間がたった。
しかし、そのほんの短い時間が永遠だった。
スクリーンに映るウマ娘たちの顔を見ればわかる。いったい、どれだけの距離を走ってきたのだろうか。
たった1000メートル、1000メートルだけじゃない。今まで、その1000メートルを走るために、一体どれだけの距離を走ってきたのだろう。その何倍、何十倍、何百倍、あるいはもっと。
すべてをこのレースにかけて走り、そしてそれは半分を過ぎようとしている。
「3、4コーナー中間残り600を切りました。セイショウシンプト今一気に上がって四番手から三番手、フジキセキに並ぼうという体制になりました。ウィナースターが間から、内テラスゴーインも逃げています」
――そして、終わろうとしている。
いよいよ終わろうとしている。
この瞬間に命を懸けた彼女たちの疾走が。一瞬にすべてを駆けるウマ娘たちの一戦が。
「っさあ四バが広がって四コーナーカーブに向かいました。ヨコノショウユウとキカイジカケ、さらに後方からコキダイモノミもようやく上がって来ました――――」
その時、すべてのウマ娘が、ゴールを目にする位置へとくる。
そして直感するだろう。
すべてがこの一直線で決まるのだと。
頭で思考するよりも、はるかに早く本能で、感覚で。
一気に、すべてのウマ娘が、本能を開放する。
「――四コーナーカーブ一気にピッチが上がって直線に入りました! フジキセキが先頭、フジキセキ先頭、そとからセイショウシンプト、ほかのウマ娘もあがってくる! ナンカイジャックがあがってきた! 先頭に差し切れるか――――!!」
この直線で、勝負が決まる―――――!!
ワアアアアアアァアアアアアアアアアア――――――――
最後の直線を走るウマ娘たちに、スタジアムのボルテージが最高潮に達する。
上がるウマ娘。先頭から伸びようとするウマ娘。バ群から一気に飛び出すウマ娘。
すべてのウマ娘が全力で、その目の奥底に宿る本能を開放し、今この瞬間、この直線だけ――――なにも考えぬまま、本能に、疾走する――――
ウマ娘たちの、全力の叫び声が聞こえてくる。
「ウォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
「はあああああああああああああああああ!!!」
勝つ。追い抜かす。先頭へ行く。全力で。
その目的を、ただ本能で――果たすために――――――
ただ一人だけ、そうでないウマ娘がいた。
わたしは、それを発見した。
ただひとり、わたしだけが気づいたと確信できた。
本能で走る、全力のウマ娘の中に、たった一人だけ――――
時が止まる。一瞬だけ――――世界が、その娘だけを、照らしているように見えた。
そして、その娘の行く先の、未来の軌跡もが――――
「――200を切った! しかしフジキセキ先頭! フジキセキ先頭! ナンカイジャックがあがってくるが、しかしフジキセキ! 強い強い! 一気にまた突き放した! そして今――――
ゴーーーーーーーーーールイン!!!
「ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
会場の二万人が、一斉に叫び声をあげる。
チケットが飛び、歓声が飛び、喜びが飛び、あらゆるものが飛び交った。
すべての人がこのレースのために飛び上がり、あらゆる感情を天へと打ち放つ。
「勝った! フジキセキが勝った!!」
「な! 言ったとおりだろ!! やっぱり彼女が勝つと思った! やっぱりすごいよフジキセキは!」
「すげぇ……俺もあんなふうに走ってみてぇ……!」
あらゆる感情が渦巻いた。
ひとつとして悲しいものはない。ひとつとして苦しい感情はない。
ほんとうはそうじゃないのかもしれないけど、その時のわたしは、そう確信できた。
ウマ娘のこのレースによって、こんなに人々が沸き上がり、歓喜する。
万人の感情を震わせる。
そんな素晴らしいレースを見て、わたしは―――――
『本日のご来場、ありがとうございました――――みなさんのまたのご来場を、心よりおまちしております――――――』
涼しい風の吹く、ほとんどだれもいなくなった競バ場の中で――
わたしは金属のてすりを、ぎゅっと握り締めていた。
そのレースが、頭に焼き付いてずっとはなれなかった。
なんどもなんども。
頭によみがえらせるように。
最後の直線、まるで時がとまったかのような感覚から、一気に駆け抜けた。
あのウマ娘を思い出して。
あのすべてを一瞬にしてさらうような走りを。
眼下で、四人のウマ娘たちがいた。
そのうちの一人が、きゅうに駆けだす。
さっきまで、ずっと、わたしと同じように、ターフの上を見ていた。あの走りを何度も反芻するように。
わたしも駆けだした。
いてもたってもいられなかった。
わたしは人間だ。ウマ娘じゃない。ウマ娘みたいには走れない。
ウマ娘みたいに走る本能もなければ、人とも競争できるほどの脚すらない。
でも。だから。それだから、きっと。
階段を駆け上がり、ロビーに入って、ほとんどだれもいない広い会場を駆けぬける。
それだけで、わたしは息を切らす。肺が痛くて、心臓が暴れて、のどが熱くなる。
ウマ娘なら、眉一つ動かさないだろう。
でも、突き動かされたんだ。走らずにはいられなかった。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ!」
たった百メートルも走っていないのに、この体は止まってくれと懇願してくる。
でも、止まることはできなかった。
脚が重い。腕も重い。結んだ髪の毛は乱れてきて、視界がぼんやりとしてきた。
でも、だけど。
これが。
ああ―――――――――――楽しい――――――