「そっ、そうかっ! 走る気になってくれたかっ!」
戸惑いながらも、理事長はソファから立ち上がって言った。
「これで作戦の実験段階はうまく行ったとして――――ではっ、これをっ!」
ばっ、と理事長は、懐から何かの書類を取り出し、机の上に広げた。
「こ、これは?」
「出走登録書だっ!」
「えっ!?」
しゅ、出走登録書!?
「えっ?」
理事長と互いに見つめあう時間ができた。
気まずくたづなさんの方を見ると、再び額に手を当てて、困った顔をしていた。
たぶん「また先走ってる……」と思っていることだろう。
「いや、べつに走りたいとは言いましたけど、出走とかそこまでは……ていうかさすがに……」
あわてて、理事長の誤解を解こうと、口を動かす。
「そ、そう、なのか……」
理事長の眉が、どんどんと、危険な角度に曲がっていった。
「っ……!」
ず、ずるすぎるでしょ、この
いつも大人顔負けの有能さと豪胆さをみせつけるくせに、こういう時は、年相応の顔を見せてくる……!
「謝罪……すまない、また早とちりをしてしまった……。君の走る気持ちを邪魔してしまったな」
「い、いえっ、一応、もらっておきますっ!」
書類を回収しようとした理事長の手より先に手を動かして、机の上の出走登録書を取る。
「ほ、本当か……!?」
「か、考えておきますっ……!」
とっさに、その場での方便を口にしてしまった。
「すまない、気をつかわせてしまったな、理事長という立場にあろう者が……」
「い、いえっ、つかってなんかいませんっ、大丈夫です!」
うっ、良心が痛む……。
でも、この目の前の
「いや、でも……」
「いえっ、もらっておきますっ! し、しつれいしますっ!」
これ以上この場にいるとボロが出る!
くるりと踵を返し、理事長室の扉を開き、
「失礼しました!」
と礼をして、廊下へと駆けて行った。もちろん危ないので、駆け足程度にとどめる。
「あっちょ待って理沙っ! しつれいしましたー!」
後ろから友人根岸もついて来た。
「うえっ!? はやっ!? ちょっ、さすがウマ娘っ!!」
「はぁーっ、ぜぇーっ、はぁーっ、あぁぁ……理沙っ、ちょっとはやすぎ……」
廊下の突き当りで足を止め、友人根岸は膝に手をついて、肩で息をしていた。
「えっ……理沙、わたしに追いつけなかったの……?」
「やっぱりほんとにウマ娘になったみたいだね……はあ、ぜぇ……」
必死だったし一瞬だったから、まったく自分の速度を覚えていなかった。
「あれ……」
わたしは自分の胸に手を当てた。
そういえば、わたし、今……廊下の端から端まで走ってきたというのに、ほとんどといっていいほど、息が切れていない。
前回廊下を走った時は、ほんのそれだけで、階段を降りれなくなるほど、体が疲弊したというのに。
息は穏やかで、心臓もほとんど跳ねていない。
「はぁ、はぁ……全力疾走したのはいつぶりかな……。やっぱウマ娘、駆け足だけで……」
ふう、と友人根岸は背筋を反らしてため息をついた。
さすが友人根岸。全力疾走したとしても、それでほとんど、呼吸は整ったようだ。
「はぁ……秋川理事長との話、途中で逃げてきてもよかったの?」
「あっ!」
必死すぎたせいか、思いっきり話を打ち切って、走ってきてしまった。考えてみれば、もんのすごく失礼だった。
「……まいっか」
「え、いいの!?」
「だって、たづなさん追ってきてないし。いつも何かあったら、たづなさんが来て話し伝えてくれるでしょ。だから、大丈夫なんじゃないの?」
「そ、そうなんだ……」
まあ、彼女が言うならそうなんだろう。
「よっし、じゃあ、トレーナー業務行こうか」
友人根岸が素早く切り替える。この姿勢、いつもうらやましい。
「結局昨日も休んじゃったし、やることはたくさんあるよ」
「……ご、ごめん」
昨日は、おなか一杯にものを詰め込んだ後、今朝までわたしは動かなくなったらしい。
そもそも脳震盪からの退院直後という事で、理事長やまわりの人はいろいろ気を使って認めてくれたが、わたしとしてはただ食い倒れただけだ。恥ずかしいことこの上ない。
「さ、行こうか」
「う、うん」
そういって、二人並んで歩を進め、すぐそばの階段を上る。
「そうだ、チームの子がみんな会いたがってたよ。そもそも倒れたときなんか大騒ぎだったし、昨日結局顔出せないってなった時は、みんな肩落としてたよ」
そう聞くと、ますます情けなくなってくる。
わたしが倒れて、迷惑をかける相手は、もはや自分だけじゃない。
理事長や友人根岸、そしてチームのみんな、わたしと友人根岸にレース人生を掛けてくれるみんなに、多大な迷惑をかけてしまっている。
ばしっ、と背中が叩かれた。
「うっ」
おもわず変化声が口から出てしまう。
「な、なにいきなり……」
「そんなに気を落とす必要ないよ。そんなつもりで言ったわけじゃない。みんな、理沙のこと慕ってあいたがってるんだよ」
にこり、と微笑み、彼女は言った。
「……そっか」
「それに、頭を打って倒れたのを、だれも責める人はいないよ。そんなに気にしないで。理沙がいないのはほんの数日だったし、その間わたしとタナベさんでうまくやったし。気にする必要ないよ」
「う、うん。ありがとう」
本当に、良い人だ。
わたしには過ぎた、本当にいい友人だ。
友人としても、トレーナーとしても。
たまっていたトレーナー業務。
わたしがいない間に、超有能フレンズ根岸が処理してくれていたとひえ、わたしにしかできないものも数多くあった。
わたしの承認が必要なものや、そもそもわたし個人に関しての書類、わたしが担当しているウマ娘たちに関するもろもろ……。
「あーいそがしいいそがしいいいい……」
カタカタとパソコンのキーを叩きながら、昼下がりのトレーナー室に、悲鳴を響き渡らせた。
目が回りそうだ。逆に根岸がいてくれなかったら、これよりもっとひどいことになっていただろう。
「あー、教師業の方の書類もたくさんある……」
こっちは根岸ではどうにもできない方の話だった。
しかもそっちはパソコンじゃどうにもできない方だった。デジタル化を推進させているトレーナー業と違い、教師業の方はまだまだアナログ書類が多く、わたしの隣に書類ファイルが山積みにされていた。
いったん一息ついたパソコンの方をパタムと閉じ、書類ファイルの方に手を付ける。
「あーいそがしいいそがしい……」
ファイルを開いてえんぴつをてにとり、一番最初の書類の表面に筆を走らせる。
これは次の会議の参加についての書類か、予定を確認して後でサインを、次のこの書類は夏季合宿の開催についての書類、印鑑とサインをつけて提出、次のコレはウマ娘の生徒会の――――
「これくらいはデジタルでやろうよ……!!」
なんでこうもこの国の教師業はこうもデジタル化が進まないのか。
その思いをえんぴつに乗せながら、必要事項を表に書き連ねていく。
なんでパソコンで文書を作ってわざわざそれをアナログに印刷してからまた書かせる必要があるのか。普通に最初からデジタルでアンケートを取ればいいものを。それにいまだにわざわざ印鑑を押させる意味が分からない。印鑑よりもデジタルの方が信用度は高いだろうに。
「そういう割には、すらすらと書類をさばけてるみたいだけども」
向かいの席の友人根岸が、頬杖をついてそうぼやいた。
「早く終わらせてトレーナー業に集中したいのに……!」
「じゃあなんで教師業も兼任してるわけ?」
「教師とトレーナー両方の視点からウマ娘を見たかったの! こんな大量の紙に鉛筆をすり減らすためにやってるわけじゃないの!」
「まぁ、教師陣はどれも頭が固いおじ……年配……の方々だからな」
書類整理に時間がすり減らされていく……!
「いそがしいいそがしい……!」
皐月賞も近いっていうのに、はやくトレーニングメニューの内容も組まなきゃいけないのに! ここ数日のみんなの成長も見れてないのに!
「よーし、手伝ってあげるか、ヒマだし」
いつの間にか隣に来ていた根岸が別の書類ファイルに手を付ける。
「ありがとうっ!」
そう言いながら、力いっぱい書類にハンコを押す。
ちょっと破れた気がしないでもないが気にしない。
隣に友人根岸が座り、シャープペンをもって書類を片付け始めた。
「この新年度のイベント開催についての予算案会議の日程、これでいい?」
「うん、ありがとう!」
「新レース開設についての告知が来月あるらしいよ。日程メモしとくね」
「うんありがとう!」
「これこの日程で決めとくよ」
「うんっ!」
ありがたすぎる友人根岸。
わたしのことをよく理解して、彼女でいろいろ気を使ってやってくれる。
おかげで書類は倍以上早く処理し終わった。
「よしっ、これでおわりっ、と」
ポン、と根岸がハンコを押して、最後の書類が終わった。
「うん、こっちもおわった、ありがとう」
「ふー、こう見ると、本当に教師業って大変だなー」
「はぁ、疲れた……」
体が丈夫になったとしても、やっぱりデスクワークは疲れるらしい。
「よし、じゃ、散歩行くか」
ふと、根岸が椅子から立ち上がる。
「うん、行ってらっしゃい」
わたしはパソコンを開き、パスワードを入力する。
ついさっき閉じたばっかりのメールソフトが起動した。
すると、パタンとパソコンが閉じられた。
根岸の手だった。
「一緒に行くんだよ?」
「え、でもまだ書類とかメールとかが……」
「疲れたんでしょ。このまま作業しても効率下がるだけだよ。ほら、行くよ」
ぐいっ、と手を引かれる。
「あっ、ちょ……」
思わず手に力を入れて抵抗する。
「うわっ!」
「えっ」
次の瞬間、根岸の顔が眼前に迫っていた。
一瞬、浮遊感を覚える。
ガシャン
背中に、衝撃が走る。
「いっ、てて……」
そして、体の上に、何か柔らかい感触が……。
「ご、ごめんっ」
顔を向けてみれば、そこには、わたしの体の上にかぶさる根岸がいた。
その顔が、みるみる青ざめていく。
「りっ、理沙っ、大丈夫!?」
「べつに、なんともないけど……」
ちょっと痛かっただけで。
友人がばっと体を起こし、わたしに手を差し伸べてくれる。
その手をつかみ、ぐっ、と引っ張った。
「うわっ」
再び、根岸が体のバランスを崩す。
しかし、今度はわたしに覆いかぶさらずに、耐えた。
そしてゆっくり、わたしの体を起こしてくれる。
「大丈夫? なんともない?」
「うん、大丈夫」
あしこち、わたしのからだを眺める根岸。
「大丈夫だって、そんなに心配しないで」
「ごめんね、急に引っ張って……」
ふう、と安心したように息をつく。
「力、強くなったね」
そして、わたしの目を見てつぶやいた。
「なんだか、わたしよりも……。いや、わたしよりも強くなってるのか、ウマ娘だから……」
「……そっか」
わたしが引っ張って、根岸が転んだのか。
友人よりも、わたしの力の方が、今は、強い?
まだわからない。けれども、わたしが本当にウマ娘になったのなら、そうなのだろう。
その事実が、何よりも一番、『ウマ娘になった』という事実を感じられるような気がした。
わたしの力が根岸よりも強いなんて、今まで考えることすらなかったのに。
「いや、重くなってるのか」
「!?」
思わぬ言葉が飛び出た。
「そうか、ウマ娘は人間よりも体重が重いから、引っ張られて倒れ――」
「ちょ、ちょっとやめてよっ!?」
自分としては、体が重くなるどころか、軽いくらいなのだ。
「よし、いい機会だ、これを気に、いったん体重を測ろう!」
「え、ええっ!?」
どこからか、すぐに体重計を取り出してくる。
「さっ、乗って! 大丈夫、わたししか見てないから!」
ダメだ。さっきの青ざめた顔はどこへやら、あの病院で見たときのキラキラとした目をしていた。
どこまで行っても、わたしのほうが力が強くなったとしても、根岸は根岸らしい。
「ほらっ、ほら!」
体重計のスイッチを入れて、熱心に体重計を進めてくる。
「大丈夫! どうせ新年度で身体測定はするし――――あっちょ理沙!?」
よし、ここは逃げよう。
バタンと部屋の扉を押し開けて、わたしは廊下を駆けた。
「ちょっと! ねーー! なんで体重測ってくれないのーーー!?」
部屋から顔を出して、根岸が叫ぶ。
「廊下で大きい声でそんなこと言わないで!?」
叫びながら、わたしは廊下を駆け抜けた。
ウマ娘の体重は、八十キロを超えるというデータがあったりなかったりします。
「ウマ娘 空想科学」で検索してみてください(宣伝)
ウマ娘やトレーナーのステータス的なものは必要ですか?
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いる
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いらない
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ごかってにどーぞ
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そんなことより続き
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そんなことよりプリン食べたい