「軽い脱水症状ですね。ちゃんと水分補給はしてください」
「……はい……」
カッコつけなければよかったか……。
考えてみれば、わたしはただのウマ娘の体なのだ。アスリートとは構造が違う。
アスリートが何十分ずっと運動しつづけて、水分補給しなくても平気でも、わたしは少し運動してじっとしているだけで頭が痛くなってきてしまった。
つくづく、差がすごい。レベルの差をよく実感させられる。
そんな上澄みの彼女の中でも、さらに差があるのだから……。
本当に、わたしはすごい業界に身を置いたらしい。
少し、気持ちがわかる。
くやしい、と。そう思える。
「ありがとうございますた」
また噛みながら礼をしてから、わたしは保健室から退室した。
「お、大丈夫だった?」
出ると、すぐに友人根岸が出迎えてくれる。
「あ、うん。脱水症状だって、軽めの」
「おい……。いくら何でも、指導者が脱水症状はやばいでしょ」
「まあそりゃ知ってるけど……やってる娘たちの前で水飲むのはあんまりよくないって思っちゃって……」
「相変わらずだな……」
水分補給……基本中の基本だ。
チームホトオリのメンバーにも、毎回毎回、ちゃんとこまめにとるようにきちんと言ってある。
休憩時間以外にも軽い水分補給ならば、いつでも摂っていいとも言ってある。
だが今回計算外だったのは、わたしが元死ぬほど運動音痴人間だったということだ。
見事なくらいに、自分の限界をご存じない。今まで水分補給が必要な運動などできなかった。というかそこまで継続して体を動かすことなどできなかった。
どうにかならないのかこの虚弱体質……いや、どうにかなってはいるんだけど。未だ弊害を残してくるとは夢にも思わなかった。
「じゃ、練習に戻るか」
「う、うん」
「あるけるよな?」
「それは大丈夫」
すこし頭が痛いくらいだが、それも休んだおかげで少し収まった。水分補給もしっかりしたし、これからもちゃんとするつもりだ。
というか、よく考えてみれば、わたしの体は今ウマ娘。人間とは違ってただその場にいるだけでも人間以上のエネルギーを消費するのかもしれない。人間の感覚以上に、こまめにエネルギー補給や水分補給をする必要があるのかも。
うーん……考えることがいっぱいある。この体から得られることが多すぎる。
逆に今までそれらが欠けていたと考えると、逆に不思議だ。
「お、またトレーナーの目になってんな」
友人根岸が、いたずらっぽい微笑みの表情で私をのぞき込んできた。
「え、そう?」
「集中するとかっこいいな、いつも」
「なにそれ、やめてよ」
「みんなにも言われてんでしょ? 集中するとかっこいいですって」
「そ、そう……?」
そんな感じのやり取りをしながら、廊下を歩いていく。
保健室は一階にあるから、そのまま外に出た。
春に差し掛かったばかりの涼しく心地の良い風が吹いてきた。
そしてその風に乗って、生徒たちの蹄鉄の音が聞こえてくる。
軽く重い、蹄鉄の音。
ウマ娘がその一歩で地面に触れる時間は、たったのコンマ一秒もない。
その立った一瞬で、彼女たちは自分の体を何メートルも前方に、それもものすごい速度で飛び出していく。
その一瞬で足にかかる負担は計り知れない。人間でも歩いているときは大腿骨に何トンもの力が瞬間的にかかっていると聞くのだから、彼女たちはいったいどれほどの……。
考えているうちに、練習コースのターフまできた。
変わらず、みんなはトレーニングを続けている。
わたしも根岸もどこかへ行ってしまったので、今はタナベさんが代わりに指揮を執ってくれていた。
「おう、二人とも、もどったか」
観客席の階段を下りてくるわたしたちを見上げて、タナベさんが呼び掛けてくれる。
「す、すみません、またご迷惑をおかけしちゃって」
「いや、かまわんよ。今に始まったことじゃないからのお」
カッカッカ、とタナベさんは快活に笑った。
「しっかしのお、ウマ娘になってからも、これほど手がかかるとは思っとらんかったが」
「それはもう、お恥ずかしいとしか……」
下まで降りてきたところで、わたしはみんなに目を向けた。
今日はみんなのスピードを延ばす名目で行っているトレーニングだ。
体の部位をしっかり動かせるかをまずはウォーミングアップでチェックして、それが問題ないと分かれば、本番に入る。
それは併走だ。
正直、あんなきっついウォーミングアップの後で併走なんかできるわけないだろと言いたい(メニュー組んだ張本人なのに)ところだが、わたしの教え子たちはみんなすさまじく、並走のために涼しい顔で体の部位をほぐしているところだった。
今回のメインは皐月賞に出るお三方だ。
アインラーベル、通称アインちゃん。葦毛のいい娘、トライアルレースわかばステークスにて一着経験済み。
アウレリア、通称アウちゃん。同じく葦毛、トライアルレースはスプリングステークス。そこにおいて一着で、走りにおいてはパワーと体格がすごい。
そして……フジキセキ。
美しい青毛、額の中心を駆ける細長い流星。
トライアルレース弥生賞、堂々のぶっちぎりで一着。
あり得ないほどの安定感と、そこから生み出される支配力、そしてすべてを冷静に俯瞰するその洞察力と、傍から見てもわかる精神力。
そして、倒すべき相手でもある。
正直、フジキセキだけレベルが違う。
彼女の才能か、それともタナベさんの圧倒的な指導センスのおかげか、あるいは両方か。
言わない、生徒の前では絶対言わないけど。
差が、ものすごい。
一人だけ、別の世界を走っているような。全く違う世界にいるかのような。
そんな感覚。それが、フジキセキ。
名は体を表すというが、まさにその通りだ。世界が、大地が、星が生み出したかのような奇跡の存在。そしてその未来の軌跡すら見えてしまう、そんなウマ娘。
それに対抗するために、それと共に練習している。しかし……。
あと三週間もない。
超えられるだろうか。あの、フジキセキを。
「じゃあ、アウちゃんはエアロちゃんとルボちゃんで、まずいってみようか。そしたら一回次本番で」
「はい、わかりました!」
と、アウちゃんが返事をする。
「はーい」
「は、はい……!」
それに続いて、エアロちゃんとルボちゃんも返事をした。
――でも、まずはやってみなければ。
フジキセキに、勝つ…………。
その一歩が今日だ……。
教え子三人がターフに立とうとしているとき、わたしはふと思い出して根岸に尋ねた。
少し口を改めて、友人を呼ぶ。
「ねえ、根岸トレーナー」
「ん、なに?」
「そういえば、あのレースの結果って……」
「ああ、模擬レース? そういえば伝えてなかったな。あれは――――」
「ッ、くっ、ふっ……!」
アインラーベルが、息を切らす。全力で食らいつく。
一歩一歩地を踏みしめる。全力で。
おろそかにしない、どの一歩でも。トレーナーに教わったすべてをしっかりと意識し、いや、すでに無意識でできるまでに高めたそれを用い、全力で体を前に推し進める。
しかし前には誰かが見える。私の前を走っている。
全力で地面をけっている。
これ以上ないほどに体を動かしている。
今動かしている体のどこかに不備があるのか? いや、ない。
完璧に動かせている。動かしたいように動かせている。
なのに疑ってしまうほどに、自分に非を見つけたいと思ってしまうほどに。
追いつけない。
縮まらない。
目算、一馬身ちょうど……。
面白いくらいに縮まらない。
「ははっ……」
自分らしくない冷笑。
それが出てしまうほどに。
ああ、なんでこんなにきれいなフォーム。
ぶれない、全くぶれない。
ほら、最後のコーナーを曲がった……少しぐらい、ボロを見せたっていいじゃん……。
外には寄らない、膨らみもしない、完璧な角度、完璧な力の入れ具合。
「ッ……!」
左斜め後ろから、ほかの蹄鉄の足音が聞こえる。
重い、重い。
アウちゃんの足音だ。
ものすごいパワーと迫力で追い詰めるような走りをする彼女。
その彼女から、彼女にはありえないような焦燥が伝わってくる。
そして最後の直線に入る。
全力で……全力で……!
「はっ、はっ、はっ、はあっ、ハアッ、ハアッ、ハアッ!!」
全力、全力って何!?
出してる、出してる、全力で!!
でも縮まらない、地面を踏んでも、どれだけ体を動かしても!
空回りしてる、どれだけ動いても、一体、何が起きている!?
「カハッ、ゼっ、はっ、あアッ!!」
フジキセキ、フジキセキ……!
憧れの存在、でも戦うべき相手、わたしはフジキセキのファン、だけどもこんなファンサはあってほしくなかった。
二回目、二回目……!
模擬レースの時も勝てなかった、圧倒的な実力を見せつけて……!
まだ不調なら言い訳ができた。バ群に飲まれたなら言い訳はできた。躓いたなら言い訳ができた。全力を出せなかったなら言い訳ができた。
でも、でも、でも、でも。
全部が快調だ。全部が最高だ。
あの時すべてがうまくいっていた、すべてが予想通りの展開だった。
バ群から抜け出して先頭に立って――――
そんな私の視界の端から。
絶望的なまでに私よりさらにきれいに飛び出して来た、フジキセキ――――
そして、今も。
私は成長してる、それは間違いない。
利根田先生が成長させてくれた、私を強くしてくれた。
でも、なのに、だけど、なんで。
とど、かない……っ!?
「っっっあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
かてっ……ないっ……!?
「自己、ベスト……」
「ああ、二人ともな」
目の前で、一つの並走レースが終わった。
一着、フジキセキ。二着、アインラーベル。三着、アウレリア。
差は……それぞれ一バ身ないくらいと、ちょうど一バ身。
すごく、食らいついていた。
あの、フジキセキに。
傍から見てもわかる……彼女たちが、一体どれだけ全力を出していたのか。
どんな思いで走っているのか……。
ずっと、本気だった。思いも、体も。
それでも、か……。
それだけの差が、実力、ということなのか。
「何ボーっとしてんだ、行くぞ理沙」
ぽん、と肩に手が置かれる。
「全力で走ったんだ。ケアするぞ」
「あ、うん」
コンクリートの冷たい床に手をつき、立ち上がる。
若干の頭痛。立ちくらみはなし。
ラチをくぐって、ターフへ。
クールダウンを兼ねた少しのウォーキングをしている彼女たちのもとに、歩いていく。
フジ、キセキ。
みんな、汗だらけだ。
一言もしゃべらない……アインちゃんも、私に目を向けない。
それほどまでに出し尽くしたのだろう。
そのうえで負けてしまった。
でも……。
「よくやった」
そう声をかけてあげなければ。
心の底からの本心だ。
よく、全力で挑んだ。よく、最後まで。よく、競った。
あの、フジキセキに。
それだけで、彼女たちは全力で褒められるべきだった。
「ごめ、なさい」
膝に手を当てて、肩を揺らすアインちゃん。
「駄目、謝らないで」
「っ……」
「アウレリア、大丈夫ですか」
「……」
友人根岸が、アウちゃんを。
しかし、答えない。
そのパワーを、活かすべくもなかった。
でも、全力で、取り組んでくれた。
それには意味がある……。彼女たちも、わかっていると思う。
「フジ」
タナベさんは、フジキセキのケアへと向かった。
「あ、ナベさん。どうだった、今回の並走は。けっこう……」
と、唯一彼女だけが、自分のトレーナーに向かってアドバイスを求めている。
この意味がわたしにはわかる。
わたしの娘たちは、すべてを出し切ったのだ。
これ以上、どうすればいいのか。もう、わからないのだ。
それを、私に聞く気にすらなれない。
ああ、どうしよう。
わたしは……。
鬼門、すぎる。立ちはだかる壁が大きすぎる……。
三冠ウマ娘、
だが、三冠。まだ、トレーナーでなかった頃は、憧れの象徴で、伝説の対象だった。
だが。もし、それが同世代にいたのならば。
それは、わたしたちに一度の勝利も許さぬ相手ということだ。
併走後、観客席。
「はい、足首ストレッチ」
「はい……」
アインちゃんが、足の先をつかんで、ゆっくりとぐるぐる回す。
「痛みはない?」
「はい、大丈夫です」
「アウちゃんのほうは?」
「大丈夫、です」
フジキセキのほうは、ナベさんが見てくれている。きっと大丈夫だろう。
「それにしても、これほどとはな」
観客席に座って水を飲んでいる友人根岸が、そう呟いた。
「ちょっと、今そういう話は……」
一番傷ついている……とも言いたくないが、一番事実を受け入れがたいのは彼女たちなのだ。
根岸らしくない無神経さだった。
「いや、そういう話じゃない。二人とも、自己ベストだったんだぞ。すごいじゃないか」
「えっ……」
「ほんとですか」
アインちゃんとアウちゃんが同時に顔を上げた。
そういえば、まだ伝えていなかった。
「ああ、すごかったぞ。フジキセキにばっかり気を取られてるんじゃない。どんだけ成長したか意識しろ、二人とも」
どうやら、励まそうとしているようだった。
わたしの勘違いだったようだ。根岸がそこまで不躾なことをするわけはない。
「……でも」
アインちゃんは視線を落とす。
しかし、友人根岸はそれを遮った。
「ここまで成長しても勝てない、か?」
「……はい」
にや、と根岸は微笑んで見せる。
「なら、フジキセキに話聞いてこい。『私の走りどうでしたか?』ってな」
「えっ……?」
「逆に考えてみろ。ずっと、最後のカーブから引っ付いて来てんだぞ。そっちからしたら追いつけないと思ってんだろうけど、向こうからしたらどう頑張っても振り切れてないんだ。どんだけ怖いかわかるか? 経験あるだろ?」
「そう、ですね……」
「ほら、わかったらストレッチやってとっととアドバイス聞きに行け。仮にも同じチームだぞ? 遠慮すんな。フジキセキはいい奴だ、きっと教えてくれる。それに、ナベさんもいる。わたしたちだけじゃない。な、アウレリアも」
呼ばれたアウちゃんは、とっさに顔を根岸のほうに向ける。
「は、はい……」
「お前も気にすんな。お前のそのパワーの強さは大人数のレースでこそ発揮される。模擬レースの結果なら気にすんな。言っちゃなんだが、皐月賞の時はうちのメンバーよりも粒ぞろいの奴らが集結するんだ。模擬レースとはレベルが違う。フジキセキも模擬レースの時みたいにはいかんだろうし、お前もそれは一緒だ。過去のことを考えるのはいいが、なんなら未来のほうが今は鬼門だ。しっかり顔上げろ。いいな?」
「っ……はいっ!」
と、二人はストレッチを終えた後、タナベさんとフジキセキのいるほうへと向かっていった。
「……すごいね、安里。やっぱりメンタルケア上手だね」
その二人の背中を見ながら、わたしは呟いた。
「ああ……ま、私も一応陸上やってたし。メンタルケアは大事だからな……とくに思春期の女の子たちだ。私らよりも崩れやすい」
「さすがだね……安里がいっしょのトレーナーでよかった」
「おい、なんだよ」
根岸は目に見えて口角を上げた。
「ほめても何にも出ねーぞ。そうだ、この後一緒にはちみーでも買いに行くか」
「早速出てんじゃん……。うん、ありがとう、いこっか、みんなもつれて」
「ああ、もちろんな……」
本当に、根岸が一緒でよかった。わたしも彼女に幾度とも知れず救われている。
「って、あれ? さっき、思いっきりトレーナーモード解けてなかった?」
すると、根岸は一瞬、ピシリと硬直した。
「……あ、れ……?」
そして、油のさしていない機械人形のように動き出す。
「っ……べ……忘れてた……え、あれ、なんで誰も突っ込まなかった?」
「いや、あまりにも自然だったから……」
「え……? やべぇ……見られた……?」
「いや、しょっちゅう私の前だと解けてるからみんな知ってると思うんだけど……」
「クソ、かっこよくて頼れるトレーナーキャラ目指してたのに……」
あ、やっぱり意識してやってたんだ……。
「どうしよ……え、だってアインとアウだぜ、絶対食いついてきて『え? トレーナーさんいつものカッコいモードはどこ行ったんですか?』とか噛みついてくると思うじゃん? なんで来ないの?」
「まあ、真剣なムードだったし……」
正直、友人根岸に二つのモードがあることはわたし以外でも誰もが知っていることだと思う。
それで、友人モードが素(もしくはそれに近い)状態であることもみんな知っていると思う。
だから今回は根岸が素を出して指導してくれた、ということであの二人も受け入れたんじゃないのかな、と思ってみたり。
というか、たぶん、根岸も動揺していたんだ、あのレースの結果に。自分を取り繕えないくらいには。
それくらいに、あの走りはすごかった……。
完璧な体制。完璧な位置取り。完璧な足運び。完璧なレース展開。併走だったのに、まるで一人で十数人だてのレースをしていたかのような動き方。
そして速かった。だからこそ速かった。
どうしようもなく。理不尽に、素晴らしく、圧倒的に。
変わらない……記憶の中にあるあの鮮烈な光景と変わらない。
私に見せた、私を魅せた、あの弥生賞、圧倒的な勝者の姿と。
奇跡を起こし、強烈なまでの蹄鉄の軌跡を脳裏に残すあの走り方を。
うず……
体の何処か、わたしも知らないわたしの何処かが、動いた。
「ねえ、安里……」
「なんだ、理沙」
「ちょっと、ほんのちょっとだけなんだけどね……」
「……なんだよ?」
「走って、みたいかも」
脚が、カタカタと勝手に動いていた。
ウマ娘やトレーナーのステータス的なものは必要ですか?
-
いる
-
いらない
-
ごかってにどーぞ
-
そんなことより続き
-
そんなことよりプリン食べたい