もしもトレーナーがウマ娘になったら   作:ケンタ〜

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人によっては少々読みにくいところがあるかもしれません。ご了承ください。














二十四話 かつての地

「次は、名古屋。名古屋。お降りのお客様は、――――――」

 

 時が流れていた。

 ただ遅く、遅々として、時間は流れていた。

 

 空間が流れていく。

 窓の外を。目で追えぬ程の速さで、空間が流れていく。

 

 しかし時の流れは平等だった。

 この程度の速度であれば、外部とここの時の流れは非情にして平等だった。

 

 陸上において最も速いものに乗っていたとしても、それは極めて公平に時を叩きつけてくるのだった。

 

 長い旅だった―――

 

 三時間のその旅を、利根田はそう結論づけた。

 

 金はあった。トレーナーになってから一度も自らのことに使ってこなかった金は、預金を覗いてみれば、大人である自分にとっても大きな買い物ができるほどの量があった。

 

 自分一人という存在を数百キロ彼方まで運ぶ程度ならば、造作もなかった。

 

 景色が流れてゆく。

 

 背の低い家々の影が、目で追えぬほどの速さで流れてゆく。

 つい先ほどまで田園風景であったそれが、ところ狭しと立ち並ぶ建物に地面が支配される空間に。

 もう少しすれば、首が痛くなるほど見上げねばならないコンクリートの木々が鬱蒼と生い茂る、都会の密林に変化するのだろう。

 

 利根田は都会が嫌いだった。

 

 でも、それでも良かった。

 自分を知る人のないところに行けるのならば。

 

 誰に何を言われるでもなく、ただ静かに存在できる場所に行けるのならば――――

 

「お飲み物、いかがですかー……」

 

 乗務員の声が響いて、利根田は幾分か現実に引き戻された。

 停滞していた脳の一部が、ある程度正常に動き始める。

 

「すみません、オレンジジュースを…………」

 

 笑顔の乗務員によって注がれたそれを、利根田は座席テーブルの上に置いた。

 ぽたり、と結露した水が、その側面から重力に従って流れ落ち、簡易なテーブルの表面をじわりと濡らしていく。

 

 その表面は、この時代の技術を示すかのように、ただ静かに、わずかにゆらゆらと小さく揺れていた。

 

 その橙色の鮮やかな表面に、利根田の顔が薄っすらと映っているのだった。

 

 ――わたしって、なんだろう。

 

 自らの頭の上に伸びる二つの器官が、利根田には可笑しいほど異質に思われた。

 

 それは、動いていなかった。

 

 自らの今の心情を表すように倒れるでもなく、かといってぴんと威勢よく張るのでもなく、ただ、不自然と見えるまでに、そこに存在しているだけだった。

 

 無感情……耳が表すのはそれなのだろうか。

 

 わたしは今、何の思いもいだいていない……。

 

 そんなのだったら、あの時、何も動いてくれなければ良かったのに…………

 

 溶け消えるような言葉が、自分の頭に浮かんだまま、霧散するようになくなっていった。

 

 …………一体なんになるんだろう――――

 

 この体は………………

 

 新幹線は減速し、オレンジ色の水面がくらりと揺れた。

 まもなく外を眺めると、すでに背の低い建物は今や夜空に向かって伸び切っていた。

 

「名古屋、名古屋――――」

 

 がたがたと、音がした。

 

 荷物を纏めよう、利根田もそう思った。

 

 がやがや

 

 賑やかな音が、周りから立ちのぼっている。

 

 ホームに降りると、音は更に騒がしくなった。

 喧騒、それも都会の喧騒――――

 

 時折どこかで音が爆発し、自らの耳を抑えたくなる。

 しかしそんなことに対して、自分の腕は動かなかった。

 

 腰までのキャリーケース、それを引き、利根田は人のあふれるホームの上を歩いて行った。

 

「あっ」

 

 小さな男の子が、どこからか飛び出して、利根田の脚にぶつかった。

 その後ろから、親らしい女の人が、申し訳なさそうな顔をしてやってくる。

 

「すみません、ほら、ごめんなさいして」

「おねえさん、ごめんなさい」

 

 元気よく、ぺこりと頭を下げるその子に対して、利根田は曖昧に微笑んで、その場を歩いて去っていった。

 

 あおなみ線――――

 

 利根田はそこに乗り換えた。

 新幹線より遥かに遅い、四角い金属の塊に、今度はガタンと揺られていく。

 

「次は、ささしまライブ――――」

 

 懐かしい名前…………利根田はそう思った。

 実際のところ、一度もそこで降りたことはない。しかし、何度も聞いた駅のアナウンスだった。

 

「荒子、荒子――――」

 

 これもまた、懐かしい…………。

 

「中島、中島――――」

 

 アナウンスが告げるごとに、外に見えていたコンクリートの密林は鳴りを潜めていた。

 少しずつ建物は小さくなって、外には公園、そして緑豊かな木々が増えていく。

 東京とは違う。都会であっても、木が多い。

 そして、どことなく空が広かった。

 利根田はそう感じた。

 

 そして。

 

「名古屋競バ場前――名古屋競バ場前――――」

 

 ついにアナウンスは、そう告げた。

 

 利根田は席を立ち、軽いキャリーケースを引いて歩いて行った。

 

 ふわっ、と風が吹いてくる。

 

 高い位置にある駅から、かつて何度も見た広い光景が広がっていた。

 

 目の前に見える、巨大な建物。小さい頃いつからか建っていた名も知らぬそれは、大人になってようやく『名古屋入国管理局』であることを知った。

 

 後ろを振り返れば、そこには団地が立ち並ぶ。

 

 利根田はカードを手にし、駅のホームから降りた。

 

 少し道を歩くと、大通りに出、そこを左に曲がって広い空の下を歩いていく。

 

 車の騒音を半身に浴びながら歩いてけば、利根田はそこへ到着した。

 

 そこには、何もなかった。

 

『名古屋競バ場 閉鎖中』

 

 彼女が生まれて初めて競バとであったそれはすでに存在しなかった。

 

 その前で、利根田は立ち尽くした。

 

 一年ほど前、別の場所に移転したのだという。

 何度来たかも覚えていない。

 かつて何度も、幼い頃の貴重な時間の大半を費やしてやってきたこの場所は、すでに過去の存在だった。

 

 間もなく、あの駅の名前も変わるらしい。

 

 トゥインクルシリーズ…………

 

 それが盛り上がっていたとしても、それだけだ。

 

 地元の人々に愛されてきた……

 言い換えれば、その場の人々にしか知られない、そんな場所は、今の時代においては、もうなくなりつつある。そして、なくなってしまえば(しま)いらしかった。

 

 かつてその周りにあった面影も、時とともになくなっていくのだろう。

 そう思えた。

 

「あら、お嬢ちゃん、里帰りかい?」

 

 高く、しかしいくらか枯れて聞こえる音が語りかけてきた。

 

 振り返ると、腰の曲がった老齢の人だった。

 頭に帽子を被り、愛想の良いにこにことした顔で喋りかけてくる。

 

「はい。東京から」

 

 利根田は曖昧に、頷いた。

 

「そうかそうか……もうここも古くなったから……今は弥富、というところに移転したんだったかなぁ」

「…………」

 

 その人は、利根田には見覚えのある老婆だった。

 記憶を手繰り寄せて見れば、幾度か彼女を目にした覚えがあった。

 名古屋競バ場の中で、彼女の曲がった背を、利根田は確かに幾度も目にしていた。

 いや、それどころではなかったかもしれない。

 彼方に押し込まれていた記憶がするすると抜け出るように、そして利根田の口を動かした。

 

「マルヤ婆さん、でしたっけ」

 

 利根田が言うと、老婆は片方の眉を嬉しそうに吊り上げた。

 

「おや、まあ。知っとるがね(知ってるか)

 

 急に地元の言葉になったのを認識して、利根田の記憶は確信に変わった。

 

 何回か、利根田は彼女に世話になった覚えがあった。

 

「三回ぐらい、アメを。それに、迷子になったときに案内してもらいました」

「ははあ」

 

 くしゃり、と老婆の顔が喜びに歪んだ。

 

「おぼえとる。とねちゃんだがね(だったなぁ?)。おおきくなったがね」

「とねちゃん……懐かしいですね」

 

 利根田は自らの頬が少し熱くなるのを感じた。

 

「ああ、訛りも抜けとるがや(なあ)。あん時はかわいいちっこい名古屋弁しゃべってた(なぁ)?」

「まあ、はい。ちょっと恥ずかしいですけど」

 

 利根田は曖昧に口角を上げて見せた。

 

「マルヤ婆さんは、なんでここに?」

「そりゃぁ分かっとるがや」

 

 彼女は眉をくいっと上げる。

 

「どんくらい長く来てたか知っとるが。思わんくても体が勝手に来とるがね」

「それもそうですね」

 

 利根田はかなり長く名古屋競バ場に通っていた。しかしこの人は更に長く通っていたのだろう。恐らく利根田が行ってなかったときも、ずっとそこにいたに違いない。

 そうだ、と、利根田はふいに思い出した。

 利根田は競バ場(そこ)で何かがあれば、マルヤ婆さんを探せばいいという暗黙の了解を心得ていたのだった。迷子になったとき、ジュースが買えなくて泣きそうな時、息が切れて動けなくなった時は、ともかく視界にこの人を入れればなんとかなるのだった。

 そうだ、マルヤ婆さん。

 なんで今まで忘れていたのだろう。あの時は、近所のおばあちゃんのように、ある種の親戚のように思っていたのに。

 

「新しいのは遠くてもう足腰悪くて行けんがや、どっか散歩してもここに来るしか知らんがね(のだ)

「そっか…………」

 

 地方の競バ場。

 トゥインクルシリーズとは違い、外からの人はそれほど集まらない。

 かつては娯楽はこのような場所にしか無かった。だから人も集まったし、人はただただ熱中した。しかし今は違う。

 故にここに集うのは、かつてそれしか娯楽がなかった時代に生きた人か、さもなくば利根田のような小さな頃からの珍しい訪ね客か……。

 

「そっか………………」

 

 もう、無いのか…………。

 

「こんな年まで生きとったらこんなんばっかだがね、気ぃ持てとねちゃん」

「ありがとう、ございます」

 

 老齢の勘か、利根田の感情はすぐに察せられたようだった。

 

「そんで、こっからどこ行くがや?」

「そう、ですね。実家、へ……。まあ、誰もいないですけど……」

「引っ越したんか?」

「いえ、お父さんが住んでることにはなってるんですけど、ずっと忙しくて帰ってなくて……」

「そしたら、暇だわな」

「え? まあ、はい……少しは」

「思い詰めとるがね、マルヤ婆さんに話しでもしてみや」

 

 そう言って、マルヤ婆さんはにこりと笑ってみせた。

 

 

×

 

 

『次は、稲永、稲永――――――』

 

「あ、あの、マルヤ婆さん……」

「ん? なに言っとるが?」

「その……どこへ?」

「家だがね」

「い、家……わたしのですか?」

「嫌だがや? じゃあ別んとこ行くか」

「え、ええ……?」

 

 扉が開き、電車から降りる。

 

 すると午後の風が吹き、利根田の髪をばらりと揺らした。

 

 大通りの直上――――大通りをまたぐように、稲永駅は存在していた。

 

 すぐ眼下を、いくつもの車がすいすいと過ぎ去っていく……。

 

 そして、目の前には懐かしい場所がすぐそこに見えた。

 

「ホームセンター……まだやってたんだ」

「行くで」

 

 利根田の感慨も気にすることなく、マルヤ婆さんは前を歩いて行った。

 エレベーターを使って一階に降りると、そのまますらすらと彼女は歩いて行く。

 彼女の都市は、一体いくつなのだろう……利根田はそう考えずにはいられなかった。

 

 それにしても、変わらない――――

 

 二年ぶり、だというのに、もう十年ほども来てないような感覚がした。

 駅を出れば、目の前はすぐに大通り。そしてその向こう側には、広大な緑地公園があった。

 

 そして右を見れば、そこには道路沿いにある駅前の交番と、そしてすぐ向こうには、かつて彼女の生活の一部だったホームセンターが見えるのだった。

 

 何もかもが、なつかしい……。

 帰って来たんだ。わたしは……。

 利根田はそう思わずにはいられなかった。

 

 しかしそれもかまわず、歩いて行くマルヤ婆さんに利根田はすこし駆け足でついていかなければならなかった。

 

「マルヤ婆さん、足速い……」

若もんだがや(若者だろう)。婆さんに待ていうだでかんわ(待てなんて言っちゃいかん)

「そ、それはそうですけど……」

「そんでウマ娘だがや(だろう)。はしりゃぁ追いつくがね(だろう)

「い、いや、なったばかりで、って……」

「そういやぁウマ娘だったが(ウマ娘だったか)? 小さいとき耳上にはなかったが?」

 

 マルヤ婆さんは振り返って、利根田の頭上を指さした。

 

「あ、いや、諸事情ありまして……もともとウマ娘じゃなかったんですけど……」

「ほーん。三女神さまも変なことするがや」

 

 特にこだわりもなく、マルヤ婆さんはまた歩き出した。

 

「軽いですね……」

 

 年の功というのだろうか。

 それともまた別のモノからだろうか。

 利根田はこの人に、レースでもないのになぜか追いつけない時の感覚を感じた。

 

 利根田は何とか歩幅を合わせ、その人の横に並んだ。

 

「そりゃ競バ場が終わった時とくらべりゃたらなんでも軽いがね」

「重いですね……」

 

 マルヤ婆さんが足を止めると、そこはバス停の前だった。

 するとすぐにバスが来て、マルヤ婆さんはそれに乗り込んだ。

 

「乗りゃぁ」

「あ、はい」

 

 わたしはどこまで連れ去られるのだろう……?

 相手は年を取ったご高齢の人なのに、なぜか利根田は心配になった。

 そして、なぜこの人について行ってしまっているのだろうか……。

 

 しかしバスは閉まり、利根田の退路はなくなった。

 

『次は、築地口、築地口。お降りの方は――――』

 

 あ、懐かしい……。築地口……。

 

 バスは進み、巨大なアーチのかかった橋の中を渡っていく。

 

 ――ここ、工事終わってたんだ……。

 

 自分が子供のころ、いや、東京を出るまで、ずっと工事をしていたこの橋。

 予備の橋を造り、本橋を解体し、予備橋を解体し、そして本橋を拡張し、そしてまた……。

 なんども何度も工事を重ねて、ようやく完成したその日を今見ているのか……。

 

 工事の途中のことなど、ここを通った人はみんな覚えているんだろうけど、もうどこの記録にも残らないんだろうな……。

 利根田はそう思った。

 

 橋を渡ると、今度はひときわ大きな坂を上り、また下る。

 

 そしてバスは大きく右へ曲がり、両側に高い建物が立ち並ぶ大通りを通っていく。

 

『次は、名古屋港、名古屋港――――』

 

 そしてバスは止まり、利根田はマルヤ婆さんと一緒に降りた。

 

 そしてしばらくあるいて行くと、利根田は不意に懐かしい感覚に襲われた。

 この道路もまた、彼女が幾度となく通ってきた道だった……。

 

 名古屋港水族館。その入り口が、ここから見ることができる……。

 

 階段を上り、受付へ。

 そこはとても混んでいた。

 利根田からすれば、少し異質な光景だった。

 小さいころは、毎年年間パスポートを買っていて、いつでも来れるようにしていた。受付というものがあることすら大人になるまで知らなかったのだ。

 

 マルヤ婆さんと一緒に並び、チケットを購入するのを待っていると、なんだかとても新鮮な気持ちになった。

 

「お二人ですね、四〇〇〇円になります」

 

 高っ――――!

 

 そんな高かったの!? いつも一度も自分でお金を払って購入したことがなかったから気が付かなかった……。

 

「ほいよ」

 

 と横着していると、横からマルヤ婆さんが五〇〇〇円札をさっと出した。

 

「ありがとうございます、こちらおつりと、チケットです。ごゆっくりお楽しみください」

 

 そして、チケットを手にし、入口へと歩いて行く。

 

「あ、ありがとうございます」

「年金ばっかたまっとるから使わんといかんがや」

「し、質素な生活してるんですか」

「競バ場で使ってたぶんがたまっとる」

 

 入り口をくぐると、懐かしいにおいが利根田の鼻を撫でた。

 ああ、こんな匂いだった……。

 そして、目の前には広く薄暗い空間が広がる。そしてその先には、目の覚めるほど鮮やかな青色をした水槽が、いくつも並んでいた。

 

 暑さ何センチもある巨大な水槽の向こうには、かつて何度も見た懐かしい生き物たち――イルカやシャチが、ぐるぐるとその中をゆっくりと泳ぎ回っている。

 

 そしてそんな水槽の前には、子供やその親たち、学生たちが、目を輝かせて所狭しと並んでいるのだった。

 

 何もかもが懐かしい。

 

 東京に行ってみれば、この水族館がこの国でも有数の巨大水族館で、東京にすらこのようなものはないと知って驚いたものだった。幾度と見たシャチは日本にはここを含めたったの二つの水族館にしかおらず、ここに慣れてしまった利根田はもう二度とほかの場所では満足できなくなってしまっていた。

 

 マルヤ婆さんが歩いて行くのについて行きながら、利根田は懐かしい風景を、せわしなく眺めまわしていた。

 

 懐かしい。

 

 巨大クジラの映像が映された巨大な通り道。子供のころはこの雰囲気が怖くて一人では通れなかった。今でもここを通るとおなかの底が震える感触がある。

 

 そこを通ると明るい場所に出た。

 

 右手にはイルカのプールの巨大水槽へ続く道、左手には上へ続くエスカレーターがあって、何人もの人たちがせわしなく行き来していた。

 

 利根田はエスカレーターに乗った。

 

 見上げると、巨大なシャチの骨格レプリカが真っ白な天井から吊り下げられている。その隣には、一回り小さいイルカの骨格標本があって、それを見ているうちにエスカレーターは地上へと出た。

 

 巨大な観覧場――――そして、その前にある巨大な水槽。

 先ほどの右手にあったイルカの巨大水槽の表層部分だ。

 巨大なひさしの下に、何千人が集まることのできる多段式の座席がいくつも設けられている。そう、それこそ、競バ場をそのまま思い出させるような。

 

 マルヤ婆さんの脚は、そこまで行ってから、ようやく止まった。

 

「よっこらせっと」

 

 少し階段を上ったところの席で、ゆっくりとマルヤ婆さんは腰を下ろした。

 

「これだけあるけんなら上等だがね。体力ついとるなとねちゃん」

「まあ、ウマ娘になったもんですから……」

「昔はちょっと走っただけでも死にそうな顔しとったのに」

「お、お恥ずかしい……」

 

 ふわり、と春先の風が吹いてきた。

 少し運動した体にとって、その涼しい気配は身震いをさせるのに十分なものだった。

 

「ふう……」

 

 マルヤ婆さんの息をつく声がする。

 

「熱くなってきとるでかんわ(から駄目だ)

「そうですね、最近は特に熱くなってきましたし――――」

 

 利根田は目を見開いた。

 

 マルヤ婆さんはかぶっていた帽子を取って、自分の膝の上に置いていた。

 その頭上を見て、利根田は目が飛び出るくらいに瞼を全開にした。

 

「――――マルヤ婆さんウマ娘だったんですか!?」

 

 その途端、マルヤ婆さんの頭上にあるそれが後ろにびたっと伏せた。

 髪の毛の色と同じ、少し色素薄めの茶色の――いや栗毛の耳――――

 偽物じゃない。本物だ。

 利根田の耳はピンと上に張っていた。

 

「気づいとらんかったがや!?」

 

 驚いた風にマルヤ婆さんは利根田の方を見る。

 

「い、いやっ、今まで帽子外してたところ見たことなかったですしそういえば」

「あんたが小さいころ目の前で走っとったことあったが!? 人の婆さんの速さじゃなかったがね!」

「あ、あれ幻覚じゃなかったんですか!?」

 

 小さいころ、走って息切れで死にかけた時にマルヤ婆さんが猛スピードで介護しに来てくれたことを利根田は思い出した。

 確かに、あの速度は老齢の人間のそれではなかったが……。

 

「意識がもうろうとしてたから、たぶん……」

「それにしても九十の婆さんが名古屋港からここまで歩いてこれるわけないがね……」

「え、九十だったんですか……」

「自分のそんなことも知らんのか……」

 

 あきれたような顔でマルヤ婆さんは言った。

 

「ウマ娘になっても鈍感なのは変わっとらんが」

「いやまぁ……その、ほんと……その通りでございます」

 

 はあ、とマルヤ婆さんはため息をつく。

 

「まあ、でも同じウマ娘になったがね、なんでも話してみや。トレセンでなんかあったがや? 言ってみや」

「あ……」

 

 そういえば、そのためにこの人についてきたのだった……。

 利根田はようやく思い出した。

 ごくりと唾液を飲み込んで、利根田は口を開いた。

 

「はい……そう、です。仕事で……」

「脚か」

 

 利根田は目を見開いた。

 

「っ、なんで……」

「あたっとるがや」

 

 マルヤ婆さんは小さく口角を上げて微笑んだ。

 

「素直なのは変わっとらん。そんで、中央のトレーナーがなんかやらかしたって言ったらそれくらいだが?」

「っ……そう、です」

「担当の娘か」

「……はい」

「名前は?」

「……フジキセキ」

 

 ほお、とマルヤ婆さんは驚きを隠せないふうに目を見開いた。

 

「フジキセキって、あのフジキセキか。トゥインクルシリーズの」

「はい。その……わたしが、たまたま機会があって、担当になって……。でも、それで……」

 

 利根田が口ごもる。

 代わりにマルヤ婆さんが口を開いた。

 

「腓骨筋腱炎だがや」

「……そうです」

「新聞で読んだがね。でも、とねちゃんがトレーナーやっとるのは知らんかったわ」

「…………」

 

 利根田は膝に置いた手をきゅっと握り締めた。

 

「意味、ないです」

「ん?」

 

 利根田は呟いた。

 

「結局どれだけ出世したって、意味ないんです。結局、どれだけ優秀になったって……」

 

 その声はすこしずつ上擦っていった。

 

「わたしがどれだけ優秀だったって……守れなければ意味がないんです。やっと届いたと思ったのに……届かせられると、思ったのに…………」

「そりゃ、フジキセキの話だないな(じゃないな)

 

 利根田の心臓はどくんと跳ね上がった。

 

「……そう、です」

 

 利根田はぐっとこらえて、その言葉を絞り出した。

 

「フジキセキが走れんくなったことだのうて(じゃなくて)、教え子がフジキセキと走れんくなったことがくやしいんか」

 

 どこまで、わたしのことが見えているんだろう。わたしの心があえて隠してきたものを、どれだけ見ようとしてくるんだろう……。

 

「その通り、です」

 

 利根田はなんとか同意の言葉を吐き出した。

 

 何度も考えてきた。ここに来るまで、フジキセキの怪我が分かったあの時から、ずっと考えていた。

 出した結論がそうだった。

 フジキセキを、結局教え子となんて思ってはいなかった。

 もちろん生徒として、先生としては見ていた。

 しかし、チームの仲間としては……。

 

 あの走り、あの強さは、自分の手から生み出せるようなものではなかった。

 ましてや、それを自分の教え子だと、自分の手綱でなんとかできるものだとは……。

 

 フジキセキは、敵だった。

 

「っ………」

 

 握る手に強く力がこもった。

 認めた瞬間、堰を切ったかのように、感情が喉元に押し寄せてきた。

 

「っ、わたしが、悪かったんです……」

 

 利根田は上擦る声でこぼした。

 

「そんなこと思ってたから……そんな風にしてちゃってたから……」

 

 自らの脚を抑えていた手で、利根田は目元を抑えた。

 

「そんなだったからっ……わたしはっ……!」

 

 利根田は浅く、息を吸い込む。

 

「フジキセキの夢を潰してしまったっ……」

 

 深く喉の奥から、絞り出すような声だった。

 

 それはトレーナーとして、あってはならないことだった。

 教員であるものとして、人として、トレーナーとして。

 

 人選に一度のクラシックレース、皐月賞。

 逃せばどうしたって、何をしたって、どう努力しようが、何をしようが。

 もう二度と走れない、最初で最後のレース。

 

 人生たった一度の、これから一生のうちで何度も走るであろうレースよりもはるかに特別な、人生の晴れ舞台……。

 

 そんなものを、わたしは壊してしまった。

 

 そんな夢は、いとも簡単に壊れてしまった。

 

 こうも簡単に、砕け散った。

 

「わたしがっ……」

 

 幾度となくこぼしたものがまた湧き上がってきた。

 しかしどう頑張っても止まらなかった。止められなかった。

 何度、思い出しても、理解しようとしても。

 飲み込もうとしても、理解しようとしても、どうしようとしても。

 どう頑張っても、無理だった。

 

「どうすれば……」

 

 利根田はこぼした。

 

 この時初めて、利根田は誰かに助けを求めた。

 友人を避け、教え子を避け、自らを知るあらゆる人々すら避けてやってきたここで、彼女はようやく誰かに助けを求めた。

 

「――――え?」

 

 横を見た利根田は、そのまま硬直した。

 そこに、その姿はどこにもなかった。

 ついさっきまで座っていたマルヤ婆さんの姿は、見る影もなく消えていた。

 

 きょろきょろと見回す利根田の視界のどこにも、その姿は存在していなかった。

 

 幻覚でも、見ていたのか――――そんな疑念が頭をよぎった。

 まるで夢でも見ていたかのように、知らぬうちにその姿は掻き消えていた。

 

 利根田は席を立って、再びあたりを見回す。

 

 やはりどこにもいない。

 無意識に動く自らの耳にも、その足音は映らなかった。

 

 ぺたん、と利根田は椅子に座り込んだ。

 

 そして、唖然としていた。

 

 本当に、消えてしまったのだろうか?

 

 なら、なんでさっきまでは見えていたんだろう?

 わたしは、亡霊でも見えていたんだろうか……。

 

「ほいよ」

「ぎゃあっ!?」

 

 利根田は思わず飛び上がった。

 

「なんだがやびっくりした」

 

 マルヤ婆さんの声――その方を見ると、マルヤ婆さんが階段のそばに立っていた。

 両手に、ソフトクリームを持ちながら。

 その顔は、利根田を何か奇妙なものでも見るかのような表情だった。

 

 ぼ、亡霊じゃなかった……。

 利根田は胸をなでおろしかけた。が、驚かされた勢いのまま利根田婆さんに食いついた。

 

「いっ、いきなり消えていきなり現れないでくださいよ!?」

「辛気臭い話は嫌いだがや。長く続きそうだったからアイスでも買ってこようとおもったもんで」

 

 マルヤ婆さんは言いながら、利根田にそれを差し出した。

 

「食べて落ち着きや」

「い、いろいろとめちゃくちゃじゃないですか……!」

「戦争生き抜いてきた婆さんに何言っとるがや」

「コメントしづらいですよ……!」

 

 たじろぐ利根田を傍目に、マルヤ婆さんは席に着き、アイスクリームをなめ始めた。

 

「つめたっ。あまっ。年の体には響くな」

「じゃあなんで買って来たんですか……」

 

 利根田は薄い目で横に座る老人を見つめた。

 

「小さいころから好きだったがや。競バに勝った時はトレーナーに買ってもらっとった」

「そ、そうだったんですか……」

「あんときは死ぬほど高級品だったでな。賞金の一部でかっとったからほとんど自腹だった。ケチなトレーナーさんだったわ」

「は、はぁ……」

「まあそのトレーナーと結婚したし子供も産んだがね」

「……何が言いたいんですかほんとに……」

 

 利根田は深くため息をついた。

 アイスクリームを一口なめてみると、きんと冷えたクリームが舌を刺激した。

 

「ありきたりだけどが、人生は長いってこといいたかったがや。脚の怪我したことなんざ十回くらいあったけど、そんでも走り続けた……。何回走ったからわからんし、何回怪我して、何回泣いたかも覚えとらん。でもな……まあ自分が思ったことだけどが、そんな思いつめんでも大丈夫だが。まだとねちゃんも若いし、フジキセキも教え子も自分と比べたらどえらい若い。若いころは目の前のそれがすべてだ思うがや、そん時は命かけて走るけどが、今にしてみたらほかのことなんてようけある。ずっとそれだけ気にしとっても良くあれせん」

「……そうなの、かな」

「もちろん、そん時の思いが大したことないってわけじゃあれせん。そりゃ若いころの生きがいだがね。でも、思いつめすぎたらあかんわ。今のとねちゃんは思いつめすぎとる。きっとこの先いろいろ待っとんのに、楽しく思えることがどえらいあんのに、やることもずっとあるのに、ずっと自分攻めたってかんわ。皐月賞逃しただけでどうした。ダービーも菊花賞ものこっとるがや?」

「…………」

「何が残っとる? 脚はちょっと炎症起こしただけや。ダービーなら間に合うがや? フジキセキはダービー走りたがっとったがや。教え子もそこではしりゃぁいいがや。そこで勝負させたらいいがや。早く怪我見つけたんなら、そんだけ早く治るがや。前見ろとねちゃん。まだ先に何が残っとるか、良く見ろ」

 

 利根田は口をつぐんだ。

 

「…………」

「まだ、わかれせんか」

「ごめん、なさ――――」

 

 その時、突然マルヤ婆さんが手を伸ばして、利根田の腕を引っ張った。

 

「わっ――――」

 

 利根田は思わず声を出した。

 九十歳の力とは思えなかった。ぐいっ、と体が無理やり持っていかれ、立たざるを得なかった。

 

「ま、マルヤ婆さん」

「わかんないならあやまってかん。ならつれってったるわ」

「えっ!? どっ、どこに――――」

「ついてくるがね。ウマ娘にわからせんなら一番いいとこだがや」

 

 

















昔の記憶を引っ張り出して書いてます。

ウマ娘やトレーナーのステータス的なものは必要ですか?

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