もしもトレーナーがウマ娘になったら   作:ケンタ〜

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第二十五話 中京競バ場

 またバスに乗って、電車を乗り継いで、一時間が経過した。

 そしてたどり着いた場所。

 ひどく晴れた青い空の下、そこにある広大な場所に、私は立っていた。

 

『中京競バ場』

 

 巨大なひさしの屋根の下、そしてそこある入り口。

 そこで人々の群れが、ひっきりなしに出入りしていた。

 

「ウマ娘に元気出させんなら、ウマ娘の走ってるとこ見せればええ」

 

 マルヤ婆さんは入場券を購入して、すでに手にしていた。

 

 彼女の先導するまま、利根田はついて行く。

 

「ほいよ」

 

 マルヤ婆さんがチケットを提示すると、係員がすぐにそれを確認する。

 そのまま二人は入場ゲートを通り、競バ場の中に入っていった。

 

「あの、そういえば、足腰悪い、って言ってませんでしたっけ……」

「あんなもん方便だがや」

「え、一応九〇……」

「女に年のこと言っちゃいかん。心はいつまでも乙女だがね」

「え、ええ……」

 

 マルヤ婆さんに続いて歩くと、すぐに人だかりができているところが視界に入った。

 数えるのもおっくうになるほどの人がそこでひしめき合っている。

 それはすぐにわかった。パドックだ。

 

 のぞき込めば、そこには十人近くのウマ娘が、パドックで各々に体を動かしているのが見える。

 そして中央にあるのは登場舞台。ウマ娘が一人ひとり入場してくる場所だ。

 そこに、一人のウマ娘が登場する。

 名前も知らぬウマ娘。

 彼女は自らの肩に掛けた体操着の上着をぎゅっと握り掴み、勢いよく中空に放って見せた。

 

 ―――――おおおおおおおおおおお――――――!!

 

 歓声。

 そして、拍手が沸き上がる。

 すこし恥ずかしそうな顔をウマ娘がする。もしかしたら、これがデビュー戦なのかもしれない。

 そこでしばらくそのウマ娘は、自らの体を見せるようにゆったりとポーズをとって見せた。

 

 利根田は無意識にその体を見つめていた。

 

 とても、整っていたいい体だった。

 

 おそらくジュニア級のウマ娘だろう。

 しかし、均整がとれていた。

 まだまだ姿勢や重心からして荒い部分は多いが、この時期のジュニア級のウマ娘にしては十分な体の仕上がり。

 拍手と歓声が沸き上がるのも無理はない。

 逆に、これに拍手も反省も上げなければ、失礼なくらいだ。

 

 あの子の名前はなんだろう。

 

 利根田はそこまで考えたところで、ハッとした。

 

「………」

「えっ」

 

 気が付けば、利根田はパドックの最前列まで来ていた。

 自らの両手が、ぎゅっと柵を力いっぱい握っていることに気が付く。

 

「あっ、す、すみませんっ!」

 

 記憶がなかった。

 しかし、周りを押しのけ無理に前に入ったことは、彼女の周りの痛い視線を見れば、すぐにわかることだった。

 

「ごっ、ごめんなさいっ!」

 

 慌ててそこから離脱して、利根田はパドックの群れから抜け出した。

 

 そして、そこではマルヤ婆さんが、腰を曲げながら利根田を待っていた。

 しわの多いその顔が、利根田の目をじっと見つめる。

 

「す、すみま」

「レース見るぞ」

「えっ?」

 

 利根田は呆けたような声を出した。

 てっきりマルヤ婆さんが、一言二言、冗談でもとがめてくるものかと思っていた。

 

 しかし、くるりと踵を返して、マルヤ婆さんは歩いて行った。

 

「えっ、あっ、はいっ」

 

 ちらりと利根田はパドックの方を見た。

 

 もうあのウマ娘の姿はなかった。たぶんもう登場舞台から降りてパドックの下の方に言ってしまったのだろう。ここからでは人混みで見えない。舞台ではもう次のウマ娘が登場する番になっていた。

 

 そして利根田はマルヤ婆さんと一緒に、レースコース前までやってきた。

 まばらに人々が散らばり、それぞれが各々の行動をとっている。新聞を読んだり、誰かと話したり、何をするでもなくただ(たむろ)したり……。

 

 ――――広い、なぁ。

 利根田は率直にそう思った。

 どれだけ見ても、競バ場の空は広い。

 都会で生きていればここ以外では絶対に見ることのできない、どこまでも平坦で、どこまでも広がっていて、そしてきれいな青い芝。

 そして懐かしい。

 名古屋競バ場ほどではないが、何度も来て、何度も見て、何度も震えた場所だった……。

 

 どこまでも広がっているような広い空の下、この時代ではもう誰にも許されないような圧倒的に広い大地の上で、競うことを許された数十名のウマ娘たち……。

 

「とねちゃん」

「はいっ!?」

 

 いきなり話しかけられて、利根田は飛び上がった。

 

「なんか食べ物おごれ。歩いてきたからおなかすいてきたが」

「えっ、ええっ……? なんかいろいろめちゃくちゃですよもう……」

「さっきアイスおごったったがや」

 

 マルヤ婆さんはごねるような口調で言った。

 

「中央のトレーナーなら金持っとるがや」

「え、ええ……わかりましたよ、もう……」

 

 せっかく出てきた空の下から、スタンドの建物の中に入り、利根田は財布を取り出した。

 

「…………」

 

 中に入ると、利根田はあたりを見回した。

 

 変わってない……。そう思った。

 古くはないけどどこかセンスが昔っぽいそのデザイン、ショッピングモールのような雰囲気でいて天井がいくらか低いことによって生み出される謎の違和感、そしてひっきりなしに行き来する人影……。

 どこもかしこも、変わっていない。

 

 やっている売店も……そこに並ぶ人たちの様相も。

 みな、今時現金しか使えないレジの前で、財布を出して紙幣と小銭を数えて待っている。

 

 利根田は列の一つに並んだ。その後ろに、マルヤ婆さんが黙ってついて来た。

 

「いらっしゃいませ、ご注文は?」

「あ、えっと……」

 

 意外とレジはすんなり進み、すぐに利根田の番が来た。

 ちらりとマルヤ婆さんの方を見る。

 

「おんなじものでええ」

「えっ、おごれって言ったのマルヤ婆さんじゃないですか」

「ええからなんでもさっさと頼め」

「…………」

 

 もう利根田はいろいろとめんどくさくなったので突っ込むのもやめた。

 代わりにレジに向き直り、

 

「フランクフルト二つお願いします」

 

 と注文をする。

 

「お待たせいたしました、フランクフルトです」

 

 すぐにやってきたそれと、二つのパキッてやるやつをもらって、二人はレジから離脱した。

 

「ど、どうぞ……」

「ん」

 

 利根田が差し出したそれを、マルヤ婆さんが受け取る。

 そして、一口彼女はかぶりついた。

 

「パキってやる奴は……」

「ひょっふぁいからいらん」

「あ、はい」

「んー……」

 

 もぐもぐと、マルヤ婆さんは咀嚼する。

 ずいぶんと時間のかかるそれを利根田は見送らないうちに、自分もフランクフルトにかぶりついた。

 ふわっ、とざくっ、の中間あたり――――しいて言うならもぎっ?―――の感触がして、歯が衣の中に吸い込まれていく。そこまでいけば、今度はウィンナーがやってきて、ぶりんっという子気味良い感覚が歯に伝わった。

 塩辛く味付けされたウィンナーの味を、プレーンな厚い外衣が包み込んで、口の中でちょうどよくなり、『いつもの味』をおいしく脳に与えてくれた。

 

 懐かしい。

 どこか辛口すぎるウィンナーの味が、こうも懐かしく感じるとは。

 何か、不思議な感覚だった。

 

 おいしい……。

 利根田はもう一口かじりついて、それからケチャップとマスタードをかけ、再び口にした。

 

「おいしいですね、マルヤ婆さ……」

 

 話しかけようとしたところで、利根田は言葉を止めた。

 

「……まだ噛んでる……」

「とひよりだからはがよあいんや」

「なんて……?」

 

 するとようやく飲み込んで、マルヤ婆さんが再び口を開ける。

 

「年寄りだから歯が弱いんだ」

「あ、さいですか……じゃあフランクフルトじゃないほうが」

「今更別に構せんわ。ほら、戻るぞ」

「あ、はい」

 

 なんかもう慣れてきたな……。

 利根田はそう思って、マルヤ婆さんの後ろについて行った。

 建物から出て、再びレースコースの前の観客席に出る。

 

 その途端、大きな音が、耳を貫いた。

 

「い゛っ――――!?」

 

 利根田の手がひらめいた。

 瞬時にその手が頭の側面をばちんと抑える。

 見事に空ぶった手をそっちのけに、大きな音はそのまま利根田の鼓膜に切り込んだ。

 

 本バ場入場のアナウンスだった。

 

「うるさっ――――!!」

「なんだ。ウマ娘なのにそこおさえとるがや」

「慣れてないんですよ……! うるさっ、ウマ娘からだとこんなうるさく聞こえるんだ……!」

「ならなんでまだ頭の横抑えとるが……」

 

 頭上から、大きな音で、男性のアナウンス音声がやってきた。

 

『さあ、本日もやってきました、メイクデビュー戦です! 今日も新たな夢を胸にし、ターフを走るウマ娘たち! 彼女たちの人生初の一戦が、今始まろうとしています! 本バ場入場のお時間です――――!』

 

 それに次いで、後方から、がやがやと人のやってくる声が聞こえた。

 レースが始まるのと同時に、人々も外から集まってきているのだろう。

 まだそれほどでもなかったが、レースが本格的に始まるころにはもっと増えるはずだ。

 

「前行くで」

「あ、はい」

 

 柵のすぐ前までくると、もうほとんど空きはなかった。

 巨大なバズーカみたいなカメラを抱える人たち、折り畳み椅子をもって柵前で陣取る人たち、横に並んで明るい声で話す学生たち、競バ新聞を手にして真剣にコースに目を向けている人たち……。

 その中には無論ウマ娘の姿もある。それについても十人十色だ。制服に身を包んでいる地元の中学生に見える娘もいれば、中央トレセンの制服に身を包む者もいる……。

 二人はなんとか開いている隙間を見つけて、そこに滑り込んだ。

 

 やがて本バ場入場が始まった。

 

 体操服に身を入れたウマ娘たちが、一人ひとり、コースに入場していく……。

 

『一番、アロマクロークス――――』

 

「あっ――――」

 

 利根田は思わず声を出していた。

 あの子――――だ。

 

 先ほど、パドックで目にしたあの子。

 淡い栗毛をした、おでこに小さな白い模様を持った、あのパドックのウマ娘。

 

 アロマクロークス……。

 

 緊張の面持ちで、彼女は芝を踏み、入場をする。

 

 次いで、次のウマ娘が入ってくる。

 

『――――二番、ライラルウォーター』

 

 一回り、体の大きな子だった。

 漆黒の髪でずっしりとした印象を持たせるウマ娘。

 肌は少し焼けていて、若干の小麦色を呈していた。

 

 そして、三人目、四人目とみんなが入ってくる。

 

 どれもみんな、変わらず劣らずの完成度をその体に持っていた。

 そして正直なところ、あのウマ娘……アロマクロークスは、この中ではそれほどとびぬけたウマ娘ではなかった。

 それよりもむしろ、あのライラルウォーターというウマ娘のほうが、さらに頑強な印象を感じさせるものだった。

 それは体の面でも、精神の面でも。

 ライラルウォーター、このレースはこのウマ娘がもしかしたら動かすのかもしれない。そうとも思える存在感だった。

 

 それになにより、メイクデビュー戦だ。

 同じ世代、同じレベルのウマ娘が、そこには集うのだ。

 これが初めてのレース。これ以外にもとんどレースと呼べるものをしたことがないウマ娘は多くいるだろう。いや、そちらの方が多数なくらいだ。

 その中で、誰が勝つかなど全くわからない。それがメイクデビュー戦というものだと、利根田は知っていた。

 一番人気の娘が惨敗するなど、いくらでもありうる話だった。

 判断に足る参考資料などないに等しいからだ。そこで判断する材料となるのは、その娘の血筋や、練習風景や、過去のわずかな実績や、その場で見た完成度。それくらいしかない。

 しかし、それで測れないものが一つだけある。それらすべてを用いても、絶対に測れないものがある。

 

 その娘が、レースをどう走るか。

 レースで、彼女が勝てるかどうか。

 彼女たちの未来の走り方。

 

 そんなこと、誰にもわからないのである。

 これが、初めてだからだ。

 

 ある意味で平等、ある意味で誰もが初心者。

 

 走ってみないと、わからない。

 わかるはずなど、ない。

 

 ある意味で、最も予測が困難。

 

 そして、そんなことは、走る娘たちが一番よくわかっている。

 誰もが無名。隣に立つ者すらどんな走りをするかわからない。

 さらに付け加えるとすれば。

 それ本人ですら、自分自らがどんな走りをするかは知らない。

 

 それが、メイクデビュー戦。

 

 結果は、運命の女神にしかわからない。

 

 ゲートが準備された。

 そこに、ウマ娘たちが入っていく。

 

 一人、また一人と。

 ライラルウォーターも、アロマクロークスも入っていく。

 

 開始のアンファーレも知らぬ間に終わり、あとは白いスーツに身を包んだ男が、高い位置からゲートを開くだけだった。

 

 ざわめくあたりがシンとなる。この一瞬だけ、すべての観客がそれただ一つにのみ集中していた。

 そして、始まる。

 

 ガシャンッ

 

 ゲートが開いた。

 瞬間、ウマ娘たちが飛び出していく。

 

 いくらか出遅れた娘が見えた。

 しかし珍しい光景ではない。メイクデビューなら仕方ないことだ。

 

 そのままぐんとウマ娘たちは駆けていく。

 一人また一人と、自らのポジションを探しにあたりを見回している。

 これが初めての勝負。これが人生最初の一戦。

 模擬レースとは全く違う、戦場で走る正真正銘の一着争い。

 

 隊列は縦長となった。メイクデビューでは珍しい。

 実力の差のためか、それとも、一人一人の戦略がそう足らしめたのか。

 しかしいずれにせよ厳しい戦いになる。後ろの娘たちにとっては特に。

 皆同じような実力の中で、後方から飛び出し一番強いと見せつけなければならないのだから。

 そして、そんなバ群の一番後方。後ろから三番目に、アロマクロークスの姿は合った。

 焦っている。目で見てすぐにわかった。

 おそらく差しの戦略だろう。トレーナーか誰かに言われてやったはずだ。

 しかし不安なのだろう。これだけ差が開いていることを。

 

 レースを傍から見る以上に、本人たちにはもっと開いて見えるのだ。

 揺れる視界。どんどん削れていく体の体力。体を揺らすものすごい衝撃。四方八方から聞こえる同胞の音。

 その中で、先に見えるその背中は、米粒よりも小さく見える。

 実力がない方がまだ幸せかもしれない。それすら見れない余裕のない娘が利根田には見えた。

 あのアロマクロークスは優秀だ。周りがしっかり見えるだけ、彼女はとっても優秀だ。

 しかしそれは負の情報も収集する。それに精神力が追いつかなければ、それは焦りを招く負の情報として、そのままやってくる。

 

 そしてそのすぐ後ろに、ライラルウォーターの姿があるのだった。

 クロークスが気にしている。とっても気にしている。耳があちらこちらに向き、動揺と共にあたりの情報を収集している。その中で聞き分けたのだろう。

 視覚情報とまったく一致する、重く強い足音が、自らのすぐ後方に位置しているということを。

 それが寸分たがわぬリズムを刻み、ひどく落ち着きながら、自分の背を追っているということを。

 自らが、追われる側だと意識してしまう。

 そして一瞬、前にいることが多少なりとも有利だという先入観、当事者になってみなければどうしたって心の底から理解できないその感覚が、一瞬にして打ち砕かれる。

 その一瞬、心の隙ができた。

 そしてそこは、すでに第三コーナーだった。

 

『――――ライラルウォーターが、仕掛けました――――!!』

 

 実況の声が、その時初めて耳に入った。

 カーブに差し掛かったその瞬間、ぐんっと巨体が胎動した。

 その巨体を完璧に制御した動きのままで、デビュー戦でカーブで仕掛ける。

 

 誰もが出し渋ったなかで、一人だけレースを理解している。

 そんな走り方をした途端、探り探りだったレースが、一斉に本物(・・)に変わった。

 

 直線に、出た途端。

 全員が、加速した。

 最初からそこで出るつもりだったものももちろんいるだろう。

 しかし、その瞬間まで、レースという過剰な情報が常に流れ込んでくる状況の中で、自らの攻め時すら理解できなかったものもいるのだろう。

 デビュー戦では、それが圧倒的多数派となる。

 そんな彼女たちが、ようやく、全力でエンジンを入れ始めた。

 

 それが、彼女の狙いだったのだろう。

 利根田は確信した。

 

 ライラルウォーターの巨体が、躍り出た。

 一瞬にして、その先頭に。

 

 圧倒的なレースの理解力。全体の把握能力。そして、実行できる支配力。

 それらすべてが今、彼女の思い通りに発揮されて、彼女を先頭へと押し出した。

 ただのウマ娘ではない。おそらく圧倒的な才か努力か、それとも何かの天衣をまとったウマ娘か、ともかくこれから時代を背負うに値する、デビュー戦で見るべきではないウマ娘がそこにはいた。

 

 すでに残り四百メートルを切った。1600メートルを走ったウマ娘の、最後の勝負場所。

 しかし、中にはすでにスタミナが尽きたものもいる。

 こんなはずでは、と顔をゆがめるウマ娘もいる。

 余裕のあるものでは、ライラルウォーターの進撃に目を見開く者もいる。

 しかし、それにすら気づけずにただ走るしかない娘もいた。

 

 デビュー戦。ある意味平等なそのレースは、だからこそ、この先の未来に待つであろう残酷な気配を突き付けてくる。それに気づかない、気付く余裕すらないのは、まだ幸運なのかも知れない。

 

『ライラルウォーター強い強いっ! なんという走り! なんというレース! 圧倒間に先頭に、そしてどんどんと突き放して――――』

 

 そしてそんな気配すら弾き飛ばして、不幸な未来など知らぬ顔で、十数人の王座に立つ、そんなウマ娘もそこにはいる。素質か、運か、はたまた努力の結晶か。

 しかし今回だけは、その一番最初、天に恵まれた才能が、頭をちらつかずにはいられない。

 

 もう、間もなくゴールだ。

 とても珍しいレースだった。

 この先、彼女はいったいどんな走りをするんだろう。一体どんなレースに出るのだろう、どんな活躍を見せるのだろう……。

 人気はたぶん一番人気だったのだろう。勝つのに、文句はいらないはずだった。誰も文句は言わないはずだ。それどころか、こんなウマ娘が見れてよかった、とすら思うのかもしれない。

 実際、自分もそう思っている。こんな走りをするのならば、G1だって――――

 

 そのとき利根田の頭をよぎるものがあった。

 

 フジキセキだった。

 

 黒い髪、仕上がった肢体、天に裏打ちされた才の塊のような存在――――

 それが、ライラルウォーターと重なった。

 

 利根田は目を見開いた。

 

 そして、ぐっと柵を握った。

 

 ――――何が違うというんだろう?

 今自分が目にしているライラルウォーターと、フジキセキ。

 圧倒的な才能を手にするライラルウォーター。

 でも、おそらくそれ以上の実力を持っているフジキセキ。

 そんなフジキセキが壊れるところを、わたしは見たはずだ。

 なのになぜ、まるでライラルウォーター(それ)が、完全無欠であるかのように。

 その未来が保障されているかのように、思っているのだろう?

 

 圧倒的強者。圧倒的才能。圧倒的実力。

 もう勝てない。これを相手に走るなんてできない。もう戦う意味すらない。

 

 そう思う根拠は、一体どこにある?

 

 利根田は口をぎゅっと結んだ。

 

 まるでめまいが来たかのように、視界がぐらりと揺れた。

 

 

 

――――――私、は――――――

 

 

 

 左から、飛んでくる影があった。

 

 まるでがむしゃらで荒の多い走り。洗練されたとは言えないフォーム、そして呼吸の感覚。

 しかし必死で食らいつき、目の前の背を追うために、追い返すために走るその表情。

 もう勝てない、追いつくかはわからない、しかしそれでも食いしばって、腕を振って、もう意識できないほどただ全力で、がむしゃらに動かして。

 

 そんな娘が、利根田の瞳に止まった。

 

 走って、走って、ただひたすらに走って。

 もう何が待ってるかなんて知らないというふうに、そんなことはどうでもいいというふうに。

 ただひたすらに前に進むために、体を動かして、手を動かして、脚を動かして。

 ただひたすら、前に進むために。

 

 結果なんて、今から見える未来なんて、そんなものは、どうでもいいというふうに。

 

 そして、ただ、ゴールを通過した。

 

 

 

 レース結果。一着、ライラルウォーター。二着、アロマクロークス。

 

 レースは、終了した。

 

 わっ、と歓声が上がる。

 

 諸手を挙げて喜ぶもの、手を握りしめて悔しがるもの、曖昧に眉をゆがめてうなる者、友と向き合い『すごいレースだったね』と言う者……。

 

 あたりが悲喜こもごもにざわめき、レースの結果を言い合って、それぞれに感情をぶつけ合って、それでもレースの結果を飲み込んでいく。そして次のレースへ頭を向けて、皆また、この場所から去っていく。

 

 そんな中で、利根田は、微動だにしなかった。

 柵に手と額を押し付けて。

 

 利根田は、歯を食いしばった。

 

 違う、そんなんじゃない。

 圧倒的だとか、最強だとか、才能の塊だとか。

 そんなものは、意味のほんのひとかけらもない。

 そんなものはただの外側にしかすぎなくて、いや外側ですらなくて。

 違う、違うんだ。

 全部はただの今にすぎなくて、強い弱いだとか、圧倒的だとか未完成だとか、そんなのはどうでも――――…………

 ウマ娘なら、アロマクロークスなら、アウレリアなら、アインラーベルなら――――――

 

 利根田は、途端に頭に流れ込んでくる思考に、ただただ歯を食いしばった。

 

 利根田は、押さえつけていた頭を離した。

 そして、まっすぐに前を向く。

 

 目の前に、コースがある。

 今、十数人のウマ娘が走り、全力で戦ったコースが。

 走った十数人の軌跡が、そこには残されていた。

 蹄鉄の跡が、十数人の戦いの証がターフに刻まれている。

 

 つい今行われたレースの状況が、まるで投影されるように思い出された。

 

 アロマクロークス。

 利根田は彼女の走りを思い起こした。

 

 残り300メートルでの、彼女の走り。

 ぶわり、と風があって、彼女の体が目の前を通過した。

 

 わたしは彼女の走りを見ていなかった。

 利根田はそう思った。

 

 残り300メートルに至るまで、彼女の走りを忘れていた。

 

 彼女は、一体どういう思いで走っていたのだろう。

 一体何を考えて、走っていたのだろう。

 歯を食いしばって、全力で体を動かして、脚を動かして、体中で、ただ前へ前へと走っていく。

 そんな彼女の走りに、わたしはたったの残り300メートルで気が付いた。

 

 何を思い、何を携え、何を胸に、走ったのだろう。

 もう勝てない、そんな考えが、よぎらなかったのだろうか。

 

 『勝てないからって、あきらめるんじゃない』

 そんな決まり文句は、もう何回だって聞いて来た。

 わたしだってそれを知ってるし、勝てないからってあきらめたことはない。

 でも、わたしは。

 わたしは走ったことがない。

 全力のレースを、全力の戦いを。

 命を懸けた、思いを懸けた、ウマ娘たちの死闘を。

 

 ライラルウォーターは、何を考えて走っていたのだろう。

 圧倒的な精神力、圧倒的な支配力で、彼女の走りはここで通じた。

 頭には緊張はなかったのかもしれない。このデビュー戦を、勝って当たり前だとすら思っていたのかもしれない。

 そしてさらに先を見据えて、彼女は走っていたのかもしれない。

 

 でも、それは。

 

 フジキセキ。

 

 圧倒的な実力。圧倒的な精神力。圧倒的な支配力で、レースを制するその姿。

 未来を見据えて、奇跡を残して、未来の指し示す軌跡に走るその姿。

 

 まるで、同じように見える。

 

 すこし明るい彼女と、表情を崩さず入るライラルウォーターには違いが見えたけど、それでも。

 

 その二人。

 

 何が、違うんだろう。

 

 圧倒的な実力が、レースを制して。

 そして、勝てないと思わせてくる。

 でも。

 

 フジキセキは、走れなくなった。

 

 おそらくこのライラルウォーターよりも強いフジキセキは、もう。

 

 たった一つの時の運で、圧倒的(それ)は、走れなくなる。

 

 圧倒的という一つの言葉。

 

 そんな腐るほど聞いて、そして思ってきたそれは。

 一体、何なんだろう。

 

 それを追ったアロマクロークスは。

 ただ必死で、その背を追ったアロマクロークスというウマ娘は。

 

 『負け』という可能性が、彼女の頭にはあったのだろうか。

 

 彼女の走りに、そんなものは、見えたか。

 

 圧倒的を前にして。

 その背を目にして、その圧倒的に抜かれて。

 

 それでも。彼女は、走らなかったのか。

 

 いや。

 

 彼女は走っていた。

 

 全員。このレースに出た、すべてのウマ娘は。

 一人でも、走るのをあきらめていたか。

 

 それでも、走っていた。

 

 周りを見ることもできなかった娘も。

 展開を見て、絶望に走っていた娘も。

 ライラルウォーター(圧倒的)に抜かれて、最後には負けたアロマクロークスも。

 

 誰一人、走るのをやめたものは居なかった。

 しかし、誰しもが、『負け』の二文字を頭に浮かべただろう。

 

 でも、それでも。

 

 当たり前の、ことだけども。

 

 なら、なんで、走るのを、彼女たちはやめなかったのだろう。

 

 ウマ娘。

 

 何か、わたしが。

 わかっていない、何かが。

 

 そこにあるんだろうか。

 

 利根田はこぶしをぎゅっと握り締めた。

 

×

 

 レースが終わった。皆、次のレースに出るウマ娘を見るために、それともそれまでの時間を潰すために、スタジアムの中に入っていく。

 そうしてまばらになった観戦席で、二人は並んで座っていた。

 

「トレーナーの顔になったな」

 

 おもむろに、マルヤ婆さんが口を開いた。

 

「あ………」

 

 利根田は、一瞬だけ動揺した。

 すぐに、繕い、口を開く。

 

「……はい。ありがとう、ございます」

「少しは晴れたみたいだな。東京に戻る気にはなったか?」

「……はい。一人で来てたら、こんなことにはならなかったと思います。マルヤ婆さんのおかげです。ありがとう、ございます。本当に」

「そんなに褒めてもなんもでえへんぞ。ほら、アメちゃん食べるか?」

「……出るんですね。ありがとうございます」

 

 利根田はカラフルなプラスチックに包装された飴を受け取った。

 

「……まあ、なんか煮え切らんこともあるとは思うが。そこも含めて、考えてけばいい」

「……はい。……あの」

「なんだ」

「一つだけ、きいても、いいですか」

「ん」

 

 静かにうなずく。

 

「……その。マルヤ婆さんって……なんで、走ってたんですか」

「そりゃ……現役時代の話か」

「……はい。そうです」

「そうか……。うん。もう七十年も前のことになるでなぁ。あんときは、ただ走りたくて、競バ場の中に立ちたくて、走ってた。きっかけと呼べるものはなかったようなもんだった。賞なんてものはまともになくて、目指すべき路線もなくて……」

 

 マルヤ婆さんは、遠いところを見つめるかのように、その視線を中空に躍らせた。

 

「……でも、ま、これだけは言えるが。自分が、ウマ娘だから。走らずにはいられんのやろな」

「……そう、ですか」

「ウマ娘の体になっても、わからんか」

「……そう、ですね。まだ……そこが、あんまり」

 

 マルヤ婆さんは優しく微笑んだ。

 

「そりゃ仕方ない。ウマ娘でもわからんのや。もう今年で九十だけど、今思えばそれが分かったのは何年も走った後だった。それは口でも言ってもしょうがない。みんな言っとることやからな。『ウマ娘だから』ってのは。でも、本当に心でわかっとんのは、ほんの一握り。自分で、心で気付くしかないわ」

「そう、ですか……」

 

 利根田は、自らの膝に肘を預けて、しばらく思案した。

 ぎゅっ、と目をつむってみるが、あまり良い考えは浮かんでこなかった。

 

「で、この後はどうするがや」

「……そう、ですね。とりあえず、東京に帰って……。根岸が、怒ってると思うので」

「何も言わずに出てきたんか?」

「……はい。ちょっと衝動で」

「それで、名古屋競バ場に?」

「まあ、はい。一応、中京にも来るつもりだったんですけど。まずは、と」

「ほう……」

 

 にやり、と面白そうに、マルヤ婆さんは笑った。

 白い歯が、その口の隙間から小さく見えた。

 

「……なんですか。そんなに、笑って」

「はっは……そんなら、大丈夫だがね。いつか、きっとわかる。今、わからんくってもな」

「……なんですか、それ」

「いや、なんでもない。なんでも、ええ。決して、焦るな。とねちゃんなら、すぐにわかる」

「……そう、ですか?」

 

 利根田は曖昧に首を傾げた。

 

「ほんなら、このあと一時間でも暇か?」

 

 マルヤ婆さんがおもむろに話題を変える。

 

「え、っと……まあ、一時間くらいなら」

「祝勝会がある。付き合え」

「えっ……? 祝勝、会? なんで、ですか」

「アロマクロークス。自分の孫や」

「えっ……!?」

 

 利根田は飛び出さんばかりに目を見開いた。

 

「二位でも頑張ったことには変わらんがや。祝うの手伝え」

「えっ……そうだったんですか……!?」

「とりあえずケーキ近くで頼んだからな、運ぶの手伝え。それとアドバイスもしてくれると嬉しいな」

 

 利根田の抗議をまるで無視して、マルヤ婆さんは席から立った。

 そして、振り返りもせずに歩いて行く。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。彼女にもトレーナーが……わたしが勝手にそんなこと」

「いや、まだついとらん。ちょっとくらい教えてやっても罰は当たらんがや」

「えっ、ええ……」

「それに、同じ中央だが。東京戻るときに会うこともあるだろう」

「え、ええ……」

「その反応もう聞き飽きたわ。ほら、行くぞ」

「ちょ、ちょっと……!」

 

 マルヤ婆さんに、利根田はただついて行くしかなかった。

 

 ずんずんと歩いて行くマルヤ婆さんの背を、駆け足で利根田は追いかけていく。

 

 まだまだ人々満ちた競バ場は賑やかで、その間を二人は流れをさかのぼるように出口へ向かった。

 巨大なスタンドの建物を横切って、青い空の下を歩く。

 

 その途中、利根田は後ろを振りかえった。

 

 大きな入場口のひさしの下で、利根田の目は、競バ場の巨大なスタンドを見た。

 端には広大なコースがあって、もう新しいウマ娘たちが新たなレースを行おうとしている。

 

 その景色がまるで、入ってきた時とは全く別物に見えた気がした。

















補足:現実において四月の中京競馬は開催されていません。

ウマ娘やトレーナーのステータス的なものは必要ですか?

  • いる
  • いらない
  • ごかってにどーぞ
  • そんなことより続き
  • そんなことよりプリン食べたい
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