「今日は本当に、ありがとうございました。マルヤ婆さん、アロマクロークスちゃん」
もうすっかり暗くなった空の下で、わたしはぺこりと頭を下げた。
「気にするな。またなんかあったら来やぁ」
「うん、また来てね、とねちゃん!」
もう競バ場の前は、すっかり誰もいなくなっていた。
お客さんはもう全員帰った後だ。人っ子一人、あたりにはいなかった。
「それじゃあ、また」
「おう。またな」
「じゃーねー! とねちゃーーーん! トレセンでねーーー!」
クロークスちゃんがぶんぶんと大きく手を振ってくれる。
思わず頬が緩んでしまった。
元気なクロークスちゃんに小さく手を振って、わたしは踵を返した。
とても静かな道だった。
四月の涼しげな春風が、ときおり優しく吹き込んで、あたりの木々を小さくざわめかせる。
とても心地が良かった。
息を吸い込むと、ひんやりとした空気がとてもすがすがしかった。
とても、いい一日だった。
マルヤ婆さんと、出会えてよかった。
そして、アロマクロークス。
彼女のレースを、見ることができて良かった。
彼女というウマ娘に、出会うことができて。
彼女たちにあえて、いろんなことが知れた。
わたしの脚は、駅へと向かっていた。
もうかなり遅い時間だ。
はやく戻って、明日の準備をしなければ。
戻ったら、安里はきっと怒るだろうな。
みんなもきっと、心配するんだろう。
フジキセキ……彼女を放って出てしまったことも、すこし後悔してる。
でも、怖くなかった。帰ることへの恐怖はなくて、脚はとても軽やかだった。
帰ってまた、立て直そう。やってしまったことを取り戻そう。遅れてしまったことをやりなおそう……。
そう考えていると、心がとても、暖かくなった。
「おい」
「んっ!」
ぴんっ、と尻尾が天を突いた。
耳が一斉にそちらへ向く。
体の関節がぴんと張って、道の中で硬直した。
曲がり角。その向こうから、声が聞こえていた。
コツ、コツ。
アスファルトを歩く革靴の声。
角から出てきたその正体に、わたしはこぶしをきゅっと握った。
「あ、安里…………」
「よう。ずいぶんとご無沙汰だな」
なんでここに……。と聞くのは、もはや無粋だろう。
「よっ、ようこそ、愛知に…………」
「ひっぱたくぞ」
険しい顔つきをしていた。
眉を寄せて、ポケットに手を入れて、重心は片足にのせられていた。
友人根岸がする、機嫌の悪い時のアピールポーズだった。
そんな険しい口元を、彼女は大きく開いた。
「何時から出てた?」
「あっ、朝の八時です」
「いつから計画してた?」
「えっと、出発の一時間ほど前です」
「ラーベルが来たのは?」
「は、八時のちょっとまえです」
「チケットいつとったんだ」
「えっとその場で自由席のを。あとはSUIKAで」
「…………」
それきり、友人根岸は黙り込んでしまった。
静かな時間がその場に流れた。
根岸は何も言わない。
わたしは、口を開いた。
「あのっ。ご、ごめん」
そして、頭を深く下げた。
わざわざ、東京から来てくれたのだろう。
そして、こんな時間であるということは、彼女はきっと、チームホトオリのみんなのトレーニングや、ほかの業務を終わらせて、それからやっと来たのだろう。
それでも、来てくれたのだ。
「きゅ、急に抜け出して……迷惑かけちゃって、ごめん」
言い訳はできない。
今朝の自分の精神状態は忘れてはいない。『今考えるとなんでこんなことをしたのか分からない』、なんてことはない。全部わかって、わたしがしたことだ。
だから、何も言い訳はない。
ただ、目の前の友人に頭を下げた。
ふう、と。
友人がため息をついた。
びくっ、と体が震えてしまった。
「…………」
根岸が、なんどか口を開きかける音が聞こえた。
ほんのかすかな音で、けれどもわたしの耳は、それをしっかりととらえてくれていた。
何度か息を肺に吸い込み、そしてためらって飲み込む音。
そして、根岸が喉を動かす音が聞こえた。
わたしはふと顔を上げた。
「…………!」
友人はかたく唇を結んでいた。
眉にたくわえた皺は相変わらず深く、歯はぎゅっとかみしめられている。
ただ、彼女の体がかすかに震え、その目が緩み、熱いものが漏れ出していること以外は、すべて同じだった。
「っごめんっ!」
わたしは思わず駆けていた。
そして抱き着いた。
友人の体を、根岸の背を、ぎゅっと握り締めた。
「ごめんっ! 勝手に抜け出してごめん! 勝手に出てっちゃってごめん! 何も言わずこんなところきちゃってごめんっ! 突き放すみたいなことしちゃってごめんっ!」
根岸のからだは拒絶しなかった。ただこわばっていた。
わたしは腕にいっぱいの力を込めて、すべてを吐き出した。
「みんなを任せちゃってごめんっ、全部負担かけちゃってごめんっ、フジキセキのことも、みんなのことも、ぜんぶ安里一人にまかせちゃって、放り出しちゃって逃げちゃってごめんっ……!」
ううっ、と彼女の口から声が漏れた。
わたしはなおさら、腕に力が入るのを感じた。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめんっ……! っ、ほんとに、ごめん……! 安里……!」
ばしんっ、と背中に走るものがあった。
それは友人の手だった。
ぎゅっ、と力のこもった腕が、わたしの体を抱きしめた。
「勝手に行くなよっ……!」
震えた声だった。
「勝手にいくなよぉっ……! ビビるだろ、勝手にどっかいったら……! なんで私になんもいわないんだよっ、なんで相談してくれないんだよ……! 言ってくれよ、わたしに……!」
「っ、ほんとに……! うんっ、今度から、ちゃんと言うから……!」
「ばかぁ……!」
ぎゅうっ、とわたしの体は抱きしめられた。
ぽたぽたと、わたしの方にしたたるものが暖かかった。
「ごめんっ……!」
わたしも泣いていた。
勝手に涙が出てきた。
一日も分かれていたわけじゃなかったのに、とんでもなく長い間離れていたみたいだった。
ようやく会えた友人に、心の底から安堵した。
ずっと不安だった。そのことに、今初めて気が付いた。
彼女がいなくて怖かったことに、どれだけ不安だったのか。この一日、ずっと心細かったのが。
今ようやく、わたしはわかった。
「ごめんっ……帰ろ、安里……! ごめんね、もう勝手にいなくならないから……! 一緒に、帰ろ……!」
ぎゅっ、と返答があった。
「うんっ……! 帰ろう……!」
友人の声は、聴いたこともないくらいに上擦っていた。
友人のこんな姿を、わたしは生まれて初めて見た。
そんな彼女のか細い様子が、彼女の弱い部分を見て、わたしは抱擁をとくことができなかった。
そのままわたしたちは、しばらく長いあいだ、ずっと抱き合っていた。
ウマ娘やトレーナーのステータス的なものは必要ですか?
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いる
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いらない
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ごかってにどーぞ
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そんなことより続き
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そんなことよりプリン食べたい