不意に東方のお話が書きたくなりまして、でも思いつく妖怪とかは大体二次創作で書かれてしまっているので何がいいかな~と考えて考え付いたのが蟹でした。
蟹の話。
精一杯蟹らしさを出していこうと思います。
その者が明確な自己を有して自身のことを蟹だと判断したのは、僅か半刻前ほどの話である。奇妙なことに蟹は生まれて数年経って自我というものが今現在このときに芽生え、初めて住処の沼のほとりから水面に映る自分の姿を確認し蟹だと判断したのだ。
姿形はまごうこと無き蟹そのもので、それも川や池で暮らす淡水の種であり、見栄を張っている大きな左の鋏と見劣りするようなこじんまりとした右の鋏、左右四対の脚に目天突きの蟹の最もそれらしい。甲殻類の一種として体は堅牢な殻で守られているのだが、その殻が同類の黒くくすんでいる赤色とは違い、体の所々にある黄色い斑模様を除けば墨よりも黒い真っ黒の殻なのだ。もう一つ同類との相違を挙げるとするのならば、他の同類は皆々右の鋏が大きい。この黒蟹は先述したように左の鋏が大きい。気にしなければ気にしない些細な違いではある。ただ、姿形にほとんど違いがない同朋たちの中にいるとその違和感は大きい。目立つのだ。この上なく目立つ。例えるのならば、白人の中に一人だけ黒人がいるようなものである。無論、黒蟹以外の同朋たちは自我すらも芽生えていないような蟹なので、一応同類である黒蟹のことをつまみ者にするほど仲間意識はない。所詮は畜生。それも蟲と同等の存在である。それ故、生まれてからの数年間同朋たちの中で生き残ることができた。しかも、その黒い外見は陰に隠れれば見つかりにくく天敵である鳥の類から逃れることが容易い。巨大な魚は脅威だが黒い色は食欲をそそらないようで、魚は皆赤い色をした同朋を狙う。幸運にも容姿に助けられている。恵まれている。同朋よりも一回り大きくなったのは天敵が少ないからかもしれない。
月の綺麗な夜。
黒蟹は自身の巣穴である石の隙間から横歩きで這いずり出て、沼の中ほどにある巨大な岩に登り、水面に写る三日月を眺めていた。
己が自己を得たのはほんの少し前のことだ。
今まで生きることしか考えられなかった本能的自我に、我とはいったい何者なのかという自問自答の悩みが生まれたのである。
その瞬間はいつだったかは覚えていない。随分前のことかもしれない。
ただ、自分が蟹だということを判断できたのはつい先ほどのことである。
すると今まで悩みに悩んで頭の中に渦巻いていた靄が綺麗サッパリと消えるような感覚を得たのだ。
水を得た魚、もとい答えを得た蟹。
解の虫――蟹。
これは中々愉快であった。
黒蟹は水面の三日月を見ながら思った。
同時にこうも思った、
悩みを解決するのは面白いと。
黒蟹は小気味よく左の大きな鋏を二回ほど鳴らすと、水面から夜空に目を向けた。
三日月の周りには自分の黄色い斑模様によく似た星がこれでもかというほど無数に広がっていた。
『黒星』
黒蟹はこれから自分のことをそう呼ぼうと、思った。
理由はない。
強いて言うのならば、それが自分に対する答えのような気がしたからである。
星は月に負けじと輝きを増すばかりである――
★ ★ ★
黒蟹が『黒星』と名前を付けてから、幾許かの時が過ぎた。
黒星は時の流れなど気にしていなかったが、既に十年近く経っている。
黒星は大きく育っていた、それこそ他のどの同朋たちよりも大きく遂には天敵である(?)魚たちよりも大きくなり、今では専ら捕食者となり沼における食物連鎖の頂点に君臨していた。
沼の主である。
大きく育った要因としてはやはり黒星がよく悩みよく考えたからに他ならない。
他の沼に住む生き物よりも頭を使ったのである。
効率のいい捕食、効率のいい巣穴、効率のいい生き方。
悩んで考え、学んで育つ。
それは外敵から身を守ることにも役に立ち、今まであった危機からも逃げ切ることができたのだ。
そんな考える蟹こと黒星の今の悩みは自分のその巨大ともいえるような体躯についてだった。
悠に五十センチは超えているだろう。最早巣穴に住むこともかなわず、沼の中ほどにある月の良く見える岩を自分の寝床にしている。
同朋達はある日を境に皆々ほとんど成長しなくなったし、中には寿命を迎えた者も出てきている。
しかし、自分はどうかと言われれば未だにその身を大きくし続けている。
もし、このまま一生成長し続けていくとしたら、何れはこの沼より大きくなってしまうのではないか。
有り得ないような不安を本気で考えてしまうぐらいには困っていた。
悩んでも悩んでも答えなど見つからず、黒星はそこで一旦自分の体躯については考えることを諦めた。
沼に住めなくなったら、その時また考え直せばいい。
約十年生きた蟹はこの頃、問題の先送りを覚えた。
気が付けばまた、夜空に月が昇っていた。
昼からずっと考えていていつの間にか日が暮れていたようだ。
自身の真上には満月が昇っている。
黒星はカチンと巨大な鋏を得意げに鳴らした。
夜はまた過ぎ去っていく――
★ ★ ★
更に時は流れ、黒星が自己を持ってから百余年が経過した。
黒星も年を数えていたわけではないが随分と長い時間を生きているな、としみじみ考える今日この頃。
黒星は更に大きく成長していた。最早、黒星を狙う外敵などおらずときには水を飲みにやってきた鹿や猪の類を捕食するまでになった。脚を広げればその全長は畳二つ分を超え、約五メートルにもなる。
寝床にしている岩が少々手狭に感じるようになった。
薄々気が付いていたが、五十年ほど前に黒星は自分が唯の蟹ではないと確信した。
蟹の化物と呼ばれても何らおかしくないほどに成長している。
同朋達はいつの間にかどこか違う場所へ引っ越したようで、黒星は一匹取り残されることとなった。
黒星がずっと悩んでいた自分の大きな体躯ではいずれ沼に住めなくなるのではという不安は、黒星が予想だにしない形で解決した。
三十年ほど前の話である、激しい嵐の夜であった。
黒星の住んでいる沼は近くの川から水が流れて形成されているのだが、嵐の後、どうやら付近の山を流れる川が決壊したようで新たな川の流れを造り黒星の住む沼に流れるようになったのだ。
ゆっくりと沼は水位を増していき、今では湖と呼ばれるほど深く大きく変わっていた。
いくら黒星の体躯が大きかろうがこの湖程にはならない。黒星は安心を得たのである。
最近の事であるが、黒蟹は友を得た。
齢三百を超える黒星程ではないが大きな体躯を持つ、名を『玄仙』という亀である。
甲羅の左端が少し欠けているのが特徴の黒い亀だった。
出会ったのは半年ほど前で、黒星が話をしてみたところどうやら西の方にある大きな大陸からゆっくりと海を渡ってきたようだ。
三百年も生きているため玄仙は広く深い知識と経験をもっており、黒星の一つの問いについてとことん探究する性格と馬が合い、二匹は出会えば一日中会話に花を咲かせていた。
例えば、ある日はこんな会話をした。
「蟹殿は“妖”という生き物を知っておるか?」
「妖ですか?それはどういった姿形をしているのでしょうか?」
「姿形は様々じゃよ。獣の形をしておるもの、魚の形をしておるもの、中には木や蟲の妖もおる」
「それでは普通の生き物と何ら変わりがないのでは?」
「然様。彼奴等は儂や蟹殿と大きな差はない。所詮は畜生じゃ。じゃがの、妖と呼ばれるものは皆特別な力を持っておる。それに、普通に生きる生き物よりもずっと寿命が長い。故に彼奴等は自然の中では頂点に立っている者も多い。ちょうどこの湖を統べておる蟹殿と同じじゃな」
「……私は別にそのようなことは――」
「分かっておるよ、蟹殿はそのような妖とは違う。でなければ、儂はとっくの昔に蟹殿に平らげられておるわい」
「私はそのようなことはしませんよ。絶対に。月に誓ってしません」
「かかか、そうじゃろうな。――じゃが、蟹殿。これだけは覚えておいてもらいたいのじゃ。今はまだこの湖は安泰じゃ。されど、いずれは妖などが現れてこの湖の魚や貝を食い荒らそうとしてくるかもしれん。強い力を持つものほど傲慢な奴が多い。この世を我が物と勘違いしているものも中にはおる。蟹殿はこの湖を荒らされたいかのう?」
「まさか。ここは私の住処であり生まれ育った故郷です。余所者の好きにはさせません。追い返してやります」
「何事も力をもって撥ね退けるというのは善くないことじゃ。蟹殿は己が故郷を守りたいだけかもしれんが、傍から見ればこの湖を支配しているように見えるかもしれん」
「では、もし力を持った妖がこの湖を求め攻めてきた如何すればよいのですか?」
「受け入れるのじゃよ。お互いに折り合いをつけて自然の恵みを分かち合うのじゃ。それでもなお湖を荒らすよう輩なれば、いよいよ武力をもって追い出すのじゃ。よいか、妖も儂も蟹殿も同じ生き物じゃ。生まれ生き方は違えどその本質は畜生じゃ。幾ら力が有れどその力を横暴に振るってはいかん。傲慢は身を亡ぼす。世界は広く、自然は厳しい。儂ら畜生は所詮木端な存在にすぎんのじゃ。故に共存する。儂は長いこと生きてきたがやはり孤独で生きるのは難しい。蟹殿に会うまでは何度も死にかけた。蟹殿も孤独になれば儂と同じような目に遭うかもしれんし、最悪命を落とすこともあるやもしれん。……もし、どうにもならないことがあったら儂を頼れ。いや、いつだってよい。些細なことでも良い。老いぼれの儂は力はないが知識はある。微力ながら蟹殿を助けられるやもしれん。蟹殿も儂のほかにももっともっと友を作れ。孤独に負けないようたくさん作れ。さすれば、儂よりも長く生きられるじゃろう」
等々。
玄仙は様々な至言と生き抜く知識を黒星に教えていった。
よくよく教えていたのは妖のことである。恐らくそれは、玄仙は黒星の正体を妖の類だと考えていたのだろう。黒星は気が付いていないが――というより知る由もなかったのであろうが、黒星は蟹の妖である。
妖が自身のことを妖だと気が付かないというのも奇妙な話ではあるが、今までただの蟹だと思って生きてきたのだから仕方がないと言えば仕方がない。
玄仙はただの長生きした亀だが、昔は妖の友もいたこともあってか黒星の妖としての力に気が付いたのだ。
故に玄仙はゆっくりと教えていった。
それは弟子に知識を授ける師のようで、また我が子を諭す父のような教え方であった。
大きな蟹と年老いた亀は月夜の下で静かに語り合う。
不意に蟹は自前である左の大きな鋏をゆっくりと鳴らした。
音は湖全体へ綺麗に響いていく――
★ ★ ★
黒星は五百歳になった。
その頃には黒星の体躯も成長を止め、結果として全長は十メートル程まで黒星は大きくなった。
黒星は妖としての力も使いこなし自由自在に自身の体の大きさを変えられるようにまでなっている。
玄仙が黒星にその正体が妖であると告げたのは約百年前のことだ。
理由は黒星にも多くの友が出来てきたからである。中には妖の者も大勢いる。
玄仙は黒星にこれから妖として生きていけるように教えることを決断したのである。
玄仙に迷いはなかった。
黒星は既に自制を覚え、友を頼ることを知り、助け合いを行うようになっている。
そもそも、黒星が知らなければいけないことを態々教えないということもないだろう。
同時に悟っていた。これが最後の教えになるであろうことも。
黒星は賢い。
知識に対しては玄仙よりもずっと貪欲である。
玄仙が経験したことは教えつくしてきたつもりだし、これからも恐らく黒星は己が問いの答えを求め続けるだろう。
修業という意味も含め、或いは免許皆伝と言ったところであろうか。
黒星に玄仙は黒星が妖だと伝えることしたのだ。
「何でしょうか、お話とは?」
「そう、大したことではない。なに、昔のように少しばかり教えを授けようと思っての」
「教えですか。是非お願いします」
「うむ。といっても、蟹殿も薄々気が付いていることじゃろう。蟹殿自身のことじゃ」
「私自身のことですか」
「そうじゃ。敢えて黙っていたわけではないのだが、蟹殿が先に気が付いてしまっているかもしれん。じゃが、それは確信が持てるとは言いがたいじゃろう。故に儂から話しておこうと思っての。――蟹殿、いや黒星。
お主は妖じゃ」
「そう、ですか。やはり。私は妖なのですね」
「然り。蟹殿は間違いなく妖じゃろう。恐らく鍛錬すれば白河や朱啼のように“妖力”という力が使えるかもしれん。残念ながら儂はただの亀。妖のことは彼ら妖に教えを乞いなさい。儂では力不足じゃ」
「……玄仙さんは――いえ、師匠はやはり師匠です。私の知らない知識を答えをたくさん教えてくれました。今日もまた私は一つ答えを知りました。だから、これからもよろしくお願いします」
「……蟹殿、困ったときは友を頼りなさい。昔から言っておるが、このことだけは忘れなさるな」
「はい、ご鞭撻ありがとうございます」
そこで、玄仙は大きく欠伸をした。
「達者でな、蟹殿」
それが玄仙の最後の一言であった。
次の日から玄仙は深き眠りについた。
蹲るように、苔の生えた甲羅を日に当てながら、湖の中ほどにある大きな岩――昔黒星が住処にしていた岩の上で、玄仙はその長い亀の生涯を終えたのである。
黒星が他の妖と共に湖を出る決断をしたのもこのときである。
玄仙と別れた黒星は、問いの答えを探しに友と旅に出ることにしたのである。
静寂に包まれた夜空には月は昇っていなかった。
ただただ、散りばめられた星がはかなく輝いている。
その星の輝きを拾うのは湖にポツンと浮かぶ岩。
その上にある満月は朧げに反射する。
鋏の音はもう鳴らない――
昔、沢蟹を二匹ほど貰って飼い始めたことがあったのですが、貰ったその日に水槽のふたを閉め忘れて逃走。
翌朝、家で飼っている犬の小屋の前に赤い殻のような物の破片と鋏が落ちていました。
犬って蟹も容赦なく食べるようです。
幼い頃だったので結構ショックでした。
個人的には蟹は好きですがあまり憧れる生き物ではないですね。
平べったいし、食いづらいし。
でも、見ていると和みます。
お粗末さまでした。