東方蟹異譚   作:蟹ノ鋏

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作者の力不足によって長らくお待たせしてしまって申し訳ありません。
五話目です。
正確には七話なのですけれど(こまけえこたぁいんですよ)。
遅れた理由は様々なのですが、一つに話を膨大にし過ぎてちょっと引っ込みと言いますか区切りがつかなくて書ききれなくて、挙句の果てに上中下に分けてもまだ厳しいという現状になり、四月に入ってこれ以上更新を放置するのもまずいので、いまさら投降することになりました。

上中下合わせて凡そ二万文字でしょうか。
他のサイトで三万近くまで書いて投降した時もありましたが、いくらなんでも一話に詰め込み過ぎた感じがあったので、今回は少なめに区切りました。
ストックもないですし。

一応、注釈を付けます。

※この作品は二次創作です。原作とはキャラや設定や話が違うのでご注意ください。
 又、流血描写などといった残酷なシーンも含みます。(多分)
 これらが苦手な方はブラウザバックをお勧めします。

黒星の話です。永琳も出てきます。
ただ、前の話と比べて随分とほのぼのがブレイクされていますのでお気を付けください。

最後に一言、永琳は可愛い。


五話 月夜(上)

 八意永琳と黒星が同棲し始めて一ヶ月程が経過した。

 

 永琳も黒星もお互いの種族の溝が浅い者たちなので、邪険な関係に陥ることはなく、寧ろ薬学について深い知識を持つ黒星に対して永琳は意気投合し、一緒に薬の調合や把握しているレシピを教え合ったりなどして友誼を深めていった。

 黒星と永琳は僅か三十日程度の日数で友といえる関係になっていたのだ。妖怪と人間という間柄にも関わらず。

 

 永琳の怪我の調子も処置が適切であったためかみるみる快方に向かい、今では日常生活を送るには支障がない程度にまで回復してきていた。

 

 流石に弓を引くことは黒星が禁じていたし、永琳も自制をしている。

 それでも十分な回復速度だろう。

 

 それ故に二人が別れる日もそう遠くないことだった。

 

 少なくとも永琳はそう思っていた。

 

 ★ ★ ★

 

 雨上がり、雲が晴れた月夜の晩のことである。

 黒星は塒(ねぐら)にしている洞窟から離れ、夕立のせいで水位の増した激しい濁流の流れる滝の上で一人佇んでいた。

 何をするわけでもなく、ただ茫然と、星々の輝きを抑えて圧倒する満月を見上げながら、轟轟と唸る滝の瀑布を静に聴いていた。

 

「……はや一月か」

 

 八意永琳と言う名の少女を助けてからそれだけの時間が経過したことを黒星はしみじみと想い耽る。

 永琳は黒星が今まで出会ってきた人間の中では最も聡明で思慮深い少女である。

 黒星の師である玄仙と同じか、こと分野を限ればそれ以上の知識を持ち合わせている永琳には様々なことを教えられている。

 その知識は主に人間のことだ。

 

 黒星は好奇心旺盛な妖である。もともと旅に出た目的も己が知識欲を満たすがためである。

 故に自身とは違う人という生物にも底知れない興味関心をもっている。

 旅の行く先々にある人の集落を訪ねては交流し、打ち解け、彼らのことを良く学んできた。

 今回はあの街の中に入りこそしなかったが、永琳から中の様子を色々と聞き出していた。

 八意永琳は生活環境が特殊なために多少の偏りがあると本人から前置きを受けてから拝聴したそれは随分と興味深いことであった。

 

 今、その少女は洞窟の中で可愛らしい寝顔をみせている。

 

 賢く気品もあり可憐で気遣いのできる少女も寝ているときは年相応の姿に戻る。

 彼女ならば暫く音沙汰なしで街に戻っても上手く大人たちから疑念を躱すことができるだろうと黒星は確信していた。永琳ならば大丈夫だろう、と友である少女を黒星は信頼していた。

 

 

「……どうしたものか」

 

 だから、黒星が抱く不安はそこではなかった。

 八意永琳は自分のことを自分で完璧にこなすだけの器量を持ち合わせているし、黒星も永琳を送り返すことは難しいことではない。

 

 黒星が考えていることは永琳個人のことではなかった。

 

 

 

 

 今朝のことである。

 黒星がいつものように日の出とともに起床し洞窟の中で静かに薬の調合を行っていると、一羽の鳩が洞窟の中に舞い降りてきた。まだ明けて間もない早朝のことだったので永琳も気が付くことなく鳩は黒星の側に近づいた。

 

 その鳩はいわゆる伝書鳩であり、妖や稀に人同士ではよくよくつかわれる情報の伝達手段である。

 鳩の足首には小さく丸められた木の葉が動物の毛のようなもので括り付けられており、黒星は一目見て差出人が誰なのかを察した。

 

 白河と朱啼。

 黒星の友である彼らは旅の道中を共にしていて、本来ならば今現在も三体で旅を続けている予定だった。

 事の発端はあの壁に囲まれた人間の街を見たことである。

 あの巨大ともいえる街は三体の危機感を煽るには十分に足りるものであった。

 白河と朱啼はその街を見ていち早く他の妖たちに呼びかけこれに対抗すべきだと考えた。

 黒星はそんな彼らとは違い、今下手に妖たちを煽動すべきではないと友のことを案じて反対したのだが、結局のところ二対一で黒星も彼らの旅に同行する予定だったのだ。

 

 しかし、いざ旅立とうと決めた日の夜に彼らは人の襲撃に会い、そして妖に襲われている少女を助けることになった。

 八意永琳。

 彼女は壁に囲まれた街に住む少女であり、妖に襲われ川に落ち、滝から落下した彼女は片腕の骨を折り酷く衰弱していた。薬師であり多少なりとも医学の心得がある黒星はやむなく友との旅に同行することを断念し、単独で残り彼女の治療を専念した。

 

 黒星も別に完全に友との旅を諦めたわけでなく、永琳を治療し終え街に帰した後で彼らの後を追うつもりでいた。

 故に彼らと相談をして、目的の場所で落ち合うことを決めており、また各地で度々知らせを出すと約束していた。

 もちろん、道中で手紙を書くことはしないだろうが、妖の集落に着けば適宜送る手筈だった。

 黒星のいる地域から最初に赴く妖の集落はそう遠くない場所にあり、徒歩で三週間もすれば着く距離だ。

 

 

 しかし、知らせが届いたのは出発してから一ヶ月の経過した今朝のことである。

 黒星も様々なことから多少遅れるものだと思っていたし、一週間近くは待つつもりだったが、約十日過ぎても届くことの無い知らせに不安を掻き立てられていたところだった。

 

 黒星はその小さく丸められた木の葉をゆっくりと丁寧に広げ、中身を見た。

 

 白河も朱啼も字は書けない。

 黒星だってほとんど使えないと言ってもいいぐらいにしか読み書きは出来ない。

 人間もまだまだ字を使う文化は根付いていないのだから仕方がないと言えば仕方がないが。

 故に、暗号の様に簡単な記号にそれぞれ意味を持たせて、上手くいっているかどうかを知らせることにした。

 丸が書いてあればうまくいっている。一重丸はまずまず、二重丸ならば上出来。

 逆に二重線は何かよからぬことが起きた、特に二重線の上から斜めに一本線が引いてあれば最悪な事態が起きていることを知らせる記号になる。

 

 果たして、書かれていた記号は――

 

 

「――最悪なことが起きたか、知らせがこうして届いた分まだ命はあるやもしれぬが」

 

 黒星は今朝のことを思い出して、思い悩んで、低く唸った。

 

 友の身に危機が迫っている。いや、既に渦中に巻き込まれている。ともすれば、死んでいるかもしれない。

 

 居ても立っても居られない不安感が募り焦燥を呼ぶが、しかしだからと言って永琳を置いて白河と朱啼の下に駆けつけるわけにもいかない。

 

 朝方からずっと思い悩み、考えがどうどう巡って、しかし妙案が浮かぶこともなく、心を悶々とさせるばかり。

 

 白河も朱啼もずっと旅をしてきたので余程のことが無ければ心配することもないのだが、そんな彼らが最悪な事態に陥ったと知らせを送ってきたのだ。つまりは余程のことが起きた。

 彼らの手にも負えないような緊急事態が起きているとみて間違いはないだろう。

 

 書き間違いであればいいのだが、と思わずにはいられない。

 

 永琳を早く街へと届けて向かうという手段もあったのだが、森を抜けるのには永琳に合わせると半日以上はかかるし、今日は天気が優れないことを黒星は昨夜の夜空をみたときから分かっていたため、その手段は取り下げることとなった。

 

 

「やはり、明朝に永琳に理由を話して彼女を街に帰し、直ぐ様追いかけるしかないか」

 

 事情を知れば悪天候でも街へ帰ると言い出しかねない永琳の性格を鑑みて、黒星は今日一日隠し通していたが、人との関わりが少ないだけで他人の感情に機敏な彼女ならば既に黒星が何か思い悩んでいると察しているかもしれない。

 誠心誠意理由を話し、頭を下げて永琳に説明しよう、と黒星は考えていた。

 

 

 諸々の感情が折り重なり、考えに詰まった黒星は、心を落ち着かせようと夜空を見上げた。

 

 そこには神々しいばかりの大きな満月が居座っており、圧倒するような輝きが星々の光を奪うように見えなくしている。

 白く純白な月は何故か黒星の平静を掻き乱し、彼は空を見るのを止めて暫く目を瞑り心を落ち着かせることにした。

 かような、落ち着かない夜は思えば黒星にとっては初めてのことだったかもしれない。

 

 

 ――シャリン、とまるで璧が割れるような音が頭の中に響き黒星は目を開いた。

 咄嗟に周りを見渡すがそこには目を瞑る前と同じように轟轟と流れる滝と静まり返った木々が立ち並ぶだけであった。黒星は何もないことを不思議に思いながらも、特に変わったことが無かったため気のせいかと自分を納得させる。

 

 そんな黒星の意表を突くかのように唐突に黒星の眼前に一匹の黒い蝶が飛んできた。

 

 黒星は突然現れた蝶を見て一瞬警戒し、しかしよくよく観察して顔を顰めた。

 

 その蝶の姿は半透明で向こうの景色が透けており、あからさまに一般的な蝶から逸脱していた。

 闇に溶けてしまいそうな黒色は透けているために影そのものを想起させる。

 

 黒星はその蝶の正体を知っているため顔を顰めていた。

 黒星の持ちうる知識からすればこの蝶はまず目の前に現れることのない蝶である。

 だが、それが黒星の目の前に現れたということは――

 

 

 

 

 

 

「……永琳ではないな、何者だ」

 

 と、思考に耽っているところで黒星は森の方から獣とは違う生き物の気配を感じた。

 永琳とも違う、妖でもない、獣でもない、そして人間ではない。

 

「そのような膨大な気配を隠さずにこの森を通るということは受け答えをする知性ぐらいはあるだろう?」

 

 

「ええ、もちろん。ただ妖が問答してくるとは思いませんでしたので少し驚いておりました」

 

 光が現れた。

 そう表現されても仕方がない。それほどまでに強い輝きを纏った存在が森の奥から姿を現したのだ。

 その光の中心には純白な衣を纏った人型が存在した。

 背は黒星の人の姿よりも少しだけ低く、細身で繊細な体つきをしており、美男子や貴公子などと呼ばれるような容貌をしている。

 

「……いや、済まない。名乗るのならばこちらが先だな。私の名前は黒星という。見ての通り妖だ」

 

 黒星は突然現れた美男子の方を向いて凛とした態度で名乗りを上げる。

 

「……星ですか。妖の分際で随分と大層な名前を名乗りますね。――失礼、名乗り返すのが礼儀というものですね、ツクヨミと言います。覚えてもらわなくて結構です」

 

 黒星に対して柔和な笑顔を浮かべてツクヨミは名乗った。

 そこには隠していない嘲りと高慢さが滲み出ている。

 

「こうして目の前に現れたということは何用かあるのだろうか?ツクヨミ殿」

 

「いいえ、用というほどのことではありませんよ。ただのついでです」

 

 黒星は動揺もなく至って冷静にツクヨミのことを観察し、だらりと腕を下げた。

 

「ならば、一つだけ問おう。そのついでというのは初対面の相手に対し威圧の如く神力をまき散らし迫ることなのか?――三貴子(みはらしのうずのみこ)の一人月夜見命(つくよみのみこと)よ」

 

 黒星のその言葉を受けて月夜見は一層笑みを深めた。

 

「妖にしては博識なことですね。しかし、どうでもよいことです。――だってここで死ぬのですから」

 

 その瞬間月夜見の放出する神力が一気に膨れ上がった。

 瞬間、黒星がいた場所が地面を抉るようにして吹き飛んだ。

 

 水柱が揚がり腹底に響くような低く重い爆音が森中に広がった。

 土埃が舞い、遅れて水飛沫なった川の水が雨の様に辺りに降り注いだ。

 そうして、全ての水滴が落ち切ったところで土埃が収まり漸くその惨状を露わにする。

 地形が変形したことで川の流れが変わり濁流が溢れ、連鎖的に滝の瀑布も変化する。

 元の風景は消え、川の流れに飲まれ、石礫や川底の砂が散逸していた。

 

「おっと、今のを避けるなんて物凄い動きですね。まるで獣みたいだ」

 

 

「このような自然を後先構わず吹き飛ばすとは、貴殿には風情がないな月夜見殿。まるで荒神だな」

 

 いつの間にか黒星は先程の月夜見の放った攻撃を避けて川を挟んで月夜見の対岸に立っていた。

  

「獣が風情などという高貴な情景を理解できているのですか?」

 

「何を言う、月夜見殿。風情を作るのは人や貴殿のような神ではない。自然の中で生きる私達畜生や自然そのものが風情を作るのだよ。貴殿のような神が自然によって生み出されたように、趣のある情景もまた自然が作り出したものだ」

 

 黒星は下げていた両腕を胸の前で組み、左手を顎に付け思考するような仕草を取った。

 

「ふむ、それにしても月夜見殿。私は貴殿に殺されるような理由も因果もない筈なのだが。これはいったい何かの手違い、若しくは勘違いではないか?」

 

「神が妖を滅ぼすことに何か問題でもありますか?人を攫い、貪り喰らう邪な存在を許すわけがないでしょう」

 

「人を攫い、貪り喰らうか……。確かに私たち妖の大概は貴殿の言う様な存在だ。しかし、それは人食い虎と何ら変わりがなかろう。貴殿の言う通り私達は獣と遜色ない存在でもある。ある者は生きるため、ある者は自身の住処を守るため、またある者は妖や獣と異なる人間を外敵だと判断して殺すし、喰らう。それは摂理というものだろう。ごくごく自然なことだ。人も妖を敵と断じて殺すこともある。獣も妖に襲い掛かることもある。神だってその例外ではない。――だが、そんなことを行うのは理性も叡智も秩序もない愚かな一部の者だけだ。己が身に誇りを持ち、本能を統べる頭脳を持ち、風情を理解し、礼節をもって他者と向き合う――それができる者は、理由も無しにむやみやたらと誰かを襲う真似などしない。貴殿にだって理由はあろう?夜を統べる月の神よ」

 

 そう言って、黒星は腕を組むのを止め見下しも見上げもせず、真っ直ぐと眼を月夜見の双眸(そうぼう)へと向け尋問でもするかのように表情を窺(うかが)った。

 

 夜空を照らしていた月は少しずつ風によって流れてきた雲によって陰りを見せ、両者を影が覆い隠すように僅かな間薄暗い闇夜となった。

 遥か彼方、雲の途切れには一際明るい星々が見え隠れしている。

 

「……そうですね。ええ、理由はりますとも。あやか――いえ、黒星殿」

 

 長くない程度の沈黙の後、月夜見は今まで浮かべていた貼り付けたような微笑みを消して応えた。

 

「本来ならば私は貴方のような妖を殺す気も全くありませんでした。妖など掃いて捨てるほどこの世には存在しますし、私にとっては大した障害でもないですから精々脅して潰してそれで終わりでした。歯牙にもかけないどころか興味関心の対象外でしたから。危険な妖でしょうと人間たちに少し知恵を分けて退治に向かわせればそれで解決していましたし」

 

 ゆっくりと雲は流れ次第にその影は取り払われていく。

 両方の顔つきも段々と露わになっていく。

 

 黒星は理知的で凛とした態度を崩さずに月夜見を見つめ、月夜見は笑みこそは浮かべていないものの神々しく毅然(きぜん)とした余裕のある様子で黒星を見つめ返していた。

 

 

「この間、私を崇拝する人々のとある集落から幾人かの者が森へ入ったまま帰ってこないという事案が起こりました。当然、捜索が行われましたが、生きているものは一人も見つからず森の中には帰還していない者たちの衣服や装備品のみが発見され生存はほぼ絶望的だと思われました。私も人のことは人に任せるつもりでしたが、帰ってこない人々の中に見過ごせない人間が一人いたのですよ」

 

「ほう、成程。そういうことか。合点がいった。」

 

「貴方なら言わずとも既に分かっておいででしょう?それだけ博識で礼儀を重んじるのであれば。彼女という人の有能さが。彼女という頭脳がなければ人々の発展と繁栄は望めず、彼女さえいれば凡そ他の人々は概ねどうととでもなる。故に――」

 

「――故に、貴殿が彼女を助ければ貴殿は妖にとらわれた少女を助け、人々の発展と繁栄を築き、より多くそれでいて深い信仰を得ることができるという訳か。理に適ってはいるだろう。しかし、いくらなんでも一月も間を空けるというのは遅すぎやしないか?」

 

 月夜見の言葉を黒星が奪うようにして続けた。

 未だに黒星はその眼を離そうとはしない。

 

「いえいえ、遅いどころか早すぎるくらいです。彼女の生死は把握していましたから。彼女の遺品が全く見つからなかったこともそうですし、森の中に真新しい人の痕跡も発見されており、尚且つ私が直々に力を使って探しましたから。ただ、この森に漂う妖力のせいか知りませんが彼女が何処にいるのかまでは正確な位置が特定できませんでしたし。私も捜索の時間は限られていますから後二日ほどは掛かると予想していたところです。捜し始めた本日中に見つかるというのはやはり私だからなのでしょうね」

 

「…………。」

 

 黒星は月夜見の話を聞いて思うことでもあるのか、一旦考えるように俯いてほんの数秒間目を閉じた。

 

「貴方を殺すのはついででした。彼女は今頃別に付いてきた人々の手によって保護されているところでしょう。怖気づいて逃げ出すというならば見逃そうかとも考えてはいましたが――貴方は妖の中では危険すぎる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうか」

 

 黒星は顔を上げ目をそっと開いた。

 

「しかし、私も生ある畜生の身として何の抵抗もしないままむざむざと死にたくはない」

 

 ゆったりと黒星は歩き出した。

 

 大きな歩幅で、急ぐことはせず、されど止まることもせず。

 

「それに今この時も私のことを待っている友がいる」

 

 月夜見へと向かって行くその歩みは揺るがない。

 

 自然のままの険しい岩も、雨により水嵩の増した激しい川の濁流も、大きく抉られた地面も、そして月夜見の放つ暴力的なまでの強大な神力でさえ、彼の者を止めることできやしない。

 

「――永琳も私が死ぬことを望んではいないだろう」

 

 揺らぎなく、それでいて慎ましやかに。

 

 一歩一歩着実でありながら、大胆なまでにゆっくりと。

 

「そちらが私を殺すことに対して理由があるように、私も死ねない理由があるのだ」

 

 そうして、何事もなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――どうした、月夜見よ。懐が空いているぞ?」

 

 月夜見が反応するよりも早く、黒星は眼前にいる月夜見を人間の腕から姿を戻した左の巨大な蟹の鋏で横っ腹から力強く打ち付けた。

 

 瞬きする暇も与えられず鋏を打ち付けられた月夜見は弾き飛ばされて宙に体が浮いている状況において、漸く自身が黒星に距離を詰められて殴り飛ばされたことを理解した。

 

「――がっ!?」

 

 理解したところで月夜見は碌に受け身も取れずに川の上流の方へ突っ込む。

 激しく上がる水飛沫。

 視界に映る水面には月が浮かぶ。

 苦しくなる息とともに、痛みによって打ち付けられた箇所が熱を帯びていく。

 

 何が起きた?

 

 月夜見がそのことを思えたのは川に落ちてからのことだ。

 

 神力によって強化されている肉体は妖怪どころか荒神や格下の神では殆ど傷がつかないような強固さを誇るにも拘らず、まるで巨大な落石を素の状態で受け止めたかのような重い衝撃と激痛を月夜見は感じていた。

 

 人間ならば気絶するどころか死んでしまっている一撃を受けて川に落ちても、月夜見は立ち上がり黒星の方を睨みつけた。

 

「妖!何をした!!」

 

 珍しく声を荒げる月夜見に対し、黒星は動くこともせず冷静に月夜見の姿を観察していた。

 

 

 神とまともに戦える妖怪はまずいない。

 それは神の力が破邪の方へ向いているということだけではなく、圧倒的なまでに地力の差があるからだ。

 神という存在そのものがもともと妖怪よりも力量が高く、破邪の力を持ち、何よりも信仰によって膨大な神力を引き出すことができる。

 妖怪が神にとってとるに足らないというのはそういうことだ。

 

 しかし、今現在の黒星はある意味最盛期ともいえた。

 

 妖として若い彼は妖術の類を使えるわけではないが、身体能力は妖獣に一歩届かない程度に高く、蟹としての体は堅牢で大きく且つ人間の姿と使い分けることができ、能力を開花させており、冷静沈着で思慮深く博識。

 

 黒星は数百年の間一つの湖において他の妖や八百万の神々にも排斥されることなく主として居座り続けられたのは、幸運や運命ではなく純粋な力からである。

 

 彼は戦いを好みはしないが、それでも応戦しないわけではない。

 今まで友を守り旅を続けてきた彼は弱肉強食の妖の世でこうして生き抜いてきたのだから。

 

 

「さてな。私はただ歩き、貴殿をこの鋏で殴りつけただけだ」

 

 黒星は特に誇張することもなく淡々と応え、徐に左腕の鋏をカチンと一度だけ鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 月光は大地を怪しく照らしていた。

 

 




2015/06/17(水)誤字脱字修正
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