最初の悲劇は、黒星の幾年にも亘る(わたる)因縁は、このとき引き金を引かれた。
◆ ◆ ◆
月明かりのみを頼りに夜の闇に包まれる木々に隠れながら、私は黒星さんが長大な体躯の蟹の姿からいつもの背の高く細身な人の姿に戻る様子を目の当たりにしていた。
私が黒星さんを見つけたのはちょうど蟹の姿へと変化した時だった。
洞窟を出てからほんの少し経ったときに黒星さんが巨大な蟹の姿を現したおかげで見つけることができたのは幸いだった。
案の定、黒星さんを見つけたときに黒星さんは戦闘行為を行っており、私はその一部始終を目撃することとなった。
私は初めてその姿を見たのだが、黒星さんの相手――つまり敵は妖怪や獣や人間でもなく、神力を放っていることから予想通り神であり、伝説から聞いた通りの容貌をしていることから恐らくは月夜見様なのだろう。
その神々しさは圧倒的で放たれる神力は人の精神では耐えられそうにもなく倒れてしまいそうになるほど。発展と繁栄、夜の守護だけでなく狂気をも司る月夜見様の姿を見ているだけで発狂しかねない不気味な雰囲気を醸し出している。
しかし、黒星さんはそんな月夜見様に対しても臆することも力劣ることもなく圧巻たる戦いを繰り広げていた。
黒星さんが何度か襲い掛かってきた妖怪たちを追い払っている姿は見たことがあったけれども、そのような小競り合いとは及び似つかない。それ程に黒星さんの全力での戦闘は凄まじい物だった。豪快で破壊的でありながらも謀略をもって追いつめていた。特に水を使った妖術は段違いだったであろう。
神と妖、しかもどちらも力のある者同士の戦いであったため辺りの地形は変化し、地面が抉れたり木々がなぎ倒されていたりと荒れに荒れていた。
戦いの激しさを悠々と物語っている。
勝者は黒星さんだ。
最後の上空から巨体で押し潰す一撃を月夜見様は避けることも出来ずに正面から受けていた。
あれほどの攻撃を受ければ神と雖も満身創痍には違いないだろう。
人型に戻った黒星さんには遠目から見た限りでは怪我を負ってようには見えない。
よかった、本当によかった。
心の底からそう思っている私がいる。
神、それも私たちが信仰している月夜見様があろうことか妖怪に敗れたにもかかわらず、暴力的な力を見たにもかかわらず、反感も恐怖も抱かずに私は黒星さんが無事だったことにただただ安堵していた。
自分が人間として異常であることがよく分かる。
それでもどうしてもこの思いは変えることができそうにない。
私は黒星さんのことを異性として好きなのだ。
愛しい初恋の男性であり、同時に憧れの先生とも言えた。
私に兄がいたら同じようなことを想うのかもしれないが生憎と私には妹のような存在がいるだけだ。
凛々しくも逞しさを兼ね備え、智的で見聞が広く様々な分野において深い知識を有している。勇武でありながらも優しく気遣いができ気性も穏やかで、だけども情熱的な心を持ち合わせている。偏見を持たず柔和な考え方ができ、何処となく達観しているのも私の好きなところだ。
何よりも私の人生観を変えてくれた恩人であり、掛け替えのない友人だ。
そんな彼が突然いなくなり胸が張り裂けそうだった。
別れが近いことは分かっていたがそれでも到底耐えられない感情が在った。
月夜見様と死闘を繰り広げている光景を見て彼が死んでしまうのではないかと恐怖した。
思えば神などよりもずっと偉大で重要な存在になっていた。
土煙の中、怪我一つない彼の姿を見てとてもとても安心した。
警戒を解かないでいる彼の鋭い眼差(まなざ)しを格好いいと思ってしまったのは内緒の話だ。
胸の内から熱い何かがせり上がってくるのを感じる。
目蓋の裏は大洪水が起きていた。
居ても立ってもいられなくなり私は彼の下へと駆け出した。
私の足音を聞いてか、彼はこちらを向いた。
大人びているがどことなく子供らしさの残る凛とした顔つき。
振り向いてもらっただけで私は喜びにあふれた。
彼の目が私を見つけて驚きの色を見せた。
唐突に飛び出してきた私を見て驚愕しているのだろう。
私が見つめられているということが純粋に嬉しかった。
そうして、彼は少し呆けたような顔をしてから困ったような笑みを見せた。
彼の笑顔はいつも私の乙女心を刺激する。
飛びついて抱き付こうと思った。
そして、そのまま一生離れないままでいたい。
ずっとずっと別れずに、永遠に生きていたい。
――そう思っていた矢先のことだ。
彼が笑みを崩しいきなり厳しい顔つきに変化した。
何事かと思考するよりも先に私の目は捉えた。
視界の先に私たちへと迫り来る鋭い銛が見えた。
それは私が遭難する前に苦心して設計した対妖怪用のクロスボウの特殊な矢であるということを場違いにも思った。霊力の使えない人間でも妖怪と対抗しうる力を持つことをコンセプトとして設計されたそのクロスボウは厚い鉄板を貫通する威力と一度刺さったら抜くことのできない形状の矢を発射することができる。
避けようと思ったがそれは無理なことだということは設計者の私は重々承知していた。
人よりも身体能力が高い妖怪に当てるために二人がかりでどうにか抑え込める反動と引き換えに常軌を逸した弾速を実現させている。
当然、人間では体を動かすこともできない速度だ。
声も上げることができず見つめることしかできなかった。
黒星さんが私のことを庇う光景を、漠然と見ていることしかできなかった。
★ ★ ★
残念ながら黒星は防ぎきることができなかった。
左肩口に一本、左手を貫通する一本、右のわき腹に一本、そして右手によって掴まれてはいるものの威力を殺しきれず右目を潰した一本、合計四本もの銛が黒星の体に突き刺さったことになる。
発射された銛の本数は十本近くあったが半数以上は明後日の方向へ飛んで行ったり、黒星の堅い蟹の甲殻に阻まれ地面へと落ちていた。
黒星は咄嗟に永琳の前へと立塞がり庇おうとした。
約一月前に人間たちに襲撃されたときの様に蟹の姿に戻り銛を跳ね返そうとした。
しかし、時間が余りにも足りなかった。
黒星は瞬きする間に蟹の姿へ戻り自由自在にその大きさを変えることができるが、それでも瞬きする程度の時間がなければ完全に元に戻ることはできない。
永琳が設計を手掛けたクロスボウの弾速はその変化速度すらも上回り、結果中途半端に蟹の姿へ戻りかけの黒星の体に突き刺さることになったのだ。
しかし、最低限の範囲を守りきることには成功した。
永琳を守るため首から下――胴体だけは堅牢な甲殻を張ることができたのだ。
今の黒星は鎧を着ている途中の戦士のようで人間の肉体の上に黒い蟹の甲殻が中途半端に覆い被さっている状態だ。
左の鋏が大きいことが影響しているのか左半身は完璧に包まれていたが、右半身は所々隙間があり、運悪く銛の一本がその隙間に突き刺さっていた。
「…………。」
黒星は痛みに呻くことものた打ち回ることもせず、じっとその場に立ち尽くしていた。
その背に隠れる永琳を守るために微動だにしなかったのだ。
黒星の傷口からは留めなく血が溢れだしており、特に深く突き刺さった左の肩口からの出血は地面に血溜まりを作るほどの量を出している。
黒星は右手に掴んでいた銛を目玉から引き抜き地面に捨て置いた。
頬を伝わり滴り落ちる血を着物で拭い、未だ光をともす左目で辺りを見渡す。
宵闇の包む森の中、微かに月明かりを反射する光があるのを黒星は見逃すことはなかった。
「永琳よ、怪我はないか?」
ひどく穏やかな口調で黒星は永琳に語り掛けた。
自身の怪我など、どうということのないかのように。
そこには痛みに耐えている雰囲気などなく、平常と何ら変わりがない。
「く、黒星さんっ!!傷が!いや、それよりも血――」
呆けるように黒星の背中を見つめていた永琳は漸く事態を把握できたのか顔を青ざめながら慌てふためいた。
「何、この程度ならば死にはしない。私の体は頑丈にできている。君の方もどうやら無事のようで安心したよ。」
「わ、私が飛び出してきたばかりに、黒星さんに――」
後悔の念を含んだ沈んだ声で話す永琳に、黒星は振り返り静に微笑んだ。
「気に病むことはないさ。私を心配してここまで来てくれたのだろう。済まないな、心配を掛けて。ありがとう。」
黒星は責めることをしなかった。
それでも、聡明な彼女は動揺しながらも自分のしでかした愚行を責められずにはいられない。皮肉にも彼女が設計した武器は彼の身を傷つけ、心配し彼の下に駆け寄った行動は彼に怪我を負わせる原因となったのだ。やることなすこと全てが裏目に出た結果に彼女は思わず泣き目になった。
そんな永琳の様子を見て黒星は困ったような顔をしながらも、右手に着いた血を拭った後、俯く彼女の頭を優しく撫でた。
「君は間違ったことは何もしていないさ。もし、私が君と同じ立場にいたのならば同じことをしていただろう。」
叱責も咎もなく、ひたすら謝る子供を優しくあやす親の様に――。
しかし、現実は待つことをしない。
背を向けた黒星に再び森の中から凶弾が発射された。
矢よりも速く風を切って進む銛は黒星の背中を目掛けて一直線に迫るが、黒星は後ろを振り向くこともせず自身の未だに銛の刺さる左手を薙ぎ払うように振るって飛翔する銛を叩き落とした。
そして、永琳の頭から手を離すと左手に突き刺さる銛を逆の手で引き抜き、僅かに月光を反射する森の茂みを目掛け血を流す自身の体を慮ることなく力強く投擲した。
投擲されたとは思えない速さでで進む銛はクロスボウを構えている射手を串刺しにし、射手の背後の樹木へと縫い付けた。
茂みに隠れる人間の兵士たちは恐怖からか動揺し、蠢いた。
それを見た黒星は肩口に深く突き刺さっている銛を力づくで引き抜くと同じように森の中へ狙いを付けて投擲した。
悲鳴も苦痛の声も聞こえず沈黙だけが森の闇を包んだ。
隠れている人間たちは動くこともできない。寸分でも動けば標的にされるだろうし、攻撃をしようものならば投げ返される。幾度も妖怪たちを屠ってきた歴戦の兵士もいたがここまで規格外な妖怪と対峙したことはなかった。
間違いなく殺される。
そう思うに十分な実力差を見せつけられた。
黒星はわき腹に刺さる銛を引き抜いてから静かに辺りを警戒する。
――パチパチパチ。
「対妖怪用に設計されたクロスボウとその矢を何本も体に受けながらも反撃するとは、凄まじい生命力ですねえ。」
乾いた拍手が辺りに響いた。
「見栄を張らない方がいいぞ月夜見殿。放たれる神力が揺らいでいる。」
黒星は拍手をする人物、いや神である月夜見の方を向いた。
「ええ、私も心身ともにボロボロの有様です。まさか妖程度にここまでやられるとは思いませんでしたよ。」
食えない笑みを浮かべながらも月夜見の体は満身創痍に近く、頭から血を流し、左腕が折れている。羽織っている衣はボロボロで神の気品はなくみすぼらしい。
それでも、その目には狂気が宿っていた。
「黒星、貴方は余りにも危険な妖怪です。何が何でもこの場で殺すことにします。」
言った後、一瞬にして神力が爆発した。
そう表現する他ないほどの凄まじい量の神力が月夜見を中心として台風の様に吹き荒れる。
「……これほどの神力を一度に使うとなれば、ここら一帯吹き飛ぶこととなる。八意永琳も森に隠れる貴殿の信者たちも纏めて消えるぞ、月夜見!」
珍しく声を荒げて黒星は叫ぶ。
焦燥の滲む声はしかし、月夜見には届かない。
「ええ、そうでしょう。これから放つのは山をも消し去るほどの神術ですから。それぐらいの結果になってくれなれば。貴方を殺すためならば、多少の犠牲は仕方がありません。八意永琳を失うことは非常に手痛いですが、貴方ほどの賢者を妖怪の勢力から減らすことが出来たとなれば差引は無くなります。」
狂気。
月夜見の犠牲を厭わない異常さは永琳の背筋をゾッと凍てつかせた。
月を司るこの神は同時に狂気すらも司る。
幻想的で蠱惑な見る者を狂わせる光。
夜に輝く星々を呑み込む強力な月光。
「そうして、一体どれほどの犠牲を生むのだ!!貴殿の求める先には妖との闘争と破滅の未来しか無い。貴殿のその狂気が果たして幾つの犠牲を出すと思っている!?」
「犠牲があってこそ繁栄があるのです。犠牲から人は学び成長していきますから。」
「貴殿の作る犠牲は貴殿の都合のいい駒でしかない!!妖との激突を増長するだけだ!!」
「今回の件で妖怪に対して人々はますます危険視するようになるでしょう。そして兵器を作るのに躍起になる。彼らが奮起すれば八意永琳の損失は遅かれ早かれ取り戻せます。」
「……最早、貴殿とは語り合うことも無いようだ。」
黒星が傷だらけにもかかわらず再び月夜見へと迫ろうとした。
「止めてください!!」
しかし、戦いに向かおうとした黒星の腰に永琳がしがみ付きその行為を妨げた。
必至で縋るように黒星を足止めする永琳の顔は今にも泣きそうだった。
「黒星さんの体はボロボロです!これ以上戦ったらいくら妖怪とはいえ死んでしまいますっ!!相手は、月夜見様は神なんですよ!……勝てるわけがないじゃないですか。逃げましょう。逃げてくださいっ!!」
言葉の途中で涙腺は決壊していた。
二十にも満たない少女の泣き顔は見ていて痛々しいものだった。
このまま永琳と共に逃げてしまおうか?
ほんの少しだけ黒星はそんなことを考えて、直ぐに取り下げた。
今までがおかしかったのだ。人と妖が共に暮らすどころか話し合うことですら本来は異常なのだ。
確かに旅の中では比較的妖怪に対しても友好的な里も在ったが、その心の中で警戒心を常に持っていることには気が付いていたし、座して語り合えるような友として笑いあえるような経験は黒星の中では無かった。
永琳がもし黒星と共に逃げ、旅に出るとなれば必ず苦労するだろう。
魑魅魍魎が跋扈する世界は人間にとっては過酷である。
だからと言ってこのまま永琳を置いていけば彼女は月夜見に利用され続ける一生を過ごすだろう。
永琳から話を聞いている黒星からすればあまりにも悲しすぎる。
黒星は一つ覚悟を決めた。
だが、
「余所見しているとは未熟ですねえ。」
その覚悟は遅かったと言わざるを得ない。
一筋の光線が黒星と永琳の左胸を貫いた。
この戦闘描写はまだ続きます。
次話くらいで切り上げたいところですが……。
頑張ります。