PCはもう戻ってきたので、本編の更新はもう少しだけお待ちを!
この話はエデン条約前の時系列なので、事実上の過去編です。CP要素強めかも!
午後:トリニティ本校/相談室
────よく晴れた初夏の午後。
暖かな日差しと、紅茶の高貴な香りが漂う部屋。
その中でルイは、いつも通り相談室の業務に励んでいた。
「……ふむ、なるほど」
今日の来客──蒼森ミネの相談を聞いて、ルイはそう言葉を漏らす。
ミネの相談は、"近日開催されるミレニアムでの医療品展覧会へ行かないか"という誘い。
それを聞き終えたルイは、"ふふ"、と小さく笑った。
「……実は、その件は私からも誘おうと考えていたところだ」
「ぜひ、貴方と一緒に行きたいと思ってな」
ルイはそう言って、机の引き出しから2枚のIDカードホルダーを取り出して机の上に並べる。
そこには【
ミネはそれを手に取って、まじまじと眺めた。
「これは……関係者用の全日通行証ですか?」
「ミレニアム内部向けのものをどうやって……」
「ああ、それは……」
尋ねるミネにルイはなにかを言いかけ、すこし考えるように黙した。
しかしすぐに、"これはまだ非確定だが" と前置きして、語り始める。
「……実は今後、"ミレニアムに外交官として駐在しないか"、という話がティーパーティから来ていてな」
「その伝手で頼んでみたら、ミレニアム側から許可が下りたんだ」
「あちらとしても、外交官には自校の能力を知ってほしいのだろう。トリニティは良い顧客になるだろうからな」
そう伝えてティーカップを口に運ぶルイに、ミネはどこか混乱したように口を開く。
「……その、待ってください。つまり……あなたはトリニティから離れる、ということですか?」
その問いに、ルイはこくりと頷いて、持っていたカップをソーサーにそっと戻した。
「まあ、そうなるな」
「期間がどれほどになるかはわからないが……少なくとも数か月。長くて年度末まではあちらで過ごすことになるだろうな」
「……私としても、ミレニアムの技術や設備には興味がある」
「あそこで学べることは多いだろう。その機会を得られるのなら、逃す手はない」
そう言葉を終えたルイに、ミネはどこか複雑そうに答える。
「……そう、ですか。いえ、よい機会でしょう」
「その話は、ぜひ受けるべきです」
「ああ。とはいえ、この話はまだ非確定で、先の話だ」
「詳細が決まり次第、こちらからまた伝えるよ」
ルイはそう言って、"さて"と話を変えた。
「とりあえず、私はその下見も兼ねて全日参加するつもりだが……貴方はどうする?」
「ええ、もちろん私も全日参加するつもりです」
「……貴方が行くことになる場所も、見ておきたいので」
そう言ったミネは微笑みを浮かべながらも、どこか儚げな雰囲気を纏う。
友の旅立ち。それが彼女に少しばかりの悲しみを与えたことはルイの目にも明らかだった。
「……そうか、わかった」
「では、予定を開けておいてくれ。当日早朝、共に出発しよう」
「ええ、わかりました……では、また」
「ああ、また」
……そうして、今日は解散と相成った。
────数週間後。
早朝:トリニティ本校/正門前
side:ルイ
空は暗く、陽もまだその姿を見せない頃。
正門前に停めたバンの前でミネを待っていると、キャリーケースを引いたミネが正門横の勝手口から出てきた。
いつもの正装でなくすこしだけラフな私服姿で現れた彼女は、目が合うとこちらに小さく手を振りながら歩いてくる。
「おはようございます。お待たせしてしまいましたか?」
そう尋ねるミネに、私は"おはよう"と挨拶を返す。
「こちらが勝手に早く来ただけだ、楽しみで気が逸ってしまってな」
「さあ、早速向かおう。時間に余裕はあるが……先方に挨拶もしておきたいしな」
そう言って私がバックドアを上げると、ミネは持ってきたキャリーケースを車両後部に積み込んだ。
そのままバックドアを閉め、私が運転席へと乗り込むと、ミネはそれに続いて助手席へと座る。
お互いがシートベルトを閉めたことを確認してアクセルを踏み込むと、小さなエンジン音と共に車が走り出した。
[───────♪]
馴染みある道を進みながら、私たちは他愛のない会話を交わしていた。
FMラジオから流れる曲の穏やかなメロディが、登り始めた朝日と共に暖かな時間をもたらす。
そんな中で、私は"そういえば"、と話題を切り出した。
「最近、ミレニアムでは医療系の研究、開発が盛んらしくてな」
「セミナーが戦傷治療や救急医療を始めとした、医療関係の研究予算を大幅に増額したそうだ」
「おかげで、今回の展示ブース数は去年比で46%も増えたらしい。我々としてはなんとも喜ばしい話だな」
「なるほど、そう言った事情が……いただいたパンフレットも、まだ全ては読み切れていないほどです。ふふっ、期待が高まりますね」
「……そういえば、貴方はどこか気になっているブースはありますか?」
尋ねるミネに、私は"そうだな……"と思索する。
「……携帯手術キットを始めとした、"従来の医療機器を小型化、携帯可能にしよう"という試みのブースには特に注目している」
「君はどうだ?」
尋ね返すと、ミネは厚いパンフレットを鞄から取り出して、付箋の着いたページを開く。
「私はですね……AI連動ウェアラブル心電図解析器と、AI管理の負傷者用ベッド、次世代の高精度CTスキャン装置……上げてみれば、キリがありませんね」
そう語ったミネは、ドリンクホルダーに置いてあった水筒を手に取って、こくりと水を嚥下した。
「……正直なところ、私は興味のあるなしに関わらず、医療に関わる者として全てのブースを回るつもりでいます」
「せっかく貴方が両日の入場権を用意してくれたのですから、思う存分楽しみ、学ぼうかと思いまして」
微笑みながらそう語ったミネの横顔に、私もつられて笑う。
「ははは。実は、私もそのつもりでいる」
「私たちが携わっているのは直接人命に関わる仕事だからな。知識の更新は重要だ……」
そんなことを言っていると、目の前の信号が赤に変わり、私はそっとブレーキを踏む。
車が停止し、信号が青に代わるまでの僅かな時間。
視界の端、十字路の対面には、チェーンの飲食店の看板が映って……ふと、思い当たる。
「そういえば……ミネ、お腹は空いていないか?」
「これからミレニアムまで2時間はかかる。もし朝食がまだなら、どこかに寄るが」
そう尋ねてみると、ミネは少し考えて……口を開いた。
「朝食はトーストをいただきましたが……そうですね」
「現地では歩き回りますから、しっかり食べてから向かうべきでしょうか」
「わかった。なにか食べたいものはあるか?」
話している内に信号は変わり、車は再び走り出す。
窓の外の建物や店が後ろへと流れていくなかで、ミネは"ううん"と考える仕草をした。
「……私はあまり、トリニティ外で食事をすることがないので……」
「この辺りでおすすめがあるのなら、聞いてもよろしいでしょうか」
帰ってきた問いに、私は"ふむ"と唸る。
「正直なところ、私もあまり外食はしないからな……とはいえコンビニで、というのも味気ない」
「せっかくこうして外出しているのだから、なにか美味しいものを食べよう」
一旦路傍に車を停めて、ホルダーからスマートフォンを取り出す。
「近所の飲食店を調べてみよう。早朝だから、あまり選り好みはできないだろうが」
そう言いつつミネの方へと肩を寄せ、スマートフォンの小さな画面を共有する。
そこには周辺エリアの飲食店がリストアップされており、レビュー数や評価も添えられていた。
「和食、洋食……色々ありますね……」
そんなことを言いながら、ミネは指先でちょんちょんとスマホの画面をスクロールする。
「見る限り、レストランなどは流石に開いていないな……」
店を選んでいる間、スクロールの途中に流れてきたひとつの定食屋が私の目を引いた。
「……お、この定食屋は近所だし、なかなか評判が良さそうだ」
「メニューは和食中心らしいが、どうだ?」
メニューのタブを開いて見せると、ミネはそこをじっくりと見定める。
「……これなんか、美味しそうですね」
彼女の視線の先を追って見ると、そこにはアジフライ定食の写真。
「アジフライか、美味しそうじゃないか」
「私もそれにしよう。向かっていいか?」
尋ねると、ミネは"ええ"と答えた。
「よし……では、行こう」
姿勢を戻して、シートベルトを締め直す。
"ガチャッ" とシフトノブを操作してアクセルを踏むと、車は再び動き出し──5分ほどすれば、目的地の定食屋に到着した。
入り口と思われる磨りガラスの引き戸の中心には"営業中"の掛札が掛かっており、それを見たミネが安心したように息を吐く。
「よかった、営業中のようですね」
「ああ、さっそく入ろう」
そう言いながら駐車場に車を停めて、運転席から降りた。
数十分ぶりの外気は朝日の暖かさもあいまって、私たちを爽やかな気分にさせてくれる。
そんな浮き足立つような気分で定食屋の引き戸をガラガラと引き開けると、キッチンの奥で仕込みをしていたのであろう店主と目が合った。
彼はどこか意外そうな表情を浮かべながら "いらっしゃいませ!"と挨拶する。
「お嬢ちゃんたち、見ない顔だね!その校章は……トリニティの生徒さんかい?」
「ええ……ちょうど、近所を通りかかりまして」
「なかなか美味しそうなお店だな、と……」
「おっ!嬉しいねえ!」
気さくに話しかけてくる店主に、ミネは微笑みながら返答する。
私たちは空いていたテーブル席に腰を下ろし、運ばれてきたお冷をこくりと嚥下した。
「……ミネ、アジフライ定食でいいか?」
そう尋ねると、ミネは"ええ"と答えた。
「では、アジフライ定食をふたつ頼む!」
そう注文すると、店主は "はいよ!" と快活に答えて、キッチンの奥で調理を始めた。
ジュワジュワと揚げ物をする小気味よい音の中、軽く談笑していると────
「はいよ!アジフライ定食お待ち!」
活きのいい声と共に、二人分のアジフライ定食が皿に運ばれてきた。
「これは……美味しそうだな」
「ええ……」
黒漆のトレーの中には、漬け物の入った小鉢。大きな豆腐と厚いワカメの浮かぶお味噌汁に、白い茶碗に大きく盛られたお米。
なによりも目を引くのは、平皿に乗った2枚のアジフライ。
黄金色の衣を輝かせるそれを、山盛りの千切りキャベツとレモンが彩る。
機能美とも言える完成された一膳を前に、私たちは感嘆の声を漏らす。
「では早速……いただきます」
「いただきます」
十字を切るミネに続き、私も礼を済ませ……箸を手に取る。
まずは主役のアジフライを口に運ぶと、"サクッ"という小気味のいい食感の後、ふわふわとした身が、白身魚の優しい旨味と共に口に広がった。
「……!!」
そのまま白米を頬張ると、それがアジフライの油分や旨味とよく合う。
無意識にそれを飲みこんで、次に手を伸ばしたのは味噌汁。
椀を持ち、こくりと流し込んだそれは塩気と出汁が完璧に調和しており、
新鮮なワカメのシャキシャキとした食感も相まって、さらに食欲を沸き立たせる。
「「……美味しい」」
ぽつりと漏らした言葉が、ミネのそれと重なった。
私たちは目を見合わせ、ふふ、と笑い合う。
「君の選択に感謝しよう。これは……想像よりも数段美味い」
「ふふっ、本当ですね」
「これまであまり和食をいただく機会はありませんでしたが……ここまで美味しいものは初めてです」
「……そうだな。ここまでの味は、トリニティ内ではなかなか味わえないだろう」
「今度、セリナやハナエたちも連れて食べに来よう」
「ふふ、いいですね……きっと、喜びます」
美味しいご飯に会話は弾み、箸は進んで……。
10分ほどすれば、膳の上には空になった食器のみが残った。
「……ふう、ご馳走様でした」
そう言って、残ったお冷を飲み干す。
ミネも続いて"ご馳走様でした"と言って、口元をハンカチで拭った。
「……よし、行くか」
私の言葉にミネは頷き、私たちは席を立つ。
「ご馳走様でした。お会計をお願いします」
ミネがそう伝えると、店主が"あいよ!"と景気のいい返事を返して、カウンターから出てくる。
伝票の貼られたクリップボードを手にレジへと来た店主がカタカタとレジを叩くと、代金がレジの小さなモニターに表示された。
「カードは使えるか?」
財布を片手に尋ねると、店主は申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね、まだ対応してないんだ」
「……わかった。では大きくて申し訳ないが、これで」
そう言って財布からお札を取り出すと、店主はそれを受け取る。
数秒ほどすれば、レジが小気味よい音を立て、店主がお釣りを手渡してきた。
「まいど!また来てね!」
「美味かった、ご馳走様」
「ご馳走様でした、また来ます!」
店主にそう伝えて、私たちは気分よく店を出る。
外に出ると朝日はすっかり顔を出し切って、空は蒼く染まっていた。
「……すぅ、はぁ……」
澄んだ空気を大きく吸い込んで、吐き出す。
まだ行きの道中だというのに、不思議な満足感が体を満たしている。
それはミネも同じのようで、彼女も小さく声を漏らしながら、伸びをしていた。
それから心地いい満腹感と共に車内に戻った私たちは、"美味しかったね"なんて話をしながらミレニアムに続く道を運転する。
港町を抜け、市街地を抜け、荒野を走って……道中、コンビニやPAに寄りながら。
────それから3時間ほどして。
私たちはミレニアム自治区へと到着した。
午前:ミレニアム自治区/メインロード
トリニティやその周辺地域とは一風変わった、"発展" や "最先端"という言葉が似合う都市。
見慣れない景色の中、ナビに従いつつ運転する。
「ミレニアム自治区の紹介パンフレットは読んできましたが、実際に来てみると……想像以上ですね」
「そうだな……ここは道路ひとつとっても、なかなか興味深い」
「パンフレットの説明通りなら、ここの信号は交通量に応じて自動で最適な稼働をするらしい」
「運送専用の道路も整備されていて、渋滞発生率はキヴォトス中でも極端に低い。ここの交通網は、実に機能的だ」
「見渡す限り、トリニティに持ち込みたい技術、仕組みが山ほどある」
「これらを学び、持ち帰ることができれば……これは大いに実りある旅になるだろう」
語っていると、ミネは"ふふ"と笑った。
「……どうした?」
「……あっ、いえ……ふふ、嬉しそうだな、と思いまして」
「ははっ、そうだな。この機会をくれたナギサと先方には感謝しなければ」
そんなことを話していると、カーナビの合成音声が [300m先、目的地です] と告げた。
そのままナビの指示通りに進むと、視界の先にはドーム状の大きな建物が映る。
その手前には物々しいゲートが配置されていて、ミレニアムの腕章を着けたメイド姿の生徒達がゲートを通過する車両をチェックしていた。
そこから伸びる車列の最後尾に車をつけて、自分たちの番を待つ。
「彼女達がC&Cですか……話には聞いていましたが、なかなか個性的な制服ですね」
興味深そうにC&Cの生徒を眺めるミネに、私は"そうだな"と答える。
「生徒会直属部隊の制服がメイド服というのは些か古風と言うべきか、趣深いというべきか……」
「とはいえ実力は本物らしい。頼るにせよ、相手取るにせよ……侮るべきではないな」
「相手取る、ですか……ふふ、今回は荒事を起こすために来たわけではありませんよ」
「はは、わかっているさ。しかし、万が一のことは想定しておくべきかとな」
「当然、ミレニアムが敵だとは思っていない。とはいえ、味方でもないのもまた事実だからな」
そう伝えた私の言葉に、ミネは"はあ"とため息を吐いた。
「そんなことばかり考えていては、気を病んでしまいます」
「考えすぎと心配性は貴方の悪いところです。もうすこし穏当に生きた方がいいですよ」
呆れたような、それでいて心配するような。
そんな彼女の言葉に、私はそっと首を振る。
「……ありがとう。だが、誰かが考えておかねばならないことだ」
「想定外を潰しておけば、負傷者や不幸も減る。考えるだけなら誰の迷惑にもならないしな」
「……否定はしませんが……」
「まあ、今は目の前に集中しよう。ほら、私たちの番だ」
話しているうちに、検問は私たちの番になっていた。
コンコン、と車の窓が叩かれて、私達は車から降りる。
「おはようございます。1日目は招待された関係者のみ参加可能となっておりますので、通行証を見せてください」
そう告げたC&Cの生徒に対し、私とミネは首から下げた通行証を見せる。
彼女はそれをスキャンし、手元の端末と私たちの顔を見比べた。
「……天城ルイ様と、蒼森ミネ様ですね。照合できました」
「それと……天城様はこちらをお持ちください」
そう言って彼女はメイド服のポケットから黒い手帳のようなものを取り出し、私に差し出した。
それを受け取り、手帳を開くと……中には携帯端末が入っていた。
「……これは私の分だけか?」
そう尋ねると、C&Cの生徒は"はい"と答える。
「この端末は天城ルイ様にお渡しするよう、セミナーの方から指示を受けています」
「こちらはセミナー直通のホットラインとなりますので、滞在中に何かありましたらこちらをご利用ください」
「……わかった。使わせてもらおう」
端末を上着のポケットにしまうと、C&Cの生徒は深くお辞儀をした。
「これでチェックは終了です。ご協力ありがとうございました」
「それでは、専用の駐車場へご案内します。係りの者が先導しますので、ついていってください」
彼女がそう言葉を終えると、奥のゲートが開き、会場の地下へと案内された。
先導するバイクの案内に従って、私たちは地下駐車場へと車を停める。
駐車を終え、ミネと共に車を降りると先導していた係員がこちらへ仰々しくお辞儀をした。
「運転お疲れ様でした。滞在中はハイヤーを用意いたしますので、この車はここに停めていてくださって結構です」
「それでは、ご案内いたしますのでついてきてください」
「……わかった」
歩き出した係員に従い、その後ろを歩む。
……やけに物々しい対応だ。
私が次期外交官候補とはいえ、明らかに異質な待遇に……ミネへ視線を送る。
疑心と警戒を促す私の視線に、ミネは呆れたように首を振った。
彼女は"とんとん"と胸を叩いてみせると、"安心しろ"とばかりに私の前を歩いていく。
「…………」
そんな彼女に私は小さく息を吐き、二人に気付かれないよう、そっと銃の安全装置を外した。
……そして、私たちは一基のエレベーターへと乗り込む。
B2F、B1F、1F、2F、3F。
予想に反し、エレベーターはどんどん高層階へと向かっていく。
エレベーターの隅に陣取り、何が起きても対応できるように構えていると……。
"ポォン"
小さな電子音と共に、エレベーターの扉が開いた。
目の前に現れたのは、ミレニアムの制服を着こなした、紺色の髪を揺らす少女。
見覚えのある姿と、胸に着けたネームカード。
彼女の素性を理解するのに、時間は必要なかった。
「ミレニアムへようこそ。"ティーパーティの" 天城ルイさん」
彼女の発した言葉に、私の思考は一瞬停止する。
脳内で、今までの出来事が繋がっていく。
(……ああ、そういうことか)
"ティーパーティ"。
それは組織の名であるが、こと対外的な場でそれが意味するものはそうではない。
桐藤ナギサ、聖園ミカ、百合園セイア……それら派閥代表者に連なる者を指すものだ。
納得と共に、堂々と彼女の前に歩み出て、深く礼を返す。
「……手厚い歓待に感謝する、早瀬ユウカ殿」
「しかし、確かに私はティーパーティという"組織"の末席にはあるが、幹部や代理といった立場にはない」
「私はあくまで下部組織の代表で、今日はただ医療設備の視察に来ただけだ」
「誤解を与えてしまったようで、申し訳ない」
「……へっ?」
意外そうに声を発したユウカは、一瞬の硬直ののち "すみません" と断り、胸元から取り出した端末を確認する。
彼女は困惑したように数秒ほど画面を見つめて……安心したように声を漏らした。
「……あっ、いえ。今回天城ルイさんは、ティーパーティの桐藤ナギサ様の代理としての来訪ということで、トリニティ側から申し入れが通っています」
「ですので、今回はティーパーティ代理として歓迎を受けて頂ければと思います」
そう言って、ユウカは改めてお辞儀をした。
(……ナギサの代理。やけに仰々しいと思ったが……そういうことか)
「なるほど……こちらの手違いだったようだ、失礼した」
「今回受けた歓待は、仔細まできちんと報告させてもらうとしよう」
「改めて、ティーパーティの天城ルイだ。こちらは、救護騎士団の代表、蒼森ミネ」
「蒼森ミネです。この度はお招きいただき、感謝します」
私に続いてミネが礼をすると、ユウカも礼を返した。
「……ミレニアム生徒会、セミナーの会計。早瀬ユウカです」
「滞在中に何かあれば、先ほどお渡しした端末から遠慮なくお申し付けください」
ユウカはそう言って、腰のポーチから1枚の冊子を取り出した。
「さて、お時間もありますし、さっそく本題に入りましょう」
「今回のメディカルエキスポですが……昨年比で46%増、数にして174ブースもの出展がありますので、これら全てをしっかり見て回るのは厳しいかと思われます」
「ですので、ある程度目星をつけてから回られることをおすすめします」
「一応、こちらでおすすめというか、注目を集めているブースもリストアップしていますが……」
そう説明して、持っていた冊子を差し出したユウカに、私はミネと視線を交わす。
ミネも私の意図を理解してくれたのか、こくりと頷きを返した。
「……いや、ご厚意には感謝するが、それには及ばない」
「終日、私たちは全てのブースを見て回るつもりだ、得られるものは全て得たいしな」
そう伝えると、ユウカはすこし驚いたように瞬きをして、"了解しました"と答える。
「それでは……早速会場に向かわれますか?」
「開場まではまだ時間がありますが……"すべて回る"ということなら、少し早めに入っても問題ありませんよ」
そう尋ねるユウカに、私はすこしだけ思考して、首を振った。
「いや……その前に、そちらに確認しておきたいことがある。いいか?」
私の言葉に、ユウカは姿勢を正す。
「……はい。何でしょうか」
それに小さく頷きを返して、話を始める。
「……私とミネは医療部門の責任者でもある。当然、医療技術の発展には大いに期待している」
「よって……価値があると判断した研究や、技術に対する投資は惜しむつもりはない」
「……単刀直入に聞こう。ミレニアムとして、外資が自校の研究に絡んでも構わないか?」
尋ねると、ユウカは顎に手を当て "少々お待ちください"と唸る。
それから十数秒ほど考えて、ユウカは口を開いた。
「現在、セミナーの会長が不在のため、今この場で詳細な話はできかねますが……」
「一応、ミレニアムの方針としては、"研究が進むのなら構わない"という姿勢です」
「ですが、"研究内容に対して干渉しない"という条件は呑んでいただくことになります」
そう伝えたユウカに、私は即座に"了解した"と答える。
「こちらも、元より干渉するつもりはない」
「まあ、詳細な話はエキスポの閉幕後にするとしよう」
「わかりました。では……この話はまた後ほど」
こうして話は終わり、ちらりと腕時計に視線を向ける。
時刻は10時47分。開場まで間もない。
「……そろそろ開場だ。私たちはこの辺りで失礼しよう」
「何かあれば、これで連絡して構わないか?」
そう言ってゲートで受け取った手帳を見せると、ユウカは "はい" と頷きを返した。
「ありがとう。では、我々はこれで」
「共に実りある日になることを祈るとしよう」
「はい。良い一日を!」
見送ってくれるユウカと別れ、私たちは再びエレベーターへと乗り込む。
エレベーター内で待機してくれていたC&Cの生徒がパネルを操作すると、エレベーターはゆっくりと降下を始め……地上階へと到着した。
ゆっくりとエレベーターの扉が開くと、広大な空間が目の前に広がる。
「……ここが会場か。想像より広いな」
トリニティの大講堂の倍はあろうかというドーム状の空間には、所狭しとブースが並ぶ。
それを見たミネはすこし興奮したように、きょろきょろと周囲を見回した。
「これが全て、医療品のブースですか……!」
「この規模を全て回るとなると……ふふ、楽しみです」
嬉しそうに笑うミネに、私もにこりと笑みを返す。
「そうだな。では早速、目に付いたところを回るとしよう」
そう言って、私たちはとりあえず目の前のブースへと目を向ける。
すると、ブースの受付に座っている生徒と目が合った。
「こんにちは。ここはどんな物を?」
尋ねてみると、彼女はびくりと体を震わせて、すこしどもりながら答える。
「あっ!えっと、傷の具合を監視して、治癒に最適な環境をリアルタイムで整えるデジタル絆創膏です!」
「デジタル……絆創膏ですか?」
「はい!まだ研究段階ですが、裂創や切創等の大きな傷に対して使用することで迅速に、かつ傷跡が残りにくいように傷を治癒できる効果が見込まれています!」
彼女はそう説明しながら、ケースの中に入れられた機械を見せてくれた。
それはニーパッドのような形状をしていて、絆創膏の名の通り、傷に被せて使うことが見てとれた。
「……なるほど。確かに、"傷跡が残りにくい"というのは大きな需要を見込めそうだ」
「ええ。実用化の暁には、トリニティにも是非欲しい設備ですね」
「……ありがとうございます!」
「今後の発展を期待するよ。それと、パンフレットを貰っても?」
「もちろんです!ぜひお読みになってください!」
「ああ。帰ってから、じっくりと読ませてもらうよ」
貰ったパンフレットをポーチにしまって、私たちは隣のブースへと進む。
訪れたブースの中心には、小さなストレッチャーが鎮座していた。
「こんにちは。ここではどんな物を?」
受付へ声を掛けると、カウンターの裏で何かを記帳していた生徒が顔を上げた。
「あ、こんにちは。ここでは救急車用のストレッチャーと防振架台を展示してます」
「走行中の振動をAIが検知して、それを完璧に打ち消すことを目的とした機械ですね」
そう説明しながら、彼女はラミネートされたパンフレットを渡してきた。
そこには理屈やら実験結果が記載されており、ざっと見る限りはかなり有用なものに思える。
「実用化された際の導入コストと維持費は嵩みそうですが……頭部挫傷患者を救護する際にはぜひ欲しい設備ですね」
「ああ……爆発事故等の有事を想定するなら、何台か導入しておく価値はあるだろう」
会話しつつ私とミネがパンフレットを読み込んでいると、受付の生徒が "あの" と声を掛けてきた。
「折角ですし、寝てみませんか?百聞は一見に如かず、とも言いますし」
彼女の提案に、私たちは顔を見合わせる。
私服のミネに対して、それなりの装備を着込んでいる私。
どちらが適しているかは明らかだ。
「……なら、君が寝てみてくれ」
そう言いながら肩をすくめて見せると、ミネは私の意図を理解したように"そうですね"と答える。
「では、失礼して……」
ミネはポーチとハンドバッグを私に預け、ストレッチャーに寝転がった。
「では、行きますよ……それなりの悪路想定で行きます」
受付の生徒はそう言って、手元のスイッチを押す。
すると、ガタガタと音を立てて架台が揺れ始めた。
「…………おお……!」
感嘆の声を漏らすミネは、床の揺れに対してほぼ動いていない。
傍目でもその性能は理解できる。従来のものでは中々こうはいかないだろう。
……十数秒ほどして。
揺れが収まったストレッチャーから降りたミネは、どこか興奮したような表情を浮かべていた。
「……すまない、私もいいか?」
そう尋ねてみると、受付の生徒は"もちろんです"と答えた。
結局、好奇心に負けた私はストレッチャーの上に寝転がることになった。
「では、いきますよ……」
その声と共に、ガタガタと架台の下が動き始める。
揺れの存在は感じるものの、従来のものを知っている身からすれば殆ど無と言っていい。
「なるほど、これは……」
心地良ささえ感じる体験を終えて、ストレッチャーから降りる。
ミネに預けていた上着やらを受け取りながら、私たちは言葉を交わす。
「……これは素晴らしい。ぜひ導入を検討するべきだな」
「同感です。帰ったら予算を申請してみましょう」
そんなことを話しながら、持参したパンフレットにメモを残す。
想像以上に長居してしまった。研究チームの連絡先をもらって、私たちはブースを離れた。
────それから、私たちは数十ものブースを回り。
気がつけば、時刻は16時ごろに差し掛かっていた。
「……ん、はぁ。少し疲れてきましたね……お腹もすきましたし」
「確かに、脚が疲れてきたな……昼食もまだだし、休憩しよう」
そう言って、私たちは会場隅のベンチに腰掛ける。
ポーチから取り出したのは、エナジーバーとゼリー飲料。
ミネの分も差し出すと、彼女は "ありがとうございます" と受け取った。
「こんなものしか用意していなくてすまないな」
「いえ……外へ食べに出るくらいなら、これで充分です」
「その代わり、夜は美味しいものを食べましょう」
「ああ、そうだな」
「折角食べるなら、ミレニアムの名物か……」
そこまで言って、特にその辺りの下調べはしていなかったことに気付く。
さてどうしようかと考えながらゼリー飲料を飲んでいると、ひとつ良いことを思い付いた。
「…………」
そっとポーチからユウカから預かった端末を取り出し、メッセージアプリを開く。
そこには予想通り、 [早瀬ユウカ] という連絡先が載っていた。
[個人的な質問ですまない。ミレニアムでおすすめのレストランや、名物などあるだろうか]
[エキスポに夢中で夕食をどうするか考えていなかったゆえ、迷っている]
メッセージを送信して、"ふう"と息を吐く。
完全に私的な連絡だが、こういったことも外交には必要だ。
ゼリー飲料を飲み終え、ゴミを纏めていると、端末が何度かぶるりと震える。
すぐに端末を開くと、ユウカからの返信が来ていた。
[こんにちは。エキスポは楽しんでいただけているでしょうか?]
[さて、ご質問の件ですが、いくつか私おすすめのお店をご紹介します]
[ホームページのリンクを添付しますので、ぜひ検討してみてください]
そのメッセージの下には、6件のリンクが添付されている。
「早瀬ユウカにおすすめを聞いてみたんだが、どれか行ってみたいところはあるか?」
送られてきたリンク群を見せて、ミネに尋ねる。
「レストラン、ピザ専門店、カレー屋さん、スイーツ食べ放題……」
「どれも気になりますね……」
悩ましげに唸るミネと共に、私も自分の携帯でページを開く。
「どれも気になるが……やはり気になるのは、このピザ専門店だな」
「ミレニアムのピザは美味いと評判だ。君さえ良ければ、今日はこれでどうだろう」
そう尋ねてみると、ミネは"良いですね"と頷いた。
「では、夕食はピザということで」
「ふふっ、楽しみにしておくとしましょう」
微笑むミネに、私も笑みを返す。
「ああ。私も楽しみにしておくよ」
そうして、夕食選びも終わり……ユウカには感謝のメッセージを送っておいた。
「よし、ではブース巡りに戻ろう」
そうして、私たちはベンチから立ち上がった。
夜:ミレニアム自治区/エキスポ会場
[──本日の展示は終了しました。ご来場の皆さまはお気を付けて────]
閉場のアナウンスの声を背に、私たちは会場を後にする。
半日ぶりの外。夜のミレニアムは、きらきらとした夜景を湛えていた。
夜風で体を涼ませながら、私たちは会場外の道路を歩く。
少し歩くと、ユウカから先ほど届いた案内通り、会場の外には黒塗りの車が停まっていた。
手を上げて近付くと、それは私たちの姿を認識したのか、"カチャ"と後部座席の扉が開く。
「……わざわざ迎えに来てもらってすまないな」
そう言いながら私たちが後部座席に乗り込むと、運転席の生徒が振り返る。
「こんばんは、天城様。 今日のドライバーを務めます、新敷と申します」
「この後にご予定が無いのなら、このままホテルに向かいますが……いかがなさいますか?」
そう尋ねた彼女に対して、私は "いや" と口を開いた。
「ホテルに向かう前に食事に行くつもりだ。場所は……ここだ」
先ほどユウカに紹介されたピザ専門店の地図を見せると、運転手は "かしこまりました" とハンドルを握る。
間もなく車は走り出して……私は"ふう"とシートに背を預けた。
「……予想以上に、充実した一日だったな」
「そうですね……さすがに、疲れました……」
早朝にトリニティを出て数時間の運転。
到着間もなく半日近く歩き回り、情報を頭に詰め込んだ私たちには、当然疲労が滲んでいた。
普段は疲労の気など見せないミネも、今日ばかりは例外のようだ。
共にシートに体を預けて、目を瞑る。
「……ですが、それ以上に……楽しかったです」
「ああ……同感だ」
小声で、囁くような言葉を交わす。
静かに移動する車の僅かな揺れが心地よく、意識はだんだんと遠のいていく。
呼吸を重ねるうち、気付けば私は眠りに落ちていた。
「────てください。着きましたよ」
ミネの声が、私を微睡から引き上げる。
「ん……すまない、眠ってしまっていたか」
重い瞼を開くと、ミネが私の顔を覗き込んでいた。
目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。
「おはようございます。着きましたよ」
彼女の言葉通り、フロントガラスの先には"PIZZA"の文字が大きく掲げられた看板が映る。
「ん……はぁ」
軽く伸びをして車を降りると、赤レンガ造りの建物が私たちを出迎えた。
駐車場に漂う香ばしく焼ける生地の匂いが、私たちの鼻腔を刺激する。
目覚めた食欲に背を押されるようにして扉をくぐると、
店内は見た目よりも狭く、想像よりも庶民的な内装だった。
しかし、中の雰囲気からはこの店がまごうことなき"名店"であることが感じ取れる。
店員に促されるまま、ミネと共にテーブルに座ってメニューを広げてみると、そこには美味しそうなピザの写真がいくつも載っている。
「かなり種類が多いな。……どれにしようか」
「この"マルゲリータ"なんか、バジルやトマトが乗って美味しそうですよ」
「確かに、それも良いな……しかし、この"イタリアン"なんかもチーズが沢山乗っていて美味しそうだぞ……」
逡巡。迷った末、"両方食べたい"というなんとも強欲な結論に至る。
「……両方注文して交換しないか?」
「ふふ、いいですね。そうしましょうか」
微笑むミネに頷きを返し、テーブルに備え付けられたタブレットでピザを注文する。
それからしばらく待っていると、私たちのテーブルに2枚のピザが運ばれてきた。
たった今焼き上がったのだろうそれは、抗いがたいほどに私たちの食欲をそそる。
逸る気持ちのままに"いただきます"と告げて自分のピザを手に取り、口に運ぶと……。
「……美味い」
トマトソースの酸味とチーズのまろやかさ。そして奥に潜む僅かな辛味。
噛むたびに変わる旨味の波が口内で巻き起こる。
焼きたての生地のサクサクとした食感も相まって、食べ進める手は止まらない。
気付けば手に取った1枚を食べきって、この美味しさをぜひ共有しようとミネの方へと目を向ける。
「……!!」
その時、視線が重なった。
きっと、ミネも同じことを考えていたのだろう。
きらきらと輝く瞳が、それを物語っていた。
「……ぜひ、食べてみてください」
「ああ、私のも」
互いに多くは語らず、ピザを交換する。
受け取ったそれを口に運ぶと……。
「美味しいですね……!」
「ああ、美味いな……!」
互いに、ほぼ相違ない感想を交わす。
本当に、それしか言えないくらいに美味いのだ。
「……あまりこういった物を食べる機会は無かったが、なかなかに良いものだな」
「特に、今のような空き腹には沁みる。まるで疲れを吹き飛ばすかのような、暴力的な旨味だ」
「そうですね……正直、ここまで美味しいと思っていませんでした」
「あまり味付けの濃いものは好みではありませんが……これはなんと言うか、それでも食べたくなる不思議な魅力のようなものがありますね」
談笑しながらピザを食べていれば、あっという間にピザは無くなってしまった。
「……ふう、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした……」
ほとんど同時に食べ終えた私たちは、コップに入った水を飲み干す。
ふう、と息を吐き出せば、食後特有の穏やかな、だらりとした空気が互いの間に流れ始めた。
「……さて、そろそろ帰るか」
「ええ。長居するのも悪いですしね」
ミネの言葉に頷きを返し、会計票を持ってレジへと向かう。
そのまま会計を済ませて、私たちは店を出た。
……夜の街が私たちを迎え、初夏の風が私たちを撫でる。
どこか心地よいそれに吹かれながら車に戻ると、運転手が"おかえりなさい"と出迎えた。
「他にご用事はございますか?」
「いや。今日はもうホテルに帰るよ」
そう伝えると、運転手は"かしこまりました"とハンドルを握った。
間もなく車が走り出すと、私たちはシートにもたれ、脱力する。
到着まですこし休もうか、と目を閉じると……コートの中から、ぶるぶると振動を感じた。
セミナーから渡されたものではなく、私用の端末だ。
そっと取り出し、番号を確認する。
相手は……"桐藤ナギサ"。
……彼女がこんな時間に電話を掛けてくるのは珍しい。
すぐに応答ボタンを押下し、イヤホンを引き出して耳に当てる。
[こんばんは。遅い時間にすみません]
「いや、大丈夫だ。どうかしたか?」
[いえ……楽しんでいるかな、と思いまして]
[ふふっ、お二人とも、とても楽しみにしておられるようでしたから]
「ああ。おかげさまで、素晴らしい一日を過ごせたよ。ありがとう」
「色々と報告したいこともできたが……なにぶん量が多い。帰ったらまとめて報告する」
[なるほど……了解いたしました]
[ところで、今は何をされているんですか?]
話題が変わると同時に、声色も変わる。
重要な話であることを察し、一段と声を小さくする。
「今は……夕食を食べ終えて、ハイヤーでホテルに向かうところだな」
[ふむ……ミレニアム側のドライバーと、ミネ団長がご一緒、ということですか?]
「ああ、そうだ」
[では……お一人になったら連絡をください]
[たいした話ではありませんが、あまり聞かせるようなものでもありませんので]
「了解した。では……おやすみ」
[ええ、お待ちしております]
それを最後に、通話は切れた。
訳ありな様子だったが……まあ、それは後で聞けばいいだろう。
そう判断して、再びシートに背を預ける。
すると、隣で目を瞑っていたミネが、微かな声を発した。
「……ナギサ様ですか?」
「……ああ。"楽しんでいるか" とね」
そう答えると、ミネは複雑そうに眉をひくりと動かして、小さくため息を吐いた。
何かを察したかのような態度が、彼女の感情を伝える。
「特になんでもないさ。今回はあくまで"ティーパーティの視察"というていだからな」
「体裁上、確認の電話をしたんだろう」
そう取り繕うと、ミネは一旦納得したのか、"なるほど"と呟いた。
そのまま彼女は再び目を閉じて、車内には静寂が満ちる。
車のドアに肘をかけて、車外の景色を眺めているうち……私の意識は、眠りに落ちていた。
夜:ミレニアム自治区/セントラルホテル
ぐん、と車が停車する感覚で目が覚める。
ぱちりと目をひらけば、暖色の光が車内を照らした。
同時に、運転手がこちらへと振り返る。
「……到着いたしました」
「ご要望でしたら、こちらでチェックインの手続きも行いますが……」
まだ眠っているミネに気を遣ってか、運転手は小さな声で提案した。
「……ありがとう。頼んでもいいだろうか」
「かしこまりました。では受付に行ってまいりますので、車内でお待ちください」
そう言って車外へと出た運転手は、ホテルのエントランスへと向かっていった。
「…………」
本来なら断るところだが……ちょうど、一人の時間が必要だったところだ。
ミネを起こさないよう、そっと扉を開いて車外に出る。
周囲に人目がないことを確認して、携帯を取り出した。
数度のコール。通話はすぐに応答される。
「……もしもし、私だ」
小声で伝えると、ナギサの声が返る。
[……こんばんは。早かったですね]
[本当は、しっかりとお話ししたいところですが……そうもいかないでしょう]
「ああ。話せるのは3分ほどだろう」
[……承知いたしました。では、単刀直入に申しましょう]
[ルイさん。貴方にはこのままミレニアムに滞在し、明日から外交官として内情を探って欲しいのです]
「……意図を聞こう」
そう尋ね返すと、ナギサはひとつ息を吸って、話し始めた。
[セミナーの会長、調月リオが今現在、ミレニアムを"不在"にしているのはご存知でしょうが……]
[その実態は不在でなく、"完全な行方不明" である可能性が高いと、情報部より情報があがってきています]
[加えて、ミレニアムは現在、深刻な資金不足に陥っているという情報もあります]
[しかも……その原因は "膨大な使途不明金"によるもの、という話も出ているのです]
「…………」
無言をもって、傾聴を示す。
[……ミレニアムの"ビッグシスター"は究極の合理主義者です]
[それを考慮するのなら……調月リオは、ミレニアムは何かに備えていると見るべきでしょう]
[エデン条約の調印も近付いています、不安要素は可能な限り排除しなければなりません]
[……とはいえ、ミレニアムと敵対するつもりはありません]
[むしろ、ミレニアムとは末長くお付き合いさせていただくつもりです]
[あくまで穏当に、できる限りの情報を集めてください]
随分急な話だが、しかし彼女が気を揉むのも理解できる内容だ。
当然、私の答えは決まっていた。
「委細承知した。そのようにしよう」
「では、私は情報収集に努めるとしよう」
[……感謝いたします。それでは明日、貴方にミレニアム駐在外交官の任を与えます]
[加えて、本件については貴方に全権を委任いたしますので、お好きなように動いていただいて構いません]
[急なお話で、無礼と取られるかもしれませんが……]
[これが私からの、最大の信頼の表明であると言わせてください]
どこか苦しげなその言葉には、彼女の気苦労が伺える。
……エデン条約の締結を前にして、ナギサは随分忙しくしていた。
そんな彼女の一助となれるのなら、光栄とも言えるだろう。
「了解した。……君の信頼に応えられるよう、全力を尽くす」
「では、一旦ここで失礼する」
[ええ、また]
それを最後に、通話は切れた。
素早く携帯をしまい、車内へと戻る。
ミネはまだ眠っており、運転手が戻ってきた様子もない。
シートに座り直して待っていると、間もなく運転手が戻ってきた。
「……お待たせいたしました」
「手続きが済みましたので、エントランスで案内を受けてください」
「お荷物は既にお部屋に届けてありますので、ご心配なく」
「了解した。では……私たちはこれで」
「……ああそうだ。君には世話になったことだし、チップというわけではないが……」
そう言って財布を出そうとすると、運転手はそれを片手で制した。
「お気持ちだけで結構です。就業規則で、"何も受け取るな"と言われておりますので」
「……そうか。では、敬意と感謝を。」
「セミナーにも、礼を言っておく」
そう伝えて、ミネの肩を揺する。
「……起きてくれ、ホテルに着いたぞ」
すると、ミネはパチリと目を開く。
数度瞬きをしたかと思えば、彼女はむくりとシートから背を離し、"ぐぐ"、と腕を伸ばした。
「……んぅ……はぁ。おはようございます」
ミネはそう言って、鞄やポーチを持つ。
私もそれに続いて荷物を持つと、"カチャ"、と扉が開いた。
「……では、ご乗車ありがとうございました」
「ゆっくりお休みください」
「ああ、おやすみ」
「運転ありがとうございました、おやすみなさい」
そして、私たちは車を降りる。
そのままホテルのエントランスへと向かうと、
私たちを迎えたのは想像以上に豪奢な……というよりも、機能美的にスタイリッシュな空間。
ミレニアム直営らしく、エントランスには青と白を基調とした近未来的な設備がいくつも誂えられており、椅子や机はもちろん、備品のペンやクリップボード一つ取っても機能美とスタイリッシュさを感じる。
ところどころに飾られた前衛芸術的なオブジェや絵画も、この空間に独特の雰囲気を齎していて……。
「……すごいな。これがミレニアムのホテルか」
「……トリニティのホテルとはかなり趣が違いますね」
「特に、あの像などはなかなか独創的というか、前衛的というか……」
そんなことを話しながらきょろきょろと内装を鑑賞していると、メイド姿の少女が一人、こちらへと近寄ってきた。
「……おかえりなさいませ。天城ルイ様と、蒼森ミネ様ですね?」
メイド姿の少女は、そう言って恭しくお辞儀をして見せる。
「今日と明日、お二人がここ、ミレニアム・セントラルホテルにご宿泊になるとセミナーの早瀬ユウカ様より仰せつかっております」
「ご宿泊中は我々C&Cが誠心誠意おもてなし致しますので、ぜひごゆるりとお休みください」
メイド姿の少女は仰々しい挨拶を終えて、ちらりと私たちを一瞥する。
「……それでは、お部屋にご案内させていただきます」
そう言ってゆっくりと歩き始めた少女に続き、私たちも歩き出す。
エントランス横の通路を抜け、少し歩くと"関係者以外立ち入り禁止"と書かれた重厚な扉の前に辿り着いた。
「お二人の部屋はVIPルームとなりますので、アクセスするにはここを抜ける必要があります」
「ご宿泊の間は、このIDカードをお使いください」
彼女はそう言って、黒いカードを差し出す。
それを受け取り、扉へかざしてみると、扉はゆっくりと開いた。
その先には、一基のエレベーターが鎮座する。
「あちらのエレベーターで上がった先が、そのままお部屋となっております」
「設備等はご自由にしていただいて構いません。なにかご不明なこと等あれば、備え付けの内線をご利用ください」
「……それでは、私はこれで」
彼女はそう言葉を終えて、深々とお辞儀をした。
そのまま入ってきた扉が閉まり、エレベーターホールには私とミネが残される。
「ずいぶん、仰々しい出迎えでしたね……」
「流石はミレニアム最高級のホテルと言うべきでしょうか」
「そうだな……しかし、まさかこんな宿まで用意されてしまうとは」
「恩の売り合いでは、一歩先を行かれたと言うべきか……」
話しているうちに、小さな電子音と共にエレベーターの扉が開いた。
私たちが乗り込むと、扉がひとりでに閉まって、ゆっくりと上昇を始める。
「……まあ、おかげでゆっくり休めそうだ」
「時間ももう遅い。夕食も済ませたことだし、今日はお風呂に入って寝るとしよう」
「ええ、そうですね……流石に、すこし眠いです」
言っているうちに眠気が来たのか、ミネは小さくあくびをした。
「私も、流石に疲れた……さっと寝支度を済ませてしまおう」
そして、エレベーターは目的階へと到着し、ゆっくりと扉が開く。
途端。目の前に広がったガラス張りの夜景が、私たちの心を掴んだ。
「まあ、綺麗ですね……!」
キラキラと星のように輝く夜景に、ミネは感嘆の声を上げた。
彼女は靴を脱いで、広々としたリビングへと歩きだす。
私もそれに続き、靴を脱いでミネの隣へと歩み寄った。
眼下には、無数の光が広がっている。
「幻想的な景色ですね……」
「ああ……地上からの景色も中々楽しめたが……これは、一線を画している」
「なんと言うべきか……あえて言うのなら、ロマンティックだ」
「……人類の紡いできた技術や、過去に託されてきた願い。」
「それらの結実としてこの景色が生まれたと思えば、これはなによりも美しい景色と言えるだろう」
「……たしかに、この景色は人の願いそのものかもしれません」
「人類に繁栄を命じた主も、きっとこの景色をお喜びになっているでしょうね」
「はは……そうだといいがな」
「しかし、道はまだ途中だ。この景色に感嘆はしても、満足している余裕はないだろう」
「ええ……そうですね」
そう言って、ミネは"ふう"と息を吐いた。
「……ふふ、なんだか、変な気分ですね」
「明日も早いですし、お風呂、入ってしまいましょうか」
「ああ、そうだな」
私たちは夜景に背を向け、入浴の準備を始めるのだった。
深夜:ミレニアム自治区/セントラルホテル
二人で使うにはかなり広い浴場で、私はミネの背中を流していた。
慣れた手つきで彼女の翼を洗っていると、ミネが小さく声を漏らす。
「……すまない。痛かったか?」
「いえ、少しくすぐったくて……このまま続けてください」
「わかった」
専用のシャンプーを泡立てながら、ミネの翼を手櫛で優しく梳く。
雨覆から風切羽へ、羽軸をなぞるようにして丁寧に洗って……数分ほどで、翼の手入れは終わった。
「よし、流すぞ」
「……お願いします」
シャワーヘッドを片手に、ミネの翼へとお湯をかける。
きちんとシャンプーを流さないと羽が痛んでしまうゆえ、丁寧に、かつ優しくシャワーをかけていく。
「…………」
1分ほどすれば、羽に付いたシャンプーを流し終えて……ミネは"ぱた"、と羽を軽く払った。
小さく飛んだ水飛沫が体に当たって、ぽたぽたと大理石の床へと落ちていく。
「……では、次は私が」
ミネはそう言って立ち上がり、椅子に座るように促す。
それに従って椅子へと腰を下ろすと、ミネはそっと私の背にボディタオルを添えて、ゆっくりと背中を擦り始めた。
"ごし、ごし"と、彼女も慣れた手つきで私の背を流す。
……有翼の生徒同士では、こうして背や翼を洗い合うことが多い。
自分で自分の翼を手入れするとなると、それなりに面倒な手段を講じる必要があるためだ。
特に、私とミネは訓練や救護騎士団の業務等で入浴時間が遅くなるため、一緒に入ることが多い。
お互いの背や翼を洗うのも、もはや慣れたものだ。
……そうしているうちにミネは私の背を流し終え、翼へと手を伸ばす。
羽毛の中へと指が差し込まれ、撫でるように梳かれる感覚に、ぞわりと背が震えた。
「痛くありませんか?」
「……大丈夫だ。むしろ、心地いい」
「……それは、よかったです」
私の返事を聞いて、ミネは再び手を動かし始める。
その度に、言いようのない幸福と安心が体に広がっていく。
力を抜き、じっと翼を任せていると……ミネの手が、私の翼から離れた。
「……流しますね」
「……ああ、頼む」
"しゃあ"と鳴り始めたシャワーの音にすこしだけ名残惜しさを感じながら、羽に着いたシャンプーを洗い落としてもらう。
じわりと暖かな湯が翼に触れ、流れ落ちていく。
そのまま心地良い感覚に身を任せていると、ぴたりと水が止まった。
「……はい、終わりましたよ」
ミネはそう告げて、私の羽をそっと撫でた。
「ああ、ありがとう」
水に濡れた羽を伸ばして、ぱたぱたと翼を何度か払う。
すこし水気が落ちて軽くなった翼に、私は"ふう"と小さく息を吐いた。
「……よし、入ろうか」
「ええ、そうですね」
私たちは全身を軽くシャワーで流して、大理石で
広々としたそこへ並んで腰を下ろすと、首から下を温かなお湯が包んだ。
「「…………ふぅ……」」
うっとりと漏れ出た吐息が重なる。
一日の疲れが溶け出すような感覚に……思わず目を閉じて、深呼吸をする。
「いいお風呂ですね……」
「ああ、そうだな……」
その言葉と共に、"ちゃぷ" と水が跳ねる。
身体にかかる僅かな水圧が、まるで
入浴剤の甘いアロマも相まって、力がゆっくりと抜けていく。
「……今日は実に有意義で……いい一日だった……」
「ええ……私も、とても楽しかったです」
「朝からドライブをして、共に展示を見て回って……」
「一緒にお夕食を食べて、こうして同じお風呂に入る」
「本当に……いい一日でした」
ミネはどこか照れくさそうな声色で言って、私の肩にそっと手を置いた。
肩に感じた感覚に、閉じていた瞳を開くと……視線が交わる。
すると、ミネはゆらりと視線を揺らして……。
「……本当は、貴方の門出を祝うべきなのでしょうね」
「引き留めるようなことを言うつもりはありませんが……貴方がミレニアムに行ってしまうのは、寂しいです」
寂しげに語ったミネに、返す言葉に詰まる。
……私は、明日から外交官としてここに残ることになった。
しばらくはミレニアムから出られないだろう。
予期されていたとはいえ、唐突な別れだ。
それを伝えるか、それとも今は黙っておくか。心中は揺れる。
……それでも、本心は告げておきたかった。
「……私も、トリニティを離れるのは寂しい」
「君を始めとした友人たちと離れ、ここに一人残るのは、後ろ髪を引かれる思いだ……」
そう伝えて、大きく深呼吸をする。
続く言葉に、最大限の感情と、覚悟を乗せるために。
「……だが、今日ここに来てみて……覚悟は決まった」
「ミレニアムは素晴らしい場所だ。私はここで技術を学び、一人でも多くの人間を救ってみせる」
「……そのために、君にも、誰にも恥じぬよう、邁進するつもりだ」
「だからどうか、優しく見送って欲しい」
心中を言語と変え、吐き出した。
────しかし、肝心のことは言えないまま。
……私の隣に座るミネの表情は伺い知れない。
数秒の沈黙が浴場を支配する。
その直後、ぐいと肩を引き込まれた。
「……もちろんです。貴方の選択なら、私は応援します」
私を抱きしめたミネは、耳元で優しく告げる。
「拝任までの間、たくさん思い出を作りましょう」
「今日のように外へ出たり、遊びに行ったり……お食事をしたり……」
そう語るミネに、罪悪感が湧き上がる。
「……すまない、ミネ」
「……?」
口を衝いて出た言葉に、ミネは無言の疑問を返す。
「……私はこの視察をもって、外交官としてここに残ることになった」
「急な決定だった……つい先ほど、ナギサに意思の確認をされてな」
「"急だから、断ってもいい"……そう言われたよ」
「……だが、迷いはなかった」
その言葉に、ミネは一瞬息を詰まらせて……沈黙する。
「……すまない」
漏れ出た謝罪が重なると、ミネは深呼吸をして……抱く力を強めた。
背に伝わる感触が、彼女の感情を雄弁に語る。
「……わかりました」
「ルイ。貴方の門出を、祝福します」
「貴方の旅路に……幸多からんことを」
ミネは優しく、子に言い聞かせるように穏やかな声色で言って、私を抱く手を緩めた。
彼女の胸元から離れて、私たちは視線を交わす。
「……ありがとう」
本心から出た感謝を告げる。
ミネは少しだけ間を置いて、"ええ"と答えた。
……それから、数秒の沈黙が流れる。
湯気をまとった、温かく、沁み込むような時間。
別れを前にして、お互いに過去を想っている。
出会い、そして共に邁進した日々。
その全てが名残惜しく、誇らしい。
「……感謝している」
思い出の結実をまとめ伝えると、ミネはぱちりと目を開いて……ふっ、と笑った。
「……こちらこそ、貴方には感謝しています」
「……ふふ、そうか」
「それなら、お互い様だな……」
私たちは静かに笑いあって、そっと湯船の端へ背を預ける。
この空間はなんとも心地よくて……溶けるように眠ってしまいそうだ。
「「…………」」
それはミネも同じなのか、どこか眠そうに瞳を揺らしている。
……そろそろ、上がるべきか。
さぱ、と湯船を立つと、眠たげなミネの視線が、私をなぞる。
「……上がろう。このまま寝てしまいそうだ」
「……ええ、そうですね」
言葉少なに湯船から上がった私たちは、脱衣所へと向かった。
────30分後。
「「…………」」
髪と翼を乾かし終えた私たちは、備え付けのネグリジェを着て、寝室のベッドへと寝転がっていた。
非常灯の暖かな光の中、穏やかな眠りに向けてただ脱力する……心地良い時間。
「……ふぅ……すぅ……」
ふたつのベッドの間にできた谷を挟んで、静かに呼吸を重ねる。
なにかを話そうとしていたはずなのに、しかし疲労がそれを許さない。
もはや体を動かす気も失せた中で、私たちは緩やかな瞬きを繰り返す。
そのままゆっくりと瞼が閉じて……眠りに落ちた。
早朝:ミレニアム/セントラルホテル
「…………んぅ……?」
ふかふかと包まれるような感覚に気付く。
普段と違う感覚。微睡の中の逡巡で、全てを思い出した。
「……ああ……」
ゆっくりと身を起こして、大きく伸びをする。
人が目覚めたことを認識したのか、部屋のカーテンがゆっくりと開いて、部屋に朝日が差し込んだ。
ゆっくりとベッドから降りて、外の景色へと目を向ける。
朝日に照らされた都市は、昨夜の夜景とはまた違った美しさを湛えていた。
「……おはようございます」
背後で聞こえた声に振り返る。
そこでは、おなじく目覚めたのであろうミネが微笑みを浮かべていた。
「……ああ、おはよう」
「よく眠れたか……という問いをするには、あまり時間が経っていないな」
「もし寝足りないようなら、7時ごろまで眠っているといい」
そう伝えると、ミネは "いえ"、と首を振った。
「貴重な時間です。これ以上眠りに費やしてしまうのはもったいないですから」
「……そうだな。それなら、さっそく朝ごはんにしようか」
「支度を終えたら、ここのレストランに行こう」
「いいですね。ミレニアム流の朝食……なかなか興味深いです」
話は決まって、私たちは共に洗面台へと向かい……朝の支度を始めた。
早朝:セントラルホテル/レストラン
私たちは共に正装へと着替えて、ホテル内にあるレストランに来ていた。
個室へと通された私たちは、まず提供されたミレニアム特産のコーヒーに舌鼓を打ちながらメニュー表に目を通す。
「…………」
モーニングメニューもなかなか種類が多く、どれにしようかと迷っていると……"ぶるり"、とポケットの端末が震えた。
「……すまない、セミナーから通知が来てしまった」
メニューを吟味しているミネにそう断って、セミナーから渡された端末を取り出す。
メッセージアプリを開くと、"早瀬ユウカ"から2件の通知。
[朝早くにすみません。直接会ってお話したい事があるのですが、よろしいでしょうか?]
[お時間はお任せします。開場前でも閉場後でも構いませんので、ぜひお手隙の際に返信をお願いします]
「…………」
このメッセージから、いくつかの意図が透けて見える。
まず、私を呼び出したいという意思。
そして、それほど切迫してはいないという余裕だ。
トリニティ側へ緊急で連絡したいことがあるのか、あるいは……私個人に対するなにかか。
私が今日、外交官に任命されることが漏れたか?
……ミレニアムという土地柄、ありえなくはない話だ。
それに、ナギサが敢えて漏らしたという可能性もある。
下手に勘繰るよりは、堂々としていた方がいいか。
[了解した。食事を終えたらそちらに向かう]
[迎えを手配してもらっても構わないか?]
そうメッセージを送ると同時に、"既読"の小さな文字が表示された。
[速やかな返信、ありがとうございます]
[迎えを手配しますので、到着したらお知らせしますね]
[ミレニアムの本校でお待ちしております]
[わかった。感謝する]
[では、本校で会おう]
そうメッセージを終えて、端末をポケットにしまう。
ミネはあくまでこちらを "気にしていない" というような態度を取ってくれているが、ちらりと見えた視線からは好奇心を感じ取れた。
「……セミナーに呼び出されてしまった」
「今から迎えを寄越すらしい。食事を終えたら向かうとしよう」
素直にそう伝えると、ミネはすこし思案するように目を細めて、"そうですか"と呟く。
「朝早くから呼び出しとは……すこし、不穏ですね」
「そうだな……十中八九、私が今日外交官に任命されることが漏れたと見るべきか」
「なにぶん唐突な就任だ。相手方が困惑しているのだろう」
「とはいえ、こちらには敵意も害意もない。堂々としていれば問題ないはずだ……」
そう言いながら、私はコーヒーを一口飲んで、メニュー表へ目を戻す。
和洋中華にエスニック。キヴォトス中のメニューが並んでいる。
ざっと100はありそうなそのメニューからひとつを決めるのはなかなかに難しく……。
「……ミネ、君はどれにする?」
しばらくメニューを見つめていた彼女に尋ねてみる。
すると、ミネはそっと自分が持っていたメニュー表を私に見せてくれた。
"モーニングティーセット"と題されたそのページには、
黄金色に輝くホットケーキと、バスケットに収められたサンドイッチの写真が並ぶ。
「……ミレニアムに来てまでティーセット、というのはすこし面白みに欠けてしまいますが……」
「ここで出されるティーセットは如何様な物か、と気になってしまいまして」
「なるほど。確かにそれは気になるところだ」
そう言いつつ、私もモーニングセットのページへと目を滑らせる。
ざっと見てみる中で、ひとつ、目を引く物を見つけた。
「それなら……私は逆に、こちらにするとしよう」
そう言って、私は自分の持っていたメニュー表を見せた。
私が選んだのは、"ミレニアム・スペシャルクイックモーニング"と題されたセット。
"忙しいあなたにおすすめ!"と大きく記載されたそこには、
銀色のトレイに、ブロック型の栄養食とペースト状に均された名状しがたい何かが乗り、
その隣には怪しい錠剤がいくつか乗せられている。
明らかに観光客向け……というかジョーク、あるいは悪ふざけのようなメニュー。
「…………本気ですか?」
それを見せられたミネは、驚いたような、困惑したような言葉を漏らした。
想定通りの反応に、私は "ははは" と笑いを返す。
「安心してくれ。どうやら、このメニューはただの悪ふざけではないらしい」
そう言いながら、私は"ほら"とメニュー表の左下に書かれた説明を指差す。
そこには "分子美食学に精通したシェフが全力で仕上げた、究極のディストピア飯を召し上がれ!" という一文が添えられており……それこそが、このメニューを選んだ理由だった。
「分子美食学。科学的観点から調理による食材の変化を研究し、それに基づいて料理を作るという分野だな」
「創作料理を極めたい料理人や、食事を芸術と見做す前衛的なシェフなどが参入する分野だが……これを食べられる機会というのは、そう多くはない」
「どうだ、興味が湧かないか?」
そう伝えると、ミネは"なるほど……"と呟いて、メニューを置いた。
「確かに、面白い試みですね」
「……私も、興味が出てきました」
「ふふ、そうか……それなら、すこし多く作ってもらおう」
「君も味見してみるといい」
そう伝えると、ミネは嬉しそうに頷きを返した。
これで、メニューは決まった。
呼び出しのボタンを押すと、すぐにメイド服を着たウエイターが部屋に入ってきた。
「モーニングティーセットをひとつと、この……ミレニアム・スペシャルクイックモーニングをひとつ」
「もし可能なら、クイックモーニングの方は多めに作ってくれないか?」
「彼女も分子美食学に興味があるようでね」
そう伝えると、ウエイターは手早く伝票に注文を書き込んで、"かしこまりました"と礼をした。
「それでは、すぐにお作りいたしますので、こちらでお待ちください」
注文をメモし終えたウエイターは深くお辞儀をして、部屋を出ていった。
────それから10分ほどが経つと、"トントン"と部屋の扉がノックされる。
"お待たせいたしました"、と運ばれてきたのは、メニュー表通りの美しい見た目をしたティーセット。
サンドイッチやティーポットなどがミネの側に手際よく並べられていき、ものの1分ほどで本格的なティーセットが揃う。
それらを並べ終わったウエイターは、一度部屋から退室し……すぐに戻ってきた。
その手には、銀のトレイがひとつ。
「……こちら、ミレニアム・スペシャルクイックモーニングです」
その言葉と共にテーブルへ置かれたトレイには、メニュー表通りのペーストやらブロック状の栄養食が乗っている。
配膳を終えたウエイターは小さく礼をして、口を開いた。
「こちらは少々特殊な料理となっておりますので……僭越ながらご説明させていただきます」
「この料理は分子美食学に精通した当ホテルのシェフによる、"前衛的かつ効率的。しかし、食の楽しみは損なわない"という理念のもと、提供される品になります」
「こちらは素早く召し上がっていただいても、ゆっくり味わっていただいても問題ありません」
「"体験を損なわせたくない"。というシェフの意向もあり、味などの説明は控えさせていただきます。ぜひ、ご自由にお楽しみください」
そう説明を終えて、再度一礼をしたウエイターは"失礼します"、と部屋を出て行った。
そして、二人残された私たちは視線を交わす。
「……どうやら、襟を正す必要があるようだな」
「ええ……」
どうやら、この"ディストピア飯"は思っていたより本気らしい。
心中にあった僅かな侮りを捨て去って、改めてトレイに向き直る。
「……では早速、いただくとしよう」
「いただきます」
共に食前の儀礼を終えて、私は指先でブロック状の栄養食をつまんだ。
それを口元へと運び……かじる。
瞬間。口の中が弾けた。
「…………!」
初めは甘く、フルーティーで、段々と緑茶のような苦みが遠くから近づいて……かと思えば、柑橘のような酸味も舌に残る。
列挙するには乱雑なそれらも、確かな統制をもって"美味"という目標へと進んでいる。
目くるめく変わりゆく口内の感覚に、私は言葉を失った。
……奥深い。とにかく、奥深い。
味蕾を弄ばれるような体験は初めてで、一口を飲みこんだ私は、大きく深呼吸をしていた。
「……どうでしたか?」
そう尋ねるミネに、私は滲みだすような笑いを返した。
「くくっ、ははは……!これは、すごいな……」
「これを言葉で表現しようと試みるのは、確かに無粋かもしれない」
「百聞は一見に如かず。君も食べてみるといい」
そう伝えると、ミネは自分のトレイからブロックをひとつ取って、ぱくりとかじった。
「……!!」
すると、ミネは目を見開いて数十秒沈黙し……笑い出した。
「ふふ……っ」
「これは、すごいですね……」
「なんというか……思考が追い付きません」
「見た目はスナックなのに、口の中ではジューシーな果実のように味わい深い風味が躍って……」
「……なかなか、貴重な体験ができました。」
「セリナやハナエたちにも体験してもらって、反応が見たくなりますね……」
「ははは、そうだな」
「機会があれば、彼女達を招待するとしよう」
そんなことを話しながら、私たちは食事に舌鼓を打って……20分ほどすれば、私たちは共に朝食を食べ終わった。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさま……」
ミネに続いて、食後の礼を済ませる。
カップに残っていたコーヒーを飲み干して、"ふう"と息を吐く。
「……先方を待たせるのも悪い。そろそろ出ようと思うが……いいか?」
そう尋ねると、ミネは"ええ"と頷きを返して、小さく伸びをした。
「ふふ……朝からお腹いっぱい食べてしまいました」
「これは、たくさん運動しなければいけませんね」
その言葉に笑いを返して、私は席を立つ。
「はは……その心配は不要だな」
「今日は忙しくなる。腹ごしらえは十分と言った所か」
「さあ、気合を入れるとしよう」
そう言いながら荷物を持って部屋を出ると、私たちに気付いたウエイターがこちらへと歩いてくる。
「お帰りでしょうか?」
「ああ。会計はどこで済ませればいい?」
そう言って財布を取り出すと、ウエイターは深々と礼を返した。
「いえ、お代は既に頂いております」
「セミナーの方から、"朝食を邪魔してしまったお詫びだ"、と」
「……なるほど。了解した」
「では、私たちはこれで失礼しよう。迎えは到着しているか?」
「はい。既に待機しておりますので、ご準備がよろしければこのままお向かいください」
そう言って、ウエイターは出口の方へ手を差し向けた。
「……わかった。すぐに向かおう」
「ごちそうさま、いい朝食だった。シェフにも感謝を伝えておいてくれ」
「ごちそうさまでした。パンケーキも、あの"クイックモーニング"も、とても美味しかったです」
ウエイターに感謝を伝えて、私たちはレストランを出る。
そのままエレベーターに乗ろうとすると、その隣に立っていたC&Cの腕章を着けた生徒がこちらへ話しかけてきた。
「……おはようございます。天城様と蒼森様ですね?」
「ヘリが到着しています。ご準備よろしければ屋上まで案内しますが、よろしいでしょうか」
C&Cの生徒はそう言って、私の回答を待つ。
まさかヘリが来るとは考えていなかった私は、まずミネへと視線を送る。
私の視線に気付いたミネは、落ち着いた様子で頷きを返した。
「……了解した。すぐに行こう」
「かしこまりました」
C&Cの生徒はそうお辞儀をして、エレベーターのボタンを押した。
それに乗り込み、私たちは屋上へと向かう。
「……随分急ぎの用事と見えるが、何かあったのか?」
そう尋ねてみるも、C&Cの生徒は"存じ上げません"と首を振る。
言葉通り、知らされていないか……口止めされているようだ。
「……」
どこか重苦しい雰囲気の中、エレベーターが電子音を鳴らし、扉が開いた。
風除け部屋の外へと出る。
びゅうびゅうと吹き付けるビル風の中、案内されるままヘリポートへ続く階段を登った。
それを上りきると、ヘリポートには1機の小型ヘリが鎮座しており、
機体の隣には、機長らしき制服を着た小柄な少女が座り込んでいた。
「……お連れしました!!!」
風に遮られぬよう、C&Cの生徒がそう叫ぶと、座り込んでいた者はすくと立ち上がってこちらへと向き直る。
「おはよーう!」
溌溂とした挨拶と共に、彼女は手を振った。
その反対側の手には弁当箱が抱えられており、彼女が食事中であったことを示している。
「……おはよう。食事をしていたのなら、食べ終わるまで待つが」
「いいや!運転しながらでも食べられるから心配するな!」
「さっそく出発するぞ!そう長くないフライトにはなるが、精々楽しんでくれ!」
ワハハと豪快に笑いながら、機長は弁当箱の蓋を閉めて、運転席へと乗り込んだ。
「……運転しながらって言いましたか……?」
「……腕は確かですので、ご安心ください」
「それならいいが……」
ビル風よりも激しい機長に困惑しつつも、私たちはヘリに乗り込む。
「では、良い空の旅を」
C&Cの生徒が扉が閉めると、ゆっくりとヘリの回転翼が駆動し始めた。
同時に、機長の快活な声が機内へと響く。
「[あーあー。ご乗客のみなさま!本日はミレニアム航空局第17便へのご搭乗、まことにありがとうございます!]」
「機長!アナウンスせずとも聞こえていますよ!」
機内上部のスピーカーと運転席から響く声に、ミネが笑いながら伝えると、機長は"ハッハッハ!"と笑う。
「[ツッコミありがとう!今日の乗客はノリがいいな!]……おほん!今日はここからミレニアム本校まで、大体10分ほどのフライトを予定している!」
「ユウカが"急ぎで"って言うもんだから、それなりに勢いよくいくぞ!」
「景色を楽しみたいなら、転ばないようにな!」
機長がそう言葉を終えると、ヘリの回転翼は急激にトルク数を増し、"ぐん"と空へと飛び立った。
身体にかかる重力と共に、眼下に広がる都市がどんどんと小さくなっていく。
「……なかなか、個性的な機長だな」
「ふふ、そうですね」
「最初は驚きましたが……変にかしこまられるよりは、あれくらい破天荒な方が信頼できるというものです」
「相当優秀でないと、機長があのような振る舞いは許されないでしょうから」
「おっと!聞こえてるぜ!」
「しかし、私が優秀なのはご明察!3年目の今となっちゃ、航空局やら航空輸送部からもらった表彰状の束で上司をぶん殴れるくらいだ!」
「お望みなら、到着までの間にアクロバットのひとつやふたつ披露してやろうか?面白いぞ~!」
「……遠慮しておく。影口のような形になって悪かった」
「いいってことさ!慣れてる慣れてる!」
「……ああそうだ!一応伝えとくが、機内の会話は録音されてるぞ!」
「何かあった時に開示されるから、あんまり重要なことは話すなよ!」
「了解した。忠告に感謝する」
「それでは……景色でも楽しむとしよう」
「ハハハ!そうするといい!」
────その会話から数分ほどして。
無言でヘリの外の景色を眺めているうち、前方に巨大な施設が近付いてきた。
その周囲には所狭しと施設が並んでおり、ミレニアムという学校の校風を察させる。
「えー、前方に見えますのが我らがミレニアムサイエンススクールの本校となっております!」
「間もなく着陸しますが、転ぶと危ないので出来るだけ立たないように!」
「もし立つなら、転ばないようお気を付けください!」
機長の言葉通りに、ヘリは段々と高度を下げていく。
体が浮くような、落下にも似た感覚が体を覆い……無事、ヘリは屋上へと着陸した。
「……よいしょ!着陸完了!降りていいぞ!」
その言葉と同時に、ヘリの扉が自動で開く。
「……ああ、運転ありがとう」
「ありがとうございました」
「おうよ!気を付けてな!」
運転席から手を振る機長に小さく手を振り返し、私たちはヘリの外へと出る。
そのままヘリポートから降りると、そこには昨日ぶりに顔を合わせる早瀬ユウカが立っていた。
彼女は降りてきた私と目が合うと、小さくお辞儀をする。
「おはようございます、朝早くにお呼び立てしてすみません」
「構わない。どうかしたのか?」
尋ねてみると、ユウカは軽く周囲を見るような仕草をして
「……その、ここではなんですから、場所を変えましょう」
そう、言葉を終える。
……明らかに、何か起きている。
嫌な予感が背筋を這う。
それでも私は、「わかった」と答えるしかなかった。
「では、セミナーの迎賓室にご案内します」
そうして歩き出したユウカの背を負い、私たちは校内へと進む────。
午前:ミレニアム本校/迎賓室
案内に従って迎賓室にやってきた私たちは、ユウカと対面するようにソファに腰掛けた。
ひとつ息を吐いて、しっかりと相手の目を見据える。
「……さて、ここならいいだろう」
「用件を教えてくれ。どうやら……穏やかではない様子だが」
揺さぶりをかけるように尋ねると、ユウカは"はい"と答えた。
「……天城ルイさん、貴方が、その……」
ユウカは口ごもった。
それですべてを察し、私は口を開く。
「内偵を行うよう指示を受けている、という話か?」
そう言葉を遮ると、ユウカは驚いたようにぱちりと瞬きをした。
なにか言われる前にこちらの主張を伝えるため、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「それは一側面において事実と言えるが……しかし誤解でもある。それを説明させてくれ」
「知っての通り、我々トリニティは近日締結されるエデン条約に際して、少々"敏感"にならざるを得ない時期にある。」
「そんな折、情報部がミレニアムが不審な動きをしている、という情報を掴んだようでな」
「膨大な使途不明金に、調月リオの行方不明。それらの情報から、ティーパーティはミレニアムないし、調月リオが何かしらに対する"準備"を進めていると判断した」
「つまり……調月リオが何を警戒しているのか、それは条約にとって障害となるようなものなのか。私はそれを調べるよう命じられた」
「とにかく。我々に害意があるわけではない、というのは伝えさせてくれ」
私が発言を終えると、ユウカは言葉に詰まったのか、小さく口を開けて硬直する。
「あっ、いえ、ええっと……?」
「その、外交官に就任されるとのことで、ご挨拶をと……思ったんですが……」
取り繕われない、明らかな困惑の言葉に、今度は私が硬直する。
失敗だ。……しかしこれは……致命的なミスではない。
「…………やけに物々しいものだから、昨日の通話を傍受されたのかと……」
「いえ、あの、それは……就任はまだ非公開の情報ですし……」
「それに、展覧会もありますから、挨拶をするなら早い方がいいかと思いまして……」
眉間を抑え、自らのミスを悔悟する。
「…………忘れてくれ、という訳にもいかないか」
「……先述の通り、今回の外交官就任に際してはそのような意図もある」
「しかし……重ねて申し上げたいのは、我々に害意は無いということだ」
「"エデン条約"という大きな節目を前にした、リスク評価に必要な情報収集の一環として……ある程度正当性のある活動であることは弁明させて欲しい」
「……ええ、まあ……それは、理解しますが……」
「「……………………」」
気まずい沈黙が、場を満たす。
「……えっと、よろしいでしょうか」
あまりに苦しい雰囲気を見かねたのか、ミネが小さく手を上げた。
「ユウカさん。ルイさんは悪い人ではありません……私が保証いたします」
「……彼女はミレニアムで学ぶことを楽しみにしていました」
「今回の調査も、ティーパーティ上層部からの命令で、やむを得ず────」
「……庇ってくれるのは嬉しいが、その方面で不用意な発言をするのはやめてくれ」
ミネの発言を遮って、私は"おほん"と話を区切って見せる。
「とにかく……話してしまった以上、私の処分はそちらに委ねよう」
「通告には素直に従うと誓おう。トリニティとして、問題を起こす気はないからな」
そう言葉を終えると、ユウカは変わらず困った表情を浮かべたまま……数秒。
眉間を押さえながら、"うーん"と唸って……はあ、と大きく息を吐いた。
「……決めました、処分はしません」
「残ってくださって結構です」
「就任おめでとうございます。これからよろしくおねがいします!」
「……は?」
意図せず、喉から音が鳴る。
深呼吸と共に思考を整え、とりあえず目の前で起きた愚行を止めにかかる。
「……私が言うようなことではないが、この件は君の一存で揉み消していいことではないだろう」
「この場で判断せず、他の人員や各所と相談して決めるべきだ」
私の忠言に、ユウカは苦笑しながら首を振る。
「……会長は不在ですし、他のメンバーも文句はないでしょう」
「仰る通り、現状のミレニアムは使途不明金によって資金難に陥っていますから、トリニティとの関係をいたずらに悪化させることは……セミナーの会計として、最も避けるべきだと考えています」
「……負い目のある私を窓口に据えておけば、ある程度交渉が楽になるというわけか?」
「……ルイ、悪し様に考えすぎです。せっかく不問になったのですから、"すいませんでした、精一杯頑張ります!"くらいのことを言った方がよいですよ」
ミネは私の肩を叩きながらそう言って、それを見たユウカがくすりと笑う。
「そういった側面があることは否定しませんが……とにかく!」
「今回のことは不問にします!これからよろしくお願いしますね!?」
有無を言わせぬ勢いで告げるユウカに、私は大人しく頷きを返した。
「……わかった。よろしく頼む」
そう言って差し出した手はしっかりと握られて、私たちは固い握手を交わす。
手を離し、お互いにソファへと腰掛け……"ふう"と息を吐いて見せる。
「……それで、失態ついでにひとつ尋ねたいんだが……」
「調月リオの動向について、なにか心当たりはあるか?」
「"セミナーさえ知らない"となれば……なかなかに不穏な状況だ」
「"知っているが、答えられない"という返答でもいい。トリニティの目的は、エデン条約の締結前に正確なリスク評価をすることだからな」
そう伝えると、ユウカは申し訳なさそうに首を振る。
「……私たちも、リオ会長がいま何をしているかはわからないんです」
「使途不明金についても、"膨大な資金流出が起きている"、ということしか……」
「ですが……会長のことです。きっと、ミレニアムのために動いていると思います」
そう言葉を終えたユウカの言葉に、嘘は感じられない。
「……了解した。そのように伝えるとしよう」
「就任初日だというのに、不躾な振る舞いをしてしまったことを重ねて謝罪させてほしい」
「トリニティはミレニアムの味方だ。なにか協力してほしいことがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「私個人としても、ミレニアムでは色々と学ばせてもらうつもりだ。公私ともに、善き付き合いができることを祈っている」
儀礼的な言葉を伝えて、私はそっと席を立つ。
時計の針は9時を回っている。そろそろ展覧会の現場に行かなければならないだろう。
「……招いてもらって早々にすまないが、そろそろお暇させてもらおう」
「展覧会に行かなくては。まだ回れていないブースが残っているのでな」
そう伝えると、ユウカは"わかりました"と答えて、席を立つ。
「私もエキスポに関連した仕事がありますので、一緒に行きましょう」
「ヘリを待機させていますので、乗っていってください」
そう言いながら、ユウカはポケットから取り出した携帯を操作する。
それから十数秒ほどして、携帯から視線を上げた。
「いつでも出発できるそうです。……お二人はお手洗いなど大丈夫ですか?」
そう尋ねたユウカに、私はそっと手を上げる。
「……では、先にお手洗いへ行かせてくれ。場所を案内してもらっても?」
「なら、私も用を済ませておくとしましょう」
私に続き、ミネもそう伝えると、ユウカはそっと部屋の隅にある扉を差し示した。
「あ、そこがお手洗いになってます」
「差し支えなければ、そちらをご利用ください」
「わかった、ありがとう」
「では、私も失礼して……」
用を済ませた私とミネは、並んで化粧台で手を洗っていた。
「……よかったですね、不問になって」
ぽつりと呟いたミネに、私は"そうだな"、と返す。
「……とんだ失態を演じてしまったが、なんとかなってよかった」
「単刀直入に話を聞けたついでに、トリニティの立場の表明ができたのも、怪我の功名と言えるだろう」
手をハンカチで拭いながらそう伝えると、ミネは複雑そうな表情を浮かべつつ、口を開く。
「……あまりこういうことを言うべきではないのでしょうが……」
「貴方は貴方のやりたいことを第一にして動いた方がいいのではないでしょうか」
「ナギサ様の指示がどうあれ、職務がどうあれ……」
「それが貴方のやりたいことの邪魔になるのなら、無視してしまってもいいと、私は思います」
ミネは心配そうな声色で言う。
……やはり、彼女は優しい。私に甘い、と言うべきか。
「……心配してくれてありがとう。しかし今こうしているのも、"やりたいこと"のひとつだ」
「他校との関係を改善し、事が起こる前に争いの火種を抹消する。……究極的な問題解決の手段としては、我々医者の得意とする対処療法的な手段よりも遥かに優れていると言わざるを得ない」
「助けを求める者を救うことは、比較的容易だ。他方で、声を上げられない者を救うのは、困難を極める」
「故にこそ目指すべきは、声なき者をすら救い上げる、根本的な解決」
「それが、ゲヘナとの不戦条約であり、ミレニアムとの関係深化だ」
「その一助となるのもまた、医者としての……私個人としての使命だ」
そう笑って見せると、ミネは何処か安心したように微かな息を吐いた。
「……すみません。差し出がましい問いでしたね」
「いいや……嬉しかったよ」
会話を終えて、ハンカチをポケットにしまう。
「あまり待たせても悪いし、誤解を与えてしまいそうだ」
「そろそろ行くとしよう」
「……ええ、そうですね」
そうして私たちはお手洗いを出て、ユウカと共に展覧会の会場へと移動するのだった。
午前:ミレニアム自治区/エキスポ会場
────それから20分ほどの移動時間を経て、私たちは展覧会の会場へと到着した。
キュンキュンと駆動音を響かせるヘリを背に、私たちは会場へと進む。
「今日は一般にも開放されていますから、少し混むと思いますが……すべて回れそうですか?」
その道すがら、ユウカがぽつりと尋ねる。
「ああ、その点は問題ない。人気のありそうなところは昨日あらかた回ったからな」
「失礼な物言いかもしれないが、あまり混まなさそうブースを今日は回る。ペース配分を間違えなければ、回り切れる予定だ」
そう言いながら、付箋で膨らんだパンフレットを見せると、ユウカは感心したような息を漏らす。
「なるほど……本当にすべて回っているんですね」
「どこか気になったブースはありましたか?」
その問いに、ミネが"はい"と答える。
「救急車用の防振架台や、医療用コンテナ……導入できれば、より迅速に、確実に傷病者を救護できるような品がたくさん研究されていて……とてもよい機会を得られました」
しみじみと語るミネに、"そうだな"と続く。
「ただトリニティで活動しているだけでは得られない、貴重な学びを得られた……」
「ミレニアムと連帯し、更なる技術の発展に投資する必要性は大きいだろう」
「互いの発展だけでなく、キヴォトス全体のためにもな」
そう言葉を終えたところで、私たちは到着したエレベーターへと乗り込む。
ユウカがタッチパネルを操作すると、エレベーターはゆっくりと降下を始める。
「……この件については、明日にでも報告書をまとめ、上に提出させてもらう」
「近いうちに、投資や貿易についての交渉の場を用意してもらうことになるだろう」
「差し支えなければ、そちらのスケジュールを伺っても?」
尋ねると、ユウカは"ええっと" と携帯を開く。
彼女が"少々お待ちください"と言って数秒。ポーチの端末が"ぶるり"と震えた。
「セミナーのスケジュール管理アプリケーションに、天城外交官のスケジュールを追加しました」
「これを使えば、お互いのスケジュールは把握できます……」
と、話している内に、エレベーターが電子音を発する。目的階に到着したようだ。
小さな駆動音と共に扉が開くと、ざわざわとした喧騒が聞こえてくる。
「……ここで話すと、長くなってしまいますね」
「お待たせするのも悪いので、また後程お話しさせていただきます」
「わかった、気遣いに感謝する」
「それでは、ここでいったん解散ということでいいか?」
そう尋ねると、ユウカは"そうですね"と頷いた。
「それでは、私は運営側でやることがあるのでここで失礼します」
「ぜひ楽しんでいってくださいね!」
手を振りながら去ったユウカに小さく手を振り返して、私たちは入場受付へと歩みを進めた。
夜:ミレニアム自治区/エキスポ会場
────それから、9時間ほどが経った。
エキスポは閉場を目前にし、人はまばら。
撤退を終えているブースもちらほら存在する。
既に全てのブースを回り終えた私たちも、そろそろ帰ろうかと言った所。
そんな折、ふと声を掛けられた。
「こんばんは、天城外交官」
聞こえた声に、視線を向ける。
そこに居たのは、真っ白な髪を膝まで伸ばした少女。
にこやかな微笑みを浮かべる彼女の素性には……心当たりがあった。
「……セミナーの書記、生塩ノアか」
「はい♪始めまして」
「……始めまして。本日付けでトリニティ側の駐在外交官に着任した、天城ルイだ」
「もっとも、この自己紹介は不要だろうが」
そう返すと、ノアは"ふふ"と笑った。
「そうですね……貴方のことはユウカちゃんから聞いていました」
「折角会場に居るのでしたら、直接ご挨拶するほうがいいかと思いまして」
「そうか。セミナーには明日にでも正式な挨拶に行こうかと思っていたところだが……まあ、それはまた明日改めて伺うとしよう」
「これからよろしく頼む、ノア書記」
そう言って手を差し出すと、ノアはその手を握った。
固く握手を交わし数秒、ぱっと手を離す。
「はい♪こちらこそよろしくお願いします」
「では……また明日お会いしましょう」
そう言って微笑んだノアは、すぐにどこかへと去っていった。
急に現れ、急に去ったノアに内心で困惑しつつも、まあいいかと思考を区切る。
……今日は何より、疲れた。
早くホテルに戻って、休んでしまおう。
同時刻:ミレニアム自治区/エキスポ運営の部屋
side:ノア
「……あれ、もう戻ってきたの?」
そう尋ねるユウカちゃんに、私は"はい"と答える。
「明日正式な挨拶に来るらしいですし、早めに切り上げました」
「お疲れのようでしたし……迷惑になってはいけませんから」
そう伝えつつ、コーヒーをマグカップに注いで、ソファへと腰掛けた。
「少し話してみた感じですが……真面目そうな人でしたね」
「彼女の目的がユウカちゃんの聞いた通りなら、あまり問題はなさそうです」
「トリニティとは友好的な関係を構築しておきたいですしね」
そう言って、コーヒーを一口飲む。
連日の運営で疲れた精神を、苦味が整えてくれる。
そんな折、ユウカちゃんがぽつりと言葉をこぼした。
「……でも、天城外交官って疑り深そうなのよねぇ……」
「悪い人ではないんでしょうけど、その分変に真面目っていうか……」
「外交窓口としては悪くないんだけど、捜査員として見るなら最悪な相手ね……確定的な情報がない限り、こちらを信用しないでしょうから」
そんなことをぼやくユウカちゃんは、文字通りに頭を抱えている。
「と言っても、私たちがトリニティの求める "会長の目的" を提示するのは不可能ですし……」
「この問題は、会長が直接出てこないとどうしようもありませんね……」
私がそう伝えると、ユウカちゃんも"やっぱりそうよね……"と呟く。
そして、小さく息を吸ったかと思えば、
「かいちょーーーっ!!!5分でいいので帰ってきてくださーーーい!!!!」
と、大きな声で叫んだ。
広い部屋にユウカちゃんの声が反響し……"シン"、と静寂が戻る。
「……ふふっ」
「これで会長が帰って来てくれたらいいんですがね……」
諦観滲む言葉に、ユウカちゃんは"そうね……"とため息混じりに答えて、テーブルに置かれたコーヒーを飲み干した。
「……とにかく、今はかなりのピンチだけど……チャンスでもあるわ」
「天城外交官とトリニティの信頼を得られれば、現状の資金難は乗り越えられる」
「まずはどうにかして、天城外交官に "私たちは本当に会長の目的を知らない" って信じてもらわないと話が始まらないわね」
「トリニティとの経済連携で資金難を乗り越えようにも、トリニティがミレニアムを潜在危機だと認識している限りは合同の長期プロジェクトとかはやってくれないでしょうし……」
「……明日、彼女が挨拶に来るまでにどうするか考えておきましょう」
「徹夜になりそうだけど……背に腹は代えられないわ」
どこか勇壮な、覚悟の決まった表情でそう言ったユウカちゃんに、私は頷きを返すのだった。
深夜:ミレニアム自治区/セントラルホテル
side:ルイ
「…………ふぅ……」
あれから私たちは真っ直ぐホテルに帰って、寝支度を済ませていた。
どこか食事に行くなどしたかったが……ミネの希望で、今日はすぐに帰ることにしたのだ。
その意図を問い質すと、"貴方と話したいから"となんとも曖昧な答えが返った。
……なにかきっと、重要な話があるのだろう。
向かい合うようにベッドサイドに座った今こそ、その真意を問う時だ。
「……それで、"話したい"とは?」
尋ねる。すると、ミネはすこし驚いたように瞼を揺らして……"ふふ"と笑った。
「言葉通りですよ、"貴方と話したい"んです……私は明日、トリニティに帰りますから」
「……言葉の裏を読み過ぎず、時にはそのまま受け取ることも大切ですよ。……なんて、私が言えることではありませんか」
優しく言い聞かせるミネに、私は小さく息を吐く。
今日一日は気を張り過ぎていた。そのせいで、失態も犯した。
結果論としてプラスに働いたから良いものの、最悪の場合、二校の関係悪化もあり得た。
彼女は私を叱ってくれている。
……それが、嬉しかった。
「……ありがとう。肝に銘じておく」
万感の謝意を込めて答えると、ミネは "ふふ" と笑った。
「……応援していますよ。心から。貴方の師としても、友としても」
ゆっくりと差し伸べられた手を取り、固い握手を交わす。
就寝を前にした彼女の手はじんわりと温かく、その感覚は腕を伝って、胸を温める。
「……ミネ、どうか信じていてくれ。君との別れを無意味な物にはしない」
「私は必ず……皆を救えるような人間になってみせる」
「……ええ。信じていますよ」
その言葉と同時に、握手を交わしていた手が引き込まれる。
唐突な引力に抵抗できず、気付けば私はミネの腕の中にいた。
「……今だけは、このままでいさせてください」
背に回された手に、力が籠もる。
「………………」
ミネは無言で、私を抱きしめ続ける。
口にはできない友との別れ、その悲哀を示すように。
(…………)
抱き合い、静かな呼吸を重ねるうち……だんだんと、私の胸中にも寂寥が滲む。
1年。長くはないが、決して短くはない時間。ミネとは日々を共にしてきた。
先輩として、友として、師として…………。
想起する日々に、ずきりと胸が痛む。
しかしその痛みを……ゆっくりと、ミネの感触が癒していく。
そして────"ゆらり"と、力が抜けた。
私を抱いていたミネは後ろへ倒れ、そのまま私たちはベッドへと倒れ込む。
ぼすん、と感じた衝撃に抵抗もせず、私たちは衾を共にする。
部屋の照明はひとりでに消えて、夜の街が放つ蒼い光の中。
見つめ合う私たちは、眠気に潤む瞳を交わす。
「……おやすみ、ミネ」
「ええ……おやすみなさい、ルイ」
小さく交わした言葉。今はそれで充分だった。
ヘアオイルの甘い香りが、体温が、私を眠りへと誘う。
瞬きは次第に緩やかになって。意識は安らかな眠りへと落ちていく────。
────次の日
早朝:ミレニアム自治区/セントラルホテル
朝日の暖かな光が、瞼を通って意識を揺らす。
ゆっくりと目を開けると……すぐそこに、ミネの顔があった。
差し込む朝日に背を向けた彼女は、"すぅ、すぅ"と安らかな寝息を立てている。
彼女の眠りを妨げないよう、そっと身を起こして、窓際に立つ。
……ああ、いい朝だ。
空は透き通って、雲ひとつもない。
目下に映る街が朝焼けを反射して、キラキラと光る。
眠りで封じた寂寥が顔を出す前に、そっと窓に背を向ける。
……今日も、忙しくなる。
ミネを見送って、セミナーに挨拶をして、
展覧会とミレニアムの内情についての報告書を書いて……。
果たすべき役目は無数にある。
そして、私自身の目的のために、ミレニアム各所への挨拶回りも行わなければ。
「……すう……はあ」
大きく深呼吸をして、覚悟を整える。
────────そして、私の新しい生活が始まった。
朝:トリニティ本校/桐藤ナギサの執務室
side:ナギサ
「………………」
"カチャ"、とティーカップがソーサーに擦れる。
普段ならば絶対に鳴らないその音は、心の乱れの表出として受け止めた。
「……はあ」
物憂げな息を吐き出す。
心の乱れ。その原因は明らかだった。
桐藤ナギサの親愛なる友人にして、最も信頼のおける部下の一人……天城ルイのミレニアム派遣。
それを命じたのは自らなれど、しばらく彼女と会えないというのは寂しい。
(…………)
エデン条約の締結に向けて、ナギサは長い時間を費やしてきた。
あらゆる人脈、手段、手練手管を用いて、ようやく現在までこぎつけた。
……そんな折に、ミレニアムが不審な動きを見せ始めた。
それはまさに、寝耳に水というべき情報。
現状のミレニアムが敵対するとは思えなかったが、それでも何らかの対処は必須だった。
……そしてもう一つ、ナギサを悩ませていた情報がある。
エデン条約の締結を妨害せんとする、反乱分子……"裏切り者"の存在。
情報部はその特定に奔走し、"裏切り者"の容疑者を何十人かにまで絞り込んだ。
その中には……ナギサに近しい人物。天城ルイの名も存在したのだ。
……確かに、傍目に見れば彼女はかなり怪しい。
しかし、ナギサはルイに強い信頼を寄せている。
"彼女が裏切ることはありえない" そう断言できるだけの関係だ。
それでも……天城ルイには敵が多すぎた。
ほぼ全ての干渉を跳ね除ける権力があり、独自の決裁権を持って、完全秘密主義の下で行動する部局。
彼女を理解しない、あるいは後ろ暗い背景を持つ者にとっては、何よりも恐ろしい存在。
今回の件は、天城ルイを排除しようと目論む物にとって格好の材料となる。
裏切り者に、不穏な動きを見せるミレニアム。
ふたつの懸念材料の中、苦悩の末……ナギサはひとつの結論を導き出した。
"事が済むまで、天城ルイをミレニアムに駐在させる"。
そうすれば、彼女を守った上で、ミレニアムに対する懸念を潰せる。
この選択は最善だった。最善のはずだった。
少なくとも、ナギサにはそう思えた。
誰の目から見ても、きっとそうだろう。
────しかし、その判断こそが、天城ルイと明星ヒマリを引き合わせてしまった。
ルイちゃんがおかしくなった原因その2、"明星ヒマリとの邂逅" の前日譚でした。
この後ルイちゃんはヒマリと出会って、デカグラマトン勢力や無名の司祭にゲマトリア。
既知を超越した敵性勢力をほぼ同時に認知した上、エデン条約事件でトリニティがえらいことになったせいでどんどん不安を募らせて、元々危険寄りだった全体主義的思想が過激になっていきます。
最終的に黙示録が迫っていると思い込んで、"現状じゃ絶対無理!今すぐキヴォトス中をまとめ上げて脅威に対抗しないと世界滅ぶ!"
と結論付けてしまった結果、本編開始時の暴走したルイちゃんになるわけですね。