その少女は、『天才』などという枠には到底収まりきらない程の絶対だった。
あらゆる策を踏み潰し、あらゆる才を凌駕し、あらゆる道を踏破する。
その少女の存在は学園内でまことしやかに囁かれていた。
デビュー前の身でありながら、かの″皇帝″を打ち破ったとのこと。
「会長、例の噂についてなのですが……」
生徒会室で、そう切り出したのはエアグルーヴ。
対する生徒会長、シンボリルドルフはあっけらかんとした表情で言葉を返した。
「ああ。事実だよ」
ありえない。全盛を過ぎたとはいえ、七冠ウマ娘であるルドルフがデビュー前の選手に敗北を喫するなどにわかには信じがたい話。
「彼女は確かにウマ娘の理を超越している。それ故に艱難辛苦、愁苦辛勤が待ち構えているだろう」
そう告げると、ルドルフは僅かに眉をひそめた。
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青年はトレーナーだった。
その意気は正に揚々と、歩様は正に雀躍としていた。
しかし数時間後にはそれも鬱屈としたものになる。
青年は若かった。担当するウマ娘が見つからないのも、或いは仕方のないことだった。
「はぁ……」
ため息を一つ。青年は思わず空を仰ぐ。
苦心して中央トレセン学園に来たのはいいものの、まだスタートラインにすら立てていない。彼の中には焦りと後悔、僅かばかりの期待があった。
「……スカウトに戻らないと」
学園外の公園のベンチにて、そう、独り言ちてみるものの、項垂れた彼の体は動こうとしない。
あと少しだけ、あとちょっとだけと立ち上がるタイミングを逃し続けていると──その少女は現れた。
「ご体調が……優れないのですか?」
「え?」
顔を上げるとそこにいたのは見目麗しい一人のウマ娘。ウマ娘は基本的に美少女だが、その中でも一際目立っている程に彼女は美しかった。
彼は思わず息を吞んだ。彫刻のようにきめ細やかな肌、宇宙を凝縮したかのように爛々と輝き、それでいて澄んだ瞳。そのどれもが青年の中核を刺激した。
「あの……」
「──ッ、ああ。俺は大丈夫だよ」
気づけば日は暮れていた。大分長いこと項垂れていたことを青年は理解する。
「トレーナーさん、ですか?」
「ああ。そうだよ」
胸に光るトレーナーバッジを視認した彼女。そんな彼女から、青年は目を離せないでいた。
「よろしければ学園までお送りしましょうか?私も丁度帰るところなので」
「いや……うん。じゃあ、お願いするよ」
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「今日は来るかな、例の子」
「あー、皇帝超えの子?」
選抜レースが行われる会場にて、二人のトレーナーが話し合っているのを青年は聞いていた。
現在トレセン学園で最も熱い噂。デビュー前のウマ娘が、かの″皇帝″シンボリルドルフに勝利したとのトピック。
しかしあまりにも現実味が無い話であることから、眉唾物として扱う者が大半を占めていた。青年もまたその一人だった。
それよりも、今日こそはスカウトに成功するだろうか。青年の脳内はそれのみに囚われていた。
「あれ?君は……」
「貴方は……。お久しぶりです、トレーナーさん」
そんな中再会したのは以前トレーナー寮まで送ってもらったウマ娘。
「君は参加しないのか?今回のレース」
「近頃は走るのを止めています。……ほとぼりが冷めるまでは」
「?じゃあ今日は友達の応援?」
「はい。概ねその通りです」
意味深な言い回しに小首をかしげる彼だったが、気持ちを切り替えレースに集中する──前に、思考の隅で彼女の言葉について考える。
走るのを止めているということは、怪我の療養中ということだろうか。それにしては健康そうに見える。
あれこれ思慮を巡らせている間にレースは始まる。彼は慌てて意識を戻した。
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結論から言うと、彼はスカウトに成功しなかった。
青年は折れかけていた。トレーナー試験にストレート合格した身でありながらこのていたらく。
「また、ダメか……」
レース場からウマ娘の影が消えるまでスカウトに勤しんでいた彼だったが、その努力が実ることはなく。
「トレーナーさん?」
「ッ、ああ。君か」
初対面の時程ではないが、その端麗な姿に心を奪われかける青年。
今日出走したウマ娘はとっくに帰宅しているというのに、何故まだここにいるのだろうか、と考えた。
「どうしたんだ?」
「……いえ、その……貴方が悩んでいらしているようだったので、何か力添えさせていただければと……」
望外の気遣いに彼の頬は思わず緩む。青年にとってその優しさで十分すぎるくらいだった。
「ありがとう。でも俺は大丈夫だから。そういえば君……名前はなんて言うんだ?」
いつまでも君と呼び続けるのも変かと思い、青年は名前を聞く。少女は真っ直ぐ見つめ返しながら、ハッキリと言い放った。
「──カワミコハル。それが私の名です」
「そうか、気遣いありがとう。カワミコハル」
どことなく和やかな雰囲気になるのを感じながら、彼は立ち上がる。相も変わらずこちらを見つめてくるカワミコハルに、何か頼みたいことはあっただろうか。
「……そうだ。せっかくだし、君の走りを見せてくれないか?あっ、ごめん。今は療養中か」
「…………いえ」
「え?」
「問題ありません。私は支障なく走れます」
「え、でも、今は止めてるって──」
「観衆の前で走ることを止めている、という意味です。一人でなら、いくらでも」
何故?と疑問符が覆い尽くしていくが、これも何かの縁ということで走りを見せてもらうことになった。
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「……嘘だろ……!?」
全てが圧倒的だった。初速から桁外れの速度を叩き出し、ペースを落とすこともなく一周を走りきっていた。
更に特筆すべきは、段違いの速さを保ちながらも息切れ一つ起こしていないという点だ。
トレーナー目線どころか、素人目から見ても分かる程に、彼女は″最強″だった。
「……はい。これが私の走りです」
「え、え?まだデビューしてないんだよな?」
「はい」
「ほ、他のトレーナーからは声かけられてないのか?これだけ速いんだったら引っ張りだこだろう?」
「私が
「……まさか、シンボリルドルフに勝ったデビュー前の子ってのは」
「はい。私です」
全てに合点がいく。これだけの力を持っていれば、数多のトレーナーが群がるだろう。あの皇帝に勝ったのなら尚更だ。それを避けるために走るのを止めていても不思議ではない。
だったら何故出会って間もない自分に見せてくれたのか。またしても新たな疑問が生まれる。
「じゃあどうして俺に見せてくれたんだ?俺が他の人に言いふらすかもしれないのに」
「姿勢や態度には人となりが表れます。貴方であれば大丈夫だと判断したので。申し訳ありません。試すような真似をしてしまって」
青年は思わず嘆息した。この逸材を、果たしてどうやって扱うべきか。
「……ところで、シンボリルドルフと走ったのは何故なんだ?」
「遠征支援委員会により多くの予算を捻出してもらうためです」
遠征支援委員会。有名なウマ娘で言うとドリームジャーニーが所属している委員会。なるほど、彼女はそこに入っていたのか。
いずれにせよ、彼女の脚は既に究極の領域に辿り着いている。スカウトすることも考えたが、自分はこの少女を御しきれるのかと青年は悩み始めていた。
「カワミコハル」
まず、彼女を理解することから始めよう。スカウトするかは二の次だ。
「君の、夢はなんだ?」
「────私に、夢はありません」
どうやら想像以上に大変なことになりそうだ。青年は暗くなった空を仰ぎ見た。
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『カワミコハルさんについて、ですか?そうですね……授業態度は立派ですし、テストも全教科で毎回満点を取っています。とても素晴らしい生徒ですよ』
クラスの先生にカワミコハルについて聞いてみたところ、返ってきたのはそんな返答。かなりの優等生のようだ。
『彼女は素晴らしい人物ですよ。人徳がありますし、委員会活動にも積極的に取り組んでくださいます』
ドリームジャーニーからも似たような反応。人格は非の打ち所が無いらしい。最早悪い所を探す方が難しいくらいだ。
ただ青年にとって不可解なことは、彼女には夢が無いという点。
ウマ娘の殆どが、その脚に夢を乗せて駆け抜けている。有名なレースで勝ちたい。最強になりたいなど、年相応の闘争心に駆り立てられている。
異質なのはカワミコハルの在り方。名を上げようとせず、さりとてレースに喜びを見出そうともしない。
ならば何故彼女は走る?その疑問が、青年の背中を押した。
やってきたのはお昼時のカフェテリア。彼はカワミコハルを見つけると、真っ直ぐ彼女の元へ向かった。
「相席いいか?」
「……ああ、トレーナーさんでしたか。はい。問題ございません」
両者は無言で昼食を摂る。彼女のトレーが空いたのを確認してから、彼は話を切り出した。
「カワミコハル、君は何故
「……俗な言い方ですが、賞金を稼ぎ、私を育ててくれた母に恩返しをするためです」
青年は思考する。例えばケイエスミラクルのように、周囲に恩返しをするために走るウマ娘も少なくはない。ただ、カワミコハルはどうしても例外のように感じられる。
「……ひとまずゆっくり話せる所に行かないか?」
「分かりました。少々お待ちください」
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詳しく聞いてみると、彼女は母子家庭らしく、父親が若くして亡くなったために母は苦労してきたとのこと。
そんな状況に置かれながらも育て上げてくれた母に少しでも楽をさせたいとの考えにより、中央トレセン学園に編入しただとか。
「……ありがとう、話してくれて。君の目標は分かった」
夢が無いというのは決して悪いことではない。原動が恩返し、大いに結構。
ただ、ただ一つエゴを出すのなら。彼女にも、いつか走る事を楽しめるようにさせてあげたい。彼はそう思っていた。
あくまでそれはエゴだ。押しつけるものではなく、掲げるものでもない。しかし叶えたい一つの欲求。
故に、青年は提示する。
「君のトレーナーになりたいんだ」
「はい。それでは、これからよろしくお願いいたします」
契約はここに完了。青年と少女の、二人三脚の旅路が始まった。
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あの走りを見せられて聞くのは今更かもしれないが、彼にはトレーナーとして彼女を育てる義務がある。通過儀礼的な質問になるのを感じながら青年は問いかけた。
「得意な距離と適正を教えてくれ」
「全てです」
「え?」
「芝もダートも、短距離から長距離まで問題なく走れます」
「……そうか」
絶句しそうになるのをなんとか堪え、目の前の少女に向き合う。
はてさて、どうしたものか。
彼女は既に完成されている。仮に今GⅠレースに出走しても問題なく勝てる程に稀有な存在だ。
であればその完成度を上げるべきだろう。
「……じゃあまずは、坂路ダッシュ二十本行こうか」
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「お疲れさま。先に上がっといてくれ」
「はい。ありがとうございました」
彼女がトレーニング場からいなくなった後、青年は眉を指で押さえた。
あまりにも規格外すぎる。
初日にしてはハードなメニューを組んだ自覚はあったが、カワミコハルは全て易々とこなし、終わった後も疲れた素振りを見せなかった。
彼女のポテンシャルをフルに活かすにはより大きな負荷が必要だ。そのために、自分は何ができるだろう。
考えたのは日常生活にもトレーニングを組み込むこと。授業中や休み時間にもこなせる『負担』は何か。
手枷足枷でも付けるか?それは周囲からの視線が気になる。……いや、どの道近いうちに彼女の走りを
その異常性はいずれ知れ渡る。であれば、この期に及んで周りの目線を気にする必要もない。
「……作ってもらうか、重り」
決意した青年は、スマートフォンを手に取った。
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トレーニングのため走るようになってから、だんだんと生徒たちにカワミコハルの異常さが広まっていくことになった。
どれだけ走っても息を切らさず、どれだけ鍛えても痛むことのない体。更にその速度は絶大的に高いときたものだから、彼女と練習をしたがるウマ娘も増えた。まあ、その大半が苛烈なトレーニングに音を上げてしまうのだが。
元々編入試験にて複数のウマ娘や教官、トレーナーなどは彼女の速さを知っていたが、あくまでほんの一握りだった故に噂はそこまで広まらなかった。第一、シンボリルドルフに勝てるデビュー前選手がいるなどという与太話は言ったところで信じられるものではない。
「カワミコハル、今日からこれを付けてくれ。風呂に入る時以外は外さないように」
「これは……」
彼が差し出したものは四つのアンクルウェイト。知り合いのツテを頼り作ってもらった特注品。その重さはかなりのもの。
トレーニングの最中はこれらに加え更に重りを付けることになる。アンクルウェイトの付けっぱなしは肌のかぶれや怪我の要因に繋がるが、彼女の強靱な肉体はそれらのリスクを余裕で踏み倒せる。
メイクデビューまであと数日。調整はするまでもなく完璧だった。
「……よし!今日はここで終わりだ」
「ありがとうございました」
過剰なまでの重りを付けても尚、少女は庖丁牛を解くようにトレーニングをこなしていた。
気づいたことがある。
当たり前と言えば当たり前のことだが、彼女は今も
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迎えたメイクデビュー当日。控え室にて、瞑想するカワミコハルとそれを見つめるトレーナーがいた。
緊張は程よくほぐれている。わざわざ忠告せずとも百パーセントの実力を発揮できるだろう。
「それでは、行ってきます」
「ああ。行ってこい」
会話は必要最小限に、少女は地下バ道からレース場へ踏み出していった。
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『これは────』
「「「────」」」
観客も実況も言葉を失っていた。
それも当然。カワミコハルは大差で一着を獲った上────ラップタイムと上がり三ハロン共に世界最速記録を叩き出したからだ。
異変が起こった、と群衆が把握したのはスタートしてすぐのことだった。
まず初めに、彼女はハナを切った。スタートダッシュは完璧だった。
そこから更に突き放す走り。誰もが大逃げだと信じて疑わなかった。
──否。そのスパートは途切れることは無い。常に最高速を維持したままゴールまで駆け抜ける。
言うなれば空を差し続ける戦法。
初めから終わりまで全速力で走ったのだから──当然、ついてこられるウマ娘など存在する筈もなく。
ウイナーズ・サークルに立つ少女の元へ怒濤の勢いで押し寄せる記者たち。遮るように、青年は立った。
何故ここまでの速度を出せたのか、世界最速記録を出したことについてどう思っているのかなど、様々な質問が飛び交う中、青年と少女は懇切丁寧に答えた。
「次走はどうされるのですか!?」
辺りが静まる。メイクデビューを無事一着に終えたとなれば、次のレースを決めることになる。彼らは目を合わせると、
「ホープフルステークスに出走します」
そう、言い放った。
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異例中の異例。メイクデビューを終えたばかりのまだ無名にしか過ぎないカワミコハルは、全世界からの注目を浴びていた。
それでも彼らのやることに変わりは無い。青年は少女のために、少女は青年と母のために走る。
目指すはGⅠの頂。ホープフルステークスに向けて更なる追い込みが始まった。
「ん?」
「すみません、友人から……」
ある日のこと、トレイルランニングが終わった後に休憩をしていると彼女のスマートフォンに通知が来た。どうやらLANEの連絡のようだ。
″コハルちゃん、明日ヒマ?よかったら出かけない?″
「…………」
断ろうと思っていた。青年の方をチラリと盗み見ると、空を眺めながらミネラルウォーターを呷っている。
「なんか重要な連絡だったのか?」
「いえ、遊びに行かないか、との提案でした」
羽を伸ばすことをなんとなく遠慮していた。彼の期待に応えるためにも、休んでいる暇は無いと。
「へーいいじゃん。じゃあその日空けるか?」
「……え?」
少女は虚を突かれた。厳しいトレーニング──もっとも、彼女からすれば楽々こなせるものだが──を課す彼からそんな言葉が飛び出るとは思わなかったからだ。
「……よろしいのですか?」
「たまには休まないと。まあ、確かに君の体力はとんでもないけど、トレーニング漬けの日々ってのも寂しいからな」
「……ありがとうございます。あ、電話……」
彼女の友人は、ややせっかちだった。
──────────────────────
「じゃーねーコハルちゃーん!」
「はい。それではまた、学校で」
時は逢魔が時。すっかり日も暮れ、彼女たちはそれぞれの寮に戻る。
「あれ、カワミコハル。今帰りか?」
「はい」
丁度何らかの器具を持ち運んでいる彼と遭遇したカワミコハル。青年は器具を然るべき所に下ろすと、悪戯っぽく笑ってみせた。
「コハルちゃんって呼ばれてるんだな」
「…………よろしければ、貴方もコハル、とお呼びください」
「いいのか?」
「ええ」
それだけ言うと彼女は寮に帰っていった。
「コハル、か。なんだかちょっと照れくさいな……」
青年の呟きは、夜の帳に覆われかけていた。
──────────────────────
いきなりGⅠを狙うとなると、通常世間ではもっと段階を踏んでからでも、という意見が見られる。
しかし彼女の脚はあまりにも未知数だった故に、ホープフルステークスではどのように走るのだろう、という期待が混ぜ込まれていた。
「……本当に、ウマ娘なのか?この子は……」
青年は思わず瞑目した。
世界最速の記録を叩き出したカワミコハルは、尚も成長を続けている。
記者の取材も増えた。今のところ問題は無いが、悪質なマスコミに無茶なインタビューをされることも視野に入れ、相手の企業や関係者は徹底的に洗い出すようにしていた。
「よし、じゃあ一旦重りを外してくれ」
「かしこまりました」
ここで一度枷から外れた彼女の本気を見てみたいという理由で、学園内の2000m芝コースを走ってもらうことにした。
「よろしくお願いいたします。ナリタブライアンさん」
「ああ。私も本気で行く」
共に走る相手は三冠ウマ娘のナリタブライアン。本来であれば彼女も途方もなく高みにいる存在なのだが、カワミコハルを前にすると勝負になるのかすら危うい。
「それじゃ、よーい……スタート!」
青年の声を合図に、両者は弾け飛ぶように駆けだした。
──────────────────────
「……薄々分かってはいたけど、まさかここまでとはな……」
一方的な蹂躙だった。ナリタブライアンは追いつくことなく、大差で敗れた。
いつの間にか観客が増えていたのか、辺りは生徒たちのざわめきに包まれていた。
「ありがとうございました」
「……速いな、オマエ」
カワミコハルから差し伸べられた手を、ナリタブライアンは握る。実に爽やかな決着だった。
「そこで見てる君たちー!君たちもコハルと走ってくれー!」
「「「えっ」」」
実戦は積めば積むほどいい。そのためにはまず有名なウマ娘と走らせ、見物人を増やす。そこから更に対決するウマ娘を増やすという、青年の目論見は見事にハマっていた。
レースは通常、ウマ娘に大きな負担を与える。しかしカワミコハルの体質は度重なる勝負を可能にしていた。
こうしてホープフルステークスまでの間、カワミコハルは野良試合に専念していた。
──────────────────────
いよいよ明日に控えたホープフルステークス戦。トレーニングは程々にして、青年と少女は話し合っていた。
「緊張してるか?」
「少し。ですが」
メイクデビューを終えてからいきなりGⅠの大舞台。緊張するのも当然のことと言える。
「……これからやっと、母に恩返しができる。そう思うと、待ち望むところもあります」
「そうか。まあ、君なら大丈夫だ。俺が保証する」
驕り高ぶりでもなく、彼女なら大丈夫だろうという確信があった。
ルーキーの中のエースを決める戦い。カワミコハルなら、きっと──
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『各ウマ娘、揃ってゲートに入りました』
少女は深呼吸をした。待ちに待ったレース。ここを足掛かりにして、更なる高みへと登るために実力を見せつけると、英気に溢れていた。
年末の決死戦、ホープフルステークスが今、始まる。
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「……まあ、こうなるだろうな」
一番人気に据えられて、尚且つ実力も申し分ない。となれば、
カワミコハルは二着を大差で突き放し、レコード更新までやってのけた。あまりのタイムからもう塗り替えられることはないだろうと言われる程に強く、速いレースだった。
観客は大いに湧いた。ジュニア級でこれなら、クラシック戦線はどうなるだろうと。
自身が打ち立てた記録──ラップタイムと上がり三ハロン──を更に超えたカワミコハル。最早向かうところ敵無しと言ってもいい。
出走したウマ娘の殆どが彼女をマークしようとしていたが、無意味だった。初速から彼女を捉えられる者は存在しない。
取材班は問いかけた。今後はどのように走っていくのかを。
彼らはそのことについて前もって話し合っていた。クラシック級ではどの旅路を行くのかを。
彼らは告げる。目指すは三冠路線。まずは目前の皐月賞へ向けて、トレーニングを重ねていくと。
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「お疲れ。いいレースだったぞ」
「ありがとうございます」
控え室に戻ってきた彼女にタオルを手渡そうとするも──汗一つかいていない。
どこまでも規格外だな、と彼は内心苦笑し、ウイニングライブに向かう少女を見届けることにした。
「トレーナーさん、一つお伺いしたいのですが」
「ああ、なんだ?」
少女の目に、不安げな影が過ったことを青年は見逃さなかった。
この質問はきっと重要な話だ。そう理解した彼は襟を正して向き合った。
「貴方は今回のレースを見て、どのように感じましたか?」
実力を遺憾なく発揮したレースだった。その上で彼が思ったこと。
「……いいレースだと思ったし、見てて飽きなかった。そうだな……。とても心が沸き立つ走りだったぞ」
「……そうですか。……よかった」
「────っ」
その答えに、少女は安心したように笑う。ただでさえ美しい顔が、パッと華やぐように笑顔に変わる。青年は心の底から溢れ出る感情を持て余すようにはにかんだ。
──────────────────────
「ただいま、お母さん」
「お帰り、コハル」
大晦日ということでカワミコハルは実家に帰省していた。アンクルウェイトは相変わらずつけたままである。
「見たよ。すごいレースだったね」
「ふふ、ありがとう」
彼女は一人っ子だった。母親からの愛情を注がれ、しっかりと生まれ育った。
母親はウマ娘だったが、名を残したことはない。才能の原石たちの前に埋もれ、未勝利戦を勝ち抜くことはできなかった。
しかしカワミコハルの才を見出したのは母だった。他と一線を画する走りに、母は夢を見た。
だが、母は気づいてはいなかった。彼女の中に眠るもの。その蠢きには。いや、或いは
家族との時間にカワミコハルは笑う。その笑顔の裏に隠れた感情は、まだ誰も気づいていない。──彼女ただ一人を除いて。
「トレーナーさんとはどう?上手くやれてる?」
「うん。とてもいい人だよ」
和やかな時間は過ぎ、少女は再び走り出す。クラシック級は、もう目の前だった。