例えば私が最強だったとして   作:散髪どっこいしょ野郎

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シニア級

 新年を迎え、彼らは商店街へと足を運んでいた。有り体に言えば買い物のためである。蹄鉄やシューズなどを買い込み、次のレースへ向けて準備を重ねていた。

 

 

「そこのお二人!福引きやっていきませんか~?」

 

「私たち……ですか?」

 

 

 丁度福引き券は持っていた。青年は懐からそれを取り出ししばらく逡巡した後、意を決したように少女へ声をかけた。

 

 

「やろう、コハル」

 

「はい」

 

 

 二人は一緒にレバーを掴み、勢いよく回し始める。出てきたものは……

 

 

「なんとっ!おめでとうございまぁぁぁす!!

特賞『温泉旅行券』、出ましたぁ~~~!!」

 

「「……え?」」

 

 

 まさかまさかの特賞。大方人参が出るだろうと予想していた彼を裏切る形となった。

 

 

「ど、ど、ど、どうしようこれ……」

 

「よろしければ、トレーナーさんがお受け取りください。福引き券はトレーナーさんのお金から頂いたものなので」

 

「いやいや、一緒に買い物したんだから君が受け取るべきだよ。それに俺行く相手いないし」

 

 

 ああでもないこうでもないと押し問答を繰り返していると、福引きの主催者は折衷案を持ちかけた。

 

 

「せっかくの温泉旅行券だ。お二人で使えばいいんじゃないか?」

 

「……それでいいか?コハル」

 

「……かしこまりました」

 

 

 ひとまずここは彼が預かることに。カワミコハルは珍しく近い未来のことを夢想していた。

 

 

──────────────────────

 

 

 凱旋門賞を目指すことになり、トレセン学園は彼女らのバックアップをするようになった。

 

 その一環として使用許可が下りたのはVRウマレーター。慣れない洋芝でのトレーニングが可能となる優れものである。

 

 洋芝に於いてもカワミコハルの強さは健在だった。

 

 

「お疲れ。今日はもう終わりにしよう」

 

「はい」

 

 

 短く言葉を交わし、両者は帰寮する準備を始める。

 

 

「……コハル?」

 

「はい。どうかしましたか?」

 

 

 違和感。どことなくいつもの彼女と違うような、言い表せない程の小さな綻び。それを青年は感じ取った。

 

 

「……なんでもない」

 

 

 とはいえ、それはあくまでも感覚的なものに過ぎない。確たる証拠が無い限り、踏み込むのは憚られる。

 

 言いようのない不安を感じながら青年は踵を返した。

 

 

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 不安は寮に帰ってからも消えなかった。

 

 気晴らしに仕事をしてみるも集中できず、やきもきする時間が続く。

 

 やがて雨が降りだした。外から伝わる音を聞くにかなりの豪雨だ。

 

 浮かぶのは少女の顔。いつもと違う、どこか儚げな空気を纏った姿。

 

 胸騒ぎがして寮を飛び出した。一回見て帰ってくるだけでいい。誰もいないならそれで万々歳だ。自分がバカを見るだけで済む。

 

 向かう先は以前彼女がいた公園。激しい動悸に襲われながら走る。

 

 するとそこにいたのは、土砂降りの雨の中傘も差さずに佇むカワミコハルだった。

 

 

「コハル!」

 

「……ぁ……トレーナーさん……」

 

 

 少女の声は今にも消え入りそうだった。打ちつける雨に服は濡れ、表情からは生気が薄れている。

 

 一体何故こんなことを、どうして自分には何もできなかったんだ、風邪を引いてしまう、など、思うことは山のようにある。

 

 それらを一旦全て飲み込み、傘を差し出しながら青年は言葉を絞り出した。

 

 

「……帰ろう、コハル」

 

「……はい」

 

 

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 あれから事態はそこそこ大事(おおごと)になったようで、彼女がいないことに気づいたルームメイトが寮長にヘルプサインを出したらしく帰ってくる頃には大勢の生徒に囲まれた。

 

 とりあえず体を温めるように、とだけ伝え、青年はトレーナー寮に戻った。後は他のウマ娘に任せるしかない。

 

 

「…………」

 

 

 青年は自室にて熟考する。

 

 彼女の抱えた闇について、自分は何も知らない。彼女のトレーナーでありながら、何もできていなかったと痛烈な後悔に覆われていた。

 

 一度腹を割る必要がある。──たとえそれで、彼女を傷つけることになったとしても。

 

 

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 と、思いながらも、風邪を引いたのは青年の方だった。

 

 少女の肉体は雨に晒された程度では体調を崩さない程の頑強さを誇っている。改めて(おもんみ)るとなんでもありだな、と彼は自嘲するように笑った。

 

 ノックの音。はて、休むことはたづなさんにもカワミコハルにも言い伝えてある。一体誰なのだろうと思うと、ドアの奥から声がした。

 

 

「私です。カワミコハルです。入っていいですか?」

 

「あ、ああ。ちょっと待っててくれ」

 

 

 体を引きずるようにしてドアまで向かい、鍵を開けると俯きながら立っている彼女がいた。

 

 

「……失礼します」

 

 

 そう言うと、部屋に体を滑り込ませた。両手に持つビニール袋には看病用の物品や食材が詰め込まれている。

 

 

「……本当に、申し訳ありませんでした」

 

「いや……ああ。うん」

 

 

 謝罪を否定するのもどうかと思い、ひとまず受け入れることに。彼には謝罪より先に聞きたいことがあった。

 

 

「台所、使わせていただきます」

 

 

 しかし詰問する前に少女は料理を始める。聞くのは食べた後でもいいか、と思い、彼はベッドに入った。

 

 

──────────────────────

 

 

「お味のほどはいかがでしょうか」

 

「うん。美味しいよ」

 

 

 実際彼女の作った卵粥は美味かった。この子は本当になんでもできるんだな、と内心驚愕させられるばかりだった。

 

 

「……聞いてもいいか?」

 

「はい」

 

「どうして外に出た……いや、それ自体はいいんだけど、どうしてあんなところで立ってたんだ?」

 

「……時々、全てが虚しくなることがあります」

 

 

 少女は痛みを堪えるように目を閉じる。

 

 

「昔から、どれだけ走ってもどんな方と競い合っても楽しいと思ったことはありませんでした。私はウマ娘なのに」

 

 

 彼女が走るのはウマ娘の本能からではなく、単純にみんなが喜んでくれるから。

 

 自分はウマ娘なのだから、自分は誰よりも強いのだから、母に恩を返すため、だから走らなければならない。そんな強迫観念に取り憑かれる日々。

 

 

「私は虚ろで空っぽで、走る資格なんて無いと思っていました。今も思っています。ですが、母や観客の方々が私の走りを望んでくれていると思うと、やめようとは考えられませんでした」

 

 

 ウマ娘の殆どが、その脚に夢を乗せて駆け抜けている。しかし彼女にはそれがない。致命的な欠陥だった。

 

 

「私は恐らく誰よりも強いです。殆どのレースで勝ち残るでしょう。故に結果は見えていました。やがて観客の方々から『つまらない』とのお声をいただくこともありました」

 

 

 聡い彼女のことだ。雰囲気で気取(けど)ったのだろう。青年は痛むように胸を押さえる。

 

 

「昔、わざと手を抜いて走ったことがありました。接戦を演じれば友達も喜んでくれると思ったためです。しかしそれは相手に対する侮辱他なりません」

 

 

 走るということは多くの夢を乗せること。

 

 故に、空虚な自分に価値は無い。

 

 走る事の意味を()()()()()()()少女には最早、抗う気力など。

 

 

「私の走りに″夢″はありませんでした。勝つことが決まっている勝負は、勝負とは言えません。そんな虚ろな私が、虚無な私が走る意味は、あるのでしょうか……」

 

 

 ある、と一口に答えるのは簡単だ。それらしい理屈を付けることもできる。だが、今必要なのはそれじゃない。

 

 

「君が望むなら、もう走らなくてもいいんだ」

 

「だけどっ!……そんなの許されません。私、まだ貴方に返しきれていないのに」

 

 

 なにも走らすだけがトレーナーの役割ではないと思う。時には終わりに手を引くことだってあってもいい筈だ。

 

 

「……質問に答えていませんでしたね。私は時々全てが虚しくなります。だから、あの夜のように外を出歩くことがあります。答えを探すために」

 

「話してくれてありがとう。君の思いはよく分かった」

 

 

 聞けてよかった。とトレーナーは内心呟く。このことを話すためにも多くの決意があったのだろう。よく話してくれた、と。

 

 

「……凱旋門賞を勝つ、と言いました。私はこれからも走り続けます」

 

「……そうか」

 

 

 最適な答えは持ち合わせていない。だけど、彼女は走ると言ったのだから。

 

 これからも彼女を支え続けよう。青年もまた、そう決意した。

 

 

──────────────────────

 

 

・川崎記念……レコード勝利

 

・フェブラリーステークス……レコード勝利

 

 

 カワミコハルが出走する時点で、勝敗は既に決している。世間ではそんな評価が回っていた。

 

 走ることを楽しいと思えず、勝つことに呻吟する。

 

 それでもいい。それでも走ると言ったのだから。

 

 青年は少女を肯定する。たとえそれがどんなものであろうと。

 

 

・大阪杯……レコード勝利

 

・天皇賞春……レコード勝利

 

 

 短距離から長距離まで、少女はありとあらゆる舞台で勝利する。

 

 加えて、出走するレース全てのレコードを塗り替えることから彼女の脚には神が宿っているなどという尾ひれがつくこともあった。

 

 

・かしわ記念……レコード勝利

 

・ヴィクトリアマイル……レコード勝利

 

・安田記念……再びレコード勝利

 

・宝塚記念……再びレコード勝利

 

 

 そうして季節は流れ、気づけば凱旋門賞を目指すための海外遠征の日が近づいてきていた。

 

 そんな、海外遠征を目前にしたある日、彼は一つ提案を持ちかけた。

 

 

「コハル、少し歩かないか?」

 

「?はい」

 

 

 二人並んで、並木道を歩く。河川敷に辿り着いた辺りで、青年は口を開いた。

 

 

「ありがとうな。俺の担当ウマ娘になってくれて」

 

「そんな、お礼を言うのはこちらの方です」

 

 

 何故いきなりそんなことを言い出したのか。疑問が少女の内に残るが、彼は気にせずに語り続ける。

 

 

「いよいよ明日だな、海外遠征」

 

「はい。フランス語はある程度勉強してきました」

 

 

 彼女は青年以上にフランス語を理解していた。多忙におかれる中でも自分以上に深く学習していることに彼は苦笑した。

 

 何はともあれ言語の壁は消えた。慣れない洋芝にも慣れた。後は走りで結果を残すのみ。

 

 

「カワミコハル。君がどう思おうと、君の脚にはたくさんの夢が込められているんだ。勿論、俺の分も。だから……なんていうかな、そう、」

 

 

 これで少しでも彼女の孤独を癒やせたら。そんな悲願にも近い気持ちで彼は言葉を綴る。

 

 

「君はもう独りじゃない」

 

「……!」

 

 

 救いと呼ぶには頼りない、僅かばかりの細糸のような希望であっても。確かに少女へ繋がった。

 

 

「……はい!」

 

 

 迷いは無い。少女は、自分の足で歩き出している。

 

 

──────────────────────

 

 

 前哨戦のフォワ賞は当然のようにレコード勝利。

 

 日本のウマ娘でありながら本番の凱旋門賞では一番人気にまで推されていた。

 

 

「…………」

 

 

 周囲の精鋭たちを前に、彼女は呼吸を整える。浮かぶのは母や学園の生徒たち、そして──自身のトレーナー。

 

 

『各ウマ娘、揃ってゲートに入りました』

 

 

 観客は目撃することとなる。

 

 場を支配する、重厚な威圧感。駆け引き、鍔迫り合い、その全てを嘲笑うかのような絶速を。

 

 世界への道標、凱旋門賞が始まる。

 

 

──────────────────────

 

 

 日本中が歓喜に包まれていた。

 

 結果はいつも通り大差でのレコード勝ち。カワミコハルは名実ともに世界最強に上り詰めた。

 

 

「…………」

 

 

 観客席を見ると、トレーナーを含めた多くの人が歓声を上げている。わざわざ日本から応援に来てくれた人まで。

 

 それを見た少女の顔は、僅かに綻んで。

 

 多くの方々が私の勝利を祝福してくれている。なら今は、それでいい。

 

 生まれて初めて、そう思えた。

 

 

──────────────────────

 

 

 帰国後、彼女の記事は飛ぶように売れ、一時期は株価がハネ上がることもあった。

 

 日本ウマ娘で初めての凱旋門賞制覇者。しかもレコード記録を残したともなれば、メディアの取材もひっきりなしに来るように。

 

 

「ふー……やっと落ち着いてきたなあ……」

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

 

 

 彼もその奔流に巻き込まれていた。元々は彼女があまりにも強すぎることから『置物トレーナー』などと呼ばれていることもあったが、凱旋門賞を制覇してからは実力が認められだすように。とはいえ、青年からしてみれば『置物』なのは事実だと思っていたのだが。

 

 取材も落ち着き、彼らはトレーナー室にて久方ぶりの休息を味わっていた。

 

 

「ラストランについて決めたいのですが、よろしいでしょうか」

 

「!……分かった。どうする?」

 

 

 カワミコハルの提案は、有記念をラストランにしてそれまでのGⅠは引き続き出る、とのこと。

 

 

「……大丈夫なのか?また何連闘もすることになるけど」

 

「はい。行けます」

 

 

 彼女には、決して折れない杖がある。たとえ望まれない勝利だろうと、自分のレースを待ってくれる人々のために走る。今はそれだけで十分だった。

 

 

──────────────────────

 

 

 それからは天皇賞秋、JBCクラシック、マイルチャンピオンシップ、チャンピオンズカップなどをレコード勝利したカワミコハル。

 

 彼女たちの旅路の終わりは、粛々と近づいていた。

 

 

「よし、飾り付けはこんなもんか」

 

 

 彼はトレーナー室にてクリスマス会の準備を行っていた。彼女の友人も呼び、大々的なものにするつもりだった。

 

 予定時刻まで後数時間ある。ちょっと先走りしすぎたかなと思っていると、部屋のドアがノックされた。

 

 

「どうしたコハル。まだ時間は──」

 

「トレーナーさん。少しお付き合い願えませんか?」

 

 

──────────────────────

 

 

 外はまだ明るかった。冬の寒気にかじかみながら歩いて行くと、着いたのは学園付近の高台。

 

 

「これが私からのプレゼントです。お受け取りくださいますか?」

 

 

 少女は振り向き、包装紙に包まれた物体を手渡した。

 

 

「これは……」

 

「手編みのマフラーです。トレーナーさんの首に丁度合う長さにしました」

 

 

 早速巻き付けてみるとなんともいえない温もりに包まれる。なるほど、これは確かにいい。

 

 

「……あったかい」

 

「……メリークリスマス、トレーナーさん」

 

 

 少女は笑う。結局三年経っても彼女の美しさには慣れなかったようで、青年は空を見上げた。

 

 

──────────────────────

 

 

 ラストラン、有記念。

 

 決まりきっていた一番人気に据えられ、彼女の鼓動は高鳴っていた。

 

 これがトゥインクル・シリーズ最後の舞台。恥じない走りを見せるために、全力を尽くす。

 

 

「コハル」

 

「はい」

 

「行ってこい」

 

「はい。行ってきます」

 

 

 どうか無事で。青年が願うのはそれだけだった。

 

 勝者が決まる。

 

 大差でのレコード勝利。

 

 カワミコハル。伝説のウマ娘、最後の走りだった。

 

 

──────────────────────

 

 

 青年はいつになく緊張していた。

 

 ()()を使うのは、今が適切だろう。しかし誘い文句はどうするべきか。

 

 

「トレーナーさん?どうかしましたか?」

 

「あ、あーいや、その……なんでもない」

 

「……温泉旅行のことですか?」

 

「……なんで分かったんだ?」

 

「伊達に三年間苦楽を共にしていませんから」

 

 

 ふふ、と微笑むカワミコハル。なんだか最近笑顔が増えたな、と嬉しいような気恥ずかしいような気持ちで彼はチケットを取り出した。

 

 

──────────────────────

 

 

「ふう……いい湯だった」

 

 

 どうやら自分が先に上がったのか、部屋には自分一人だけだった。

 

 

「……長かったな、今日まで」

 

 

 そう独り言ちながら温泉旅館まで持ってきていたトレーナーノートを捲る。数々の激動の思い出が蘇った。

 

 

「トレーナーさん」

 

「んお、コハルも上がったか」

 

「宴会場の方で何か催し物があるようです。一緒に行きませんか?」

 

 

 ノートを閉じ、立ち上がる。

 

 催し物はカラオケ大会だった。点数が最も高い人にちょっとした贈り物があるらしいが、それを掴み取ったのはカワミコハルだった。

 

 三年間磨き上げられてきた歌声は会場にいた人々を感激させる程の魅力を放ち、SNSでその様子をアップロードされ大いにバズることになるがそれはまた別の話。

 

 

「はあ……美味しかった」

 

「そうですね。とても技量が感じられる素晴らしいものでした」

 

 

 旅館の料理に舌鼓を打ち、夜が更けるまで話しこんでいたら早くも就寝の時が近づいてきていた。

 

 

「あの……トレーナーさん」

 

「なんだ?」

 

 

 彼女にしては珍しく、いつも凛としていた顔が赤い。言葉尻もどこかボソボソとしている。

 

 

「その……就寝時、手を繋いでくれますか」

 

「!?!?!?!?」

 

 

 それはつまり、隣で寝ることに他ならない。

 

 流石にそれはアウトだろうということで寝る少し前に数十分ほど手を繋ぐことに。両者共に顔を赤らめ、どうにもぎくしゃくとした温泉旅行だった。

 

 それはそれとして、カワミコハルとの間にかけがえのない絆を感じた夜だった。

 

 

──────────────────────

 

 

「次、スクワット五十回!」

 

「はい」

 

 

 引退した身ではあるが彼らは再びトレーニングを重ねていた。ドリームトロフィーリーグへの移籍は今も保留中である。

 

 賞金は十分すぎる程稼いだ。それでも、この結論を出すのはもう少し先でいい。

 

 そういうわけで体は鍛えつつも走るか走らないかは未定の状況が続いている。

 

 

「……よし、今日はここで終わりにしよう」

 

「はい。ありがとうございました」

 

 

 いつも通りなら、ここで帰寮の準備を始める筈なのだが、彼は少女を呼び止めた。

 

 

「コハル」

 

「はい、いかがなされましたか」

 

「見ていてくれ」

 

 

 そう言うと唐突に駆けだした。トレーニング場は2000mの芝コース。彼の突発的な行動にカワミコハルは目を丸くしていた。

 

 最終的に息も絶え絶えになりながら青年は一周を走りきった。

 

 

「はぁ、はぁ、ゼェ、ゼェ……」

 

「…………」

 

「コハル。ハァ……走る権利は誰にでもあるんだ。俺にも。君にも」

 

 

 どれだけ強かろうが弱かろうが、走る権利は誰にも冒されることのない絶対的なもの。

 

 こんな突飛な行動で何かが変わるわけではない。彼が何を伝えたところで、少女の根幹が揺らぐわけではないかもしれない。

 

 だとしても。

 

 今がダメでも、またいつか笑って走れるように。それまで彼女を見守っていきたいと、青年は思ったのだ。

 

 

「だから……ああ、言葉が上手く出てこないな。とにかく。君の存在が、俺の夢なんだ。だから、これからもよろしく。コハル」

 

「……はい。よろしくお願いします」

 

 

 少女は笑う。とりあえず今日のところはそれで十分だな、と青年はその幸福を噛み締めていた。

 

 

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