幕間四
書き続ければなんとかなると思っていた。根拠もなくそう信じ込んでいた。いや、根拠がなかったわけではない。私はこれまでの経験に基づいてそのように信じていた。
手を動かせ。何も考えるな。書けるだけのことを書け……かつて私はそのように言われて鍛えられた。結果、ある程度は鍛えられた。だが、それで残ったのは何だったのか? 無反省に文章を垂れ流し、ただ成果物の多さで以てのみ自己の仕事の良し悪しを判断する、そういう愚劣で矮小な作家性だったのではないか? 今日は何千字書けた、今週は何万字書けた、今年は何十万字書いた……だから私は充実している。そのように考える人間に、いつの間にか私はなっていたのではないか?
この作品のコンセプトは、やはり失われつつある。私はすでに黒猫のコテクではなくなっているし、黒猫のコテクも私の代弁者、あるいはアバターとしての性格を喪失しつつある。私は第四章でそれを修正することができなかった。私は何も良い考えを打ち出すことができず、それゆえに不安になって、その不安から逃げるために、ただ書き続ければ必ず打開策が見つかるはずだという「経験」に逃げ込んだ。字数という「成果」を麻酔薬として、私は一時的に不安から逃れることができた……第四章を書いている、この数日間は。
しかし、もう麻酔は効かない。この作品もいよいよ終わりに近づきつつある。作中で私とコテクはしばしば愚にもつかないその場限りのルールを持ち出しているが、「そろそろ物語の終わりを意識して書くべし」というルールに私はことさら強いストレスを覚えている。
私は不安だ。不安なままさらに作品を続けていかねばならない。作品のコンセプト崩壊を食い止めるための手段はまだその片鱗すらも掴むことができていないというのに。
だが、私も何も学んでこなかったというわけではない。何かを書くということは、その次にさらにより良い何かを書くためだということを、私はようやく知りつつある。
第五章も私は、黒猫のコテク、マルタ、メイドの三人を主人公にした、普通の小説を書くだろう。いや、私が書くのではない。やはりわたしは黒猫のコテクを通じてそれを書くのである。コテクはまだ、この作品が崩壊しかけていることに気づいていない。ただ不安なだけだ。コテクはおそらく、能天気な学園能力バトルの続きを書くに違いない。コテクと私はますます分離していくだろう。崩壊は止めようがなくなるかもしれない。だが、それはそれで良い。それは次に来る何か良いものの先触れとなるはずだ。そう信じたい。
そう信じたいと言ったのに、どうしてこれほどまでに私は不安なのだろう?
第五章「ああ、また私たちの信仰が物語的に消費されていく……」
ついに第五章になってしまった。そろそろこの物語も終わりを意識しなければならない。マルタが怪物たちを倒し、大魔王ヴァヴェルを滅ぼして、妹マルタのドラゴン化の呪いを解いて……はい、ハッピーエンド。大まかにはそんな感じで終われれば良いと私は考えているが、はたしてちゃんと最後まで終わるのだろうか?
いや、そもそもこの第五章だってちゃんと書き終わるのだろうか? まだまだ怪物はたくさん残っていて、それを倒すだけならまだしも、その戦いをしっかりと面白いものとして書けるのか? そのことを思うと私はもう気が気ではない。不安だ。不安しかない。
そこに、音もなく黒い風船が浮かんでいた。ちょっと恐怖を覚えるくらいのサイズになっていた。直径は二メートルくらいだろうか? 白い歯を剥き出しにした風船は無機質な声で言った。
「不安だ」
メイドが腕組みをしてそれを見ていた。メイドは無言で裁縫セットから針を取り出すと、ノータイムで黒い風船に突き刺した。だが、風船はやはり破裂しなかった。メイドはやれやれと言わんばかりに溜息をついて言った。
「針が細すぎるのかな? 私はこの風船が嫌いなんだ。見ていると気が滅入ってくるというか、私まで不安になってくる」
マルタも頷いた。彼女は私を見つめながら言った。
「コテク。この風船、大魔王ヴァヴェルの手下の怪物ってことになってるけど、実質的にはあなたの不安の象徴なんでしょ? どうにかならないの? これも手下の怪物ってことは、いずれ私もこれと戦わないといけないんでしょ? でも、私だって嫌よ。こんな得体の知れないものと戦うのは」
私は猫っぽいようなマスコットキャラっぽいような声で言った。
「にゃあ。今は耐えて欲しいですにゃあ。この『不安』はきっと、私が物語を最後まで書いたら消えてしまうはずですからにゃあ。マルタが他の怪物を倒して、大魔王ヴァヴェルも倒したら、きっとこの黒い風船も消えるはずですにゃあ」
私の言葉を聞いてメイドは腕組みをした。彼女の大きくて柔らかな胸がそれによってさらに強調された。彼女は言った。
「不安か。まあ、不安というものは限りなく不快なものだが、無視をしようと思えばなんとか無視ができる。体調と精神が安定していれば、という話ではあるがな。よく寝て、よく遊んで、よく食べていれば……」
「よく食べていれば、ね」と声が響いた。「それなら私は限りなく不安なはずだわ。なぜなら、私は朝から何も食べてないから」
その声の主はシチシガだったんですにゃあ。あ、いかん。こちらの文まで猫の口調になってしまった。シチシガは今にも死にそうな声を出していた。
「あんたたちにちょっとでも憐憫の情があるのならば、このテーブルにある紅茶と食べ物を分けてくれそうなものだけど」
「おや?」と言ってメイドが首を傾げた。
「おかしいな。直前までのこいつはもっと丁寧な口調だったはずだが、随分ダウナー系になっている。いきなりキャラが変わってないか?」
それは私が多少の変更を加えたからです。なるほど、私は作者としてこの第五章で大部分の怪物たちを倒さなければならない。いや、それは違う。厳密には、私は作者として第五章でマルタが怪物たちと戦い、それを倒すという話を書かねばならないのだが、その時に重要になってくるのはやはり敵キャラの造形である。見た目だけではない、敵キャラの性格や精神性、つまりキャラクター性というものを意識し書かねばならない。
そうではないと読んでいて退屈だし、なにより小説というものは登場人物と登場人物との心の衝突、ぶつかり合い、相克というものが肝心なところなのであるから、こればかりは普段「ねばならない」から解放されたいと思っている私であっても、それなりに気合いを入れて書いていかねばならないのである。ああ、この段落だけで私は何度「ならない」と言ったのだろう?
「というわけでシチシガのキャラをちょっと変えたんですにゃあ」と私は言った。
「蘇った死体の怪物シチシガ、それにキャラ性を付与するためにちょっとやさぐれた感じの性格に変えてみたんですにゃあ」
地獄の底で責苦にのたうつ亡者どもを連想させるような声でシチシガが言った。
「とにかく、食べ物を分けてよ。このままだと私、餓死するわ」
メイドが冷ややかに言った。
「シチシガとは死体の怪物なんだろう? 元から死んでいるのならば食べ物などいらないはずではないか」
シチシガは気怠そうに答えた。
「もちろん、私の肉体は既に死んでいるわ。でも私の魂はまだ生きているの。だから食欲も残っているのよ」
メイドがその純白のホワイトブリムの上に目に見えない疑問符「?」を浮かべた。
「どういうことだ? 死んでいるんだったら魂だってどこかに飛び去って消えているんじゃないのか?」
そう言うなり、メイドは私に視線を向けてきた。美しい、澄んだ目だったが、ある種の圧迫感があった。その視線には、どうやら作者としてこのシチシガという怪物についてもっと詳しく説明しろ、という意図が込められているようだった。私は考えた。ここで私がいわゆる地の文(ところで私はこの「地の文」という言葉が嫌いだ)で説明するのは、確かに字数の圧縮という点では良い。だが、作者として私は、そろそろマルタが何かを喋った方が良いと計算している。私はちょっとだけ計算をし、煙草を吸い(これで本数は……二十八だ。なんと第三章から私は煙草を吸っていなかったことになる!)、やはりここでマルタに説明をしてもらうことにした。
静かにお茶を飲みながら、マルタが澄んだ目でシチシガを見つめつつ言った。
「シチシガは元々ローマ神話の怪物ストリックスに由来する怪物なのよ。ローマからバルカン半島のスラブ人を通じて、今のポーランドのあたりにやってきたとか。幽霊とか吸血鬼の類と見なされているけど、もちろんルーマニアのドラキュラとはかなり性格が異なる。私の祖国の作家たちはこのシチシガが大好きで、たとえばサプコススキの『ウィッチャー』が有名ね。他にもレヴァンドフスキの作品とか、デンブスキ、ミード、アンジェイ・サルワ、それからパウリナ・ヘンデルの作品でも出てくるわね。ポーランドでは非常にメジャーな怪物なの」
メイドはこういう話が大好きなので、マルタにさらに情報を求めた。
「それで、シチシガとはどういう怪物なのだ?」
マルタはお茶のおかわりをそれとなく要求した。メイドは一礼するとおかわりをカップに注いだ。マルタは答えた。
「死体が蘇ることでシチシガという怪物になるんだけど、それには条件がある。魂を二つ持って生まれた人々がシチシガになるのよ」
メイドが首を傾げた。
「魂などという目に見えないものがどうして二つあると分かるんだ?」
マルタはお茶を少し口に含み、飲み干してから言った。
「二つの眉毛が繋がっていたり、歯並びが悪くて二重になっていたり、他にも夢遊病者だったり腋毛のない人もシチシガであると見なされたようね。夢遊病者は、ひとつの魂は眠っているのに、もう一つの魂は起きて肉体を動かしているから、という理由みたい。腋毛がない人がどうこう、というのは私にも分からないわ」
ところで、なぜ私が急にこれほどまでにシチシガについて書けるようになったのか、疑問に思う向きもあるかもしれない。その理由は実に単純である。私は調べたのだ。前に「知識がなくとも書けば良い」というルールを作ったが、やはり創作においてはそれなりに下調べというものが必要なのだ。なんということだ。創作なんて大嫌いだ。
その話を聞いて、シチシガが突然起ち上がった。「ほら、見て」 そう言うとシチシガはその赤く長い爪の生えた手でいきなりローブを脱いだ。死体にしてはけっこう豊満な体つきだった。それを目にしたメイドが露骨に嫌そうな顔をした。
「私も家では基本的に裸族だが、こういう高校の敷地内で裸になるのはどうかと思うぞ、公序良俗的に」
だが、シチシガは何も言わなかった。彼女は言った。
「ほら、見てごらん。私の脇を。ばっちり剃毛してあるでしょ。私は別に剃毛なんてしたくないんだけど、私のもう一つの魂が腋毛の処理を強く主張するからそうしているのよ。それから私の歯を見て。歯列矯正がされているでしょ。もとは二重歯列だったけど、もうひとつの魂が食べる時に不便だからって変えたのよ。だから私は二つの魂を持つシチシガなのよ。これで分かった?」
シチシガはそこまで言うと、またばったりと地面に倒れた。
「今ので残っていたエネルギーをすべて使い果たしてしまった。さあ、さっさと私に食べ物を恵みなさいな。聖魔法少女マルタ、あなたはクリスチャンなんでしょ? 人に食べ物を分け与えるのはイエス・キリストの専売特許、だからあなたにもできないはずはない。さあ、早く私に何かを与えなさい。さあ、さあ」
あまり間を置かずにマルタが言った。
「食べ物を与えるのはやぶさかではないわ。でも、シチシガというのは血を吸ったり、内臓を食べたりするものなのでしょう? あなた、このテーブルにあるサンドイッチとか、紅茶とか、フルーツとか、コールドミートの類は食べられるの?」
シチシガはものすごくだるそうに答えた。
「食べられないと思うわ。できれば、聖魔法少女マルタ、あなたの血と肉を貪り食いたいのよ。でも、もう今は良いの。なんでも良いから、私、お腹に詰め込んで、やけ食いをしたいのよ。胃袋を破裂させたい」
メイドが冷たい目線を注ぎつつ言った。
「あまり健全な欲求とは思えないな。なぜそんな破滅的な食事をしようとするんだ?」
シチシガが「どっこいしょ」と言ってその場に起き上がり、そして座り込んだ。ヤンキーというか、ギャルっぽい座り方だった。おもむろに、もったいぶった手つきで、シチシガは煙草を取り出した。そしてピンク色の百円ライターで火を点けると、爆弾の導火線が燃えるような勢いでそれを吸い始めた。
マルタが叫んだ。
「あっ、喫煙! 不良生徒だわ!」
メイドも窘めるように言った。
「煙草はやめておけ。お前の将来が台無しになる」
シチシガはそれでも煙草を吸うのをやめなかった。一本吸い、二本吸い、三本を吸い、その間にかかった時間は僅かに三分ほどでしかなかった。それほどまでに信じられないペースで煙草を吸うのは(非喫煙者のためにいちおう説明をしておくと、普通の煙草を一本吸うのにだいたい四分はかかる)、やはりシチシガが人の世の理の外にいる存在だからであった。
シチシガは吸殻を乱雑に敷石にこすりつけて火を消すと、二、三回ほど深呼吸をし、それからむせて、いかにもおっさんじみた汚い咳をした。それから言った。
「私、三年E組にいるんだけど、これまでけっこう遅刻を重ねててさ。今日も遅刻したらいよいよ留年決定だったのよ。まあ、それは大魔王ヴァヴェル様のありがたい御取成しでなんとかなったわけ。ああ、良かった。これで首の皮一枚で繋がったとその時は思ったわけよ……」
メイドがツッコミを入れた。
「死体が首の皮一枚で繋がっていたところで、死んでいるのには変わりないだろうに」
ああ、私は焦れている。メイドのツッコミも冴えない。そして私は会話に参加する隙がない。なにか、こう、もっと、この作品の本質であるメタ・フィクション的なことを書きたいのに、今のところこの第五章はけっこう普通の小説になってしまっているにゃあ!
シチシガは陰の気が音として具現化したような声で言った。
「でもさ、先生が言ったのよ。ある絶望的なことを……」
マルタが律儀にも話に相槌を打った。
「先生はなんて言ったの?」
シチシガはまた煙草を吸おうとしたが、メイドが軽くキックを飛ばして彼女の手から煙草の箱とライターを蹴り飛ばした。シチシガは深いため息をついたが、特に怒る様子もなく、また話を続けた。
「実は、私の留年は昨日の遅刻の段階で決定されていたんですって。こうして私は晴れて留年が確定してしまったわけ! だからもう、何もかもやる気がなくなっちゃって、こうなったらやけ食いでもして少しでも憂さ晴らしをしようと思ったわけなのよ。だから、食べ物をちょうだい。お腹いっぱいになったらお家に帰ってふて寝するから」
メイドが言った。
「遅刻癖を改める意志はないのか?」
シチシガは沈んだ声で言った。
「私は死体で、二つの魂がある。夜にベッドで横になって眠りについた時は二つの魂は同時に寝る。でも、朝起きて、学校に行くとなったら、ひとつの魂だけは学校に行く気があって、もう一つの魂はいつまで経っても起きようとしない。だから朝、なかなか起きることができないのよ。毎朝毎朝、二つの魂がせめぎ合いをして、ようやく起きて着替えて学校に行く。でもその時には既に一時間目が終わっているのよ。どうにもならないわ」
その言葉を聞いて、マルタはとても気の毒そうな顔をした。マルタは頷いてから言った。
「あなたの遅刻をどうにかすることは私にはできないけど、それならせめて食べ物だけでも分けてあげましょう」
マルタは手にしたサンドイッチを少し割き、またナイフとフォークを使って肉を少し切り分けた。敵とはいえど、シチシガもまたこの高校の生徒である。そうであるならば、食べ物を分けるのは当然である。マルタはそういう公平な精神性を有していた。
「あっ!」と、何かを思いついたようにマルタは言った。
「そうだ! こういう時にまさにぴったりな聖書の言葉があるのよ。私の大好きな一節! 読んであげましょう。『その頃また大いなる群衆にて食らふべき物なかりしかば、イエス弟子たちを召して言い給ふ、われこの群衆を憐れむ、既に三日われと共にをりて、食らふべき物なし。飢ゑしままにてその家に帰らしめば、みちにて疲れ果てん。その中には遠くより来たれる者あり』」
シチシガは急に、痙攣したようにびくりと体を震わせた。その死体の真っ白な顔は、さらに限りなく白へと近づいていくようだった。シチシガは叫んだ。
「ちょっと、やめて! 私に聖書の言葉は毒なのよ!」
だがマルタは朗唱に夢中でシチシガの叫びに気づかなかった。
メイドが言った。
「『マルコ福音書』第八章第一節から第三節だな。しかし、良いのだろうか? マルタは気づいていないようだが、どう考えてもマルタの聖書の朗誦はシチシガにダメージを与えているようだ。ほらみろ、この世で最も純粋な白色へと奴の顔は近づきつつある」
私はメイドに小声で言った。
「しーっ、メイドさん! ここはマルタのやることを見守りましょうにゃあ」
マルタはさらに朗誦を続けた。マルタは次第に興が乗ってきたのか、さらに大きな声で、さらに澄み切った美しい声で、ポーランド語で聖書を読み続けた。
「『弟子たち答へて言ふ、この寂しき地にては、いずこよりパンを得て、この人々を飽かしむべき。イエス問い給ふ、パンいくつあるか。答えて七つという』」
シチシガの苦しみ方は次第に激しくなり始めた。手足が不随意に震えている。
「ちょ、ちょっと、マルタ、待って。このままだと私……」
明らかに聖魔法少女の朗誦は怪物シチシガに大ダメージを与えていた。一方、マルタは興奮しているのか頬に健康的な赤みが差していた。マルタはさらに続けた。
「『イエス群衆に命じて地に座せしめ、七つのパンを取り、謝してこれを割き、弟子たちに與へて群衆の前におかしむ。弟子たち乃ちその前におく。また小さき魚すこしばかりあり、祝して、之をもその前へおけと言い給ふ。人々食ひて飽き、裂きたる余りを拾ひしに、七つの籠に満ちたり……』」
メイドが言った。
「『マルコ福音書』第四節から第八節だな。ここでイエスが分けたパンと魚は四千人の群衆の腹を満たしたという。感動的なシーンだ」
その瞬間だった。テーブルの上にあった紅茶や食べ物が、物凄い勢いで増え始めた。それはさながら細胞が高速で分裂して増殖していくかのような光景だった。瞬く間にトン単位の重みが加えられたテーブルは脆くも潰れ、四千人分へと増えに増えたサンドイッチと肉、果物は小さな山を作った。
「危ない!」
危険を察知したメイドがパッと走り、マルタを抱えてその場から離れた。次の瞬間には、不安定なバランスだった山は一斉に崩れ落ち、朗唱を浴びせられてよろめいていたシチシガの上へと食べ物の土砂崩れが降りかかった。
「ぎゃー!」という声が聞こえた。それがシチシガの最後だった。怪物は食べ物によって生き埋めになった。いや、再埋葬された。
間髪入れず、私はマルタに言った。
「おめでとう、マルタ! 君の勝ちだにゃ! 聖魔法少女らしい、実にスマートな勝ち方だったにゃ! この調子で他の怪物たちも討伐していくんだにゃ!」
だが、マルタの反応は私の予想とはまったく異なっていた。マルタは憤然として様子で私に近寄ると、首根っこを右手で捕まえて、自分の眼前へと持ち上げた。こわいにゃあ。 マルタは怒った口調で、白い肌を真っ赤しながら言った。
「ちょっと! なんでこんなことになったのよ! なんで聖書の言葉が再現されているの!? 私、純粋にシチシガに食べ物を分けてあげたかったのに、可哀想に今じゃ食べ物の下敷きになっているじゃない!」
マルタの瞳は燃えていた。その瞳の中で、私は炎によって焼かれていた。熱いにゃあ! 私は冷静に説明することにしたんだにゃあ。いや、説明することにした。
「落ち着いて欲しいんだにゃあ。これもいわゆる魔法少女もののお約束というやつなんだにゃあ。だいたい魔法少女というものは回を追うにつれて新しい能力を持つようになるんだにゃあ。だから私も今回のシチシガ戦でマルタに新能力を与えることにしたんだにゃあ。その名も『再現奇跡』というんだにゃあ」
メイドが冷ややかな視線を投げかけつつ、私に言った。
「それで、そのいかにもライトノベルを書き慣れていない新人作者が名づけたような新能力『再現奇跡』は、いったいどういう能力なんだ?」
私は答えた。
「見てのとおりだにゃあ。聖書における奇跡をそのままに再現するんだにゃあ。今のマルタなら『出エジプト』のモーセのように紅海を真っ二つにすることもできるし、天からマナを降らせることだって可能だにゃあ」
マルタはげんなりとした顔をした。
「ああ、また私たちの信仰が物語的に消費されていく……私たちの聖書はエンタメ作品のネタ元ではないのよ。聖書というのはイエス様のすべての人々を救うお言葉と、すべての人々をお救いになるという壮大な御計画の物語なのに……」
溜息をつきつつ、メイドが言った。
「しかし倒してしまったものは仕方がない。どれ、もうもう口を利くことすらできなくなっているかもしれないが、一応シチシガの様子を見ておこうか」
マルタとメイドと私は、食べ物の下敷きになってしまったシチシガの方へ向かった。驚くべきことに、そこの山の部分だけ小刻みに動いていた。どうやら、下敷きになったシチシガは死んでいなかったようだったんだにゃあ。あ、またにゃあと言ってしまった。マルタが声をかけた。
「大丈夫? まだ生きてる? いや、元から死んでるのか。じゃあ、まだ死んでる?」
くぐもった声が聞こえてきた。
「このサンドイッチと肉、けっこう美味しいわね。やけ食いするには持ってこいだわ。どうもありがとう、聖魔法少女マルタ。これで家に帰ってから親に向かって『留年した』と伝えるためのエネルギーを得ることができたわ。ひとしきり食べ終えたら、今日はこのままここで寝ることにする。私、いつも寝不足なのよ」
マルタがほっとしたような顔をする一方、メイドがいつもの冷静な声で言った。
「それなら、私から大魔王ヴァヴェルへLINEを送っておこう」
メイドはスマホを取り出した。
「ええと……『残念ながらシチシガも破れました。留年が確定したことでそもそも戦意を喪失していたようです。今は聖魔法少女によって生み出された食べ物をやけ食いをして憂さ晴らしをしています。取り急ぎ、ご報告まで』」
すぐに返信が来た。メイドが読み上げた。
「『だから夜更かしはやめなさいってあれほど言っていたのに! メイド、報告をありがとう。あとで私のところにも食べ物を持ってきてちょうだい。今日はお弁当を家に忘れてきちゃったのよ』 だそうだ」
マルタは頷くと、未だに食べ続けているシチシガに向かって声をかけた。
「ねえ、あなた。大魔王ヴァヴェルについて何か知っていることはない? 二年A組にいるってアンドロギュノスから聞いたんだけど」
シチシガはもぐもぐとした声で答えた。
「私はあんたに負けたから、一つだけ情報を提供してあげるわ。大魔王ヴァヴェル様は人間の名を『鞍久保流唄流』というの」
少し困惑した顔をしてマルタが訊き直した。
「えっ? 誰? クラクボ……なに?」
メイドが言った。
「鞍久保(くらくぼ)流唄流(るべる)だな。私は知っているぞ。確かに二年A組にそのような名前の女子がいる。しかし、まさかあの鞍久保が大魔王とは……」
さらに疑問の色を濃くしつつ、マルタがメイドに言った。
「鞍久保さんって、どんな子なの? 魔王的な性格をしているのかしら?」
ああ! こんな会話文はあまり書いていて楽しいものではないんだにゃあ。でも、作者の書きたいものばかりを書いていると読者は置いてきぼりになってしまう。それは物語を語る者としては失格だ。だからちゃっちゃとこの話は片付けてしまうことにしよう。
それにしても、つい思いつきで「鞍久保」「流唄流」なんて名前にするのではなかった。書くのが面倒くさいからだ。辞書登録をすれば良いだって? 確かに正論だにゃあ。だが私は自分の生み出したキャラの名前を辞書登録するのになんとなく恥ずかしさを覚えるタイプなのだ。分かってもらえると思うにゃあ。
メイドはマルタに対して、軽く首を左右に振った。そして言った。
「鞍久保さんは快活明朗な性格をしていて、人当たりもとても良い。成績は抜群で、美術部と水泳部を兼部している。次期生徒会会長の筆頭候補とも噂されているな。だが、どうしてそんな彼女が大魔王ヴァヴェル様などという胡乱な存在になったのかな?」
マルタが私に訊いた。
「ねえ、コテク。どうしてあなたは鞍久保さんを大魔王ヴァヴェルにしたの? それも作劇上の都合ってやつなの?」
「いいえ」と私は答えたんだにゃあ。
「鞍久保さんを大魔王ヴァヴェルにしたというより、大魔王の名前として鞍久保流唄流を採用しただけですにゃあ。そして、なぜ今の段階で大魔王の話をしているのかというと、それはそろそろラスボスについて情報を小出しにしていかないと、この作品を読む人たちが退屈するかと思いましてにゃあ」
そう、作者が恐れるものはただ一つしかない。いや、正確に言えば無数の「ただ一つ」があるのだが、とにかく作者が恐れるのは「読む側が飽きること」である。そして大体の場合、読者が飽きるような話を書いている時は、作者自身がその物語を書くことに飽きてきている時である。私は今のところ、まだ飽きていない。だから大丈夫だとは
思うが……
「不安だにゃあ……」
そのように私が呟くように言うと、またそこにあの黒い風船が浮かんでいた。風船は先ほどよりもあまり大きさが変わっていなかったが、それでも今の私の一言によってまたほんの少し膨らんだ。
「不安だ」
マルタはしばらく私を見ていたが、やがて顔を向けてから言った。
「まあ、その不安は放置しておくとして、次の敵を探しましょう。というより、大魔王ヴァヴェルの正体は二年A組の鞍久保流唄流さんだって分かったんだから、このまま二年A組に突入したらどうかしら? そうすれば一発で片がつくんじゃない?」
メイドも深々と頷いた。
「賛成だ。速攻・速戦は戦いの要諦。カエサルもよく言っていた。『速さこそすべての望みと信じて……』 あれ? 私は今、出典を言っていないな。ということは……?」
メイドはそう言って私を見た。私はギクッとしたんだにゃあ。そう、私はカエサルについてはよく読んでいる。ラテン語原文で『ガリア戦記』を読んだこともある。しかし『ガリア戦記』のどこでカエサルが「速さこそすべての望みと信じて……」と言っていたのか、今一つ記憶が定かではない。むしろ、そんなことを言っていない可能性もあるが……
「にゃー!」と、私は誤魔化すように叫び声をあげたんだにゃあ。マルタとメイドがびっくりしたような顔をしたんだにゃあ。私は言った。
「ここで速攻を決められてしまうと流れが狂ってしまうにゃあ! たぶん話が二万字くらいは圧縮されてしまうんだにゃあ! そうなるとこの物語全体がどことなくボリューム不足になってしまうのは免れないんだにゃあ! ここは作者として、ぜひマルタには残りの怪物と順番に戦っていって欲しいんだにゃあ! それに、学校内の戦闘は書くのが面倒なんだにゃあ! 執筆コストが高くなる! だからマルタたちにはずっと校庭で戦ってもらうんだにゃあ! ご了承くださいにゃあ!」
マルタは呆れたような顔をして言った。
「そんな、嫌よ! だんだん私は本当に自分が物語の主人公であるということを信じ始めているけど、それを抜きにしてこの異常な状況をさっさと終わらせて、普通の高校生活に戻りたいと思っているのよ。それにこの聖魔法少女の衣装、けっこう重くて汗ばむのよ! 早く脱ぎたいの! 早く戦いを終わらせてよ!」
話しているうちにマルタはだんだん感情が激してきたようだった。
「そうよ! そういえばコテク! あなた、たしか『最初の敵を倒せば変身が解ける』って前に言ってたじゃない! でもアンドロギュノスを倒した後でも私の変身は解けてない! 約束が違うじゃない! さあ今ここで私の変身を解きなさい! はやく!」
私はマルタに答えた。
「マルタには悪いけど、それはできないんだにゃあ。なぜなら創作というものには常に経済性の問題が付きまとうからなんだにゃあ。いちいちマルタが戦闘を終えるたびに変身を解いて、それでまた次の敵と出会った時に変身をする、という描写にすると、それだけで字数を食ってしまってテンポが冗長になってしまうんだにゃあ。だからマルタにはこの物語が終わるその時まで聖魔法少女の格好のままでいてもらうにゃあ」
メイドが静かな、しかしどこか同情の混ざったような口調で言った。
「なんというか、猫も猫なりに苦労をしているようだな。ちなみに私はメイド姿のままで良いぞ。この服装はけっこう気に入っているんだ」
ちょうどその時、二時間目の終わりを告げるチャイムが響いた。マルタが絶望したような声で言った。
「ああ、もう二時間目も終わってしまった……二時間目は日本語の授業だったはず。今日は確か漢字の小テストがあったわ……はあ、また再試なのね……」
マルタがここで日本語の授業と言っているのは、もちろん日本人の高校生からすると「現代文」と呼ばれる授業である。マルタは優秀な日本語能力を有しているが、やはりまだ漢字は苦手だった。
突然、声が響いた。明朗で健康な声だった。だからムカつく声だった。
「案ずることはないぞ、聖魔法少女マルタよ! お前が再試を受けることはない!」
ハッとして、マルタとメイドは声のした方向へ顔を向けた。そこには古代ギリシャ風の格好をした二人の少年がいた。二人はどこまでも似ていて、目の輝き、肌のてかり具合、髪の長さから足の親指の曲がり具合までそっくりだった。
それは大魔王ヴァヴェルの手下の一人、いや二人? いやひとつ、怪物のゲミニだった。ゲミニたちはぴったりと、一ミリ秒単位のズレもなく、同じことを同じ声で言った。
「なぜなら、お前はここで私たちによって倒されるからだ! さあ、聖魔法少女マルタよ、覚悟しろ! 私たちゲミニがお前の新たなる相手だ!」
メイドがうんざりしたように言った。
「次から次へと怪物がやってくるな。しかし、どうして大魔王ヴァヴェルはこうも五月雨式に戦力を投入するのだろうか。先ほどのシチシガと同時に私たちに攻撃をかけていれば、私たちは苦戦を免れないところだったのだが……」
ゲミニが言った。
「それは単純な理由だ。私たちは先ほどまで真面目に英語の授業を受けていたからシチシガに加勢することができなかったのだ。二時間目が終わりかけの頃に大魔王ヴァヴェル様よりLINEが来て『シチシガが負けた』と聞いたから、ここへ押っ取り刀で駆けつけたのだ。さあ、聖魔法少女マルタよ、我らと勝負をしろ! 我らはアンドロギュノスやシチシガとは違って、割とガチの怪物だ! 躊躇なくカエルの肛門に爆竹を押し込んで爆破する遊びをすることができる、そういう凶暴性と残虐性を持っている! 覚悟しろ!」
マルタは表情を引き締めた。確かに、ゲミニはそれまでの怪物たちとは違う雰囲気を纏っていた。二人のゲミニはひっきりなしに動いていて、傍若無人にもその場でいろいろな組体操を披露していた。高床式倉庫、飛翔、しゃちほこ、補助倒立、ツインピークス、マリカ、そしてバベル……こうして書いている私はそういった二人用の組体操が具体的にどのような技であるのかを言葉で説明することはできないのだが、とにかくそういうけっこう複雑で息のぴったりとあった動きの組体操を、ゲミニの二人は高速で繰り返していた。
メイドが困ったような顔をして言った。
「双子というものは世間では一種のネタキャラのように思われているが、実は凶暴な存在なのだ。彼らは二人だけの世界を作り上げていて、その世界の中で独自の感情と思考と言語を発達させる。それが良い方向に向けば良いのだが、悪い方向に行くととんでもない凶暴性へと進化する。アゴタ・クリストフの『悪童日記』などはまさにそれを描いた作品だ。あの作品は双子が本来的に有する凶暴性という観点から読まれなければならない」
メイドがそう話している間にも、双子は組体操をやめなかった。隙だらけのようだが、まったく隙がない。下手に手を出すとミンチ肉にされるかもしれなかった。にゃあ。ああ、また猫の語尾が出てしまった。最近、書いているとつい「にゃあ」と付け加えたくなってしまうのは、いよいよ私が疲れ始めているからだろうか?
攻めあぐねているマルタに向かって、私は言ったんだにゃあ。
「マルタ! ここで君に新しい技を授けるにゃあ! カバンの中から適当にノートを一冊取り出すんだにゃあ!」
マルタは「ノート?」と不思議そうに言ったが、素直に私の言葉に従って、一冊の真新しい大学ノートを取り出した。マルタは言った。
「ちょうど今日の日本史で新しいノートを使うつもりだったから持ってきたんだけど、これを何に使うの?」
私は言った。
「マルタ、そのノートに作者である私から文章を送るにゃあ。その文章はまさにこの私が今書いているこの作品、この物語世界そのものだにゃあ。それを読むことによって敵の弱点や情報がすべて分かるようになるんだにゃあ。作者が書いている情報だから絶対に間違いのない情報だにゃあ。これぞ、名付けて『即時参照』! これでマルタは火力においても情報戦においても無敵になったにゃ!」
メイドがあまり感心してなさそうな声で言った。
「また、随分と唐突に新しい能力が出てきたな。こういうのは日常パートとか修行パートとか、それなりにイベントを通してキャラクター同士の交流を深めた上で、ピンチになった時ギリギリで発現して主人公を一発逆転へと導くものではないのか? こう短時間にポンポン新能力ばかり出てくると、ご都合主義的な展開を批判されるのでは……」
メイドに対して私は言ったんだにゃあ。
「批判なら甘んじて受けるにゃあ! そもそもそんなに字数の余裕はすでにないんだにゃあ! もうこの第五章も半分は終わってしまったんだにゃあ。予定ではこのゲミニに加えてあと二体は怪物をやっつける予定なんだにゃあ! ぐずぐずしているといつまで経っても大魔王ヴァヴェルの元に辿り着けない!」
ああ、不安だ。このまま怪物たちをこの章で倒しきれなかったらと思うと……どこかで軌道修正をしなければならないだろうが、それが上手くいくとも限らない。およそすべての仕事の中で、ミスを収拾するための仕事ほど失敗しやすいものはないのだにゃあ。
「不安だ」
また風船がそこに浮かんでいた。直径は三メートルほどになっていた。それを見たゲミニは同時に「コワイ!」と叫んだ。メイドが蹴りを入れて風船をそこから追い払った。ゲミニは「ありがとう、メイド!」と叫んだ。メイドは無言で軽く首を振って答えた。
マルタは言った。
「あの、なんだっけ? その『即時参照』だっけ? それをさっさとやってよ、コテク。字数が限られているんでしょう?」
そうでした。私はさっそく以下のようにマルタのノートに書くことにしたにゃあ。
「ゲミニとは大魔王ヴァヴェル配下の双子の怪物である。一人の名はカストル、もう一人の名はポルクス。神の血を引いた二卵性双生児である。カストルは人間の血を引いており、ポルクスは神の血を引いているため不死である。二人の仲は大変良好で、まさに一心同体である。弱点は人間である方のカストル。ポルクスは神の血を引いているため倒せないが、カストルを倒せば勝手に悲嘆に暮れて戦闘能力を失うであろう。最近は隣のクラスの双子の美少女が気になっている様子。そんなわけで頑張ってね、マルタ」
ノートが光り、そこに魔法の文字が刻まれた。マルタは目を丸くしてその文章を熱心に読み始めた。だが真面目に読んでいたのは最初だけで、読み終えた時には呆れ果てたような、そして困り果てたような顔をしていた。マルタは私に言った。
「なんか、これ……私が想像していたのとだいぶ違うっていうか……」
私はマルタに言った。
「どうしたんだにゃあ? 弱点なら明記されているにゃあ。さっさとカストルを集中攻撃して脱落させるんだにゃあ。そうすれば勝てるにゃあ」
「いや、そうじゃなくて」とマルタは言った。
「あなたは作者なんだから、一応この戦いがどう進んで、どう決着を迎えるのかはちゃんと考えてあるんでしょ? 私としてはその流れを読むことによって、いうなれば未来予知のような形で戦闘を進められるものと思っていたんだけど……」
でも残念ながらマルタさん、最前より申し上げているように、この作品にプロットはないんですにゃあ。そう、あえて何度も書きますが、この作品にプロットはないんですにゃあ。だから、この先のゲミニとの戦いがどうなるかは、作者である私にもまったく予想がつかないんですにゃあ。そこらへんは我慢して欲しいにゃあ。
ということを私はさらにマルタのノートに転送した。それを読んだマルタは露骨に嫌そうな顔をした。
マルタはさらにげんなりとした声で言った。
「そうね、あなたはプロットを書かないタイプの作者だったわね。百歩譲って、まあそれは良いとするわ。でも、もうひとつ重要なことがあるわ。確かにここにはゲミニの弱点について書いてあるけど、でもこれ、本当に弱点なの? だって、この程度のことは向こうだって重々承知しているんじゃない? カストルが死んだら大変だってことくらいは。だから向こうだって戦いの時はできるだけカストルを矢面に立たせないで、神の力を持っているポルクスが正面に出てくるんじゃない? そうなったら私としては打つ手がないわ。だって、向こうは双子で完全な連携がとれているのに、こっちは一人しかいないんだもの」
それまで組体操を繰り返していたゲミニは、今やまったく同じポーズで、腕を組んで並んで立っていた。ゲミニは言った。
「我らは二人で一人! つまり二人で戦ってようやく一人扱いなのだ! だから我らは堂々と聖魔法少女マルタに二人で挑む。卑怯とは言わせないぞ。双子とはそういうものなのだからな! では、覚悟しろ!」
ここで、それまで状況を静観していたメイドが、マルタのノートに書かれた文字列に目を走らせた後、意を決したように言った。
「これは大ピンチというやつだな。しかし、打開策ならばある。マルタ、五分だけ待っていてくれ。助っ人を連れてくるから」
メイドはその場を大急ぎで去っていった。敵のゲミニはその姿を見送った後、おもむろに、もったいぶった手つきでオリーブオイルの瓶を取り出し、二人で互いに互いの体へオリーブオイルを塗りたくり始めた。奇妙なまでにゲミニの肌はてかり、陽の光を怪しく反射していた。気色悪いにゃあ。
マルタも顔を微妙に引きつらせながら尋ねた。
「どうしてオリーブオイルなんて塗ってるの?」
ゲミニは堂々と答えた。
「古代ギリシャ・ローマの神々は、運動競技や戦いの前には体にオリーブオイルを塗って清めの儀式をしたのだ。そんなことも知らないのか、無教養な聖魔法少女よ」
マルタは表情の上に露骨に嫌悪感を示した。だがそんなマルタを意にも介さず、オイルを塗り終えたゲミニは言った。
「あのメイドがどんな助っ人を連れてくるのか興味がある。それまでは戦いをお預けにしておこう。助っ人ごと聖魔法少女を粉砕するのは面白かろう」
マルタが小声で私に言った。
「コテク、これもあなたの考えた筋なの? なんだか私にとって随分と都合の良いように話が進んでない?」
「にゃー」と私は答えたんだにゃあ。
「本当に字数があと少ししかないんですにゃあ。こちらとしてはもう死に物狂いなんですにゃあ。ここで余計なバトルシーンは入れられないんですにゃあ!」
だが、私に対してマルタはさらに小声で言った。
「ちょっとはバトルシーンを入れた方が良いんじゃないの? いちおうこの物語は魔法少女ものなんでしょ? バトルシーンがないと、それこそ読者が退屈するんじゃないの?」
マルタが言うことはいちいちもっともだった。「それもそうですにゃあ……」 だから私は書くことにした。
マルタはゲミニと激戦を繰り広げた。マルタは双子の怪物を相手に一歩も引かなかった。両者共に決定打に欠け、次第に状況は膠着した。これで良かろう、にゃあ。
そこへメイドが帰ってきた。
「連れてきたぞ! 助っ人だ!」
「授業中だったけど、メイドに呼ばれたから来た。けど、何なの?」と助っ人が言った。「なんか、バトルの真っ最中?」 そう言ったのは、もう一人の助っ人だった。
そう、メイドが連れてきた助っ人は二人いた。
二人とも女の子だった。そして、二人ともそっくりに美しかった。それは2年B組とC組にいる双子の生徒、石畳桜子と石畳薫子だった。二人とも表情の変化が乏しかったが、それが一種の魅力を醸し出していた。
その双子は一卵性双生児だったので、遺伝子レベルからしてそっくりだった。そっくりに美しかった。人類誕生以来一卵性双生児の発生確率が〇.四%のまま据え置きであることを考えると、一卵性双生児として生まれ、なおかつ美しいということはまさに奇跡ともいえた。二人は髪型から髪留め、服装、ストッキングのデニール、中間考査の数学の点数に至るまでまったく同じだった。
こんなタイミングで新キャラを出すな、だって? たしかに私もそう思わなくもないにゃあ。でもそんなことは些末なことだにゃあ。じゃないと第五章が終わらないんだにゃあ。
「うおっ!」と、双子を目撃したゲミニが叫んだ。そして途端に大人しくなった。マルタも戦いのポーズを解いた。「私、これっぽっちも戦ったって気がしてないんだけど」 それは勘弁して欲しいにゃあ。さっきの一文が限界だったんだにゃあ。
メイドが双子に事情を説明した。「実はこれこれこういう事情で……」 双子はまったく同じ無表情で、しかし薄っすらとした好奇心を滲ませつつ、同時に同じ回数の軽い頷きをして、メイドの話を聞いていた。双子は言った。
「なるほど、これは一大事。頑張らねば」
ゲミニたちは双子の姉妹にうっとりと見惚れていた。先ほどまでの戦意に溢れる顔を一変させて、今ではデパートの玩具売り場でバカでかいレゴのセットを眺めている幼児と似たような顔をしていた。ああ、こんなどうでも良いような比喩表現を書いていると字数が……にゃあ。本当に書き終えることができるのかにゃ?
マルタがメイドと双子の傍へやってきた。マルタは驚きを隠さずに言った。
「助っ人は石畳さんたちだったのね。でも、なんで彼女たちを連れてきたの?」
双子の姉妹はマルタに対して同時に頭を下げて挨拶をした。
「おはよう、マルタ。今日はとてもかわいい格好をしているね」
どうやら三人はすでに知り合いのようだった。メイドがマルタに答えた。
「いや、簡単な話だ。双子の怪物には双子をぶつけてやれば良いと思ってな」
双子の姉妹は臆した様子もなく、怪物ゲミニの前へと進み出た。たっぷりとした陽光に照らし出された姉妹は生命力に溢れていて、静かながらも凛とした雰囲気を纏っていた。それに対して、怪物のゲミニは今や完全に臆していた。姉妹を直視できず、その場でもじもじとしている。
書き方ですでに気づいている向きも多いだろうが、私はこの双子が好きなんですにゃあ。ゲミニの方はさっさと消えてもらいたいけど、この双子は好き。だからこの双子は今後しっかり活躍しますにゃあ。ああ、もっと早くに出せば良かったと思わなくもないにゃあ。
桜子の方があまり感情を見せない声で言った。「あなたたちも双子なの?」 薫子がまったく同じように言った。「あなたたちはどんな双子?」
突然の問い掛けに対して、ゲミニは一瞬だけ体を震わせた。それでも怪物は答えた。
「我らはゲミニ! 共に二年A組に所属している!」
双子はその途端に、ほんの少しだけ嫌そうな顔をした。姉妹は順番に口を開いた。「私たちも双子なのに、私たちはクラスが別々」「なんか不公平」「別々だから、学校が終わった時には双子エネルギーが尽きてふらふらなのに」「なんか不公平」
初っ端から姉妹の心証を悪くしてしまったことに気づいたゲミニは、明らかに焦り始めた。焦りのあまり、ゲミニはとんでもないことを口走った。
「突然だが、石畳桜子さんと石畳薫子さん! 我らと付き合ってくれ!」
マルタが「はあ?」と言った。
「どうしてそうなるのよ?」
そんなマルタに、メイドが黙って先ほどのノートの文字列を見せた。「『最近は隣のクラスの双子の美少女が気になっている様子』」 メイドがマルタに言った。
「あのゲミニが石畳さんたちに惚れているのはこれで明らかだった。だからここへ連れてきたんだ。ここは彼女たちに任せよう」
マルタは頷いた。
「そうね、私の戦いに無関係の彼女たちを巻き込むのは申し訳ないけど、今はそうするしかなさそうね。危なくなったら私が前に出て戦うわ」
桜子の方がマルタに言った。「気にしないで、マルタ」 薫子も言った。「マルタは私たちのお友達」 双子は言った。「だからマルタの戦いは私たちの戦いでもある」
おお、双子のキャラ、なんだかけっこう立ってるなぁ……私はしみじみとそう思った。こんなことなら登場時期をもっと早くしておけば良かったと改めて思う。ノープロットというポリシーがこのようなところで牙を剥くとは……にゃあ。
なんとなく放置気味な雰囲気を悟ったゲミニは、挽回せんとばかりにさらに大きな声で言った。
「石畳桜子さん、薫子さん! 我らと付き合ってくれ! 我らはゲミニ! 至高の神話的双子なり! あなたたち姉妹はそんな我らとはぴったりの存在! ぜひお付き合いをしてくれ! そして高校卒業後は速やかに結婚をしてくれ!」
それはえらく直接的なアプローチで、むしろどちらかというと不躾でデリカシーのない告白だった。それでも姉妹はまったく動じなかった。桜子と薫子は、その澄んだ茶色の瞳に怪物ゲミニを映しつつ、まずは相手の様子をじっくりと観察した。そして、まずは桜子の方が口を開いた。
「私たちと付き合いたいのならば、私たちがこれから出す三つのなぞなぞに答えなければならない」 薫子が次に言った。「全部答えられたら私たちと付き合って良い。でも、一つでも間違えたら、その時は……」 姉妹は同時に言った。「お家に帰って泣いてください。涙はすべてを癒すから」
ゲミニは急激にその顔を紅潮させ、やる気を漲らせた。怪物たちは言った。
「よろしい! あなたたちの出すなぞなぞ、見事にすべて解いてご覧に入れよう!」
マルタが心配そうに言った。
「大丈夫かしら……? 相手は腐ってもローマ神話に語られる存在のゲミニよ。体力はもちろん、知力だって相当なものでしょうし……」
メイドも多少不安そうな顔をしていた。しかし彼女は腕組みをしつつ言った。
「だが、石畳さんたちは自信があるようだ。ここは彼女たちに賭けるしかない」
「ででん」と薫子が効果音を口にした。桜子が言った。「第一問。太郎と次郎は同年同月同日同時刻に一人の母親から産まれた。でも、二人は『自分たちは双子じゃない』という」 双子が同時に言った。「なんで?」
ゲミニは自信満々に答えた。
「答えは簡単だ! 太郎と次郎は他に兄弟がいる、三つ子だからだ! あるいは四つ子かもしれないが、とにかく彼らは双子より数の多い多胎児なのだ」
桜子と薫子は「ぴんぽーん」と平坦な声で答えた。そしてまた言った。「でも、こんなのはまだまだ小手調べ」「次に行きます」
マルタは心配そうな顔をしてその様子を見守っていた。メイドの表情も固かった。
「ででん」と、今度は桜子が効果音を口にした。薫子が言った。「第二問。どっちが石畳桜子で、どっちが石畳薫子?」
そういうと双子はメイドに目配せをした。メイドはどこかから大きな垂れ幕を持ってくると、その向こうに双子を隠した。双子は髪飾りを付け替え、制服まで着替えた後、猛烈な勢いで互いの位置をシャッフルした。
そして、ほどなくして二人は垂れ幕の向こうから出てきた。双子はものの見事にそっくりだった。鼻の高さ、ホクロの位置、髪型、姿勢、胸の大きさ、足の細さ、発する雰囲気、そのすべてが同一のものとしか思えなかった。
マルタが感嘆したように言った。
「私も双子たちとは長い付き合いだけど、これは分からないわ。どっちなのかしら?」
メイドも頷いた。
「これなら良い線まで行くかもしれない」
だが、ゲミニはこれまた自信満々に答えた。
「我らは双子の神! ゆえに双子を見分けるなど容易いことだ! それが思いを寄せる女性であるのならばなおさらな! 右に立っているのが桜子さんで、左に立っているのが薫子さんだ! 間違いない!」
「正解。いまいましいね」と、双子はちょっとだけ不貞腐れた。「でも、なんで分かったの? 私たちだって、時々自分たちを見分けるのを間違えるのに」
双子の負け惜しみ的ギャグに反応しないで、ゲミニは不敵な笑みを浮かべて言った。
「前にあなたたちが会話をしているのをこっそり聞いたのだ。桜子さんが薫子さんに『私、薫子の左側に立たないと気分が落ち着かない』と食堂で言っていた! その情報がなければ、我らも正解することは難しかっただろう」
桜子と薫子は嫌そうな顔をした。「盗聴だ」「盗聴されている」「プライバシーの侵害」
しかし、そう言ってから、また双子は同時に口を開いた。「でも、正解は正解」
マルタは見るからにハラハラしたような様子で言った。
「どうするの? あと一問しかない! このままだと二人がゲミニの配偶者にされちゃう」
メイドも、そのクールな表情に汗を浮かべていた。
「うむ。追い込まれたな……だが、最後まで双子を信じよう」
「ででん」と双子が同時に言った。「第三問。顔も同じ、性別も同じ。髪も同じ。目も同じで耳も同じ。口も同じで鼻も同じ。胸も同じで腰も同じ。手足も同じで、お腹も同じ。でも、たったの一つだけ違うもの、それはなに?」
「うっ……」 ここにきて、ゲミニは初めて戸惑いを見せた。
それは明らかに難問だった。いや、難問ではないかもしれないにゃあ。これが難問であるのは作者である私が難問としてここに書いているから難問なのである。だからそういうことにして欲しいにゃあ。
とにかく、それは難問だった。ゲミニは考えた。必死に考えていた。額に無数の汗が浮かび、オリーブオイルの塗りたくられた体へと滝のように流れ落ちていった。
双子が急かすように、しかし静かな口調で言った。「一分経過」「ゲミニ九段、残り考慮時間は一分です」 ゲミニは「えっ!?」と言った。「それは早すぎる! せめてあと二分はくれ!」 双子は頷いた。「では、あと二分です」
そして、瞬く間に二分が経過しようとした。その瞬間、神であるポルクスが「あっ!」と叫んだ。それとほぼ同時に、人であるカストルが「あっ!」と叫んだ。
どうやら二人とも答えに気づいたようだった。ゲミニはしばらく無言で見つめ合った。やがて、カストルがポルクスに言った。
「ポルクス、お前は神の血を引いていて、俺よりも力が強いし頭も良い。だから、ここはお前が答えてくれ。大丈夫だ、きっと、お前の答えは俺の答えと一緒だろう」
しかし、ポルクスは首を左右に振った。
「いや、カストル。お前は確かに人間で、俺よりも力が弱ければ頭もそれほど良くないかもしれない。それでも、お前は俺よりもはるかに勇気がある。俺は今、あの姉妹に答えを言うのを恐れている。だから、お前が答えてくれ」
カストルが頷いた。
「わかった。じゃあ、俺が答えることにする」
あたりには静寂と緊迫感が漂っていた。マルタもメイドも、そして猫の私も、その光景を固唾を飲んで見守っていたんだにゃあ。
そして、カストルは声も高らかに叫んだ。
「答えを言おう! たったの一つだけ違うもの……」
少しだけ溜めを置いてからカストルはさらに大きな声で叫んだ。
「それは性器だ!」
「不正解! 最低!」 そう叫びつつ、双子は変質者を目の当たりにしたような恐怖の表情を浮かべて、互いに抱き締め合った。「そっくりな双子でも性器だけは違う」(大意要約)ということを堂々と言って憚らない存在に怖れを抱いたからである。この双子の巨大な胸が、さながら正面衝突したセダン車と軽乗用車のように絡み合っていた。
マルタが言った。「最低ね」 メイドも吐き捨てるように言った。「最低だな」
不正解を告げられたカストルは呆然としていたが、そこへポルクスが駆けつけてきて、その後頭部を思いきりぶん殴った。神の力で殴られたカストルはその場にぶっ倒れた。ポルクスは憐れみを乞うような声で双子に言った。
「私は違う! 私は正しい答えを知っている! どうかそれで正解にしてくれ!」
「あまり期待できないけど」と桜子が言った。「どうぞ」と薫子が続けた。
ポルクスは堂々と胸を張って言った。
「正解だったら、我らと付き合うのだぞ、石畳の姉妹よ……では、言うぞ」
一瞬の間を挟んだ後、ポルクスは声高らかに叫んだ。
「それはお尻の穴の皴の数だ!」
「不正解! 最低も最低!」 そう叫びつつ、双子はよりいっそう強い力で互いを抱き締めあった。マルタが言った。「最低も最低ね」 メイドも吐き捨てるように言った。「最低も最低だな」 ポルクスは「そんな……」と言ってその場に崩れ落ちた。
双子は言った。「顔も同じ、性別も同じ。髪も同じ。目も同じで耳も同じ。口も同じで鼻も同じ。胸も同じで腰も同じ。手足も同じで、お腹も同じ。でも、たったの一つだけ違うもの、それはなに?」
双子は同時に叫んだ。
「それは『魂』! 私たちには別々の魂が入っている!」
マルタが聖書を開いて朗唱を始めた。
「『この故に、 彼らを懼るな。蔽はれたるものに露れぬはなく、隠れたるものに知られぬは無ければなり。暗黒にて我が告ぐることを光明にて言へ。耳をあてて聴くことを屋の上にて宣べよ。身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ』
メイドが言った。
「『マタイ福音書』第十章第二十六節から第二十八節。勝負あったな」
朗唱が終わり、聖なる魔力が放出された。倒れているゲミニは大爆発を起こした。
ゲミニは黒焦げになっていた。体に塗りたくっていたオリーブオイルが良い感じで火力を高めたようだった。
長いこと発言ができなかった私は、マルタに向かって言ったんだにゃあ。
「おめでとう、マルタ! これで三人目の怪物を倒したにゃあ! でも、あと千字でこの章を終えないといけないのに、残っている怪物はまだタラスク、ラタヴィツァ、宇宙人、あと馬のハンスがいるにゃあ。これ、ちゃんと次章で終わるのかにゃあ……」
不安だ。とてもではないが終わらないぞ。
「不安だ」
黒い風船が浮かんでいた。風船は五メートルくらいの大きさになっていた。禍々しい雰囲気を放っていた。それを見た双子が互いに抱き締め合った。メイドが蹴りを入れたが、不安は飛んでいかなかった。
私は言った。
「あともう一体くらい怪物をこの章で倒していれば、予定通りに物語を終えられたのににゃあ……」
マルタが言った。
「残念だったわね。また『次章の私に期待します』とでも言って章を終えたら?」
いや、やはりここは何か一体でも倒しておきたい。倒すことはできないにしても、退場はさせたい。
よし、こうしよう。
突然、そこに馬がいた。それは大魔王ヴァヴェルの乗馬としてリクルートされた、馬のハンスだった。ハンスは若干の悲しみをその真ん丸な黒い目に込めて、こつこつと地面を叩いていた。
「あ、馬のハンス!」とマルタが言った。
「私、実は馬が大好きなのよ。大人しくて、人懐っこくて、美しくて、強くて……なにより賢いから」
そう言って、マルタはハンスの鼻先を撫でようとした。
すると、突然ハンスが言葉を発した。
「Noli me tangere.(ノリ・メ・タンゲレ)」
マルタは呆然とした。それは紛れもなく聖書の一節だった。そして、思わずマルタはその一節を口ずさんでいた。
「『われに触るるな、我いまだ父の許に昇らぬ故なり』」
メイドが言った。
「『ヨハネ福音書』第二十章第十七節だな。Noli me tangere.はラテン語で『われに触るな』を意味する」
その瞬間、マルタから放たれた聖なる力が馬のハンスの鼻面に直撃した。ハンスは文字通り目を白黒とさせると、甲高い嘶きを上げて、中庭から正門の外へと走り去っていった。
私は言った。いや、言ったんだにゃあ。
「マルタ、すごいにゃあ! 瞬く間にもう一体の怪物を撃破したにゃあ! さあ、あとはタラスクと宇宙人とラタヴィツァと大魔王を倒すだけにゃあ!」
でも、マルタはげんなりとした顔をして言ったんだにゃあ。
「ああ、馬を虐待してしまった……落ち込むわ……おうちに帰りたい……」
その時だったんだにゃあ。
若い女の声が響いたんだにゃあ。
「あら、こんなところにいたのね。探したわ、作者さん」
何者かが背後にやってきて、私の首根っこを捕まえたんだにゃあ。そして、パン屋で総菜パンを選ぶかのような軽い手つきで、私を持ち上げたんだにゃあ。私は空中で手足をバタバタさせて抵抗したけど、全然意味がなかったにゃあ。
その何者かが言ったにゃあ。
「ハロー、ごきげんいかがかしら? いよいよ次章がクライマックスだから、私の方から来てあげたわ」
マルタが緊張感に満ちた声で言ったにゃあ。
「あなたは……誰?」
女は私を摘まみ上げたまま、平然として言い放ったんだにゃあ。
「二年A組、鞍久保流唄流。この物語では、大魔王ヴァヴェルをやっているわ。短い付き合いになるけど、これからよろしくね。聖魔法少女マルタさん」
(つづく)
次章もどうぞお楽しみに!
・2025/07/25/金
※幕間四を追加しました。