幕間六
私はなぜ不安なのか? 色々な方法を試した。しかし薬を飲んでも、医師にかかっても、神に祈っても、酒を飲んでも、私は不安なままだった。
小説を書くという方法は、非常に有効だった。私は書くことで自分の不安を見つめることができた。いや、見つめてはいなかった。断じて私は不安を見つめてなどいなかった。私は単に、書くことによって不安を誤魔化していただけだった。
次第に私は書くことによって自分を誤魔化すことができなくなってきた。だからこの作品を書き始めたのだった。
鞍久保は私のために良い解説をしてくれた。魔王はこの作品の構造と私の意図を過不足なく説明してくれたように思う。彼女はこの作品を救っただろう。
しかし、作品が救われても、私自身はまだ救われていない。
私は不安だ。私は未だに不安が消えていない。私は不安に殺されそうになっている。
作品が終わりに近づくにつれて、私の不安はさらに大きなものとなっている。そもそもこの不安を消すために私はこの作品を書き始めたのに、どうして不安は消えないのだろうか? これまで書いた作品世界とキャラクターたちは、まったくそのことに寄与しなかったのだろうか。私はこのまま、不安に押しつぶされて終わってしまうのだろうか?
そんなわけはない。私は作品を読み返した。私は、決して無駄なものを書いてきたわけではない。私は、不安に打ち勝たねばならない。
そうだ。私は決意した。最終章を書かねばならない。この章ですべての決着がつく。私の不安が消えるのか、それとも消えないのか、それも分かる。私が死ぬべきであるのかも。
私はここに至って、平静に近いような気持ちにもなっていた。ここから先は、私の意志で作品を書くのではない。ここから先は、黒猫のコテク、マルタ、メイド、そして鞍久保の四人によってすべてが決まるだろう。私はマルタたちにすべてを託すことにした。マルタたちが黒猫のコテクを救えば、あるいはあの黒い風船の「不安」を倒すことができれば、この私の不安もおそらく解消されるはずである。
私はまだ、私がなぜ不安であるのかが分からない。
私はまだ、どうやって私の不安を癒せば良いのか分からない。
私は、マルタのことを思っていた。彼女だけが私の希望だった。彼女なら私の不安を突き止め、癒してくれるはずだ。私は祈って、それから最終章を書き始めた。
最終章「ねえ、コテク。考えて」
黒い風船はもはや風船と呼ぶことができないほどに膨れ上がっていた。大きさは、ちょっとよく分からなかった。それくらい黒い風船は大きかった。直径が五十メートルあるのか、それともその倍の百メートルあるのか、あるいは半分の二十五メートルあるのか、そういう大まかな見当をつけることもできないほど大きかった。
それが浮かんでいる場所も、見えているようでよく見えなかった。それは間違いなく学校の上空に浮かんでいるようだったが、あるいは他の場所の上空に浮かんでいるのかもしれなかった。もしかするとどこにも浮かんでいないのかもしれなかった。だが、その割には黒い風船はあまりにも現実感があった。ありそうなのに、やはりなく、現実感があるのに、現実感がない。それが不安の本質だった。
メイドがうんざりとしたような口調で言った。
「タラスクとラタヴィツァを退け、大魔王ヴァヴェルも倒し、ようやくのことでハッピーエンドを迎えられると思ったのに、最後の最後になってこんなものが残っていたとは。これでは……とてもではないが収拾がつかないのではないか?」
マルタもメイドと似たような声を発した。しかし、そこには多少の焦りのようなものも含まれていた。
「魔王を倒したのに、その部下であるはずの『不安』は消えない。何故なのかしら?」
マルタは私に真剣な口調で言った。青い目が私をじっと見据えていた。瞳の中には真っ黒な猫が映っていた。
「ねえ、コテク。あの『不安』はどうやったら消えるの? あれを消さない限り、あなたの物語は終わらないのでしょう? 私が魔法を使ったら消えるのかしら? 『聖句朗唱』とか、『再現奇跡』とか、『即時参照』でどうにかならない?」
私はマルタに答えた。
「にゃあ。そういう方法では、たぶん消えないと思いますが……試してみますかにゃ?」
マルタは少しの間、空を制圧している「不安」を睨むように見つめた。そして、諦めたように言った。マルタの目の下の隈は黒く、濃かった。
「やめておきましょう。なんだか、上手くいきそうな気がまったくしないわ。それに、下手なことをして爆発でもされたらそれこそ大変なことになるし」
ここで、魔王が初めて口を開いた。その声はうっすらとした怯えの色を帯びていた。
「マルタ、それにメイド、それから作者。あの『不安』は既に私の制御下から完全に離れているわ。もう、この私でもどうすることもできない。いえ、思い返してみれば、最初からあの『不安』は私の部下の怪物でも何でもなかったのかもしれない」
そこまで話してから、魔王は溜息をついて言った。
「ダメね。この私が『なかったのかもしれない』なんて言うのは。私は知っていたのよ。あの『不安』が私というキャラクターとは関係しないで存在しているというのは。あれは最初から純粋に、作者の不安そのものだったの」
マルタが魔王に言った。
「魔王、あなたはあの『不安』がこれからどうなるか、分かるかしら? あの、今でも膨らみ続けている『不安』は、この後どうなるのか予想できる? 私にはまったく分からないわ。あれが、何か良くない影響をもたらすことだけは分かるけど」
憂いに満ちたその赤い目でマルタを見つめた後、魔王は無言で首を振った。そして、呟くような、誰にも聞かれたくないと思っているかのような声で、魔王は言った。
「私だって分からない。分からないのよ。だって、それはこの作者自身にも分かっていないから。不安が膨らみ続ければどうなるのか? 爆発するのか? それとももっと酷い何かが起こるのか?」
マルタは頷くと、また黒い風船を見た。風船は、つい数分ほど前に見た時よりも、さらに大きく膨らんでいた。どこまでも大きく、高く、膨らみ続けていた。そして、また声が響いた。
「不安だ」
メイドは顔をしかめた。そして、悔しさの混ざった声で言った。
「私は身長が百七十センチ以上あるんだが、仮にもっと大きかったとしたら、あの風船に針を突き刺してやれるのにと思う。今度こそはあの風船を破裂させて、すべての決着をつけてやれるのに」
私はメイドに言った。
「それでもきっと何も変わらないでしょうにゃあ。あれは、作者である私の『不安』そのものが具現化したもの。だから、私の不安が解消されない限りは、決してこの世から消えることがない、ですにゃあ。この話は前章の繰り返しになりますが、まあ復習ということでお願いしますにゃあ……」
ここで魔王はマルタとメイドに顔を向けた。暗く、落ち込んでいて、今にも泣き出しそうなほどに沈痛な面持ちを魔王は浮かべていた。魔王は言った。
「あなたたちがタラスクとラタヴィツァと戦っている間に、私と作者さんはいろいろとお話をしたのよ。この物語を書いている作者、その子猫のコテクは、常に不安に苛まれていた。不安に怯え、苦しみながらも、コテクは不安から解放されるために、なんとか第六章を最後まで書ききることができた。そうすることで不安も消えるだろうと思っていたのよ。でも、『不安』は消えるどころか、今でも大きくなっていく。何故なのかしら……?」
マルタは私を荒々しい手つきで抱き上げた。彼女はどこか確信を秘めたような声で私に言った。
「ねえ、コテク! あなたが作者であるなら本当は知っているんじゃないの? あの『不安』が今、何によって膨らんでいて、どうして消えないのか。そしてこの後どうなるのか。さっさと白状しなさい! このままだと、この世界がおかしくなってしまうわ!」
にゃあ! マルタは流石に主人公だけあって要所要所で重要な台詞を言うにゃあ! だが、残念ながらそれは間違っているんだにゃあ。本当に、私はあの不安の正体について、あの不安がいったい何から生まれているかについて、知らないんだにゃあ。考えはまとまらなかったけど、私はとりあえず言葉に出して考えることにした。
「確かに、先ほどマルタが大魔王ヴァヴェルとの戦いを制して、勝者と敗者の二人が和解した場面を書いた時、私はホッとしていたんですにゃあ。実を言うと、あの第六章は作者である私にとって、これまでの執筆人生において最大の挑戦だったんですにゃあ。自分の書いた作品の構造とその特徴、そしてそのメタ・フィクション的な実験と失敗、またメタ・フィクション的なキャラクター論とその造形に関して、私は魔王とけっこう真剣に議論をしたんですにゃあ」
ここで魔王が疲れたような声で、しかしどこか笑いを秘めつつ言った。
「議論というか、喋っていたのは主に私だったけどね。そのように作者が書いたのだから、それは仕方がなかったのだけど。でも、作中内存在のキャラクターが作品そのものの構造と性質、そのメタ・フィクション性を、まさにメタ・フィクション的な台詞や行為によって解き明かす話を書くというのは、確かにその作者の言うとおり大冒険だったわけ」
魔王は付け加えるように言った。
「それがどれだけ面白いものとして読まれるのかは、まったく分からないのだけど」
その言葉を聞いて、突然、マルタが表情を変えた。
「読まれる……読まれる、か。もしかして……」
そう呟いた後、マルタは私に言った。
「ねえ、コテク。あなたは作者よね。作者ということは、やっぱり何かしらの物語を書こうと思って書き始めたのだと思うのだけど、そもそもあなたは何のために書き始めたの? 『何を』書こうとしたのか、ではないわ。『何のために』書こうとしたの?」
うにゃ!? またマルタから難しい問いが飛んできた。私は戸惑った。マルタの言うとおりなのだ。「私たち作者は、いったい何のために物語を書いているのだろうか?」 この作品の中で、私は数多くの問いを立ててきた。しかし、この根本的な疑問、「何のために物語を書くのか?」について、私はこれまでどう考えてきたのだろう?
私は考え始めた。うにゃー、と言いつつ、地面を転げまわりつつ、土埃にまみれながら、私は色々と考えを巡らせた。マルタとメイドと魔王は、そんな私をじっと観察していた。しかしながら、私はなかなか答えに辿り着けなかった。私は言った。
「うにゃ……そもそも、私がこの小説を書き始めたのは、『誰も書いたことのない小説、誰も書こうとしないような小説を書きたい』と思ったから、執筆に取りかかったんですにゃ。途中ではたくさんの苦労がありましたけど、第六章ではけっこう満足のいく内容が書けて、不安も消えて、たぶんこの作品はそれなりに、という言葉つきではあっても、『誰も書いたことのない小説』になったと思っているんですにゃ」
マルタは私の言葉を引き取って、彼女の言葉を続けた。
「あなたはあなたなりに力を尽くして、一応の目的を達した。それなのに、あの黒い風船は消えない」
また声が響いた。
「不安だ」
黒い風船はもはや空を完全に制圧していた。日没まではまだ一時間ほど残っているのに、空はすでに真っ黒になりつつあった。それはすべて、あの『不安』の風船の本体だった。
限りなくここから離れた位置に浮かんでいるはずのあの巨大風船の声が、つい耳の先で発せられたように感じられた。ふと見ると、マルタもメイドも、そして魔王も、耐えきれないもの聞いたかのように耳を塞いでいた。
メイドが苦しそうに言った。
「ダメだ。私も物凄く不安になってきた。居ても立っても居られないような不安感だ。そわそわして、落ち着かなくて、涙が出そうなのに出なくて、頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられないのに、余計な考えだけは尽きることなくどこかから湧き出てくる」
魔王も苦しげに短い息をつきながら言葉を発した。
「心臓がドキドキと脈打っている。頭はぼうっとしていて、でも考えることがやめられない。『この先どうなるのだろうか』『この先、いったいどうやって生きていけば良いのか』『明日はちゃんと生きていけるだろうか』……そんなことばかりが頭の中に浮かんで離れないわ」
しかし、マルタは平気なようだった。彼女も不安を感じているはずだったが、どうやらそれに対処する術を知っているようだった。
マルタは、先ほどコテクが言ったことを必死になって考え続けていた。ややあって、マルタは口を開いた。
「ねえ、コテク。あなたは物語を書いているのよね。そもそも、その点から考えてみたらどうかしら? ちょっと私の考えをこれから言うから、聞いてくれる?」
はいですにゃあ。お願いしますにゃあ。そう答えると、マルタは言った。
「この世にはありとあらゆる物語があるわ。それは文学や詩、小説や児童書に限ったことではない。私が思うに、物語とは、この世に存在するありとあらゆる書かれたもの、あるいは語られたものが物語なんじゃないかしら。歴史や哲学、詩や歌、思想、神話に宗教、ただのお喋り、日常会話、それに聖書だって……すべては物語なんじゃないかしら。『誰かが語ることによって生み出していくもの』 それが物語でしょう?」
私はマルタに向かって無言で頷いた。メイドも魔王も、静かに話を聞いていた。
「そう考えると、この世には、本当に数えきれないくらいたくさん物語がある。それは今この瞬間も生まれているし、次の瞬間には誰からも忘れ去られて消滅している。もちろん、その物語の中には強いものと弱いものがある。いえ、この言い方は正しくないわね。残るものと残らないもの、とでも言えば良いかしら」
マルタはさらに言葉を続けた。空はますます暗くなっていた。それは太陽が沈んでいるからなのか、あるいは「不安」が膨らんでいるからなのか、分からなかった。おそらく後者だった。
「極端な話を言えば、近所のおばちゃんたちの立ち話や噂話だって物語なのよ。そういったものはすぐに消えてしまう。でも聖書のように、はるか遠い昔に書かれたものであっても、今の私に直接語りかけてきてくれる物語もある。イエス様の生涯とその言葉、活動、病人を癒し、不幸な人たちを慈しんで、最後は全人類をお救いになるために十字架に架けられた救い主の物語……それくらい強くて後に『残る』物語もある。もちろん、邪悪な物語もたくさんある……」
マルタが何を言いたいのか、私には未だに掴み切れなかった。作者であるのにマルタの言うことが分からないというのは、つまり今この瞬間、私はマルタと切り離されていて、マルタの考え、マルタの言葉を、外部から観察して言葉に移しているのである。おそらくマルタも、今後この話がどこに着地するのか、確信を抱いているわけではあるまい。
それでもマルタは話し続けた。
「その内容も、その形式も、その言葉もバラバラな物語たち。弱い物語、強い物語。いつまでも残る物語、すぐに消えてしまう物語。でも、これらの物語に共通することが一点だけあると私は思うの。そして、それが物語の最大の特徴であり、物語を物語として成立させているものだと私は考えるの。それは……」
マルタはしばらく言葉を切った。焦れたメイドが先を急かした。
「それは、何なんだ? マルタ」
マルタはメイドに向かって頷くと、はっきりとした大きな声で言った。
「物語とは『自分ではない誰かに語ることによって初めて物語になる』ということよ」
それを聞いたメイドが呆気にとられたような顔をした。失望はしていなかったが、少し不満そうな声で、メイドはマルタに言った。
「そんなことは当たり前ではないのか? だって、それは『物語』という言葉そのものを見ても明らかだろう。語るという行為には、自分がいて、また自分以外の他者がいなければ成り立たない。自分に対して語りかける、ということは言えるかもしれないが、それは物語ではなく、単なる自分自身のうちで行う思考にすぎないだろう」
ここで魔王が口を挟んだ。
「いいえ。実のところを言えば、それが当たり前ではない人がいるのよ」
魔王の言葉を聞いて、メイドは首を傾げた。
「それはいったい、どういう人間だ?」
すぐに魔王は答えた。
「それはね、作者たちよ。ある種の物語の作者たちは、物語とは自分ではない誰かに語ることによって初めて物語になる、ということをしばしば忘れてしまうのよ」
マルタは黙って魔王の話を聞いていた。メイドはまだ首を傾げたままだった。
「おかしな話ではないか。というよりも、あり得ない。作者こそが一番そのことを知っていて当然ではないか。なぜなら作者とは常に読者のことを想定して書いているはずだし、読者不在の作品が独りよがりなものになって自滅するということを一番よく理解しているはず。作者は常に心のうちに最良の読者を持っていると、スティーブン・キン
グもどこかで言っていたではないか……」
魔王は薄く笑った。蔽い難い疲労感がその笑いには滲み出ていた。
「メイドさん、あなたはやっぱり真面目なのね。世の中のすべての作者たちが、あなたの言うように読者のことを意識し、読者のことを考えて物語を作っていたならば、この世は物語によって花咲き乱れる美しい楽園になっていたでしょう。でも、実際はそうではないの。物語を書く人間の中には、自分の中に自然に生まれた言葉を何とかして形にしたいと思って、ただそれを成し遂げるために物語を書くという者もたくさんいるのよ。そういう人にとって、物語は誰かに語るものではないの。そういう人の物語は、自分に対して語るための物語なのよ。自分の中に溢れた言葉を物語にし、それを自分自身に聞かせて満足させるような人。自分の心の中の最良の読者を満足させるためだけに書く人。そういう人もこの世にはたくさんいるわ」
魔王はさらに言った。
「私は、この二つのタイプの作者のうち、どちらが優れていてどちらが悪い、なんていうつもりはないわ。むしろ、そんな問いは問い自体が成立しないでしょう。私たちの場合重要なのは、この私たちの物語が、いったいどっちの種類の物語に属しているかということよ。そうでしょう? 作者さん」
マルタが魔王の言葉を引き取って、話を続けた。
「ねえ、コテク。あなたはどっちなの? あなたの物語は、あなただけの物語なの? それとも、誰かに語りかけるための物語なの? それが分かれば、きっとあの不安をどうにかすることができると思うわ。答えて」
うにゃー。それは簡単に答えられる質問ではなかった。私はこれまでのことを考えていた。そもそも、私はなぜこの小説を書き始めたのか? 「既存のあらゆる作品、いやそれどころか、作品という概念そのものを破壊してしまうような作品」、つまり「誰も書かないような小説」を書こうと思ったのは確かである。だが、その前は? そもそも、なぜ私は物語を書き始めたのだろうか……?
魔王は私をじっと見つめていた。その目は不安によって僅かに涙ぐんでいたが、私に対する慈愛の感情が滲み出ていた。
メイドも腕組みをして私を見ていた。しかし、やはり上空の黒い風船が気になるようで、たびたび顔を上に向けては、そのたびに不機嫌そうな表情を浮かべていた。
マルタも私を見ていた。マルタはただ普通の表情で、今この場には何も特別なことは起こっていないというような顔をしていた。私はマルタの顔を見て、ようやく話すことに決めた。
「……初めは、そう、この作品以前に書いた作品、それを書いていた頃は、ただ自分のために書いていただけだったんですにゃ。自分の中のやむにやまれぬ創作欲、何かを形にしてみたい気持ち、いうなれば溢れ出てしまった生命力の有効活用、そのための方法として、自分が一番好きな小説を利用して書き始めただけだったんですにゃあ。私は長いこと病気でしたから、その病気と自分なりに向き合ってみたくて、小説を書き始めたんですね。とにかく、何かを書きたい。何も考えていないけれど、何かを書きたい。それだけだったんですにゃあ。そして、それは純粋に自分のためであって、もし仮に読者を想定していたとしても、それはメイドさんの言うように、『自分の中の最良の読者』に過ぎなかったんですにゃあ」
私が語ることを、三人はじっと聞いていた。周囲はますます暗くなっていった。時刻は夕方から夜へと差し掛かりつつあった。私はまた話した。
「でも、次第にそれだけでは足りなくなっていったんですにゃあ。いつの頃からか、私は書けば書くほど不安を覚えるようになっていったんですにゃあ。その不安をなんとか消すために、私はこの作品を書き始めたんですにゃあ。でも、それでもなお、私は自分以外の読者を想定して書いていたわけではなかったんですにゃあ。やはり私は、ただ私のためだけに書いていたんですにゃあ。地の文で読者に語りかけることがあっても、それはそのような書き方をすれば面白いだろうと思ったからそう書いただけで、しかもその『面白いだろう』というのは『自分の中の最良の読者』限定の話だったんですにゃあ。私が、私以外の完全に外部の人間の読者を想定したことは、一度もなかったんですにゃあ。私はそんな感じでどんどん話を書いて行ったんですにゃあ。でも、途中で、だんだん別の感情が芽生え始めたんですにゃあ」
マルタが優しい口調で言った。
「それは何? どんな感情?」
私は後ろ足で耳の後ろを掻いてから答えた。
「色々な不安を抱えながらも書いている間に、ふと私は、『もしこれが人に読まれたら、読者はどういう感想を抱くのだろうか?』と考えるようになったんですにゃ。それまで私は、ただひたすら私のためだけに書いていた。でも、もしこれを、紛れもなく私ではない、私以外の人間に読んでもらったとしたら……? その時、私と、私の書いたこの物語はどうなるんだろうと思ったんですにゃ。いつからそう感じていたのかは分からないですにゃ。もしかしたら、最初の時からうっすらと心の奥底でそう感じていたのかもしれないし、あるいは今この瞬間、こうしてマルタさんとメイドと魔王の前で話している時に、生まれてきた感情なのかもしれないですにゃ……」
しかし、私は首を激しく左右に振った。
「いや、そうじゃないですにゃ! 私は明確にその感情を初めて抱いた瞬間を、今なら言うことができますにゃ。それは、もう今では思い出すことができないほど前に書いた、私が人生で初めて書いた小説、その最後の一節を書き終えた時だったんですにゃあ。そして、この小説において、またその感情が復活したんですにゃあ。それは第六章を書き終えた、あの瞬間ですにゃ。『今はもう、不安などどこにもなくて、心の底から満足している。そう、本当に、不思議なくらいに、今は満足している。不安などまったくない。だから、このままこの物語を終わりにしてしまおう』 そう書いた、あの瞬間だったんですにゃ。あの瞬間に、私の中で巨大な不安が、それこそ、それまでに抱いていたすべての不安を合わせたよりも大きな不安が、爆発的なまでに膨らんだんですにゃ!」
マルタは私を励ますように、短い言葉で言った。
「その不安は、どんな不安だったの? 言って」
私はしばらく黙った。それを告白するのには勇気が必要だった。なぜなら、それは私の自尊心、というよりもあまりにも尊大で独善的である自我が、あまりにも単純で幼稚な願望を奥底に秘めていたことを明らかにしなければならなかったからだった。
それでも、私は言った。
「私の不安は、『読者に読んでもらえるだろうか』という不安だったのですにゃ。『面白く読んでもらえるだろうか』と、不安に感じたんですにゃ」
しばらくの間、沈黙があたりを包んだ。マルタもメイドも魔王も、何も言わなかった。だが、やがて、マルタだけがにっこりと笑った。マルタの笑顔は暗闇の中で光っているように見えた。彼女は言った。
「そう、それがコテクの不安だったのね。やっと分かったわ。あなたはこれまで、自分だけの物語を書いているつもりだった。自分だけの物語が完成すれば、不安が消えると思っていたのね。気の毒なコテク、あなたはずっと苦しんでいたのね」
私は空を見上げた。マルタたちも空を見上げた。そこは黒の塗料で塗りこめたような漆黒で満たされていた。星はなく、月もなく、地上の建物が発する照明の反射光すらもなかった。それは黒い風船の、膨らみに膨らみきった本体だった。この物語の世界は、今や私の不安によって完全に支配されていた。
それでも、マルタは明るい声で言った。彼女はこの状況においても、まったく不安を感じていないようだった。
「ねえ、コテク。あなたの不安は私にはよく分かるの。いや、分かってるつもりなだけかもしれないけど。あなたも知っているように、私はイエス様の教えを信じている。イエス様の言葉とそのご生涯の物語を私は毎日読んでいて、それによってこの異国の地で生きるための活力と希望を得ているわ。イエス様の言葉は愛で、神様の言葉も愛だから。でも、時々考えることがあるのよ」
マルタは私を抱き上げた。その胸には金の十字架があった。私の体はそれにぴったりと押し付けられた。ひんやりとしつつも、聖なる暖かみが私の体に伝わってきた。マルタは私を撫でながら言った。
「イエス様の言葉は力強くて、確信に満ちていて、何よりも愛と慈しみに溢れている。でも、イエス様はそういう言葉を語る時、不安を抱かなかったのかしら、って。私は時々そう思うの。イエス様は『自分の話を聞いてもらえるだろうか』という不安を覚えなかったのかしら? 愚かな疑問だとは思うわ。教会の神父様も、私のおばあちゃんも、お父さんもお母さんも、『きっとイエス様が不安を覚えることなんてなかった。イエス様は常に信じることのできる方だったから』と言ったわ」
マルタは私を撫で続けた。その手つきはあくまでも優しく、柔らかかった。
「でも、私はこうも思うのよ。もし、イエス様が不安を感じていて、それでも語ったり話しかけたりするのをやめなかったのだとしたら……それはなぜだったんだろうって。イエス様は神様の目的を達するためにこの世に顕現された方。でも、人として生まれたのだから、きっと不安も覚えたはず。処刑の前、捕縛されるのを待ちながら、ゲッセマネの園でイエス様は血のような汗を流しながらお祈りをしたわ。それはイエス様も不安を覚えていたから。ならイエス様だって、誰かに語る時、誰かに物語をする時には、不安を感じることもあったんじゃないかしら。『ちゃんと話を聞いてもらえるだろうか』って、イエス様も感じたんじゃないかしら。でも、イエス様は不安から逃げるために語るのをやめるなんてことはしなかった」
マルタは私を抱き直した。マルタの胸の膨らみが、私に居心地の良さを与えた。
「なぜ? それはきっと、イエス様が『自分の話をみんなに聞いてもらいたい』と思ったからなのよ。イエス様だって、人を救うとか、人を助けるためにとか、奇跡をこの世にもたらすためだけに語ったわけではないのと思うの。『ただ自分の考えた素晴らしいことを、みんなにも知ってもらいたい、自分の中から湧き出てくる言葉と愛を、みんなに伝えたい。だから自分は語りたい』 そういうふうにイエス様は感じたんじゃないかって。だからイエス様は、不安を感じながらも、それから逃げずに語り続けた……イエス様は、単に『そうしたかったからそうなさった』のよ。それがイエス様にとって、最も楽しくて、自由に感じられたから……」
ちょっとだけ言葉を切ってから、マルタはさらに言った。
「そのことに思い至ってから、私の読んでいる聖書は、もっと面白いものになったわ。イエス様が語る前に感じていたであろう不安、苦悩……でも、それがあるからこそ、イエス様の言葉は人々に届いて、そして今の私たちにも伝わっている。だってイエス様は語りたくて、語ることで最も自由で楽しくなれたから。そうじゃないかしら?」
ここまで言ってから、マルタは私を抱き上げて眼前に掲げた。マルタは私の目をしっかりと見据えて言った。
「物語を語るのは、きっと不安そのものなのでしょうね。それはあの風船を見ても分かる。あなたは物語を読んでもらえるか、今も強い不安を感じている」
マルタはちょっとだけ言葉を切ってから、また言った。
「でも、あなたは物語を誰かに読んでもらわなければならないわ。そうじゃないと、あなたは楽しくもなければ自由でもない状態になってしまう。イエス様はご自身の感じている不安すらも、きっと神様からのお恵みだと思っていたと思うの。それこそが自由と楽しみへの道標だったから」
突然、マルタは確信を深めた口調で、力強く私に言った。
「そうよ、あなたは物語を読んでもらわなければならないわ。なによりもまず、あなた自身が幸せになるために!」
マルタの目は澄んでいた。彼女の言葉も明瞭だった。私は、たとえようもなく不安だったが、同時に心地良い気分が徐々に到来しつつあるのを感じていた。
「私には、とてもじゃないけど不安をお恵みだなんて捉えるのは無理。不安が神様からの贈り物だなんて、やっぱり考えられない。だから、あなたにイエス様のようになれと私は言わないわ。でも私としては、少なくともあの『不安』を敵視するのはもうやめた方が良いと思うの。あれは解消されるべきものでもないし、癒されるべきものでもない。不安は、やっぱりそこにあるの。そしてこれからもきっと、あり続けるんだと思うわ。誤魔化したり、追いやったり、小さくすることはできると思うけど、でも絶対に消えない。だから、そのことをまずはよく見つめましょう?」
マルタはまた私をその胸に抱いた。彼女は言葉を続けた。
「知ったからと言って、それが何かを変えるわけではないかもしれない。あの黒い風船はこのまま大きくなり続けるかもしれない。そうなったら、この世界は不安によって圧し潰されてしまうかもね。いくら私に聖魔法少女としての力があっても、それはどうしようもできない。私には、あなたを不安から救い出すことなんてできないんだから……」
最後のマルタの言葉は、哀しみに満ちていた。私も悲しかった。不安ではなく、今の私はただひたすらに悲しかった。
だが、ここで魔王が口を開いた。魔王は不安によって顔が強張っていたが、それでも凛とした力のある声で、私たちに向かって言った。
「いいえ、マルタ。この物語の主人公よ。あなただけは、この作者の不安を解消することができるのよ」
マルタは驚いたような顔をした。
「えっ? どういうことなの?」
魔王はマルタに対してではなく、私に向かって言った。
「作者、あなたは今『この物語は読んでもらえるだろうか?』と不安に思っている。この物語が読まれてどういうふうに思われるか、どういう感想を抱かれるか、そのことが気になっている。『この作品は面白いと思ってもらえるだろうか?』 いえ、そもそも『読んでもらえるだろうか』と思っている」
魔王は言った。
「それなら、これから読んでもらえば良いじゃない。読んでもらいさえすれば、あなたの不安はきっと消えるわ」
にゃあ!? それはとんでもない話だにゃあ。私は魔王に向かって抗弁した。
「それは無理ですにゃあ。この物語は確かにメタ・フィクションではあるけれども、だからといって読者そのものをこの作品世界に引きずりこむなんてことは不可能ですにゃあ。仮に私が読者という存在をこの作品に投入したとしても、それは作者である私が創造したキャラクターのひとつに過ぎないわけで、本当の意味での読者ではない。作者以外の、他の人間としての読者は、この物語世界の完全なる外部にいて、それを作品内に連れてくることは不可能ですにゃあ」
それに、仮にこの物語が読まれるということがあったとしても、それはこの物語が最後まで書かれた後のはずである。つまりその時点では物語は完結してしまっていて、ゆえにこの物語が書かれた後に読まれたということを、予めこの物語内で書いておくことは不可能である。仮に予め書くとしても、それはやはりそういう創作に過ぎない。フィクションを鑑賞する外部者が、フィクション内において鑑賞する主体として登場することは、もしかしたら一部の天才がそれを可能にしたり、あるいはテクノロジーの進歩がそれを可能にしたりすることはあるかもしれないが、少なくともこの物語世界においては不可能である。
そのようなことを言うと、メイドが微妙な顔をして頷きながら言った。
「たとえば最初から他者に読まれることを前提としたネット小説などではそういったことが可能だったのかもしれないな。読んでいる読者をリアルタイムで創作物の中に登場させるなど、いかにもメタ・フィクション的な仕掛けだ。まあ、筒井康隆がそういうことをもう何十年も前にやっているが。しかし、この作品はそもそもがそうではなかった。だから今更になってそんなことを言っても無駄なのだが……」
私とメイドの会話を聞いた魔王は、明るい声で笑った。そして言った。
「なにも、外部から読者を連れてくる必要なんてないのよ。読者なら、今ここにいるじゃない。あなたの作品を読むのに、うってつけの読者が」
それは誰ですにゃあ、と改めて訊くまでもなかった。
私はマルタの顔を見つめた。メイドも、魔王も、マルタの顔を見つめていた。
マルタは意外そうな顔をして、自分の顔に指をさして言った。
「えっ? 私? 私が読むの?」
魔王は頷いた。
「そうよ、聖魔法少女マルタ。あなたがこの作品を読むのよ。あなたならばこの物語を作中内の作中外存在として読むことができるのだから」
メイドが魔王に向かって言った。
「作中内の作中外存在? なんか混乱してきたな。いや、待てよ。それを言うなら、魔王であるあなたもこの物語を読むことができるのではないか? あなたは外部の目を持っているのだから」
しかし魔王は残念そうに首を左右に振った。魔王は俯きがちに言った。
「いいえ、私には無理よ。私は作者と思考と視点、感情を共有している。でも、作者が書いている物語を直接読むことはできないの。そういうふうに造られたわけではなかったから。それに、外部の目を持っているというのも間違い。私はあくまでも作中内存在に過ぎないわ。私は外部の目を持っていると設定されているだけの、ただのキャラクターなのよ」
魔王は顔を上げた。そして、マルタに向かって人差し指を突き付け、力強く言った。
「でも、マルタ! あなたならば読めるのよ!」
魔王はマルタの反応を待たず、さらに話し続けた。
「そもそも、この作者がコテクとしてこの作品内に登場するために、いったい誰と最初に関係性を構築したか思い出して。それはマルタ、あなただったでしょう? 作者はマルタ、あなたと会話をすることでこの物語内に『再登場』をした。そこから実質的に物語が始まったの」
マルタは頷いた。
「ええ、そうよ。それがどう関係するの?」
魔王はさらに言葉を続けた。
「マルタ、あなたは確かにこの作者によってつくられた存在。でも、この物語内にいるコテクとしての作者にとっては、あなたが最初の『作品内における外部の人間』だったのよ。作者はそんなあなたによって初めてこの物語世界に存在を確定させ、物語をスタートさせることができた。つまり、この物語の基点は、作者にとっては『自分の内部にいる外部の人間』だったあなたなの」
マルタはだんだん混乱してきたようだった。ちょっとだけ苛立ったように、彼女は魔王に向かって言った。
「つまりどういうこと? 結論を言って! だんだん頭がこんがらがってきたわ」
魔王は一回だけ深呼吸をしてから、マルタに言った。
「この作者にとって、この物語世界における最も謎な存在、最も意図せざる存在だったのは、実はあなただったということなの。あなたは初めから、作者にとって未知なる存在だった。だからこそ、あなたは主人公なのよ。作者とは、作者にとって未知なる存在をこそ、主人公として据えるのだから」
私は「にゃあ」と言ってその言葉に賛同の意を示した。そのとおりだった。マルタは私のこの物語の主人公だったが、私は常にマルタのことを「作者でもよく分からない」キャラクターとして書いていた。彼女の基本的なパーソナリティ、彼女の信仰、彼女の感情、そういったものは書くことができた。彼女の行動、戦闘、言葉、そういったものも書くことができた。
だが、私は未だにマルタについては何も理解をしていないのだ。それは他のキャラクターたち、メイドや魔王、怪物たち、あの双子とはまったく違う。
むしろ、私はマルタの動きに合わせて、マルタの思考、マルタの言葉、マルタの行為を書いていったのかもしれない。マルタは私の頭の中に生きていて、私の頭の中で勝手に動いていた。マルタは間違いなく私の中の存在だったが、手に取って触れられるものではなかった。私は単に、マルタを観察し、それを記述していただけだった。その点で言えばマルタは間違いなく私の内部にいる外部の存在だった。
つまり、マルタならばこの物語を読むことができる。マルタは完全なる外部の存在ではないが、この物語においては唯一外部性を備えている存在、つまり作中内の作中外存在だからだ。
というようなことを「にゃあにゃあ」と言いながら私は述べた。書いてしまってから思ったのだが、今の議論はすべて余計だったかもしれない。
私は単に、「マルタにこの作品を読んでもらいたい」と思っただけなのだろう。マルタならば、この私の作品を楽しく読んでくれて、笑ってくれて、そして私と一緒に私の考えていることを考えてくれるかもしれない。そのように思っただけだろう。
あるいは、マルタは形を変えた「作者の頭の中にいる最良の読者」の変種の可能性もある。しかし、私としてはそうとも思えない。マルタは作中内存在であって、この物語の中で生き、そして生きることでこの物語を作ってきた。それは単なる『頭の中の最良の読者』には決してできないことだ。
むしろマルタならば、私の中の「最悪の読者」になってくれるかもしれないのだ。
「不安だ」
ああ! また『不安』が声を発した。実のところを言うと、作中内の作中外存在など、自分でもよく意味がわかってないのに、手が赴くままにバーっと書いてしまったんだにゃあ! でも、たとえそれがめちゃくちゃな論理でまったく筋が通ってなかったとしても、マルタこそが私の物語を読むのにふさわしい人だという私の直感には何も変わりはない!
要するに、私の今の望みはただ一つしかない。私は素直に、それをマルタに伝えることにした。
「マルタ、お願いがあります。私の物語を、どうか読んでみてください」
マルタは私をじっと見つめながら言った。
「そうすれば、あの不安は消えるかしら?」
マルタは天へと指をさした。私は答えた。
「それは分かりません。消えないかもしれません。あなたに読んでもらったことで、更なる不安が生まれるかもしれません。でも、私はあなたに、私の物語を読んでもらいたいのです。この物語の、一人目の読者として、あなたに読んでもらいたい」
私は、また改めて言った。
「お願いします、マルタ。私の物語を読んでください。どんな感想でも私は受け入れます。どうか、私の物語を読んでください」
しかし、マルタはすぐに返事をしなかった。彼女はしばらく考えているようだった。やがて、彼女は答えた。
「……あのね。私、本を読む時は、ちゃんと然るべき時間帯と理想的な場所を決めているの。それは、私が一番落ち着いていて、リラックスできるところ。学校から武蔵境の家へ帰って、ご飯を作って食べて、宿題をして、掃除と洗い物をして、それからお風呂に入って、聖書を開いて神様とイエス様とマリア様にお祈りをしてから、私はベッドに入るの。そのベッドの上で、私は本を読むことにしている。そこが、私にとって一番心が落ち着く場所だから」
私は言った。
「では、マルタは私の物語を……」
マルタは最後まで私の言葉を聞かず、メイドに「ねえ」と声をかけた。メイドはすぐにその意味を察して、どこかからマルタのカバンを持ってきた。マルタはカバンを開くと、その中に私を入れた。マルタは言った。
「読んであげるわ、あなたの物語を。でも、それは私が一番好きな場所で、私が一番好きなスタイルで読む。私が一日を締めくくる場所、私がこのめちゃくちゃだった一日を終えるのにふさわしい場所、そこで私はあなたの物語を読むわ」
そう言ってから、マルタは軽く首を左右に振った。
「そうじゃない、そうじゃないわ。私は、あなたの物語が読みたいのよ」
マルタはメイドと魔王に声をかけた。
「私はこれからお家に帰るわ! あなたたちはどうするの?」
メイドは不敵な笑みを浮かべて言った。
「もちろん、最後まで付き合うさ」
魔王も明るい表情で答えた。
「魔王が聖魔法少女のお家に行っても良いのかしら?」
マルタは微笑みながら魔王に向かって頷き返した。
「邪竜の魔王様には狭いかもしれないけど、同じ高校の友達を招くには充分広いわ」
マルタは歩き出した。メイドも魔王も、マルタの後について歩き出した。中庭の時計台は十八時を回っていた。下校時刻は既に過ぎていた。日が暮れて、夜が来ているはずだった。だがそれは膨らみ続けている「不安」のために遮られていた。
住宅街を抜け、破壊された久我山駅の前を通り、マルタたちは京王井の頭線の吉祥寺行電車に乗った。三人はあまり会話をしなかった。会話をしたくなかったというよりも、会話の必要がなかったからだった。車内は静まりかえっていた。吉祥寺に着くと、三人はJR中央線に乗り換えて、武蔵境駅へと向かった。
中央線の車内も静かだった。死んだように静かだった。しかし、それは単なる死ではなかった。死体の皮膚の下で蛆が這いずり回っているような、そういう動きのある死だった。焦燥と、薄い絶望感と、暗い予感が、車内の人々の心の中に満ちていた。
のろのろとしたスピードで進んでいく電車の車窓の外を、メイドが指さした。
「見ろ、真っ暗だ。何も見えない」
魔王が頷いた。
「真っ暗ね。夜よりも暗いわ。まだ十九時にもなっていないのに」
マルタはカバンの中にいる私に向かって言った。
「ねえ、あなたの物語は、どれくらいの長さなの?」
私は答えた。
「そうですにゃあ。十五万字くらいありますにゃあ」
マルタはちょっとだけ首を傾げた。
「字数で言われてもよく分からないわ」
メイドが言った。
「だいたい単行本一冊くらいかな。かなりの文の量だ」
マルタは頷いた。
「だとしたら、読み終えるのに一晩かかるかもしれないわ。私、日本語はけっこう得意な方だけど、日本人のように日本語の本を読むほどにはまだ得意じゃないもの」
魔王が薄く笑って言った。
「あなたはたいていの日本人よりも日本語が上手よ。自信を持ってちょうだい」
その時だった。突然、電車の窓を突き破って、何か黒くて太くて長いものが、車内へと勢いよく突入してきた。それは無数にあった。それは黒い触手だった。その先端はアイスピックのように尖っていた。
無数の黒い触手は車内のすべての人間の脳天に突き刺さった。刺された人間たちは一瞬だけ苦悶の表情を浮かべると、瞬く間にその顔の形を変えた。それは、あの黒い風船とそっくりだった。
「不安だ」
車内の人間が一斉に口を開いた。「不安だ」 その言葉は終わりなく続いた。
マルタとメイド、魔王は刺されることはなかった。彼女たちは各々の力でそれを防ぐことができた。メイドが言った。
「いよいよ事態が窮迫して来たな」
電車はほどなくして武蔵境駅に到着した。マルタたちは急ぎ足で電車から降りて、二階にあるプラットフォームからエスカレーターに乗って地上階へと降りた。マルタたちは北口に向かった。そこから出て、駅前の広場を通り抜け、ちょっと住宅街を入ったところに、マルタの家があった。
駅から家へと歩いている最中に出会う人々は、みなその頭頂部に黒い触手が突き刺ささっていて、みな「不安だ」と呟き続けていた。無数の黒い触手は天から伸びてきていて、また地上から天へと向かって伸びていた。魔王が言った。
「この調子だと、もう全世界の人間が『不安』に支配されているかもね」
マルタとメイドはそれに答えなかった。しかしその足を速めた。
家の前の細い路地に来た時、マルタがちょっとだけ感傷のこもった声で言った。
「そう、今朝だったのね。ここで『変なもの』を見たのは」
私はカバンから頭を出して、マルタに言った。
「ええ、ここで私は初めてマルタと関係性を構築しました。私はここから物語を始めたのです。マルタを主人公として」
マルタはさらに言った。
「そして、物語はこの先にある私の家で終わるのかしら?」
その問いに対して、私は何も答えなかった。終わるのかどうか分からなかったからである。たぶん終わるだろうとは思っているが、もしかしたら終わらないかもしれない。しかし、マルタの家で物語が終わるというのは、想像してみるとけっこう気分が良かった。私は、マルタの家で物語を終わらせたいと思った。
空は暗かった。暗くなり続けていた。夜よりも暗い夜だった。触手は数を増し、不安はさらに力を強めていった。
やがて、薄い緑色の外壁の、こぢんまりとしたマンションが見えてきた。その四階にマルタの家、というより部屋があった。やや古びているが、オートロックが完備された感じの良いマンションだった。玄関ホールとも呼べないような小さな空間から細い廊下が走っており、その先に階段とエレベーターがあった。
エレベーターは小さすぎて、三人が同時に乗ることはできなかった。三人は階段を登った。メイドがマルタのカバンを持った。メイドが中にいる私に向かって言った。
「それで、いよいよ自分の物語が読まれる時が近づいているわけだが、気分は?」
私は正直に答えた。
「不安ですにゃあ。読んでくれるのがマルタとはいえ、やっぱり不安なものは不安ですにゃあ。そわそわして、落ち着かない感じですにゃあ」
メイドはちょっとだけ顔に笑みを浮かべて言った。
「それは、もしかすると不安ではないのかもしれないぞ。世間では、そういう感情のことを『わくわく』と言ったりもする。せいぜいわくわくしたらどうだ?」
私は、メイドがそのような台詞を言ったことに感動した。だが、感動している間に、三人は四階に辿り着いていた。
マルタの部屋は階段から一番遠いところにあった。ドアには三つも鍵が付いていた。それは大家が遠い異国から来たマルタのために特別に増設したものだった。マルタは革製のキーケースを取り出して、それぞれ違う鍵を出して鍵を開けていった。
ドアは開かれた。マルタが「いらっしゃい」とポーランド語で言った。メイドは律儀にも「お邪魔します」と答えた。
マルタが電気をつけると、部屋の様子が瞬時にして明らかになった。魔王が言った。
「あら、いいお部屋じゃない。ちょっとものが少ないけど」
部屋は一室だけだった。狭いベランダに通じるガラス戸にはカーテンがかかっていた。小さなキッチンと、洗面所と、浴室とトイレが付いていた。部屋にはベッドと、黒いプラスチック製の衣装ダンスと、簡単な本棚と、他には家電類があった。魔王の言うように、部屋にはものが少なかった。本棚には数冊のポーランド語の本が並べられていて、その横に十字架と、聖母子像と、写真立てが置かれていた。写真立てにはマルタの家族の写真が入っていた。もう一つ、写真立てがあった。そこにはマルタの妹のマリアの写真があった。
家電は安物で、衣装ダンスも本棚も簡単なものだった。しかし、ベッドだけは豪華だった。ベッドは大きかった。ギリギリ三人は乗れそうな大きさだった。マットレスには真っ白なシーツがかかっていて、毛布はポーランド製の複雑な紋様が染められた毛織物だった。
そこはポーランドだった。そこだけがマルタの祖国だった。いや、祖国以上に、そこはマルタの聖域だった。マルタは言った。
「さっそくコテクの物語を読み始めたいところなんだけど、でも私、一日のルーティンをちゃんと決めているのよ。これから食事をして、お風呂に入って、お祈りをしてからベッドに入りたい」
「しっかりしてるのね」と魔王が言うと、マルタが答えた。
「いいえ、しっかりしないといけなかったのよ。日常生活をきっちりさせないと、この日本で生きるなんてできないわ」
メイドが言った。
「食事は私が用意しよう。その間にマルタは風呂に……って、風呂に入るなら変身を解かなければならないが、それは良いのか?」
そう、書き忘れていたが、マルタは未だに魔法少女の格好のままであった。マルタは自分の体を確認するようにペタペタと触ってから、私に言った。
「ねえ、コテク。変身は解けないの? というより、解いてくれない? 今日は跳んだり跳ねたりしてたくさん動いたから、どうしてもお風呂に入りたいんだけど」
私は「にゃあ」と答えた。「どうか今日はそのままで過ごして欲しいですにゃあ。ここで変身を解いたら、私の物語は読めなくなりますにゃあ」
マルタは「なんで? なんで変身を解いたら読めなくなるの?」と私に訊いた。私が「それは後で説明しますにゃあ」と言うと、マルタはなおも三回ほど「やっぱり変身は解けないの?」と訊いてきたが、やがて、本当に不承不承ながらという感じではあったが、了承してくれた。
メイドがいつの間にかお茶とサンドイッチを用意していた。マルタはそれを食べる前に、手を合わせて目を瞑って祈りを捧げた。そして三人は黙々と夕食を食べ始めた。時刻は十九時を回っていた。大変なことばかりがあった一日だったが、けっこういつもどおりの時間の夕食だった。
魔王は食欲旺盛で、サンドイッチを一人で五人前は食べてしまった。メイドがいくらでも追加を出したので足りなくなるということはなかった。散々食べて、紅茶をがぶ飲みした後に、魔王はメイドに「もっとちょうだい」と言った。メイドが「いい加減にした方が良い。『腹も身の内』と言うぞ」と答えると、魔王はちょっと失望したような顔をして、それから言った。
「あら、そう? なら、足りない分は自分で買って食べるわ」
その時、突然インターホンが鳴った。マルタたちは顔を見合わせた。マルタは立ち上がろうとしたが、メイドがそれを手で制して、通話画面の前へ行った。
スイッチを押し、画面を目にしたメイドが、「うわっ!」と叫んでのけ反った。マルタと魔王が即座に駆け寄った。
画面には、三日月の形に開いた口が大写しになっていた。ぎっしりと並んだ四角くて健康的な歯が剥き出しになっていた。口が開いて言った。
「不安だ」
メイドが即座に言った。
「こいつ、この家に入りたがっているようだ。無視をしよう。無視」
マルタが画面越しに『不安』に向かって言った。
「可哀想に。『不安』そのものであるあなたも、やっぱり不安を感じているのね。不安だから誰かと一緒にいたい。その気持ちはよく分かるわ。でも、気の毒だけど、あなたをここに入れるわけにはいかないの。私にはやるべきことがあるから」
それまで表情を一切変えなかった「不安」が、突然泣き出しそうな顔をした。そして言った。
「不安だ。不安だ。不安だ。中に入れろ。入れろ。入れろ。不安だ。不安だ」
メイドが通話ボタンを切った。メイドは言った。
「もしかすると、この世界で生き残っている人間はもう、私たちだけなのかもしれないな。外はすべて、あの不安が支配してしまっているのかもしれない」
食事を終えると三人は片づけをして、それからベッドに入る準備を始めた。魔王は勝手に風呂に入った。メイドはマルタの身繕いを手伝った。
浴室から聞こえてくる魔王の度外れに陽気な安来節を聞いて、マルタは却って沈痛な面持ちをした。マルタは言った。
「かわいそうに、不安なのね。私の祖国でも、人は不安な時に陽気な歌を歌うわ」
メイドが手を休めることなくマルタの服にブラシをかけながら言った。
「悲しい時は悲しい歌を歌えば良い。陽気な時にも悲しい歌を歌えば良い。人はみんな自由だ。どんな歌を歌っても良い。歌を歌わない自由すらある」
突然、玄関のドアがドンドンと強い力で叩かれる音がした。メイドが、常にないことに、びくりと肩を震わせた。声が聞こえてきた。声は凶暴さを秘めていた。
「不安だ。不安だ。不安だ。中に入れろ。入れろ。入れろ。不安だ。不安だ」
なおもドアは叩かれ続けた。メイドが少し震えた声で言った。
「奴が階段をあがってここまできてしまった。そのうちこの家の中にも……?」
そういうメイドに、マルタが優しく言った。
「ここは私のお家。ここなら不安は入ってこない。少なくとも、今はね。安心して」
ちょうど風呂から出てきた魔王が二人に言った。
「玄関先にいるみたいね、『不安』が。どうする? 私が出ていって時間稼ぎでもしましょうか?」
魔王の目が潤んでいるのは湯上りのせいだけでもなさそうだった。彼女は少し震えていた。しかしマルタは言った。
「いいえ、こういう時にはお祈りをしましょう。このお家を聖なるものにして、そして私たちの不安を軽くしてくれるような、そういうお祈りをしましょう」
マルタは手を合わせて、祈りの言葉を口にし始めた。それは『主の祈り』だった。マルタがこれまでの人生で、毎日欠かさず、辛い時も悲しい時も、嬉しい時も楽しい時も口にしてきた祈りだった。マルタは何度も祈りを繰り返した。
半時間ほどが経ち、祈りが終わった。魔王は下着姿だった。魔王が言った。
「不思議ね。祈りを聞いていたら、私の中の不安がだいぶ薄れたわ」
メイドはメイド服のままだった。メイドも頷いた。
「マルタの祈りの力で部屋が清められた……のだろうか。あるいはマルタが祈る姿を見て、祈る声を聞いて、私の心が強くさせられたのだろうか」
魔王が微笑みながら言った。
「これで今晩もよく眠れそうだわ」
しかしマルタは首を左右に振りつつ言った。
「いいえ。たぶん、不安はこの家の中にも入ってくるでしょう。そんな気がするの」
私もマルタと同じ気持ちだった。不安は、望もうが望むまいがどこにでも入り込んでくる。最も聖なるところにも、最も強いところにも、不安は侵入することができる。
それでも、マルタとメイドと魔王は、ベッドに入ろうとした。その前に私はマルタに言うことがあった。私は言った。
「マルタ、何かノートのようなものを用意してください」
マルタは一瞬だけ、私の言っていることが分からないような顔をしたが、すぐに納得したように言った。
「わかった、『即時参照』をここで使うのね? だからノートがいる」
私は「にゃあ」と答えた。「そうです。『即時参照』を使えば、私の物語を直接あなたのノートに送ることができます」
マルタは頷いた。
「だから、あなたは先ほど『変身を解かないで欲しい』と言ったのね。理解したわ」
マルタはそう言うと、本棚から一冊の本を取り出した。それは茶色の革張りの立派な装丁の本だった。マルタは言った。
「これ、私の日記帳なの。でも、中には何も書かれていない。日本に行く前にマリアが私に贈ってくれたの。『毎日日本で経験した楽しいこと、嬉しいことをたくさん書いてね。書いて、こっちに帰ってきたら私に読ませてね』って。でも、私は何も書けなかった。今も真っ白なままよ」
私はマルタに言った。
「いいのですか? そんなに大切なものに私の物語を書いても」
マルタは無言で微笑んだ。マルタは日記帳を持ったままベッドに入った。メイドがマルタの体の上に毛布をかけた。そして、私を抱き上げてマルタの枕元に置いた。
マルタの次に魔王がベッドに上がった。魔王は「寒いわ」と言った。「メイド、私の抱き枕になってよ。私、抱き枕がないと不安で眠れないわ」 メイドは「いやだ」と一言だけ言った。代わりにメイドはどこかから普通の毛布を持ってきて、それを魔王にかけた。そして、メイド自身はベッドの脇に立った。
マルタが言った。
「メイドもベッドに上がりなさい。そこに一晩中立っているつもりなの?」
するとメイドはすぐに答えた。
「そういうことなら、私もベッドにお邪魔しよう。私も、今日はいろいろあって疲れたんだ。いくら勤勉で美しい働き者のメイドといってもな」
メイドがベッドに上がって横になったのを確認すると、マルタが明るい声で言った。
「ようこそ、ポーランドへ」
私はさっそく、マルタの日記帳に物語を移すことにした。「これから始めますにゃあ」と言うと、マルタは私に気遣うような視線を投げかけた。マルタは言った。
「……大丈夫? 不安?」
私は不安だった。堪えようもないほどに不安だった。私はそれを「わくわく」だと思い込もうとした。しかし、やはり不安は消えなかった。この家の外にいる「不安」がますます力を増しているのを私は感じていた。私は言った。
「不安です。不安ですにゃあ」
マルタは私の頭を優しく撫でた。
「それなら、さっそく読み始めましょう。でも、さっき電車で言ったとおり、きっと一晩はかかるわ。あなた、一晩も不安に耐えられる?」
私は答えた。
「一晩……一晩なら、きっと耐えられますにゃあ」
マルタは頷いた。
玄関ドアがさらに強く叩かれた。ドアは今にも破壊されるのではないかと思われるような音を立てた。外から絶叫が聞こえてきた。
「不安だ! 不安だ! 一晩なんて、きっと耐えられない! 不安だ! 入れろ!」
そんな声を意にも介さず、マルタは魔王とメイドに言った。
「『わが心いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此処に止りて我と共に目を覚ましをれ』」
メイドが言った。
「『マタイ福音書』第二十六章第三十八節」
マルタがすぐに言った。
「でも、あなたたちは眠っていて良いわ。おやすみなさい」
魔王が眠そうな声で言った。
「おやすみなさい。きっと良い物語よ」
メイドも言った。
「おやすみ」
マルタは部屋の電気を消した。そして、ちょっとだけ目を閉じてから、「即時参照」を発動した。開かれた日記帳のページが光った。うねうねと、広大な大地を割って走る無数の河川のように、白い光の軌跡が縦横に走った。文字は増え続け、そして光り続けた。暗い室内の中でも、文字はずっと光り続けていた。
玄関ドアは静かになっていた。しかし、何かが部屋の中に入ってきたのを私は感じていた。ついに、不安はマルタの家まで浸食し始めたようだった。
私はマルタに言った。
「あなたの読むペースに合わせて物語を送ります。どうぞ、読み始めてください」
マルタは答えなかった。すでに彼女は物語を読み始めていた。
私は物語を日記帳へ送り続けた。
何分経ったのか、あるいは何時間も経ったのか、それともまだそれは一瞬のことなのか、私には何も分からなかった。私は夢中だった。私は何も考えていなかった。ただ、マルタに読んでもらうために、私は物語を送り続けた。
私は物語の作者である。しかし、この物語の作中内存在のコテクでもある。私はマルタの使い魔だった。だから、私の持っている魔力には限度があった。私はそれが突きかけているのを感じていた。それはちょうど、一番文章が書けている時にふと感じる、文藻の枯渇の予感にそっくりだった。それでも私は物語を送り続けた。
マルタは無言だった。彼女は無言で物語を読み続けていた。彼女は日記帳をゆっくりと捲っていた。私はそれを不安に思わなかった。
私はその時、マルタと同じだった。だが、マルタは私ではなかった。私は物語を送っていたが、マルタは物語を読んでいた。読むことで、マルタは祈っていた。それは聖なる読書だった。
部屋の中はすでに真っ暗だった。暗闇の中に白い歯の並んだ口が浮かんでいた。白い二つの眼球が私たちのベッドを睨んでいた。不安はそこにいた。私たちを狙っていた。この物語世界はすでに漆黒の不安に沈んでいて、私たちのベッドはさながら暗い大海の表面をたゆたう箱舟だった。
やがて、魔力が枯渇した。それでも日記帳は光り続けていた。マルタから私へと魔力が流れてくるのを私は感じていた。
マルタは光り輝いていて、ドーム状の魔力がすっぽりとベッドを覆っていた。
不安は喚き、絶叫しながら、何度も何度も、私たちのベッドに向かって黒い触手を突き立てた。それでも防御のシールドは破れなかった。
シールドの魔力は温かくて、私はほっとした気持ちになった。私はマルタの魔力のおかげで、物語を送り続けることができた。
次第に私の意識は朦朧としてきた。現実とも夢ともつかない世界の中に私は浮かんでいた。いや、おそらくそれは夢だった。私は夢の中にいた。
私は本を読んでいた。それは私の書いた本だった。それは私の書いた物語で、今、マルタが読んでいる物語だった。私は、夢の中にいる私が、いかにも不可解だというような声で言うのを聞いた。
「そもそも私は、書き始めたから不安になったのか? あるいは、不安だったから書き始めたのか? 読まれないのが不安だったのか、読まれるのが不安だったのか」
夢の中の私は、さらに言った。
「不思議だ、どうして私はこれを書くことができたのだろうか。どうして私は、これを私とは別の人に、読ませる気になったのだろうか」
声がした。
「終わっちゃったわ」
私は目が覚めた。そこにはマルタがいた。マルタの目は、長時間の読書で腫れていた。目の下の隈は黒かった。それでもマルタは美しかった。メイドと魔王の安らかな寝息が聞こえてきた。私はマルタに言った。
「どこで終わってしまいましたか?」
マルタは答えた。
「『不思議だ、どうして私はこれを書くことができたのだろうか』」
だが、不安はまだそこにいた。不安は泣いていた。大粒の涙が虚空に浮かんでいた。
「不安だ! 不安だ! 不安だ!」
そう言うと、これが最後の一撃だといわんばかりに、これまでで一番強力な突きを不安は放ってきた。マルタの魔力ドームは破れる寸前にまでたわんだが、結局は耐えきった。マルタは不安に少しだけ視線を向けた。彼女は悲しげな顔をした。
私はマルタに言った。
「申し訳ありません、マルタ。やはり私は、あなたに最後まで物語を送ることができませんでした。今も私は物語の続きを書いています。もうすぐ終わります。でも、それをあなたに読んでもらうことはできません。残念です」
私の目から涙がこぼれた。マルタはふっと微笑んで、私の涙を白い指先で拭った。
「それなら、今、私はあなたと一緒に、物語の最後の部分を作っているのね」
私はマルタに、おそるおそる尋ねた。
「どうでしたか?」
マルタは微笑みながら答えてくれた。
「面白かったわ」
軽い破裂音がした。直後、ガラス戸にかかっているカーテンの下から黄金の光が差し込んできた。部屋が仄かに明るくなり、マルタのベッドを照らした。
不安はどこにもいなくなっていた。黒いゴミ袋の破片のようなものが床に落ちているだけだった。
光に照らされたマルタが、ちょっとだけ口を尖らせて言った。
「でも、ひとつだけ不満があるわ。どうしても無視できない不満があるの」
私は言った。
「それは、なんですか?」
もはや不安はなかった。私は純粋に、マルタが何を不満に思っているのか、それを知りたかった。窓の外からの光はますます強くなっていた。マルタは言った。
「題名がない。この物語には題名がないわ。題名が必要よ。ねえ、私はこの物語をなんて呼べば良いの?」
そう言われてみればそうだった。どうして私はそれに気づかなかったのだろう?
マルタは身を起こして、私を抱き上げた。胸の金の十字架が朝日で光っていた。マルタは言った。
「ねえ、コテク。考えて。題名をつけるのよ」
私はしばらく考えた。だが、考えるまでもなかった。それは心の奥底にしっかりとあった。私はそれを取り出すだけで良かった。
私はマルタに言った。
「……『聖魔法少女マルタの一日』はどうでしょう?」
マルタは、ゆっくりと私の言葉を繰り返した。
「『聖魔法少女マルタの一日』……そうね、悪くないわ。それが良いと思う。さりげなくて、気取ってなくて、でもどこかおかしみがある」
部屋に差し込む黄金の光が、さらに強さを増していった。朝はもうそこに来ていて、もうそこにあった。
マルタが私を抱いた。マルタはあたたかかった。しばらく、マルタは私を抱いていた。私はしばらくマルタに抱かれていた。
マルタがぽつりと呟くように言った。
「それにしても、本当に長い一日だったわ」
そしてマルタは、その青空のような瞳で私を見つめながら言った。
「また、続きを書いたら読ませてね。私、もう一日なら、あなたに付き合ってあげるから」
エピローグへお進みください。
・2025/07/25/金
※幕間六を追加しました。