薄い闇の向こうで揺れる光がある。それはゆっくりと揺らぎながら、けれど時折鋭く彼女の目を焼いた。
閉じられていた目蓋が開く。まず目に入ったのは黒味さえ帯びた深緑の椰子の葉。そしてその遥か高みで煌く太陽に開けた目蓋を再び閉じられる。目眩を覚える程の眩しさに、彼女は殊更ゆっくりと横たえていた身体を起こした。
その際、掌はきめ細かな砂の感触を覚える。純白に近しい天然の砂浜だった。
遅れて潮騒の音色に気付く。その穏やかさは折角覚醒した頭の働きを大いに阻害した。
「ここは……?」
それでも、突き動かされるように彼女は立ち上がり海辺へ歩を進めた。見渡す限りのマリンブルー。遠浅の海の両サイドは人目を払うように岩礁で塞がっていた。南国にあるプライベートビーチとやらは正しくこのようなロケーションなのだろう。
呆けた脳がそんな月並みな感想を持った。
「…………」
いい加減、眠気も晴れている。これは所謂現実逃避か。
周囲に視線を這わせ、感覚を研ぎ澄まし気配を探る。それもごく短時間で済ませると、次に彼女は自己の状態を精査した。両肘と両膝から先を露にしたダイバースーツのような黒い高効率神経伝達繊維スーツが少女のしなやかな体躯を包んでいる。所々が裂け破れ、はしたないというかみっともない姿であるが、行動に支障はない。潮風に晒した腰まである長い黒髪が少し軋んだ。しかし、差し当たり五体は満足である。
「ぐっ!?」
ただし全身に軽度の打撲、そして今更ながらに重度の疲労感が圧しかかってきた。パワーアシストを切った重装甲『IS』を着て丸一日素振りをした時以来の疲労感、或いはそれ以上かもしれない。
片膝が砂地に埋まる。身動ぎするにもひどく億劫だ。
「IS……そうだ、私は…………! 『白騎士』は!?」
一息に立ち上がったことで全身の血が下がり、ただでさえ万全でない身体は容易く揺らいだ。
それをきつく奥歯を噛み締め押さえ込む。今は何よりも早く己の愛機を探さねばならない。『計画』は完遂したがしかしそれで終わりではないのだ。急ぎ友人と連絡を取る必要がある。
そして何より――――ようやく手にしたんだ。いつしか肌のように馴染み、とうとう己のものとなった力。
「っ!」
鉛のように重い身体に鞭打って浜を駆け出す。一歩踏み込む度に砂に足を取られ、ただ走るだけで余計な体力を消耗した。
それでも意地になり海岸沿いを進み続ける。自分自身が生身でここに転がっていたのだから、存外すぐ傍にそれはあるやもと淡い期待を抱いた。しかし彼女は頭のどこかで往々にしてそういった期待が裏切られるのを理解していた。
海岸沿いを隈なく探し続けても純白の騎士甲冑はなく、ただただ白い砂地が日光で彼女の目を焼くだけ。そして彼女は、さらにもう一つ知りたくもない現実を知る。
「島なのか、ここは……」
400m程も歩いた頃、鬱蒼と生い茂っていた木々が突然途切れ、視界が拓けた。そこは小さな入り江になっており、陸地を海が深く切り込んでいた。いよいよ以てビーチリゾート染みてきた。とはいえ相変わらず木々は浜辺に沿うように茂り、林の向こうは闇ばかりだが、拓けたここからは内陸の様子をよく見通すことができる。
森から地続きに小さな山があった。彼女の体調が万全なら全力疾走で十分と掛かるまい。
それだけ。
山の向こうには何も見えず、四方は海に囲まれている。
「…………」
言葉もなく彼女は海沿いを歩いた。海上に鋭い視線を這わせながら。
存外すぐ傍に陸地があり、ここはただの離れ小島か陸繋島の可能性だってある。同時に、先程から全身のあらゆる感覚器官を総動員して周囲の気配を探っている。生き物は、動物は、人間はいないか。ここが仮令無人島であったとしても特に問題はない。無人の島など全世界ありとあらゆる海に浮かんでいるのだから。そして付け加えるなら未発見の無人島など存在しない。航海、航空技術は進歩を極め、人はとうとう宇宙にまでその版図を広げようとする現代である。地球衛星軌道上には所属国家、運用目的の別あれど数百様々な人工衛星が周回し地球上の如何なる場所であろうとその監視網が届かぬことはない。在り得ない。
頭は絶えず思索を続け、身体は逸るように足を動かし続けている。駆け出してしまわないのは疲労が思った以上に肉体を蝕んでいたからだ。
途中砂浜が途切れ、剥き出しの岩場に差し掛かる。波が激しくぶつかる岸壁を見上げれば、切り立った崖の上で旋回飛行するカモメが己を見下ろしていた。
幸い潮の流れは穏やかで、海面から顔を出した岩が其処彼処にある。
「……すぅ」
静かな吸気。海水の臭いが鼻を抜け肺に溜まる。
それにより乱れた呼吸と肉体が不完全ながら整調された。
彼女は一息に跳んだ。
「っ!」
直近5m先の岩の頭に着地、間髪入れず
彼女の足は再び脆い砂地を踏む。
「っはぁ……はぁ、はぁ、はぁ……この、程度で……!」
少女の想定していた以上に体力の損耗が激しい。
鼓動を早める心臓を抱えるようにして、それでも彼女はゆっくりと歩を進めた。今は何より現状の把握と己のISの発見が急務なのだ。
「連絡を取らなければ……今頃大騒ぎだろうな、
おそらくは今も、実行可能なあらゆる手段を用いて自分を探し回っているだろう“友人”を思う。彼女は偏屈で人嫌いで変態で天才で、時に天にも昇るバカではあるが、一途に友達想いな娘だ。今回の騒動を引き起こしたのも元を辿ればそんな想いが原因なのだ。それを知れば、人々はその下らなさを呆れ、事の深刻さに憤り、常に絶対の法と容赦無い善意で少女達を責め立てるだろう。それは間違いではない。それが正当だ。ただ、それでも――――ささやかで他愛もない理由に絆され、一も二もなく縋り付いた。きっとそれはただ一つの救いだった。
歩く毎に重みを増す身体を引きずって、少女はそれでも前へ進む。
後戻りなどできないのだから。
結局、気付けばこうして最初に目覚めた浜辺の椰子の下まで戻っていた。海岸沿いを延々歩き続けて得たものといえば、ここが完全な無人島で、またさらに悪いことに
しかし、彼女は自分の予想がそれほど的外れだとも思えなかった。覚った、と言い換えてもいい。
太陽はじりじりと肌を焼き、纏わり付く湿気がねっとりと熱を持つ。体にぴったりと張り付いたスーツの下で行き場を失くした汗が充満し気分を一層不快にする。
そして、海岸沿いに己の『IS』を見付けることができなかったこと。少なくとも自身のいた近辺に無いとすると、事態は非常に深刻だ。
――海に墜落した時、強制除装された『IS』はそのまま海底へ沈没し、自身だけが島に流れ着いてしまったのだとしたら。
「……っ」
暗澹と心は落ち沈む。精神力という支えを失った身体は為す術無く砂地に倒れ込んだ。
目覚めた時点の焼き直し。椰子の枝葉から覗く空をぼんやりと眺めた。一つ違うのは、太陽が既に水平線近く傾いている点か。
「自業自得とはいえこれは、なかなか……」
自嘲的な力ない笑みが浮かぶ。
勝負を挑まれたから受けた……これが言い訳として成り立つのかも疑わしい。前触れなく唐突に現れた存在に驚き戸惑いながら、それでもなお相手から差し出された“闘い”に身を投じたのは紛れもなく自分の意思だった。子供染みた意地と矜持と、幼稚以前のこの度し難い感情を抑えきれず。
力を手に入れたと思ったんだ。何者にも負けない、屈しない、強い力を。何者からでも大切な存在を守り抜くことが出来る力を。
「すまない、束……」
それを与えてくれた友人に、己は酷い失望を与えたことだろう。友人に――無二の親友に恩を仇で返したのだ。その罪深さは計り知れない。
負けてはならなかった。己は断じて敗北してはならなかった。何者が相手であろうとも、己に敗北は許されなかった。
誓いが、あった。
「すまない…………すまないっ、一夏……!」
たった一人、残してきた弟を思う。たった一人だけ残った家族を想う。
無力を呪う。己の弱さを許せない。これで、この様で一体何を守るという。一体何を守れるというのか。
噛み締めた奥歯が軋み、加減もなく握り締めた拳からはいつからか血が滲んでいた。
もう一方の手で顔を覆う。こみ上げてくるものを抑え込み、飲み下すために。弱音など吐かせはしない。涙など流させるものか。
誓いが、あるのだから。断じて破れぬ誓いを
「――――」
慟哭は胸の奥深く封じられ、少女はただ心を苛む痛みに苦悶する。
波立つ心を持て余した少女は、しかし強制的に現実へと引き戻された。
――――がさり、がさり。浜辺に面した林の向こうで、物音が立った。
「っっ!?」
平素とは比べるべくもない緩慢さで、けれど瞬時に少女は跳ね起き、叢の闇に対峙した。
(この距離まで接近に気付かなかったとは、何たる……糞っ! 野生動物の類足音の大きさからして小動物ではありえないこちらは身体が衰弱している上に完全な丸腰だどうする? どうする!?)
無手のまま構える。手頃な棒切れでも拾って置けばまだマシだったろうに。
内心で迂闊な自身を呪いながら、頭では絶えず思索を巡らせる。そうしなければ、死ぬ。呆気なく、死ぬ。誰一人として例外はなく、来るべき“その時”が来れば人は死ぬのだ。容易く。虫のように。想いも執着も意志も心も何もかも無視されて。何の証も意味も残らない。無価値な死を
今がその時なのか。
その実感が少女の背筋を凍らせた。
「くっ、う、ぁ」
足音が近付く。
「ぅ、ぅうぁあああああぁああぁああぁああ!!!」
気付けば喉が、全身の震えるままに叫び出していた。その恐怖に耐えられず、その絶望を受け入れたくないと。
身が竦む。歯の根も合わない。膝は笑い今にも崩れてしまいそうだ。いっそ目を瞑ってしまえたならどんなにか幸福だったろう。
そしてそれは来た。
「――――――――――」
茜色に輝く太陽を浴びて黒味さえ帯びた草葉を掻き分け、丸々太った猪の鼻先が突き出てくる。頭だけで90cmはある。
少女の“絶望/死”が、遂に像を結んだ。
「よぉ」
「――――――――――え」
そう思われた。いや、もはやそうとしか考えられなかった。
だから少女は、それが自分に掛けられた声なのだと理解するまでに大変な時間を必要とした。
叢から這い出てくる体長3m近い大猪。けれどそいつは自立歩行していない。前足はだらりと垂れ下がり、後足は力なく地面に引き摺られている。
「立ってて平気か? 辛ぇだろ無茶すんな」
そんなことを、いかにも軽い調子で言うと少年は笑った。
馬鹿に大きな猪を背負って、夕陽に輝く彼の笑顔はなんとも眩しい。
その場違いな笑顔に、緊張の糸は脆くも切れた。
砂浜に倒れこみ、遠のく意識の刹那に慌てふためく少年の姿を見る。どうしてか、その光景に弟を重ね見た。顔も声も背格好も似ても似つかないのに。どうして。
ほんの一滴、安寧を抱いて少女は眠りに落ちた。