悟空TRIP!   作:足洗

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三話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 遠く遠く消え失せていた意識を呼び覚ましたのは全身を炙る熱気だった。

 それもじりじりと肌を焼く日光ではなく、もっと剥き出しの強い熱、純粋の炎であるらしい。

 うっすら開いた目蓋の向こうで橙の光が揺らめいている。時折ぱちりと薪木が砕け、炎に乗って火の粉が空に昇る。やや紺色を帯びた艶やかな夜空が己を見下ろした。

 さらに光の向こうへと焦点が当たる。小さな影がこちらを見ている。

 

「よぅ、気が付いたみてぇだな」

「ぁ……?」

 

 ゆっくりと、今度は注意深く上体を起こし、覚醒し切らぬ頭を振った。声の主は焚き火を挟んだすぐ向かい側で胡坐を掻いている。

 やや浅黒い肌、蒼色の胴着、黄色の下穿き、いずれも炎に照らし出され、果たしてつい先刻(さっき)出会った黒髪の少年が変わらずそこにいた。

 ……変わらず(・・・・)に?

 

(何が……変わるって、なんだ……?)

「? どうした? やっぱしまだどっか具合悪いんか?」

「え、あぁ、いや…………大丈夫、大事は無い」

 

 心配そうな顔で問い掛ける少年に慌てて応えを返す。すると少年はほっと息を吐いて笑った。

 

「そっかぁ。いつの間にかどっか行っちまってて、見付けたと思った途端ぶっ倒れちまったんで心配したぞぉ」

「それは、すまなかった」

 

 居住まいを正して、改めて少年と向かい合う。

 その笑顔があまりにも純粋で、ちくりと心が痛んだ。心配する顔も、安堵に息吐く様子まで、あまりにも純粋で。

 どうしてか、似ているのは背丈くらいのものであるのに、その澄んだ黒い瞳は弟を思い出させた。

 

「私の名前は、織斑(おりむら)千冬(ちふゆ)。君の名前を聞いてもいいか?」

「あ、そういやぁ自己紹介まだだったなぁ。オラ、孫悟空だ! よろしくな、千冬!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幅広な葉の上には、よく焼けた肉が乗っている。大きさは千冬の顔程もあるだろう。湯気を立てて肉汁が滴り濃厚な肉の香りが臭い立つ。

 獲れたて絞めたての猪肉だ。それに海水をぶっかけ豪快に丸焼きにしたものが千冬の膝の上に鎮座している。

 そしてこれはそのごく一部に過ぎない。

 

「…………」

「ん? どおひふぁひふう」

「いや、すごいな君。それ全部食えるのか」

 

 軽く3mはあった猪の大半を目の前の少年は既に食い尽くしてしまっている。ほぼ綺麗な骨の標本と成り果てた猪は今、少年の傍らで哀しげに横たわっていた。

 猪肉の総量は明らかに少年の体積を上回っていたのだが、果たしてどのような神秘がそこに働いたのか。

 謎だった。考えてはいけないことなのかもしれない。

 

「んぐんぐ……はふー、千冬もしっかり食えよぉ。じゃねぇと(りき)戻んねぇかんな」

「あ、ああ、頂く」

 

 新鮮な肉はそれだけで最高の食材である。豪快に齧り付いた肉の大ざっぱな仕上がりに反した味わい深さに千冬は驚いた。

 

「美味い……」

「だろ? やっぱし肉は丸焼きに限るな!」

「しかし程度というものがあるだろう程度というものが」

 

 弱りきった千冬の身体は貪欲にタンパク質を吸収していった。己の想定する以上に、やはり肉体は疲労している。

 無自覚だった空腹が満たされてくると、今まで回らなかった思考が働き始める。

 目の前の少年に対して、疑問はすぐさま湧いて出た。

 

「ん……君は、この島の住人なのか?」

「いや? 寝てる間に来てたらしくてよ、気が付いたらここにいたぞ」

「え」

 

 ぽろりと、今しがた食い千切った肉の欠片が口から落ちる。

 何の気なしの問いに返って来た回答はおおよそ予想外のものだった。千冬は慌てて質問を継ぐ。

 

「じゃ、じゃあ家族は? ご両親は近くにいないのか?」

「親? オラのか? う~ん神龍(シェンロン)が言うにゃあ生みの親っちゅうのはオラが生まれた後にいろいろあって死んじまったらしいけんど、流石に覚えてねぇなぁ。じっちゃんもオラの所為でもう死んじまってるし……家族っていえる奴はみーんなあの世だな」

「は?」

 

 一瞬、少年の口にする事柄が千冬には理解できなかった。

 特に気負った素振りも見せず、あっけらかんとしてとんでもないことを少年は言った筈だ。話の内容の重さとその軽い口調との食い違いが、ひどい違和感と非現実感を齎す。

 だのに千冬はどうにも少年の話を嘘とは思えなかった。純朴を絵に描いたようなこの少年が嘘を吐く理由が分からない。

 何よりその目が、千冬を無条件に信じさせた。

 

「こ、この島に、ずっと一人で、か?」

 

 今度は殊更恐る恐る、千冬は少年を見て言った。それはとても残酷な問いに思えたから。

 無人島にたった一人きりで、この世のどこにも家族はいない。それはきっと――真正の孤独だ。

 けれど少年は、悟空は、千冬の恐れに気付いた様子もなく、その変わらない無邪気な口調で。

 

「ずっとってほどじゃねぇさ。つい昨日からだ」

「昨日……? 何か事故があったのか? 旅客船、それとも飛行機の墜落事故――――」

「おめぇと闘うちょっと前だぞ」

 

 変わりようのない無邪気な、弟にはぜんぜん似ていない筈の笑顔で。

 

「たたか、う?」

「ああ、軍の奴らを追っ払った後闘ったじゃねぇか。忘れちまったのか?」

 

 悟空は首を傾げ、千冬の目を覗き込む。まるで小動物のようなその仕草に毒気が抜かれた。

 一つ深く息を吸って内心の動揺を鎮める。もとより下らない妄想だ。

 

「君は、そうか、あの男の知り合いなんだな。私とあの男の戦闘をここから見て……」

「?? おめぇなに言って……あ、そっか! おめぇと会った時はこの姿じゃなかったもんなぁ。分かんねぇのも無理ねぇや」

 

 少年は立ち上がった。揺らめく炎の向こう側、彼はとても近く、だが決して近付くことのできない場所に立っている。

 

「見た方が早ぇか」

 

 不破、不可視の壁がある。そんな、絶望的な隔たり。

 千冬の背筋に走る悪寒。寒い訳あるか。ここは熱帯湿潤の南国の島なのだから。

 ではこの、言いようの無い感覚は何だ。全身を支配する震えは何だ。噴出するこの冷たい汗は、乱れ跳ねる心臓は。

 この感情は何だ!

 悟空は悠々と焚き火を横切り、そのまま千冬の傍を歩き去る。視界の外に消えた少年を千冬は慌てて振り返った。

 そしてそこにいたのは――――

 

「な?」

 

 一音、疑問符と共に発したただそれだけでその“男”の言わんとすることは明白、瞭然、(あらわ)わとなっていた。

 

「おまえは、なんだ」

「オラ、孫悟空だ」

 

 やや浅黒い肌、蒼色の胴着、黄色の下穿き、同じ、同じ、色彩も印象も何もかも。ただ一点、少年から大人の男性へ成長した体躯・極限に鍛え上げられた肉体、その変化のみ。相違点はそれだけだ。

 孫悟空という少年と、孫悟空と名乗るこの男は同一人物だ。

 目の前に在ってもなおその在り得ない事実を、しかし千冬は受け入れていた。信じられた。

 千冬は知っている。己を打倒した男の実在を。

 千冬は知った。少年の笑顔に抱いた違和感の正体を。

 

「おまえ、は――――」

 

 同じだ。同じ笑み。雄大で、悠然と、泰然自若としたその笑顔。力強く揺るぎない、決して揺るがない存在を顕した貌だ。

 あの空で、己が敗北した――――

 

 瞬間、視界は赤く染まる。

 燃え盛る炎とは違う、それは赤熱した血潮と感情。

 知らず知らず、拳を握っていた。砕けるほどに歯を食い縛っていた。

 脚部が瞬発し、背筋が反り返る。振り被った腕は引き絞った弓の弦、拳は番えた矢。

 

「っっっ!!!」

 

 射出された(ボルト)は過たず男の左頬を目指し、飛んだ。肉体が負う重度の疲労を無視した瞬間的フルパワーの打撃。速度、軌道、踏み込み、全てが在り得ないほどに完璧だった。

 そして間もなくそれは着弾した。

 男の掌に。

 

「おっとと」

「――――ぁ?」

 

 拳が触れた直後、その打点を基点として衝撃波が奔った。

 二人の周囲へ爆散する破壊力というエネルギーはあらゆるものを薙ぎ払う。砂浜はもとより、傍らの焚き火も薪木も猪の骨も巻き込んで。

 男は無傷だ。

 傷を負ったのは、人間という領域を逸脱した所業を為し、その代償を支払う千冬のみ。

 

「――――っ! はぁっ! はあはあっ、かはっっ!? ひっぎ、はあっはあっはっ!!」

「! だから無茶すんじゃねぇ! おめぇオラと闘った時全部の気を根こそぎ使い果たしちまったんだぞ?」

 

 膝からくず折れる。肉体の筋組織が全て鉛に変わった。対して骨は代わりに綿でも詰められたかのように頼りない。

 己の意志では身動ぎ一つ取れない。だのに呼吸困難を来たした身体は痙攣し続けた。陸に打ち揚げられた魚と同様の無様。

 酸素を求めて口から涎を垂らしながら喘ぐ。

 そのまま前のめりに倒れ掛かる千冬の身体を悟空が受け止めた。

 

「待ってろ」

 

 悟空は千冬を仰向けに寝かせ、その上から掌を翳した。

 直後、悟空の掌が光を帯びる。途切れ途切れの意識の狭間で、人間の体温以上の、日の光にも近しい熱を千冬は感じた。

 肌を焼いていたその熱は次第に千冬の体全てを覆っていく。同時に、乱れた呼吸が、常軌を逸した肉体の重圧が和らいでいく。

 

「な」

 

 驚く千冬を置き去って、男はそっとその場を離れる。

 大いに戸惑いながら千冬は己の身体を見下ろす。肉体は全快とは程遠いまでも、運動に支障のないレベルまで回復していた。

 

「これは、一体……!?」

「オラの気を少し分けた。おめぇが動く分には足りんだろ……そら、続き始めっぞ」

 

 男は浜辺を歩き、十歩ほどの距離を置いた所で千冬に振り返った。未だに座り込んだままの千冬をその黒い瞳が見下ろす。

 灯の消えた浜辺を蒼白い月光が照らした。潮騒を除いて僅かな物音さえも今は無い。

 その言葉、その目が物語るように、男は月下で千冬を待っている。

 

「続き、だと」

「ああ、おめぇオラと闘ぇてぇんだろ?」

「…………」

 

 男の言葉は千冬の思考を正しく言い当てていた。

 

「おめぇが何をそんなに焦ってんのかは分かんねぇけどよ。闘ってそれがどうにかなるんなら幾らでも付き合ってやっぞ。つってもまあ、最初に喧嘩吹っ掛けたのはオラだけどな。ははっ」

 

 言葉尻も軽く悟空は笑う。

 千冬はその飄々とした態度に苛立った。重く気負う自分に対して男の精神のなんと落ち着き払ったものか。

 すっくと千冬は立ち上がる。浜砂を踏み締め、悟空を真っ直ぐに睨みつける。

 

「……行くぞ」

「ああ」

 

 ごく短い応酬。直後、千冬は駆け出した。蹴り足で後塵を飛ばしながら、十歩の隔たりを三歩で縮める。

 そして間合いに接すると同時に悟空の顔面目掛け拳を放った。

 

「はぁっ!」

「ふっ」

 

 裂帛の気合に静かな呼気が応え、千冬の速く重みのない(・・・・・)拳を悟空の右前腕が弾く。

 千冬は己の拳が弾かれたと同時に、中段、悟空の鳩尾へと掬い上げるように突きを放っていた。

 そうして放たれた拳は待ち構えていた悟空の掌へと収まる。凄まじい打撃音が大気に響くも、悟空に何程の痛痒も見えない。

 

「ちっ」

 

 強引に手を振り解き、千冬はその場から跳び退る。悟空は追撃を掛けなかった。

 千冬は悟空を中心に、円を描きながら駆ける。悟空はそれを視線だけで追いかける。

 そしてとうとう悟空の視野の外、背後を正面に据えて千冬は踊り掛った。

 視界外からの強襲。ほんの一瞬でもいい。一寸の不意を千冬は活用する。

 跳躍から回転、側頭部へ向けての後ろ蹴り(ローリングソバット)。竜巻めいた旋回力の蹴りで砂塵が舞い上がる。しなやかな脚は空間を切り裂いた。

 

「…………」

「!?」

 

 その蹴撃を、悟空はあろうことか一瞥もくれずに腕で受け止めた。

 驚愕を飲み下し、砂を削りながら停止、反動のままに千冬の身体が跳ね上がる。左手海側にやや身を投げ、鋭角な軌道で接敵、転身して右裏拳を叩き込む。それも軽く払われ、続いて左脇腹へ向けて振り被った正拳突きは――――

 

「だりゃぁあ!!」

「がはっ」

 

 気付けば千冬の身体は宙に投げ出される。平衡感覚が消える。重力の所在を見失う。

 千冬が打ち込む寸前、低く身を沈めた悟空から左拳が打ち込まれたのだ。

 空中から遠ざかる対敵の姿を見る。ほぼ直立……棒立ちだった筈の男がいつの間にか構え、拳を放って残心している。

 

(いつ動いた!?)

 

 それは寸分の狂い無く千冬の腹を捉えた。

 吹き飛ばされた身体がようやく重力に引かれ、海面へと落下する。液体を突き破る感覚と共に、千冬は遅れに遅れて腹部の激痛に気が付いた。

 腹筋から背骨までも貫く衝撃。大型動物の突進を受けてもこうはなるまい。強大な一撃をただ叩き付けることと一点に集中して打ち込むこと、それぞれが齎す破壊のどちらがより強烈であるかなど言うまでもない。

 

「ばっ! はぁはあはぁはぁ! ぎっ、ぁが……はっ、っず……!」

 

 海中でいつまでも思索を巡らせていられる訳もなく、千冬は空気を求めて慌てて立ち上がった。その際、腹の痛みが否応無く彼女を苛む。呼吸するだけで痛みは内臓まで響き渡った。

 痛みを堪え、千冬は海岸を睨む。遠浅の中ほどから浜まで50mはあるだろう。大した飛距離である。

 悟空は、浜辺から千冬を見ていた。

 

「っ」

 

 千冬の身体が震える。

 少女を見詰める男は、その飄然とした雰囲気をそのままに、瞳だけが異様な鋭さを放っていた。

 悟空が一歩踏み出した。千冬の猛攻を受けてなおその場から一歩も動かなかった悟空が、千冬の立つ海へと向かって来る。

 水に濡れるのもお構いなしに悟空は海へ入っていった。ずんずんと、一歩一歩前へ。千冬の元へ。

 

「ぁ……」

 

 真っ直ぐに、一瞬たりとも千冬から目を逸らさない。

 今、悟空は千冬だけを見ている。千冬以外を見ていない。

 

「あ、ぁ……ぁ」

 

 千冬の身体が、震えた。

 水に濡れた寒さがそうさせるのか。震えは次第に強く、全身を瘧のように支配していく。

 そして、もはや悟空と千冬の距離は手を伸ばせば触れられるまでに近付いていた。

 少女の眼前に男が立つ。

 

「さあ、続きだ」

「ぅ、あ、ぁ……」

「最初はオラからだったけどよ」

 

 凪いだ波が静かに足を打つ。静かに。

 夜空の下で、海の中に悟空と千冬だけが佇んでいる。水平線と空の境界が失われた無限の世界で、悟空と千冬だけが今この時だけは地球上に存在するたった二つの生命だった。

 

「二度目はおめぇだ。おめぇが()りてぇって言った……っつうか殴ったな。なら、とことん闘ろうぜ。おめぇが恐がってること吹っ切れるまで、とことんな」

「…………え?」

 

 見下ろす悟空の視線が一瞬和らぐ。それは少年の姿だった時と同じ、無邪気で穏やかな眼差し。

 優しい両目が千冬を見下ろす。いつしか震えは止まっていた。

 

「………………………………」

「? 千冬?」

 

 男が少女の名前を呼んだ。

 その声さえもどこか遠く、千冬はただ力なく項垂れる。今になってようやく彼女は理解したから。

 

(勝てない、絶対に……私は、この男に……)

 

 出会ったその瞬間、既に敗北していたのだ。

 

 

 

 

 

 千冬は己の胸に抱える“恐怖”を語った。

 まるで神からその許しを乞うように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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