悟空TRIP!   作:足洗

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四話 GTinインフィニット・ストラトス

 

 

 

 織斑千冬は自身の両親によって捨てられた。

 それ以上でもそれ以下でもなくそれ一つが端的で簡素な事実である。

 彼らが何故千冬を捨てたのか――――その理由を千冬は特に知りたいとも思わない。解りたいとは思わない。

 小学校に上がる少し前に織斑千冬は育児放棄による孤児の一人となった。事実はそれ一つきりで終わっている。何一つとして変わらない。

 幾らかの怒りや悲しみや、絶望のようなものを感じたろうか。それら諸々の感慨はおそらく湧き出た時点で完結していた。千冬にすればそんなものはさして重要なことではなかったから。

 二人の親は消え去っても、千冬にはまだ家族がいた。たった一人の、八歳違いの弟が。自分達が捨てられたのだと覚った次の瞬間には、千冬は粉ミルクと換えのオムツの残量と、洗濯物の溜り具合のことしか考えていなかったのだ。

 そしてもう一つ、心が決めていた。覚悟だとか決意だとか大仰なものはなく、ごく自然に心がそのように切り替わった。

 

 私が一夏を守る。

 

 乳飲み子の弟をその腕に抱きかかえて、千冬は穏やかに微笑んでいた。

 

 

 この日本という国で親のいない子供が独力で生きていくことはほぼ不可能である。それは経済的な問題はもとより法律上の不文律として、未成年者は単独ではあらゆる法的行為に制限がある。

 そして様々な理由で親の養護を受けられない子供は施設か里親の元へ送られる。それは権利だが、同時に強い義務だ。

 千冬にとってそれは断じて避けねばならないことだった。まだ乳児の一夏は児童養護施設ではなく幼児院に預けられる。最悪(最良?)の場合、何処かの親切な他人が彼を引き取ってしまうこともありえた。彼一人だけを。

 

 それだけは――――嫌だった。

 

 離れ離れになってしまうのは嫌だった。

 世界でただ一人の家族を守るのは自分だから。自分だけだから。

 

 だから、千冬は篠ノ之(しののの)の家へ頭を下げた。近所付き合いがあり、何より千冬が通っていた剣術道場の当主であり家長である篠ノ之(しののの)柳韻(りゅういん)とは浅からず交流があった。

 というより、頼れる伝手はそこしかなかった。

 当時の千冬には平身低頭、額を床に擦り付けることしかできなかった。稀代の神童などと持て囃され、道場や他流試合でも当時から無敗を誇った千冬にできたことが唯一それだった。

 己と一夏がこれから先も一緒に生活を続ける為には法的保護者を担ってくれる後見人が必要なのだ。ガキ一人が息巻いたところで、赤子を抱えて冷徹な社会を生き抜ける訳がない。結局は、大人に縋るしかない。

 

 無力だった。

 千冬は、己の無力を憎悪した。

 

 一人の人間を成人まで育て上げる為に必要な労と手間と金は膨大であり莫大だ。一定の期間、少なくとも千冬がそれらを創出する手段を獲得できるまで、多少の縁を笠に頼ることのなんと恥を知らない。

 篠ノ之の父御はその意味で、凄まじいまでの罪悪感を千冬の胸に齎した。人格者たる彼の善意は、最上の痛みを伴い胸に突き刺さった。

 

 千冬は実社会において紛れもなく弱者だった。

 弱い自分が許せなかった。

 

 その後、小学校へ通い始めて集団に属するようになると、千冬の想いは強迫的に増大していった。

 人間が一定数集まると様々な特色が見えてくる。気の強い者、弱い者、力の強い者、弱い者、虐げる者――虐げられる者。どちらが幸福で、どちらが不幸かなど比べるまでもない。一様に、涙を流すのは、痛みに苦しみ嘆くのは、不幸を背負うのは、弱者だった。

 そして何より千冬を恐怖させた現実――――苦痛を背負わされた弱者達の心は歪んだ。怒り、悲しみ、恐怖、憎悪、一度でも負の感情で染まった心は、醜く、黒く、(おぞま)しく、歪んだ。

 

 弱者が、自分以下の弱者を虐げる。

 否、“弱者”を虐げるのはいつだって同じ“弱者”なのだ。

 

 その事実に、千冬は戦慄した。

 つい昨日まで笑い合っていた、友達同士だった、これからもそうだと信じて疑わなかった。

 その友達を、彼らは笑って虐めていた。楽しそうだった。その瞳は安堵で安らぎ、愉しげに光っていた。今まで自分達が被ってきた痛みを他者へと与える快楽は彼らをすっかりと酔わせていた。

 その光景が、あの笑みが、あの瞳が、千冬の脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな時だ……(あいつ)が、私に“強さ”を与えると言ってきた」

 

 千冬は力なく海の中に座り込んでいた。水面には暗く淀んだ瞳が映る。それが自分のものだと気付くまでに、千冬は幾許か時間を要した。

 

「藁にも縋る、なんて言ったらあいつは怒るだろうな……ただ、私が追い詰められていただけだ」

 

 自嘲的な、歪んだ笑みを無理矢理刻み、千冬は過去を振り返る。

 過大も過小も無い真正の“天才”、そう呼ばれた友人が開発した宇宙開発用高機動マルチフォーム・スーツ。人の脆弱さを恐れ、強さに執着し続けた千冬に、現代の人類には開発不可能としか思えない超科学技術の結晶を彼女は与えたのだ。

 

「通称を、そう……『無限の蒼穹(インフィニット・ストラトス)』と」

「おめぇが着てたあの鎧みてぇなやつのことか?」

「……ああ、それが……お前にとってはただの(・・・)鎧でしかないそれは、私にとって……」

 

 縋ることのできるただ一つの藁だった。

 

「信じていたんだ。無条件に信じられた。あいつは天才だ。私が一番よく知っている。そして信ずるに足るだけの力がISにはあった……私が欲して止まなかった絶対の力が、そこにあったんだ!」

 

 水面が揺れる。千冬の声に、叫びに波紋を描く。それは虚しく海中を伝い、暗い暗い海底の砂と同じように山積するだけだ。

 

「これさえあれば、これが世に出れば、私は誰にも負けない。誰よりも強く在れる。どんなものより強くなれると…………一夏を守れると思った。一夏の不安も悲しみも全部消し去ってやれると、そう思った」

 

 事実、全世界に点在するあらゆる軍事、兵器開発施設より発射された2341発ものミサイルを全て斬り落し、撃ち落し、事態に気付き施設のコンピュータをハッキングした犯人の居場所をいち早く(束の仕掛けにより)発見した各国軍隊を一切の死傷者を出すことなく退けた。

 その途方も無い所業を容易く実現せしめ、人道を踏破する超能を与える“力”。政治、経済、軍事、世界を変革せしうるだろう“力”。

 

「力を得たと思ったのにっ! お前が! お前が現れた!!」

「…………」

 

 顔を上げればそこに、変わらず男はそこにいる。長い長い千冬の告白をじっとその場に佇んで今も耳を傾けている。

 自身を打ち負かした男。自身が敗北した男。世界で初めて織斑千冬に敗北を齎した男。

 

「お前を初めて見た瞬間解った。絶対に勝てないと……闘わなくても解った! いいや、そうだ、初めから闘う必要すらなかった。でも……それでも…………逃げる訳にはいかなかった」

 

 ゆっくりと千冬は立ち上がる。滴る海水が水面を弾く。

 長い黒髪はしとどに濡れて、顔に張り付き彼女の表情を隠す。

 絶対に勝てない。相対しただけでその圧倒的な強さを理解できる、そんな悟空が、千冬はどうしようもなく恐ろしかった。

 

「それでも闘わなければ、私は断じて負ける訳にはいかない! 私には守るものがある。その為に私は強くなければならない。敗北して――弱者になる訳にはいかない!!」

 

 拳を血が滲むほどに握り締め、喉が裂けるほどに叫び散らす。

 そうしなければ、千冬は己を保てない。

 

「弱い私では、一夏を守れない……弱い私は――――一夏すら見捨ててしまうかもしれないっ」

 

 

 ここに、千冬の恐怖があった。

 

 

「そんなのっ、いや……!」

 

 足から力が抜け、再び千冬は海に身を沈めた。今度こそ二度と起き上がれないかもしれない。体を包む海水がどこまでも重く彼女を押し潰すのだ。冷たい。寒い。体温も気力もなにもかも、千冬の中の暖かなもの全てが奪われていく。

 項垂れる千冬の頭上で、静かに息を吐く気配があった。

 

「おめぇが弱ぇ訳ねぇだろ」

「強い訳がないだろう……」

「オラに負けちまったらそいつは弱いってことなんか?」

 

 悟空の声音には明確な呆れが含まれていた。その遠慮の無さが、千冬の苛立ちを駆り立てる。

 

「私は誰にも、負けてはいけなかった! 誰にも、一度たりとも……!!」

「そんなのは無理だ」

 

 千冬の海をも揺るがさん怒声に動じる様子もなくぴしゃりと悟空は言い放つ。それは有無を言わせぬ否定だった。

 

「誰にも負けねぇなんて無理だ。どんなに強くたって、どんなに修行したって負けちまう時は負けちまう。自分より強ぇ奴なんてのはこの世にゃいくらでもいんだぞ?」

「それは……そんなことわかってるっ。なにより身を以て思い知った! でも、それでも私は……」

 

 それが世の常であることは、未だ年若い千冬とて理解している。上には上が、強者はさらなる強者によって弱者へと突き落とされる。力はいつ何時であっても厳正に、残酷に、結果だけを齎す。

 知っている。千冬は知っているのだ。

 

「弱さは人を変える。歪めるんだ。自分可愛さで、簡単に大切なものを捨ててしまえるんだ!! 友達も、人としての尊厳も、家族さえ……実の子供だってっ!」

「…………」

「だから……私、だけは、負けちゃダメなんだ……」

 

 言葉は消え入るように水面に溶ける。

 黒い海。潮の生臭さ。潮騒。風のざわめき。それ以外ここには何も無い。

 意味あるものが千冬の中から失せていく。

 こんな自分は無意味だ、無価値だと心のどこかが嘲笑い、そして憤怒する。

 

「そっか」

 

 代わりに空っぽの胸を埋めたものは、どろどろとしてひどく不快で、悍しいもの。

 タールのような絶望が満ちていく――――

 

「千冬」

「――――ぁ」

 

 暗く、黒い海に沈んだ千冬の体が浮上した。絡み付くような冷たい海水から千冬を引き上げたのは、悟空だった。

 千冬の体が持ち上がる。脇に手を回され、さながら抱き上げられる子供のように。事実男は少女をそのように扱う。十代の半ばにも達しない少女が子供でなくてなんだという。

 そして悟空は、そのまま千冬を抱き締めた。その分厚い胸板に千冬の顔を押し付け、すっぽりと包み込んでしまった。

 

「なん、なにをっ」

 

 当然ながら千冬は抵抗した。会ってたかだか数時間の、見ず知らずの男に抱かれて嫌がらぬ方がどうかしている。

 しかし今の千冬に、悟空に抗えるだけの体力など残ってはいなかった。数回、力なく悟空の胸を叩く。たったそれだけが精一杯。

 

「強ぇなぁ、おめぇは」

「は……?」

 

 この上さらに千冬は混乱した。滔々と語り通した己の過去を、苦悩をこの男は本当に聞いていたのだろうか。

 

「そんな訳、ない」

「あるさ。おめぇは強ぇ」

「そんな訳ない!!」

 

 千冬は絶叫する。声は男の胸にぶつかり、いやにくぐもって響いた。

 そして少女の手は、知らず男の胴着を握り締めていた。

 

「だって、私はお前に、負けて……」

「誰だって負ける時は負けちまうもんだ。今日のおめぇがそうだし、もちろんオラだってそうだ」

「私は弱くて……弱いから、何も、誰も、守れない……!」

「そんなことねぇ。おめぇは今もずぅっと“イチカ”のこと一番に考えてんじゃねぇか」

 

 嫌々とむずがる子供のように千冬は否定し続けた。震える体は止められず、鼻はつんと痛みを発し、きつく閉じた目蓋は熱を持つ。

 ふと、頭に無骨な感触があった。それが男の手だと気付くのにさして時間は掛からなかったが、頭を撫でられているのだと気付くには意外なほど時間を必要とした。ずっと忘れていたものだ。不慣れで、落ち着かない。だのに、こんなにも懐かしい。

 

「ぁ……」

「恐かったんだなぁ。負けっちまうのが。闘って負けるのなんて初めてだったんだろ?」

「……っ」

「そんで悔しかったろ。無理もねぇや。なまじっか元から強ぇと悔しさも人一倍すげぇもんさ……ベジータの奴もそうだったかんなぁ」

 

 悟空はどこか嬉しそうに言った。顔が見えればきっと笑っているに違いない。

 頭を撫でて、軽く背中を叩く手、顔を埋めた大きく分厚い胸板、波音よりも穏やかな声音。冷えた千冬の身体に男の熱が沁み込んでくる。

 どこか他人事のように千冬はそれに身を委ねていた。

 

「弱くなんかねぇ。弟の為に今までずっと頑張ってきたんだもんな」

「っ……うっ、く……ぅ…………」

「おめぇは強ぇよ。今はちょっと躓いちまってるけんど、なぁにすぐ立てるようになるさ」

「ふ、ぅ、ぁ……あぁっ……!」

 

 この喉から漏れ出る声は自分のものなのか。力ない響きがいかにも情けない。けれどどうしても堪えることはできなかった。

 目から零れ落ちる熱い滴が男の胴着を汚していく。それは止め処なく、溢れ続けた。

 

「わ、たしっ、不安、で……こわくて……っ……一人じゃ、一夏を゛……でも、ひとりでやらなきゃ、わたしだけが、かぞくだからっ!」

「うん、うん、そうか。でもよ、一人で全部引き受けちまうことなんてねぇぞ。それじゃあ辛ぇばっかだろ」

「で、も……でもっ……」

「でももなんもねぇ」

 

 一夏を守る。その誓いを胸に抱いたあの日から千冬は泣かなかった。涙を流す甘えを自分に許さなかった。

 この男の、無骨な手が、厚い胸が、優しい声が、全身を抱く暖かさがそうさせる。千冬の心を揺さぶって止まない。

 

「決めた! オラが修行つけてやるよ」

「え……?」

「オラもおめぇと同じだ。今よりもっともっと強くなって、世の中のいろんな強ぇ奴と闘いてぇ! もちろんおめぇとだってそうだぞ、千冬」

 

 突拍子もないことを男は言った。千冬は嗚咽も忘れてぽかんと悟空の顔を見上げる。

 悟空は、笑っていた。その、千冬を真っ直ぐに見下ろす瞳は夜空の下であっても爛々と輝いている。

 真っ直ぐな目は優しくて、けれどどこまでも力強い。千冬はいつまでも目を放せなかった。

 

「だからあんまり無茶すんな。オラ、またおめぇと闘いてぇ!」

「っっ!」

 

 飾り気の無い言い回しで、男は少女を必要だと言った。ただそれだけのこと。

 たったそれだけで、声も憚らず千冬は泣いた。泣いて泣いて泣きぬいた。十年余りも置き捨てた子供時代を取り戻すかのように。

 空が白み、遠く水平線に朝日が昇るまで千冬は悟空に縋り付き、ただ泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千冬が日本に帰国したのはそれから数日後のことだった。

 一晩を泣き明かした翌日、酷使を続けてとうに限界を迎えていた千冬の身体はその限界を超え、それから丸一日休眠状態に陥った。死んだように眠り続け、もう半日後にようやく目を覚まして、身体が十全に動かせるようになるまでさらに二日程。常人ではありえない速度の回復力とはいえ、千冬は短くない時間を島で過ごす破目になった。

 何処とも知れない無人島での出来事を千冬は終ぞ誰にも語ることはなかった。その時間が、千冬にとってどのような意味を持つのか、それは千冬だけの秘密だ。

 

 帰り着いた千冬をまず出迎えたのは一夏と(ほうき)二人分の涙と泣き声で、続いて養い親の柳韻からは厳しい叱責を頂戴した。いずれも胸が締め付けられ、自分が家族にどれほど心配を掛けていたのか、自分の仕出かした事の重大さを思い知らされる。

 それでも己を出迎えてくれる篠ノ之の家の優しさが、千冬にはなによりも堪えた。

 同時に、千冬は一人の友人を思う。

 

 未だ束の行方はようとして知れない。

 千冬を日本へと送り届けた時点で、篠ノ之束は姿を消した。篠ノ之の家に帰ったのは彼女ではなく千冬だった。ここは彼女の家で、千冬を出迎えたのは彼女の家族で、どうしてか千冬がその優しさを噛み締めている。彼女にこそその権利がある筈なのに。

 胸の奥でちくりと痛みを発するそれは、束に対する罪悪感だった。

 千冬と束は共犯者だ。仮令千冬にその意図がなく、あるいは全てが束の書いたシナリオであったのだとしても、そんなことは問題ではない。全世界に対する壮大なマッチポンプ。日本という国を的にして誘導ミサイルで矢払いの真似事をした。一人の少女が創り、けれど世界は見向きもしなかった空想の産物――『IS』を正しく現実として知らしめる為に。

 だから、千冬には責任がある。近い将来ISによって激変していくだろう世界と向き合い、結果を受け止める責任が。

 

 いつの日か束と再会したなら話をしたい。千冬があの島で得たもの――失ったもの。そして何より感謝を言いたい。束は千冬に、超常の力でもISという兵器でもなく、掛け替えの無い“切欠”与えてくれたから。

 

 

 そうして、あれよあれよと時間が過ぎ、千冬が帰国して早一ヶ月が経とうとしていた。

 

「…………」

 

 束は帰らず、けれど日常は何一つ変わることなく過ぎていく。

 そして未だあの男も現れない。

 

 篠ノ之神社。篠ノ之柳韻が神主を務めている。千冬が小学生の頃まで通っていた篠ノ之道場もまた神社と同じ敷地に隣接している。稽古の帰りに、そのまま篠ノ之の家で夕飯を一夏と御馳走になったのも一度や二度ではない。そして今日も、篠ノ之の家は千冬と一夏を暖かく迎えてくれた。

 日が沈んでもう随分。山の頂に建つ神社の境内からは、夜空に浮かぶ星の瞬きがよく見えた。

 

「…………」

 

 風呂上りの浴衣姿で、おもむろに境内を散策に出たのは焦燥感か、それともここ一ヶ月越しの手持ち無沙汰を埋める為か。

 千冬と束によって引き起こされ、またその手で解決された事件――後に『白騎士事件』と銘打たれたそれは、今やテレビ、新聞、ネット、書籍etc...ありとあらゆる情報媒体を席巻している。一月という時間が経過しようと、色褪せるどころかISという存在が、その理論が、超科学が明らかにされるほど世界はその一事一色に染まりきっていく。

 世界各国でIS研究機関が設立され、数多の学問分野の先駆者達がISを躍起になって研究し、調査し、一刻も早いその理論の究明を求めていた。そしてその研究材料を提供しているのは誰あろう開発者たる篠ノ之束だ。

 そう時を置かず、世界はISで染まる。千冬には確信に近い予感があった。

 世界は変わるだろう。ISという存在が前提に置かれ、世界は過去に類を見ないパラダイムシフトを起こす。

 

『楽しみだねぇちーちゃん!』

 

 どうしてか束の笑顔を思い出す。世界の激変さえ彼女の脳内では想定済み、いや、彼女の思い描く“変化”には程遠いだろう。

 だが束はやってのける。彼女は人智を凌駕した“天才”なのだから。

 

 ――――では、自分は。

 

 武道を歩んで、闘いという領域に自分なりの才覚を見出した。

 人類史を顧みてもそれなり(・・・・)の天賦が己にはあるそうだ。古流剣術の奥伝を修め、今なお研鑽を重ね続ける武人柳韻はにこりともせず千冬に言った。

 

『お前は、事武力という領域において無二の存在だ』

 

 子供騙しの冗談かと思ったが、成長と共に千冬はそれを疑うのが難しくなっていった。小学校入学間際に羆を素手で、反撃も許さず仕留めていれば、その自覚は驕りではなく正しい自己認識といえるだろう。

 束が“知”の天才ならば己は“武”の天才。そのようなものかといつしか疑うことを辞めた。

 天がどんな気紛れで寄越したのかなどどうでもいいことで、才能ならばそれを最大限に活かすよう千冬は努めた。研鑽は余念を知らず、上り詰めた武の頂は一つや二つに留まらない。

 強くなることを求めた。柳韻が口にした無二の存在になることで、一夏を守れると信じた。

 けれど、柳韻は間違っていた。きっと千冬もどこかで勘違いをしていた。千冬を見る世間の目もなかなか節穴だったらしい。

 

 千冬はある日突然突如として唐突に敗北を知った。

 訳も解らない、初めての経験だった。

 何も理解できないで、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き回され、今まで信じてきた常識も頼みとしてきた才能も力も実は取るに足らないものなのだと思い知らされて。

 

 何故か優しくされて、泣いた。

 

 世界は刻々と変わり続けている。友人はその変化をさらに激しく、変化が混沌(カオス)へ往き着くまで掻き乱すだろう。その胸の内に秘めた想いを叶える為に。信念に従って。

 では、信念を砕かれた己はどうすればいい。家族を守るという一念によって築き上げてきた心の牙城を圧し折られた己は――――弱い己を知った私は。

 

「……お前が」

 

 私にそれを教えてくれる、筈だろ。

 だのに。

 

「お前は、」

 

 ここにいないじゃないか。

 

「悟空……」

 

 虚空にその名を呟いた。夜の空気にそれは薄く溶けていく。

 

「悟空……悟空…………」

 

 それでも、何度も何度も千冬は呟いた。夜風に騒ぐ木々よりも弱々しく、叢で歌う虫の声より自信ない。

 もしかしたら全ては夢で、自分が見たのは都合の良い幻だったのか。弱い私が耐えられなくて、心はありもしないものを創り出した。

 

「…………悟空っ」

 

 それでも千冬は、その男を呼び続ける。

 夜空を見上げた。瞬く星は儚げで、いつしか夜闇がそれを飲み込んでしまいそう。月はどこだろうか。暗い夜を照らしてくれる月の光は。

 

「悟空っ!」

 

 轟、一際強く風が林を薙ぎ払った。

 風は境内を吹き抜け、千冬を背後から包み込む。湿った髪が頬に冷たい。

 思わぬ風の強さに、千冬は背後を振り返った。

 

「え?」

 

 ――――夜の下で燃え盛るような“紅”を見た。

 獅子の鬣のように伸び逆立った黒髪、全身を鎧の如く包む隆起した筋肉。そしてその肉体の両腕から腹にかけてを紅蓮色の体毛が覆っていた。腰元からは同色の尻尾がしゅるりと伸びている。猿の尾だ。

 何よりその目。赤く隈取のように縁取られた眼窩からのぞく黄金の瞳。この世のあらゆるものを貫いてしまいそうな瞳が今は千冬を見ている。千冬だけを捉えて。

 その瞬間千冬は覚った。それはあたかも人間のような形をしているが、その実は全く別の、別次元(・・・)の存在であると。

 月を背にして空中で静止していたそれがゆっくりと降りてくる。なるほど月は男の背後に隠れていたのか。道理で見付からぬ筈だ、と千冬はひどく愚昧なことを考えた。

 境内に降り立ったそれが千冬へと近付いてくる。千冬はそれを、逃げることもせず待った。

 

「オッス、オレは――――」

「悟空」

 

 名前を呼ぶと、男は驚いた顔をして、すぐに笑った。

 

「よく分かったな」

「お前みたいな奴をそうそう見間違えるか」

「つってもこの姿だろ? 今日が満月だとは思わなくってよ」

 

 そう言って男は空に浮かんだ真円の月を見上げた。煌々と光る月はやたらに明るく、今が夜であることを忘れさせる。

 千冬はそっと歩き出す。三歩も歩けば男はもう目の前で、もうあと一歩で。

 

「遅いぞ、馬鹿」

「わりぃわりぃ」

「ふんっ……」

 

 変わらないその分厚い胸にそっと額を押し付ける。迷子が親に巡り会えた時、それはきっとこんな心地なのだろう。

 額から感じるこの暖かさを千冬はずっと探していたのだ。

 

「ばか」

 

 そっと頭を撫でられる。硬い筈の掌はどこかくすぐったい。

 月は、ここにあった。

 

 

 

 

 

 


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