悟空TRIP!   作:足洗

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 大変お久しゅうございます。はじめましての方は読んでいただいて本当にありがとうございます。わざわざ近況見舞いにご連絡いただいた方々本当にありがとうございます。そして申し訳ありません。
 ぼろぼろな更新頻度ですが、よろしければお楽しみください。


三話 GTinとある科学の超電磁砲

 

 

 

 人はそう簡単には変われない。若輩の域を未だ出ない春生の人生でも、そこから得られた知識や経験から彼女はそのような認識を築いていた。そしてそれは、そう的外れな見解ではないとも考えている。

 科学一筋に生きる研究者が小学校の教師を勤めるなど必ずどこかに無理が出る。何より木山春生という女はどうしようもなく教育という分野に不向きな人間だった。

 何故? そんなこと言うまでもない。

 

「私は子供が嫌いだ」

 

 騒がしいし、デリカシーがないし、失礼だし、悪戯するし、論理的じゃないし、馴れ馴れしいし、その癖すぐに懐くし。

 木山春生はどうにもこうにも子供という存在が嫌いで苦手で、彼女にとって彼らはこの上ない天敵だった。

 思い出すだに気が重い。教師として赴任してからそこで過ごした時間は、平穏というものから程遠く――――。

 

 

 

 

 最初の頃は、たった一時間の授業をするのも一苦労だった。落ち着きのない子供を宥めて椅子に座らせ、授業の内容に興味を惹かせ飽きさせないよう工夫を凝らす。そして度々教室に突撃してくる悟空によってそんな工夫すら水泡に帰す。それが、どれほどに、大変か――――でも、一度琴線に触れた事柄に対する子供の集中や情熱は、どこか研究にのめり込む自分を見ているようで。

 

“ほぉれおめぇ達、ちゃんと春生の話聞かなきゃダメだぞ? やっぱ勉強っちゅうのも大事(でぇじ)だかんな”

“君の口からそんな言葉を聞くと物凄い違和感があるな……”

“んで、これささっと終わらせたら皆給食だぞ! 今日はカレーだ! よっしゃー!!”

“そんなことだろうと思ったよ!”

 

 彼らは教室の入り口に何かしらの罠を仕掛けなければ気が済まないのだろうか。水バケツの巻き添えを食った悟空がそのまま水遊びを始めるし。挙句クラスの全員を水浸しにするし。まあ、そのお陰か、男子達が罠を仕掛ける回数が減ったのは少しばかり助かったが。

 

“次も絶対引っ掛けるからな!”

“おう! やってみろ! ぜーんぶ避けてやっかんな”

“だからといって罠の精度を上げさせてどうする!”

 

 やたらと人のプライベートに興味津々なところもえらく戸惑った。恋人の存在の有無がそんなにも重要な事なのか。研究一筋で生きてきた今の今まで必要としなかったのだ。これからだってきっと必要ない。そうに違いない。だから枝先、その候補にやたらと悟空を推すのを辞めてくれ。大いに大きなお世話だ。性格とか、何よりその、年齢差とか……。というかなんでよりにもよって悟空(コイツ)なんだ!

 

“えぇー、だって先生悟空と一緒に住んでるよ?”

“知ってるー。そういうのドーセーって言うんだよ!”

“なんでそうなるんだ……”

“なあ春生、ドーセーってなんだ?”

“私に聞かないでくれ!”

 

 人の身体的特徴を(あげつら)うのは善くないことだ。自分に女性的魅力が欠けているのは自分が一番理解している。ところで「チチよか小せぇなぁ」とは、どういう意味なのだろうか。胸囲の話題には違いあるまいが、無論チチというのは乳房ではなく一個人の名前を指すのだろうな。チチって誰だ。一体誰と比べたんだ悟空。怒らないから正直に教えなさい。さあ。

 

“は、春生。なんかおめぇ恐ぇぞ……?”

“何故恐がる必要がある。私は単に君に質問しているだけだ。他意はない。参考までにそのチチさんとやらについてよくよく聞かせてくれ。私のような起伏に乏しい貧相な身体とは違うんだろう? なあ、悟空”

 

 休み時間、放課後を問わず、やたらと子供達に付き纏われる。頼むからサッカーやらバレーやら鬼ごっこやらに人を巻き込まないでくれ。ただでさえ運動能力は人並みかそれ以下なんだ。君達の無尽蔵な体力に付いて行ける訳がないだろう。特に悟空のそれは異常だった。児童らが真似をするから、その人間離れしてアクロバティックな挙動を止めなさい。

 

“せんせーいっしょに遊ぼー!!”

“ほらっ早く早く!”

“行くぞぉ春生ー!”

“ば、バカ! そんなに引っ張るんじゃない! 行くよっ、すぐに行くから……!”

 

 そう。そうやって引っ張り回されてばかりだ。

 こちらの都合なんて本当に頓着しない。どこまでも勝手で、どうにも理解し難い。

 迷惑なことばかりだ。実際迷惑に思っている。

 

“せんせい!”

“せぇんせっ”

“せんせぇー!!”

 

 なのに。

 

「春生、今日も楽しかったか?」

 

 いつかの帰り道、前を歩く悟空がこちらを振り返って聞いた。

 その言い草に私はまた口をへの字に曲げる。何を世迷言を。あんな落ち着きのない時間はこりごりなんだ。お願いだからもう少し穏やかな授業をさせてくれ。

 

「ははは! わりぃわりぃ」

 

 悪びれたというより、悪戯っぽく悟空は笑う。まったく、半分は君の所為なんだぞ? いや七割八割方はそうかもしれない。

 孫悟空という少年によって、木山春生の生活は一変した。完膚なく崩され、そこには違うものが芽生えた。私はそれが――――

 

「嫌か?」

 

 何気ないその問いかけをひどくずるいと思う。恨めしげに悟空を見やれば、屹度純粋な目でこっちを見ている。胸の奥から出た溜息を小さく零して、何度目かも忘れてしまった半月を見上げた。

 

 私は子供が嫌い――だった

 

「……へへっ。そっか」

 

 悟空が笑う。その優しげな笑い方に、私はまた慌てて月を見上げる。夜の涼風は、熱を持った頬を幾らも静めてはくれない。

 

「ずるいな、君は……」

 

 その呟きを聞いていたのかいないのか、そっぽを向いたままの私には解らない。

 悟空は突然駆け出した。そうして少し離れたところで私の前に立ちはだかる。

 

「春生、今度の約束覚えてっか?」

「え? ああ、放課後教室に行けばいいんだろう? いったい何なんだ。あの子らも、幾ら聞いても理由を教えてくれなかったし」

「まあまあ、楽しみにして待ってろって。きっとびっくりすっぞぉ?」

 

 したり顔の悟空の笑みが少し癪だった。だから私も強いて呆れ顔を作り、いかにもうんざりと肩を竦めてやる。

 

「はいはい……驚かされるのはもう慣れたよ」

「え~、それじゃつまんねぇなぁ……おっし、そんじゃおめぇが度肝抜くようなすげぇの獲って来てやる! 覚悟してろ~」

「またかっ! 君達は本当に何をするつもりなんだ」

「まだ教えてやんねぇよー。ははは」

「まったく、毎回気苦労をかけてくれる……ふふふ」

 

 今はもう、自然と笑みが零れるのに躊躇いを感じなくなっていた。そもそもこの少年が、そんな憚りも何も気に留めず踏み込んでくる。

 こんな幼稚なやり取りが楽しいだなんて思い始めたら、私もえらく重症だ。

 

「じゃ、またな。春生」

「……ああ」

 

 僅かな未練も感じさせない。部屋を訪れない夜、悟空はいつもそう言って街灯の向こうへ走り去っていった。

 その小さな背中を、未練がましく私は視線で追いかけている。悟空の姿はすぐに視界から消えてしまうけれど。

 

「また、な」

 

 その言葉が守られなかったことはない。少年はいつも、けろりとして自分と子供達の前に姿を現すのだ。

 だから、明日もまた学校で。

 今日と同じ、騒がしい日々を。

 

「……本当に重症だな、これは」

 

 苦笑を刻んで、私は再び帰路を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、電話があった。

 

『やぁ木山君。実験の日取りが決まったよぉ――――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執拗に耳を(つんざ)くものが何なのか、春生はすぐに理解できなかった。

 コンソールのスピーカーから発するレッドアラート、ディスプレイに表示された子供達のバイタルは一つ残らず赤く染まっている。激しく揺れ動くグラフ。健常な人体にあってはならない数値。コントロールルームから見下ろす実験場では子供達が装置の上でのた打ち、鼻や耳や目から黒い血を垂れ流す。

 輝くような笑顔を浮かべていた子供達の顔は今、苦しみ悶え歪みきっていく。分厚いアクリルガラス越しにその叫びを春生が聞くことはなかった。だが聞こえた。

 

 ――――せんせい

 

 小さな手が伸びる。激痛が掻き乱す意識の狭間でそれでも彼女は、枝先は春生を見付けてそう言った。

 春生の目を見て、春生に助けを求めた。

 それを、春生はただ何もせず呆然と見下ろす。何も、何一つできず。戦きに全身を震わせ、現実への理解さえ拒んで。

 傍らに佇む老人が笑う。意味が解らなかった。何故そんなにも楽しげに老人は笑うのか。理解できなかった。理解してはいけないと心が泣いた。

 その笑みに、ただ恐怖した――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「せんせい?」

「――――っ」

 

 自身を呼ぶ声に、春生は思わず息を呑んだ。見れば実験装置の寝台に身体を預けた枝先絆理が、不思議そうに春生の顔を覗き込んでいる。

 一瞬、その“意味”を判じかねた。

 何故――枝先絆理がここにいる(・・・・・・・・・・)

 

「先生どうしたの? どっか具合悪いの……?」

「…………いいや、そんなことはない。大丈夫だから」

 

 僅かに脳裏を過ぎったその妄想を振り払う。春生は枝先に微笑んだ。これから実験に臨もうとする被験者を実験者が不安にさせてどうする。

 そう。予てより入念な準備を整えて、AIM拡散力場制御実験は今日この先進教育局併設の実験棟で行われる。

 とはいえ、当初の予定を大幅に繰り上げた臨床だった。木原幻生直々に連絡を受けてから早三日。事前検診や実験装置へのデータ入力等、慌しく時間は過ぎて、結局その間に子供達と会う機会も時間もほとんど無かった。

 ようやくこうして顔を合わせるのが寝台に横たわった状態というのも奇妙な感覚である。

 春生の言葉を受けても、やはり枝先の表情は晴れない。

 

「……怖いか?」

「えっ? ううん! ぜんっぜんそんなことないよ!」

「そ、そうか?」

 

 思わぬ力強い否定に春生の方がたじろいでしまう。そして、枝先は迷いなく春生に言った。

 

「だって、先生のこと信じてるもん!」

「……」

 

 春生に言葉は無かった。ただ、そっと枝先の頭に触れてその栗色の髪を梳いた。

 こんなにも純粋な信頼をどうして何の躊躇いもなく自分にくれるのか。

 自分が教師として、決して優れていた訳ではないと理解している。きっと、大人としても未熟だったに違いない。

 だのに、何故。

 

“おめぇが好きになってやりゃあ――――”

 

 とある少年の言葉が頭を過ぎる。

 

「……ああ、ただ、それだけなんだ」

「せんせー?」

 

 先に歩み寄ったのは一体どちらなのやら。けれど、たったそれだけのことで、子供達は木山春生という人間を好いてくれた。なら、春生にとってもそれだけで十分なのだ。

 不思議そうに枝先は首を傾げた。彼女は、春生の中にある不安を感じ取ったのだろう。今日という日を過ぎれば春生は教師の任を解かれ、また研究漬けの日々に戻る。本来、木山春生の歩む人生はそれだけだったのだ。それだけでいいとさえ思っていた。

 けれど、子供達との出会いがそれを変えてしまった。

 

「大丈夫……大丈夫だから」

「……うん!」

 

 たとえこの教師という役目が終わっても、木山春生は子供達の――――

 

 

 コントロールルームで端末の数値を確認する頃には、春生の不安はすっかりと晴れていた。よくよく考えてみればなんとも子供染みた心配である。自分に対する苦笑を禁じ得ない。

 とても些細なことだった。けれど何よりも大切なことだから。

 

(これが終わったら、教師を辞めることを言わないと……きっとまた大騒ぎするんだろうな。特に悟空(あいつ)は)

 

 その光景がありありと目に浮かぶ。

 これから先も、そんな毎日が待っているのだ。

 

「木山君。そろそろ始められるかな?」

「局長」

 

 春生の背後から静かに一人の老人が並び立つ。先進教育局の長――木原幻生。アクリルガラスの向こう側で実験の開始を待つ子供らを彼は柔らかな笑みで見下ろした。

 

「少し緊張も見られますが子供達は皆落ち着いています。何時でも、問題ありません」

「そうかね。急なスケジュールの前倒しにも関わらず、いやいや大変結構。やはり君に子供達を任せて正解だったよぉ」

「いえ」

 

 いかにも朗らかに、老人は頷いた。

 思えば今の春生にこのような変化を齎したのも彼の采配あっての事。当初は厄介事を押し付けられたと悪態吐くこともしばしばであったが、今はその巡り会わせに感謝している。現金なものと思わなくもないが。

 

「……私としても、良い経験を積ませていただきました。ありがとうございました」

「いやぁ、それは何よりだよ」

 

 木原幻生は深い皺の刻まれた顔をさらに綻ばせた。

 

「本当に――何よりだねぇ」

 

 間もなく実験装置のセットアップが完了した。各種モニターは子供達の身体情報の詳細をリアルタイムで報告している。バイタルにも問題は無し。全ての値が正常値を示していた。

 準備は万端整った。

 コンソールのマイクから、春生は研究員へ向けて合図を。

 

「実験開――――」

 

 送ろうと。

 

 

 

 

 

 

 

 警告音(アラート)

 

 ――ドーパミン低下中

 ――抗コリン剤投与しても効果ありません

 

 鳴り響く警告音、警告音、警告音、警告音。

 耳を劈く警告音、警告音、警告音、警告音。

 

 ――広範囲熱傷による低容量性ショックが

 ――乳酸リンゲル液輸液急げ

 

 全身を襲う戦慄、恐怖、怯え、悲壮、絶望。

 顎を伝う汗の冷たさ、背筋を伝う悪寒、凍てつく心臓。

 

 ――これ以上は危険です

 

 アクリルガラス越しの現実。

 遠い、どこまでも遠い。

 

 

 これは崩壊だ。

 子供達の生命の。

 そして、私自身の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っっ!?!?」

 

 気が付くと、春生はコンソールに手を突いていた。前のめりに傾く身体を必死に支え、もう片方の手で自身の頭を鷲掴む。

 ありえない懸念は外れてくれた。春生の頭部はしかとここにある(・・・・・)

 そのように所在の確認を必要とするほど、春生の精神は現実を乖離していた。

 

「どうかしたかね、木山君」

 

 戸惑いの空気が室内を、ガラスを隔てた実験室を満たしていく。研究員達は皆、間もなくの実験開始を心積もりしていたのだから当然であろう。

 それでもなお、春生は動けない。

 白昼夢めいた記憶(ビジョン)

 幻覚だ。自身の不安感がネガティブな光景をより現実味を持って想像させたに過ぎない。

 妄想だ。気の迷いだ。

 悪い、夢だ。

 科学者ならば、疑念など抱かない。無根拠で、非論理的で、一寸の思案にも値しない。

 だから。

 

 春生は今一度マイクのスイッチを押した。

 

「実験を――――――――中止する」

 

 その瞬間、どよめきが室内を波のように伝った。それはこの場の研究員達にとって正しく晴天の霹靂だったろう。

 

「この実験は……失敗する」

 

 多額の資金と膨大な時間と稀少たる叡智を惜しみなく費やして臨まれようとする一大実験を、一人の女が全て台無しにしようとしているのだから。

 

「木山君、一体どうしたというんだね」

「言葉の通りです、局長。この実験は失敗する。AIM拡散力場の暴走によって子供達の脳は深刻なダメージを負う。それも外科処置での恢復(かいふく)が叶わないほどに」

「なんだって……」

 

 それはきっと恐怖からくる妄想で。

 それはきっと不安によって生じたヒステリーのようなもので。

 けれど、絶対に無視できない光景だった。無視してはならない災厄だった。そして、論理を超えた厳然たる確信があった。

 

「おそらくは私の正気をお疑いでしょう。無理のないことです。論理性の欠片も、ありません。ですが!」

 

 何故なら、科学者木山春生は。

 

「私には……子供達の生命を守る義務があります」

 

 木山春生(わたし)は、あの子達の――。

 

「お願いです、局長! この実験だけは、どうか……どうか!」

 

 傍らに立つ木原幻生に春生は深く頭を下げた。そもそも頭を下げてどうこうなる問題ですらない。仮にも統括理事会肝入りの実験を取り止めるなど前代未聞だ。

 撥ね付けられて当然の懇願だった。けれど退く訳にはいかない。何をしてでも、自分に支払えるあらゆるもので春生はこの儀を通さねばならない。その覚悟は、ずっと前にできてしまっていたから。

 

「…………………………………………」

 

 沈黙は、果たしてどれほど続いたろうか。

 誰一人として口を開かない。皆呆気に取られた様子で春生を、この状況を見詰めている。唯一、この場の最高責任者を除いて。

 

「よく、解りました。木山君、頭を上げなさい」

「局長」

 

 言われるまま春生は恐る恐る顔を上げた。そこには、常の柔和な笑みを湛えた木原幻生が立っている。

 

「やはり私の思った通り、君はとても優秀だ。いやそれ以上だよ」

「え……」

 

 思いがけない賛辞の言葉に春生は一瞬呆気に取られ、次いで言葉を失くした。

 眼前の木原はいかにもにこにことしていて、その表情からも隠し切れない喜色が窺える。それはしかし、あまりにも場違いな貌だ。怒りや苛立ちや呆れや困惑を彼は浮かべるべきなのに。

 だのにその貌は――その目は。

 

「それだけに、実に残念だよ」

 

 その目は、どうしてこんなにも愉しげで。

 こんなにも――――歪んでいる。

 

「――――ひっ」

 

 知っている。知っている。

 その貌を。その目を。

 その歪んだ愉悦を。

 知っている。ありえない記憶にあるその正体を。絶大にして醜悪な恐怖として、それは木山春生に刻まれている。

 木原幻生。この、化物は――――

 

「う、ぁ…………っ!!」

 

 踵を返す。背を向ける。その老人から。その恐怖から。

 走った。白衣が翻り後塵を巻き上げる。事の成り行きを見守って呆然とする研究員達を押し退け、扉を開け外へ。突然のことに、春生を引き止めようとするものさえいなかった。彼らが常識的な思考力の持ち主で助かった。先程からの春生の奇行は彼らの優れた理性で咀嚼するにはいささか難しかろうから。けれど、かの人物にとってもそれが同様であるかどうか。そんな訳がない。

 廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。最後の一段を踏み外し前のめりに転ぶ。肩を床へと強かに打ち付けた。鈍い痛みが響く。足首も少し捻ったかもしれない。日頃の運動不足が祟った。

 一切合財構うものか。

 階段を降り切ってしまえば実験室の扉は目の前に。

 跳ね起きて扉に取り付く。重い鉄扉が空圧でスライドし、実験場への道を春生に開けた。

 寝台に横たわる子供達の視線が一斉に春生に注がれる。あたかも教室の授業風景を幻視する。

 

「先生?」

「待っていろ」

 

 固定ベルトを外す。各種測定機器を停止させ、子供らの頭部に装着された計器を取り外していく。一人一人。全て。早く。急がなければ。速く。はやく。

 

「ねぇ、先生どうしたの……?」

「いいからっ」

 

 子供達の当然の疑問にも答えてやる時間はなかった。春生には時間などなかった。

 急げ。急げ。急げ急げ急げ急げ急げ。

 来る。あの人が。奴が。来てしまう。だから急げ。はやく。

 寒気すら伴う焦燥感を押してなお、春生は凄まじい手際で子供達に纏わり付く数多の計器類を全て外した。最後の一つを投げ捨てて、患者衣に身を包んだ子供達の顔を瞬時に確認。それは出欠確認の要領だ。いつからか一目でそれは分かるようになっていた。全員いる。

 

「逃げ――――」

「どこへ、かなぁ?」

 

 その一声で、春生の呼吸器は強制停止した。無論それは一瞬の出来事であり、人間の生命活動を停止せしめるような能力があった訳ではないのだけれど。

 今この時、この場所で、春生の命運を握っているのは間違いなく彼である。

 当然だ。逃げられる筈がない。そんな時間も、猶予も、手段もここにはない。春生の手にもそんなものは最初からない。

 鉄扉を開き、そこに老人が立っている。両手を後ろ腰に回し、笑顔で春生を、子供らを見下ろしている。何度となく見たそれは“木原幻生氏”の貌だ。

 優しげな面差しはいかにも好々爺然としている。だのにその薄く細められた目の奥は底なしの暗闇。得体など知れず、その笑みはひたすらのおぞましさを催す。これが、昨日までの老人と同じ貌なのか。

 

「木山君、残念だ。本当に本当に残念だよ。君は優秀な研究者だった。そして実に良い生徒だった」

 

 深い情感を込めて木原は言った。その嘆きの言葉は真実本心からのものに思えた。

 彼は木山春生という一人の優秀な研究員の前途を嘱望し、目を掛け、最大限の指導(・・)を行ってきたのだ。

 指導を。

 

「一体、どの段階でこれ(・・)を知ったのかな。実験資料からはどうやっても類推が不可能だった筈だね。いやぁ? おっとそうだ実験材料(モルモット)は常に君が観ていたんだった。資料の欠損箇所を実地と分析から導き出すことも君ならできるかもしれない」

「モル、モット……?」

「そう、君が今抱えているそれだよ」

 

 腕の中にある枝先の身体が震える。あるいは春生自身の震えであったかもしれない。

 それ、という呼称がここまで怖気を催すものなのか。

 しかし、今はそれ以上に一つの事実が春生を震撼させた。からからに乾いた喉に無理矢理唾液を流し込み、満足に回らない口を叱咤して春生は言葉を継いだ。

 

「どういう、ことですか。この実験は…………」

「うん? なんだい。実験の内容までは把握していなかったのかね。いけないなぁ木山君、結果にばかり目をやっちゃぁ。研究者として推論にはきちんと検証と証明を付随させなきゃ。しかし、まあ、限られた要素だけでこの結論を導き出せただけ及第点だね。だから、君にはこの問題の回答を上げよう」

 

 人差し指を一つ立てて木原幻生はのたまった。まるで出来の悪い生徒に講義をするように、それはとても自然な所作だった。

 

「正式な名前は『暴走能力の法則解析用誘爆実験』。能力者が常に発生させているAIM拡散力場へある特殊な刺激(・・)を与えることで能力の暴走条件を検証する…………というのが、趣旨の一つだね」

「………………は?」

 

 木原の説明は端的であり実に明快だった。

 An Involuntary Movement拡散力場。その語の示す通り、これは能力者が“無自覚に”発する力場(フィールド)のようなものだ。能力者は常にその能力に応じた形、現象で以てそれを周囲に拡散させている。彼らのこの現実に対する干渉を観測し調査すれば能力の性質、レベル、心理構造――自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を明らかにすることも可能だろう。

 だが、この能力者への“能力に対する逆干渉”は謂わば脳への干渉だ。

 能力を現実へ発現させるのは能力者の大脳の働きに他ならない。それに直接働きかけ、恣意的に操作を施す――春生が知る『AIM拡散力場制御実験』の内容がそれだった――その危険性は語るに及ばない。一歩間違えれば脳に深刻な損傷を負わせ、最悪自我(パーソナルリアリティ)の崩壊を起こすだろう。

 つまり、木原は意図的にそれをする(・・)と言った。子供達の脳を打ち壊すと言ったのだ。

 

「しっ……正気ですかっ!? あなたは!!」

「うーん?」

「これは、明らかな違法実験です! 国際認可された研究所が人体実験を主導するなんて、警備員(アンチスキル)、いや統括理事会が許す筈――――――ぁ」

「ははは、いやぁ君らしくもない。的外れなことを言ってはいかんよ木山君」

 

 今度はまるで子供をあやすような物言いで木原が破顔する。

 対する春生はただ言葉を失う。噛み合った事実を無理矢理飲み込まされている最中なのだ。

 学園都市統括理事会は都市運営上の全ての機能を掌握する最上位組織。先進教育局小児用能力教材開発所とてもその掌の上の一塵に過ぎない。そんな最高権力保有体たる組織“肝入りの実験”のその実態を――――知らぬ筈があろうか。

 

「これは初めから決まっていたことだよ」

 

 底の見えない闇に落ちる、そんな錯覚を春生は味わっていた。

 己が身を置くこの科学の都市(まち)は、断じて科学者の楽園などではなかったのだ。

 

「この学園都市(まち)は実に合理的だ。研究資金と実験材料を一時に集めてしまえるんだから。特に材料(チャイルドエラー)には、ここ数年困ったことがないよ」

 

 さも嬉しげに木原は言う。

 

「実に多くの検証を行えた。多くのデータを収集、蓄積できた。多くの叡智を培うことができた。あぁ、そして、今回の実験も同様だ。この実験が成功した暁には、真理への道をまた一歩辿ることができるんだよ。だからね、木山君」

 

 口の端が吊り上り、そこには化物の笑みが刻まれた。

 

「そのモルモット、返しなさい」

「っっ!!」

 

 その一言が合図であったのか、木原幻生の背後から慌しい足音が響く。空圧式の扉が開かれ、そこから黒い人影が大挙して実験場に現れた。

 彼らは一様に同じ格好をしていた。全身を防護プロテクタで覆い、手には自動小銃、頭部から顔面は全て黒いマスクで包まれ、暗視ゴーグルの赤い眼窩だけが唯一色彩らしきものを放つ。

 重装備に反した機敏な動作で完全武装の一団が春生と子供達を即座に取り囲んだ。

 あまりのことに声さえ出ない。そんな春生の様子を見て取って木原は苦笑した。

 

「いやいや無粋ですまないねぇ。けれどこの街ではこういった人員は重宝するんだよ?」

「あなたは」

 

 続く言葉は形にならず、空気中にただ溶けていった。もはや春生に正常な思考は叶わなかった。

 ただ。

 

「せん、せい」

「ぁ……」

 

 自然と春生は腕に力を込めていた。決して放しはしないと、傷付けさせはしないと。

 その小さな命を固く抱き締める。白衣を握り締める小さな手を握り返した。背中に縋る熱を庇った。

 それを――春生は知っている(・・・・・)

 ほんの一瞬、時間が停止するかのような錯覚の中で、春生はまた白昼夢を観た。けれどそれは先ほどのようなビジョンではなく、明確な像や音を形作ることもない。

 ただ、覚えている。

 

「…………あぁ」

 

 いつの間にか震えは止まっていた。恐れも不安もどこかへ失せていた。

 たったそれだけのことでどうして、とは春生は考えなかった。

 

「そうか……私は」

 

 黒い群体から注がれる視線はどこまでも冷ややかだ。感情らしいものなど一欠けとて感じられない。それらは一様に得体の知れない恐怖を掻き立てた。

 木原は……春生のその態度に苦笑を深めていた。

 

「一つ提案を、と思ったんだが……その様子じゃねぇ」

 

 肩を竦めて溜息を漏らす。木原は春生に呆れていた。

 その「提案」の内容を想像できない春生ではない。子供達を引き渡せば、木原は喜んで春生を許すだろう。あまつさえ今後もまた己の研究開発助手として春生を起用することだろう。

 研究者としての将来はその瞬間約束される。木山春生は木原幻生の右腕として学園都市有数の科学者のその一人となる。そんな未来。用意された前途。真理への探究。

 

「ふざ、けるな」

 

 春生は想像した。木原幻生によって齎される未来を。

 虫唾が走った。

 

「渡すものか……守るに決まってるだろうっ」

 

 春生は木原を見た。愚者を見下ろす賢者を気取る老人を睨め上げた。

 その愉悦する目を見ても、先刻のような恐怖は湧いてこない。ただ全身が戦慄いていた。堪え難い怒りが、春生を震撼させた。

 

「この子達は私の生徒だ! 貴様なんかに指一本触れさせるものか!!」

 

 その怒りが春生の堰を切った。恐怖に塞がれた喉を抉じ開け、凍りついた舌を溶かす。

 熱に浮かされるように春生は叫んでいた。万感の思いが込み上げてくる。

 

「そうだ私は……!」

 

 しかし、そこから先を口にすることは叶わなかった。

 春生の絶叫の機先を封じたのは十数門に及ぶ小銃の銃口だった。一糸乱れぬ動きで黒い人型達が銃を構えている。

 片手を挙げて春生に微笑む木原の姿。己の合図一つでこの場の全員を殺害できるという事実確認だろうか。それとも、春生の言葉が彼の感性において聞くに堪えないものだったのか。

 

「もういいよ。処理(・・)しよう。子供(モルモット)はそうだねぇ、一つ二つなら使えなくなっても構わないよ」

「っ!」

 

 それは死刑宣告に等しい。いや、あるいは自分自身の死以上の絶望。

 誰かが死ぬ。子供達の内の誰かが。

 

「やめろ!」

 

 叫び、生徒を己の背後に押しやる。足りない。両手では足りない。この体全てを費やしても子供達の盾には足りなかった。

 子供達はきっと死ぬということすら満足に理解できていないだろう。そして今こうして未知なる恐怖に怯えている。何日か前まで輝くような笑顔を浮かべていた顔が痛ましく歪んでいく。

 

「やめてっ……!」

 

 傍らの子らをただ掻き抱いた。声さえ上げられない彼らの震えを感じた。

 何もできなかった。子供達を守ることも、その恐怖を僅かに拭ってやることさえも。

 何も、できない。

 

(やっと、やっと気付くことができたのに――――)

 

 木原の手が挙がる。それが銃火の引鉄なのは明らかだった。

 そして間もなくそれは引かれる。

 その手が振り下ろされる刹那の時間、春生の脳は目まぐるしい思考の渦を描いた。子供達との出会いや思い出、研究者としての自分と教師としての自分、誰かの笑顔、誰かの泣き顔、日直の号令、朝の教室の匂い、給食の人参の味、そして騒々しい笑い声……。俗に走馬灯と呼ばれる記憶のフラッシュバック現象だった。意味などない。それは終わりの際に見せられる脳の混乱でしかない。

 だからきっと、これも、意味なんてない。

 

(――――――――――――悟空)

 

 最後の最後に思い出したのは、あいつだった。

 とある少年の力強い笑みだった。

 そうして届く筈のない呟きは掻き消されることとなる。

 

 ――――最初に、風を切るような音を聞いた。

 

「え?」

 

 軽やかで鋭い。そのようにしか表現のしようのない音。それはすぐ近く、頭上からした。

 いや、降ってきた(・・・・・)

 

「伏せろ春生ぃーー!」

「!! 皆集まれ!」

 

 脳よりも早く春生は脊髄反射で動いていた。

 学校での経験が皮肉にも活きたらしい。大半の生徒は春生の声に反射的に従っていた。そして反応の遅れた子供らは春生自ら無理矢理引き寄せ、体ごと覆い被さる。

 春生と子供らが一連の動作を終えるのと全く同時だった。

 衝撃、激震、遅れて轟音。

 そんな三つで研究所が満たされた。

 音よりも速い(・・・・・・)衝撃波に浚われまいと必死に耐える。春生の力だけでは途端に吹き飛ばされていただろう。子供達もまた春生を放すまいと耐えていてくれたのだ。

 爆発めいた暴風が弱まると、周囲は白い粉塵に包まれた。瓦礫や建物の鉄材が近くで散乱していくのが分かる。では室内に充満するこの煙幕の正体は粉砕された建材であるらしい。

 リノリウムに覆われたコンクリートと鉄骨の床を粉々にするほどの破壊力。すわ隕石がこの研究所を直撃したのかと春生は本気で考えた。

 

「ぐっ……」

 

 蔓延する膨大な塵が徐々に晴れていく。顔を上げて周囲を見回す。先ほどまで自分達を取り囲んでいた黒い集団も整列した銃口もそこにはない。目を凝らすと、彼らは一様に実験場の壁に叩き付けられていた。余程強く打ち付けられたらしく、誰も彼もぴくりとも動く様子はなかった。

 そして春生のすぐ目の前には、深々とクレーターが穿たれていた。床材はもとより、建物自体の基礎さえ貫いて今そこからは茶褐色の地層が覗いている。

 その光景を唖然として眺める。言葉も出なかった。

 

「よっと」

 

 春生の思考が現実に追いつく前に、また視界を何かが過ぎる。陥没した床の底からそいつが跳び出てきたのだ。

 刹那、春生はその姿を見違える。

 あの少年の背中はこんなにも大きかったろうかと。その広さ、分厚さ、屈強さはまるで大人の、男性のようで――――。

 

「大丈夫か、春生?」

 

 煙る砂塵の向こう側。そこには小さな背中がある。

 振り向いた少年の心配そうなその顔を見て、春生は初めて安堵した。心の底から震えるように。

 

「すまねぇ。ギリギリんところだったんで、ちょっと派手にやり過ぎちまった」

「…………まったくだ。バカ者。本気で死ぬかと思ったよ。もう少し加減というものができないのか君は」

「へへへ、わりぃ」

 

 頭を掻いて悪びれる様に、するりと口から悪態が零れた。

 

「ケガしてねぇか? おめぇ達もだ。全員いるかぁ!」

 

 蹲ってじっと耐えていた子供らもその声に気付くと続々顔を上げた。

 

 ――ごくう?

 ――ごくうだ

 ――うぇーんごくうぅ

 

 きょとんと首を傾げ、驚いて口を空け、顔を見て泣き出す者もいた。

 

 ――悟空!

 

 けれど子供達の顔は皆、今はもう喜びに輝いていた。

 

「オッス! おめぇ達、助けに来たかんな。もう大丈夫だ!」

 

 あっさりとそう言い放って、悟空はにっかりと笑って見せた。

 これから何が起こるとも知れないというのに。どんな危険が、どれだけの敵が、待ち受けているかも判らないのに。

 

「あぁ……もう、大丈夫だ」

 

 大丈夫。もう何も心配いらない。

 論理性の欠片もない確信で春生の心は満たされていたから。

 きっとなんとかなる。ここを抜け出し、子供達とまた学校へ通う。騒々しく、慌しく、平凡で飾り気のない、大切な日々に戻るんだ。

 木原の妄執など怖くはない。そんなものは簡単に跳ね除けてしまえる。もう迷うことはない。木山春生は子供達を守る。自分の生徒を命に代えても守り通す。そう決めた。その決意を思い出した(・・・・・)

 

「君がいたから」

 

 孫悟空。不思議な少年。

 春生の心を揺さぶる者。春生に暖かな日々をくれた、生徒達とは違うただ一人。決意を思い出させてくれた。

 

「君が、いてくれれば」

 

 そっと、少年はその小さな手を差し出した。それが大きさに見合わない力強い手なのだと春生は知っている。

 春生も手を伸ばす。いつものように。彼は強引に自分勝手にまた手を引いて連れて行ってくれるだろう。

 

「悟空――――」

 

 そして伸ばした手は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何も触れはしなかった。

 

「え?」

 

 手を伸ばす。けれどそれは届かなかった。

 遠のいていく。悟空の手が。姿が。その笑顔さえ。

 伸ばしても伸ばしても、春生の手は何も掴めない。春生の意思とは無関係に少年は遠ざかり、世界さえも消え失せて。

 春生の体はゆっくりと傾いていった。そうして地面に倒れこむ。前のめりに、何の抵抗もできなかった。

 額と鼻と頬を強かに打つ。次いで肩が地面を滑った。剥き出しの地肌(・・・・・・・)を。

 口の中にざりざりとした感触が広がる。それを不快だと思う余裕も今はない。

 

「なん、で……?」

 

 疑問の声は無意識に口から零れた。けれど春生は自分が一体何に対して疑問を抱いているのかさえ解らなかった。

 痛む額と肩に顔を歪めながらゆるゆると手を突く。そこにはリノリウムの滑らかな感触はなく、砂利と小石の刺々しさだけがあった。

 気付くと痛みは肩どころか全身で響き渡っていた。びりびりと針で刺すような、打撲というより痺れに近い鋭痛。何故……また疑問が湧く。解らない。

 見上げれば巨大なコンクリートの橋梁が空を縦断している。ここは第十学区を走る幹線道路の高架下だ。何故、そんなことが判るのだろう……そんなただの事実がどうしてか春生を不安にさせる。解らない

 

「……っ」

 

 立ち上がると、さらに肉体のコンディションの劣悪さを思い知る。全身の痛みと共に耐え難い倦怠感と疲労感が春生を襲った。重力そのものが倍増したかのような錯覚を起こす。

 何より、この頭痛が。酷過ぎる。

 割れ鐘が頭蓋の内で鳴り響いている。あるいはそれが外へと飛び出そうとしているのか。脳髄が、“許容限界以上の何か”を流し込まれたかのような。

 

 ――何だこれは。どうしてしまったのだろう。解らない。解らない……本当に?

 

 その時、春生の背後で音が立った。

 

「なに、今のっ……!?」

「…………」

 

 声がする。まだ幼い、少女の声。

 振り返る。けれど振り返るまでもなく春生はそこに誰がいるのか知っていた。

 淡いブラウンのショートヘア、白い小さな花飾り。ぼろぼろになったキャメル色のセーターとブレザースカート、それは常盤台中学の標準制服だ。知っている。

 そしてこの少女のことも知っている。

 学園都市においてたった七人の超能力者(レベル5)がその一人。電撃使い(エレクトロマスター)超電磁砲(レールガン)御坂(ミサカ)美琴(ミコト)

 そんな彼女が何故ここに。こんな場所で何故自身と相対しているのか。解らない。解らない。わからない――――

 

「はずが、ない」

「え?」

「解っている。知っている何もかも。ここが何処で、君が誰で、何故ここにいるのか何故ここで私と戦ったのか私が! 何をしたのかっっ!!!」

 

 膝から力が抜けていく。崩れ落ちて、春生は両手で顔を覆った。閉じた目蓋の裏の暗闇の向こうで春生は見た。己の今を、今に至るまでの過去を。全て思い出した。

 否、違う。初めから忘れたふりをしていただけなのだ。

 春生は何一つ忘れてなどいなかったのだから。

 

「ただ目を背けていただけだ。現実から、自分の、罪から」

「……それって、もしかして、さっきの記憶と関係あるの?」

 

 先程までの勝気な彼女とは打って変わった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、まるで壊れ物に触れるような静かな声音。

 

「さっきの電撃で繋がった回線から、アンタの記憶を見た……あの、“二つ”の記憶はなんなの?」

 

 この頭の壊れた女に、少女は戸惑っているのだろう。

 春生の口の端が吊り上る。

 

「ふ、ふふ、くふふふっ」

 

 皮肉げな嘲笑。自身を嗤う。腹の底で面罵が渦を巻く。どのような言葉でも足りなかった今の自分には。

 

「くっはは、アハハハハハハハハハハハハハ!!!」

「っ!?」

 

 戸惑い驚く少女に春生は笑いかけた。なんて醜い笑顔なのだろう。

 

「妄想だよ! 幻想だよ! 夢、幻、内在願望の脳内発露! 現実逃避と自己弁護の為の記憶改竄! 防衛機制というやつさ! 私は罪悪感で潰れてしまいそうな私の心を必死になって守ろうとしていたんだ! あんな、あんなものを――――居もしない人物まで作り出して!!」

「じ、じゃあ、あの子は……」

「そうさ」

 

 空を、見た。青い。白々しいほどに青い。綺麗な、どこまでも美しい空が春生を見下ろしていた。

 

「孫悟空なんて少年は、この世のどこにも居やしないんだっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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