小説みつめてナイト ライズ氷解 【完結】 作:ケルティック☆タイチ
その日、私は学校が終わるとすぐに寮に帰り、手早く着替えを済ませた。
黒のタートルネックのセーターに灰色のスカート。そして白いショールを羽織り、紺色のベレー帽をかぶった。
普段は決してしない化粧をごく自然に薄く施す。
動くときに邪魔にならないように前にたらしている三つ編みをほどき、髪を下した。
鏡で自分の姿を確認すると、女子学生ではなくそれなりの年齢の女性に見える。
馬車に乗りサウスドルファン駅まで行き、そこから少し歩いた。
だいぶ日が延びたとはいえそろそろあたりは暗くなってきており、仕事を終えて家路を急ぐ人も増えてきている。
この時間の散歩は好きだが今日はとてもそんな気分にはなれなかった。
目的地である店の前で立ち止まると、今日はクレアが働いていない事を願った。
そう、ここはサウスドルファンでは唯一のバーだ。
場末の居酒屋ではないそれなりの気品と風格のある店だ。
意を決して地下へと続く階段を下り重い扉を開いた。
中は薄暗く静かなで落ちついており、微かに煙るタバコの紫煙が独特の雰囲気を醸し出している。
まだ酒を飲むには早い時間なので人の数はそれほど多くはない。
ウェイターは私に気付くと高い酒を飲ませるべく、精一杯の魅力を振るって近づいてきた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか」
私は店内を見渡してクレアがいない事を確認し、目当ての人物を探し当てた。
「いいえ、友人がいるわ」
「そうですか。ごゆっくりおくつろぎください」
これで少なくとも未成年に見えないことが証明された。
店の奥のボックス席に目当ての男がカウンターに背を向けてくつろいだ様子で座っていた。
私は迷う事なく彼の向かい側に静かに座った。
さっきのウェイターに視線を向けると、すぐに気が付いてこちらに来た。
「なにかお持ちいたしましょうか」
「私はマティーニを。オリーブを二粒。彼にはピートの強いウィスキーを」
「かしこまりました」
ウェイターが引き下がると、向かいの席の彼が私を見てニヤリと笑った。
四十代半ばの男性で中肉中背。身長も高くなく低くもなく。茶色い地味なコーデュロイのジャケットを着ていて、首には赤いスカーフをしている。
豊かな茶色い髪は後ろに流してあって、パッと見は役所帰りの公務員といった印象を与える。
特徴があるようでない。目立つわけでもなく、かといって地味でもない。
どこにでもいそうで、どんな場所にも馴染む。まさにスパイの見本と言っていい。
彼はヴァルファバラハリアンの一員であり、父の下で古くから働いてきた腹心の部下で諜報部員の一人だ。
「これは珍しいですね、サリシュアン殿」
「この国にいるときはその名で呼ばないで、と言ってあるはずよ」
「失礼。隠密のサリシュアン殿」
ウェイターが飲み物を持ってきたので一端話は中断された。
私は潜入捜査の基本をこの男から教わった。
本来ならば八騎将の一人に名を連ねていてもいい程の実力者だが、あくまで諜報がメインの任務の為、彼の名前が表に出ることはない。
彼は運ばれてきたウィスキーを軽く口に含むと、満足そうに頷いた。
「シングル・モルトだ」
私は自分のマティーニを飲んだ。
強いアルコールが喉を駆け抜けて焼けるような熱さを感じる。
任務の達成時に仲間と酒を飲む機会はあるが、今日はとても明るく酔えるような気分にはなれない。
「それで、何の用ですか。私と楽しく酒を酌み交わしに来たわけじゃないでしょう」
「ドルファン軍のダナンへの第二次派兵が決まったのは知っているでしょう」
「そりゃあ、まあ」
「本隊の状況はどうなっているのか確認したいの」
彼は黙ってグラスの琥珀色の液体を眺めていた。
私は待っていた。
マティーニをもう一口飲み、オリーブを少し齧る。
オリーブがあると酔うことはない。
「情報はダナンの部隊には伝わっています。ですが、軍団長に伝わっているかと言われるとわかりません」
「どういうこと」
「いま、ダナンには第四部隊しかいないからです」
予想外の言葉に私は体中に寒気が走るのを感じた。
「第四部隊だけって……」
私が絶句しているのを見て彼は視線をそらした。
「シンラギククルフォン、ご存知ですか」
頷く。
確かあの頼りない傭兵のリン・コーユーが、シンラギとプロキアの共同作戦の事を言っていた。
「シンラギはすでにプロキア入りを果たし、今はテラ河上流に布陣しています」
「今まであんなに行動が遅かったのに、突然動いたというの」
テラ河はドルファン国境線を流れるプロキア領内に源流のある大規模な河だ。
国境都市ダナンの北数キロにその流れは迫っており、事実上この河を抑えている者が国境を制するといっても過言ではない。
「それじゃあ」
私は言いたくもない事をつぶやいた。
「第四部隊を除いた本隊は、テラ河上流に向かったと言うの」
「そうです」
これはあまりにもタイミングが悪すぎる。
ただでさえ分の悪い戦いなのに、第四部隊だけでドルファン軍の七大隊相手では勝敗は火を見るよりも明らかだ。
彼は黙ってウィスキーを一気に煽った。
ダナンに駐留している第四部隊の隊長はバルドー・ボランキオという。
八騎将の一人で、不動のボランキオという二つ名を持つ男だ。
彼はヴァルファの中でも屈指の実力者であり、常に隊の殿を務め常に最も危険な戦場で獅子奮迅するその姿は、まさに鬼神そのもの。
今まで何度もヴァルファの危機を救い、何度も絶望的な状況を打破してきた勇猛果敢な騎士である事は疑う余地もない。
だは、今回はあまりにも酷い状況だ。
彼を持ってしても勝つ見込みは限りなくゼロだろう。
考えてみれば、これまでダナンへの第二次派兵をドルファンが渋っていたのは、シンラギの到着を待っていたからなのだろう。
シンラギククルフォンの不穏な動きについてはすでに父に伝えてはある。
だが、だからといってダナン周辺から動けないヴァルファにとって、何の利益になろうか。
私は自分の無力さ加減に居たたまれない気持ちで一杯だった。
気が付くとマティーニもウィスキーも無くなっている。
彼がウェイターに合図をすると、すぐに新しいものを持ってきた。
「くそっ!」
それまで冷静に飲んでいた彼が、声を荒げてウィスキーを煽った。
「軍団長も参謀も、なんでこんな勝ち目のない戦を始めたんだ! プロキアの政権交代なんてわかりきっていた事なのに」
「あなたに隊の方針に口をはさむ権利などないわ」
私は必死の思いで、そんな言葉を絞り出す。
声が乾いていてざらついていた。
強がりにしても、もう少し気の利いた言葉が言えない事がもどかしい。
「わかっていますよ、そんな事は。だが……こんなのはおかしい。軍団長も参謀も……こんなのはおかしい」
長年父の腹心の部下として尽くしてきた彼だけに、ヴァルファへの愛情と執着が強い事はわかっていた。
もしも軍団長が、父である破滅のヴォルフガリオがこの戦争を個人的な復讐の為に始めたと知ったら、この男はどういう反応をするだろうか。
「ヴァルファは、ヴァルファバラハリアンは落ちないわ」
私はどうにかそれだけ言うと金貨を二枚テーブルに置いて、静かに席を立ち店を出た。
サウスドルファン駅の周りは仕事帰りや学校帰りの人々で溢れていた。
足早に人の波をかき分けながら歩いていると、怒りと無力感で自分に腹が立ってきた。
勝ち目のない戦の事実。
そして何も出来ないでいる無力な自分がたまらなく悔しい。
戦場で戦う事も出来ず、敵国の安全な場所で無為な時間を過ごしている。
レズリーの事を言える立場ではない。
あまりの悔しさに、ついに堪えきれずに涙が出るのを感じた。
こんな事で、何が八騎将の一人だ!
一度溢れた涙は堰を切ったように次々とあふれ出し、私は無様にもドルファンに来て初めて泣いた。
涙で視界がふさがれた時、不意に現われた人影に思い切り当たってしまった。
「きゃっ!」
か弱い女の声とともに相手が倒れ、私もしりもちをついた。
不覚以外のなにものでもない。
たまらない自己嫌悪とともに涙を拭い起き上がると、ぶつかってしまった相手が声をかけてきた。
「あの、ライズ・ハイマーさん……ですよね」
私はまだ倒れている彼女が一瞬誰だかわからなかったが、すぐに思い出した。
「あなた、確かソフィア・ロベリンゲ」
ソフィアは安心したように微笑んで起き上がった。
「そうです! よかったあ、覚えてくれていたんですね」
彼女とはクリスマス前にハンナが寮の食堂に連れてきており、その時一度話したきりであとは学校で何度か挨拶を交わしたくらいだった為、私はほとんどその存在を忘れかけていた。
しかしソフィアは私のことを忘れてはいなかった。
そして今、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「あの、大丈夫ですか。私、不注意で。……あの、目が腫れていますよ」
私はあわてて視線をそらした。
「これは、なんでもないわ。私は平気よ。悪かったわね」
「いいえ…でも、あの……」
「目にごみが入ってしまい、それであなたが見えなかったの」
声がわずかに震えているのが自分でもわかった。
周りを行く人々が私達になんとなく好奇の視線を投げてくる。
心配そうに私を見ていたソフィアだったが、一回深く深呼吸をすると突然私の手をとった。
「あの、こっちです!」
彼女はそう言うなり私の手を取り、学生寮や彼女の住んでいるフェンネル地区とは反対の方向へと早歩きで歩き出した。