小説みつめてナイト ライズ氷解 【完結】 作:ケルティック☆タイチ
【64】The Man From Far East①
寒さも緩み始めた三月の頭に、私は恒例のウィークリートピックスをいつもの学生寮の食堂ではなくてロムロ坂の喫茶店で読んでいた。
なぜこんな所で読んでいるかというと、ここでプリシラと待ち合わせをしていたからなのだが、当のプリシラは城を抜け出そうとしたところを衛兵に見つかったらしく、来ることが出来なくなったとプリムが伝えに来た。
そういう事なら仕方がないが、せっかく喫茶店に来ている事だし、注文していた天然水はまだ半分以上残っている。
時間を無為に過ごすのはまったくの無駄なので、喫茶店が用意しているトピックスを読んで過ごしている、という事だ。
それに、今週のトピックスは内容が濃く読むべきところが多い。
一番注目の話題はプロキアの情勢だ。
先日までプロキアの首相であるヘルシオ公は、我がヴァルファバラハリアンを派兵して南東地域でクーデターを企てているとされたイエルグ伯の鎮圧に動いていた。
だが、ヴァルファはその鎮圧を隠れ蓑にドルファンの侵攻に動いたわけだが、コーキルネィファの命令違反により失敗。
ヴァルファはその後行方をくらましているが、イエルグ伯の領地のグローニュは作戦途中のヴァルファによって占拠された事によりヘルシオ公の支配下に置かれていた。
プロキア首都への足掛かりであり、守備の砦であったグローニュを奪取されたイエルグ伯は、完全に勢いを削がれた状態で、ヘルシオ公よりグローニュへの召喚命令が下されていてそれに応じていた。
しかし、問題はそこで起こった。
自身の領土であったグローニュでヘルシオ公と直に面談するはずだったイエルグ伯は、暗殺されてしまったのだ。
トピックスには暗殺の実行犯はヘルシオ公の側近と伝えているが、比較的穏健派のヘルシオ公がそんな大それた事をするとはにわかに信じがたい。
そうなればその背後に何か企てている者がいるという事だし、それは我がヴァルファバラハリアンなのかもしれない。
もっとも、今のところ私の下にそう言った情報は入ってきていないのだが。
プロキアの情勢はこれからも注視していかなければならない。そう思いながらグラスを取った時、不意に声をかけられた。
「よう、ライズじゃないか」
私はプリシラが見つけやすいように、店内ではなくテラス席を利用していたので、ロムロ坂を行き来する人から見える位置に座っていた。
なので、この東洋人傭兵にも見つけられてしまったようだ。
「奇遇ね」
私が言うとその東洋人傭兵、ヒューイ・キサラギはにこやかに応じた。
「こんなところでトピックスとは優雅じゃないか」
「人と待ち合わせをしていたのよ。その約束は反故にされたけれど」
「じゃあ暇ってことか」
「トピックスを読んでいるわ」
「ちょうど喉が渇いていたんだ。相席しても?」
トピックスは読み終わってしまっていたが、グラスの天然水はまだ残っている。
私はため息を吐きながら、向かいの席を指し示した。
ヒューイは席に座ると、ウェイターに私と同じように天然水を注文した。
以前彼とここに来た時も、同じ注文だった。
人の事は言えないが、喫茶店で水を頼む人はあまりいない。
私は紅茶も好きだが、そこにはこだわりがあるし、この店の紅茶とは相性が良くない。
そうであれば何も飾らない水が一番良いのだが、この男はなぜ水を頼むのだろうか。
そんな率直な疑問が生まれてきた。
「なぜ、水にするの? コーヒーだって紅茶だってあるでしょう」
私が聞くと、彼は意外そうな顔をした。
「ライズだって水じゃないか」
「私の事はいいのよ。あなたは何故水を注文するの?」
ヒューイは少し考えているようだったが、珍しく決まりの悪そうな顔をして答えた。
「オレにとっては、水ってものも貴重な物だったからな。今でも水のありがたみみたいなものを引きずっているのかもしれない」
「戦場で、という事?」
傭兵生活が長ければ、戦場で水に困る事もあっただろう。その場面は容易く想像できる。
だが彼は私の思っていた事とは違った答えを返してきた。
「いや、ガキの頃からのトラウマ……か」
「子供の頃?」
そういえば、私はこの傭兵のこの国に来る前の事を何も知らないという事に思い至った。
ドルファンに来る前にこの男はどこにいたのか。
東洋の出身という事だが、どんな国のどんなところだったのか。
それこそ幼少の頃はどんな人物だったのか。
どんな人間も最初は他人。話をしなければ、何も始まらない。
つい先日ジョアン・エリータスに言ったばかりだ。
「ねえ、あなたってどんな子供だったの?」
「なんだ、藪から棒に」
「少し興味があるの。あなたがどんな国の出身で、どんな育ち方をしてきて、ドルファンに来たのか」
ヒューイは困ったような顔をした。
「面白い話しにはならないぞ」
「構わないわ」
彼は「やれやれ」と呟きながら、ポツリポツリと語り始めた。
──その感情を何と呼んだらいいのか知らないが、小僧は『寒さ』と戦っていた。
体を突き刺すような冷たい風の暴力を一身に受けて、その小僧はなんの足しにもなっていないボロボロで薄っぺらい茣蓙をぎゅっと強く体に巻き付けた。
茣蓙と似たり寄ったりの朽ち果てそうな廃寺の壁は所々に板が抜けており、そこから容赦ない冷たさを孕んだ風が外にいるのと同じように吹きすさんでいた。
小僧は板壁の隙間から風と共に入り込む僅かな雪の明りだけの真っ暗な部屋の中で、必死に生き残る事だけを考えていた。
年の頃はまだ三つか、四つだろう。
伸び放題のボサボサの真っ黒な髪は、埃にまみれ汚れていてごわごわとしている。
最早、服なのかボロなのかわからない着物は綿など入っていないぺしゃんこで、寒さを防ぐ役割は全く果たしていない。
その小僧には、名前もなかった。いや、厳密にいえば名前はあった。
だが本人がそれを名前と認識する事が出来ていなかったのだ。
つい一ヵ月前まではこの小僧にも母親がいた。
父親が侍なんぞやっていたばかりに、戦で負けて腹を切って死に、母親と小僧は住んでいた土地を追われた。
身寄りもない母親は幼い子供を連れて落ち着ける場所を探して旅に出たが、流行り病にかかりあっけなく死んだ。
小僧は道端で動かなくなった唯一の肉親を、どうする事も出来ずに見ているだけだった。
それが悲しいのかどうかもわからないが、昨日まで面倒を見てくれていた者が動かなくなり、話しかけてくれる事もなくなった。
それでも小僧は腹が減ったし、喉も乾いた。
どうしようもなくなった小僧は、仕方がないので母親の遺体を放置し、少しでも灯りが見える方へと歩いた。
その間獣に襲われなかったのは幸運だったが、冬の入り口だった事を考えると、すでに獣たちは冬眠の準備を済ませていたのかもしれない。
小僧が辿り着いたのは、小さな集落のような村だった。
すでに日が落ちて真っ暗なその集落は、家々のかまどから立ち上る煙や、隙間からこぼれる行燈の明かりで、小僧にはたまらなく魅力的に見えた。
空腹と喉の渇きがすでに限界に近かった小僧がふらふらと歩いていると、集落の中でも比較的大きなある家の外に出ている大きな甕と、その脇に立っている女が柄杓で盥に水を注いでいるのに気付いた。
物陰に隠れながら見ていると、女は甕に蓋をして柄杓をその上に置くとそのまま家の中へと入って行った。
それはいわゆる勝手口という場所だったが、小僧がそんな事を知る由もない。
喉の渇きにあえいでいた小僧は早速その水瓶の所へ行き、必死に背を伸ばして蓋をずらし、本能の命じるまま必死のその上へと登ると、柄杓を使って夜闇のおかげで真っ黒な水面の水を掬って飲んだ。
えも言えぬ程の美味さに夢中になって水を飲んでいると、ふと見上げた視線の先に軒先に吊るして干してある大根を見つけた。
喉の渇きが癒された今、今度はなんとしてもそれを食べたいと思った。
善悪の区別もつかない年齢だ。
ぶら下がる大根はとても小僧の手が届く高さではなかった。
だが、水瓶の上から手を伸ばせばどうにかなりそうだ。
必死に水瓶の上でもがきながら手を伸ばし、ようやく手が届くか届かないかという時に、水瓶はバランスを崩しグラグラと揺れて倒れた。
がしゃん!と大きな音がして小僧は地面に叩きつけられた。
家の住人が何事かと明かりを手に飛び出してくると、そこには大根を片手に持った小僧が転がっていたのだから、住人は怒り心頭であった。
大切な水瓶を割られたあげく、軒先に干していた大根を盗んだ事は明白だ。
怒りに任せてがなり立てる大人に、小僧は恐怖しか感じなかった。
そんな恐怖の中、小僧が取った行動は非常にシンプルに『逃げる』という事だった。
大声を出しながら追いかけてくる大人を相手に、小僧は死に物狂いで走った。
手にした大根は絶対に離さないようにとにかく全速力で逃げる。
途中何度も転びながらも、捕まったら何をされるかわからない恐怖で無我夢中で走った小僧は、いつしか大人を振り切り集落の外れの人気のない一角に佇む、ぼろぼろの廃寺に辿り着いていた。
痛む足と火のついたような肺の苦しさで、小僧は自然とその廃寺の中へと入って座ってしまっていた。
そこで初めて、ようやく手に入れた大根にかじりついた。
その大根は十分に乾燥しているわけでもなく、舌先にびりびりと痛みを感じるほど辛い物だったが、腹ペコの小僧にはたまらないご馳走であった。瞬く間に平らげた小僧は、もっと食べたいと思っていた。
この日、唯一の身寄りを無くした小僧が覚えた事は、食い物は怖い大人の住む場所から、取ってこなくてはいけないという事だった。
あの日から一ヵ月。
小僧はこの廃寺を拠点とし、集落に盗みに入っては逃げる事を繰り返していた。
それは、小僧にとっては生きるための行動に他ならないだけで、何も悪気があったわけではなかったのだが、集落の人々の間ではすぐに有名になっていった。
最初は冬眠に失敗した熊か、獣の類だと思われていたようだが、そのうちに子供のような姿をした妖怪か物の怪の類だと噂されるようになっていった。
小僧は本能的に大人たちを警戒しており、この廃寺にいる事を気取られないように慎重に行動していた。
日の高い時間は決して表に出ず、じっとお堂の奥にうずくまって過ごす。日が落ちて暗くなってからは集落を訪れ、干してあるものや、時には蔵や納屋に忍び込み、保存している食べ物や道具などを盗んでいた。
だが、所詮は子供のする事。
一ヵ月の過酷な生活で小僧の体力はすでに限界に近かった。衛生状態も悪く、村人から逃げる際に転んだりして出来た傷口はじゅくじゅくと膿んでいた。
だから今日。この冬の凍てつく吹雪の夜に、小僧は死神と隣同士に座っているようなものだった。
せめて寒さを凌げるものを、と盗んできた茣蓙はまったく役にたってくれていない。
朦朧とする意識の中で、限界と戦いながらぼうっと隙間から吹き込む雪を眺めていた時、不意に正面の倒れかけの引き戸をくぐって一人の男が、続いてその後ろから女が一人入ってきた。
小僧は敏感に反応し、さっと立ち上がると、どこかの家から盗んできた鎌を手にした。
以前、大人に追われた時、これを振り回したら大人が逃げた事があり、そのまま持ってきたのだった。
その男は暗闇の中で何かをしている。
小僧には気付いていないようだが、周りを見渡しながら頷くと、背負っていた袋から何か石のような物の入ったガラスの瓶を取り出すと、別の小瓶に入っていた砂のような物を石に振りかけた。
すると、途端にその石が明るく光を放った。
小僧はあまりの眩しさに思わず声を上げた。
男と女はその声に驚き、小僧の方を見た。小僧は目がくらんで何も見えていなかったが、自分の身を守るため必死に鎌を振り回しながら男の方に突進した。
咄嗟の事とは言え男は思わず腰に差していた刀を引き抜き、小僧に向けて振り下ろした。
その瞬間、常人ならざる動きで二人の間に飛び込んだ女が、背中に背負っていた長い銃で男の斬撃を受け止め、いつの間に抜いたのか左手に持った短刀で、小僧の出鱈目な軌道の鎌を受け止めた。
そして大きな声で叫んだ。
「忠正、落ち着け、子供だ!」
忠正と呼ばれた男は慌てて刀を引いた。
女は素早い動きで小僧の手から鎌を奪うと、そのまま部屋の隅へと放り投げた。
そして小僧をぎゅっと抱きしめると、優しい声で言った。
「ごめんなさい、驚かせたね。大丈夫、大丈夫だから!」
小僧は今起きた事が一切理解できなかったし、その女が言っている言葉の意味すらも分かっていなかったが、抱きしめられた柔らかさと暖かさに、つい先日まで一緒だった母親の事を思い出していた。
そしてそのまま手足の力が抜けていくのを感じていた。
「ねえ、君? おい、大丈夫か?」
女の甲高い声を聴きながら、小僧の意識は薄れていった。