小説みつめてナイト ライズ氷解 【完結】 作:ケルティック☆タイチ
女子短距離走の予選はすでに別日に行われていたようで、この決勝に臨んでいるのはハンナとリンダを含めた八人の選手達だ。
どの選手も気合が入っており、絶対に勝とうという気概が見える。
短距離走は競技場のトラックを一周する、距離にして四〇〇メートルの競技だ。
ハンナは一番外側のレーン、リンダは内側から数えて三番目のレーンのようだ。
トラックのカーブでの外周差の為、一番外側のハンナを先頭に、トラックの第一コーナーの中で少しずつ後ろにズレながらスタートラインが引いてあり、選手たちが階段を横から見たような形で自身のスタート位置に並んでいった。
先ほどまで男子の重量挙げで盛り上がっていた観客席が、不意に緊張感に包まれて静かになっていく。
スタート係がガリハント銃を空に向けて構えた。
会場中が静まり返り、選手達の呼吸の音が聞こえてきそうな程の静寂が訪れる。
隣のソフィアが固唾を飲んでハンナを見守っているのがわかる。その手は胸の前で組まれていて、わずかに震えている。
時間が凍り付いたような一秒が流れた後、スタート係の放った空砲の音が響くのと同時に観衆のものすごい歓声が響いた。
空砲で巻き起こった黒色火薬特有の大量の白煙を切り裂いて、ハンナが素晴らしいスタートを切って先頭を走っていく。
スタート位置が違うので走り出しは外側の先頭から並んだ順での位置取りとなったが、ハンナに負けず劣らずの好スタートを切ったリンダは、早くも最初のコーナーが終わる前に隣の外側を走っている選手を抜き去って四位に上がっていた。
一足早く最初のストレートに入ったハンナはぐんぐんと加速していき、二位との差を広げていく。
明らかに他の選手を圧倒する走りであり、この短距離であれば私でも追いつけそうにないスピードだった。
だが、その時、観客たちの歓声がどよめきに変わった。
遅れてストレートに入ったリンダが爆発したかのような加速を見せて外側のレーンの選手をごぼう抜きにしていったのだ。
私は陸上競技に明るいわけではないが、このリンダの走り方はいわゆるラストスパートに近いのではないだろうか。
通常一番スピードが乗り、一番苦しい最後のストレートで、残った力を振り絞って末脚を使うものではないのだろうか。
だがリンダはそんなセオリーを無視して、恐らく全力の加速を見せてハンナとの距離を少しずつ詰めていく。
あの初めてリンダと出会った時のような、自分に対しストイックで、どこまでも限界を超えていこうとする彼女らしい走りだ。
「ハンナ、頑張って!」
隣でソフィアが普段の彼女からは想像もつかないような大きな声で声援を送る。
ハンナは十分にスピードに乗ったまま最終コーナーへと突入していった。
大外を回る為コーナーの距離は長いが、その分スピードを殺さずに走れており理想的な展開だ。
レースは後半へと入り、ハンナはまだ余裕を持った位置で一位をひた走る。
遅れてコーナーに飛び込んだリンダだが、ハンナよりは内側のレーンの為小回りにならざるを得ず、驚異的なスピードはわずかに落ちたように見えたが、体を若干内側に倒し一歩のストライドを狭める事で最短距離を走っていく。
コーナーを抜ければあとはラストの直線のみ。
二人はほぼ同時に最終コーナーを抜けてストレートへと駆けていく。
ハンナがラストスパートをかけて、スピードが一段上がった。
それに食らいつくようにリンダも加速していく。
力を温存出来ていたハンナに対して、どこにそんな力が残っていたのか、リンダの加速は素晴らしいものだった。
「ハンナ!!」
ソフィアが声援と言うよりは祈りのような悲痛な声で、ハンナの名を叫ぶ。
ハンナはまっすぐに前だけを見据えて最後の力を振り絞り、トラックを吹き抜ける一陣の風のように駆けていく。
残り五〇メートルを切ったところでハンナとリンダの差がわずかに広がった。
まだほんの少し加速したハンナに対して、リンダは明らかに苦しそうな表情で必死に食らいついていた。
大きく沸く歓声にソフィアの声がかき消される。
私も無意識に強く握っていた拳が汗ばんでいる事に気づく。
あと二〇メートル。
今年こそハンナの優勝かと思われた時、誰もが信じられない光景を目撃した。
すでに全身全霊の力を出し尽くしていたリンダが、驚くべきことにハンナに並んだのだ。
その表情は必死に歯を食いしばり、まさに鬼気迫るといった表現が適切だったが、私にはその姿がとても美しく見えた。
ハンナは自分に並んだリンダの存在を感じたのか、何かを叫んでいたがここまでは届かない。
あと一〇メートル。
ハンナとリンダはまったく同じ速さで並走し、どちらも我武者羅に腕を振り、一瞬でも早くゴールする為に死力を尽くしていた。
あと五メートル。
観客席の人々が立ち上がり、客席は割れんばかりの大歓声に包まれる。
その瞬間。
ほんの刹那の瞬間に先にゴールテープを切ったのは、リンダだった。
「おーほほほほ! まあ、当然の結果だわ!」
表彰式を終え競技場から降りて来た私たちは、隣接する広場でリンダの高笑いを聞いていた。
優勝の記念楯を小脇に抱え勝ち誇るリンダに、悔しそうな表情をにじませたハンナが大きなため息を吐いた。
「悔しいな……。あと一歩、いや、あと半歩届かなかった!」
「あら、半歩とは心外だわ。野猿とわたくしの差は万歩はありましてよ」
「その割には、最後は随分と余裕がなかったように見えたけれど」
「負け犬の遠吠えかしら」
「犬なのか猿なのか、ハッキリしてよね。もっともボクは猿じゃないけれど!」
ハンナとリンダはお互いの顔を近づけて悪態を付き合うと、お互いにそっぽを向いた。
それを見ていたソフィアがおろおろとしているが、私からして見ればこれは一種のじゃれ合いにしか見えない。
今回の勝負はどちらが勝ってもおかしくなかった。
それだけ実力が伯仲していたし、どちらも死力を尽くしていたのは疑いようがない。
そんな二人の走りで最終的に勝負を決めたのは、いわゆる執念の差ではないだろうか。
ハンナももちろん今回の競技会に駆けた思いは並々ならぬものがあっただろう。
だが、それ以上にリンダが背負っている物、リンダの覚悟というものが、少しだけハンナよりも重かったのではないか。
事実、最後までスマートにスポーツマンとして全力の競技をしていたハンナに対し、リンダは明らかに何かに追い詰められたような、これに負けたら人生が終わってしまうようなそんな死に物狂いな雰囲気があった。
その気持ちの差が、二人の紙一重の差になったような気がしてならない。
ハンナとリンダのやり取りを微笑ましく見ていると、ひとりの女性選手がハンナに近寄ってきた。
「ショースキーさん、今年もいい勝負が出来ました、ありがとう」
そう言って片手を差し出す。ハンナはそれに気づくと、嬉しそうにその手を取った。
「やあ、お互いいい走りが出来たよね!」
どうやら先ほどの決勝で一緒に走った他の選手のようだ。
ハンナがその選手と談笑を始めたので、私はリンダの隣に立った。
「大会六連覇ね。おめでとう」
私が言うと、リンダはハンナに見せた高笑いではなく、ため息まじりに苦笑しながら答えた。
「ありがとうございます。でも、今年は本当に紙一重の差でした」
「それでも勝利は勝利だわ」
「わたくしの思う優雅な勝利とはいきませんでしたが、まあ、ライズさんのおっしゃる通り勝利は勝利ですわね」
そこで初めてリラックスした顔で微笑んだ。
「野猿……ハンナさんは本当に強くなっていたわ。でも、この私が負けるわけにはいきませんでした」
「最後は執念の差だったわね。あなたのあんなに必死な姿は初めて見たわ」
「貴族らしくはなかったかもしれないわね。あそこまで追いつめられるとは思ってもみなかったし」
「それでも私は、あの時のあなたを美しいと思った。必死に勝利に縋り付く姿は、とても立派だったわ」
私の言葉にリンダは一瞬驚いたが、わずかに頬を赤く染めつつも胸を張ってみせた。
「まったくライズさんの言動にはいつも驚かされるわ。でも、悪い気はしないわね」
そこに先ほどの選手との話を終えたハンナが加わった。
「リンダ、スポーツの祭典の学生の部で一緒に走る事はもう出来ないけれど、また一緒に走ってくれる? 負けっぱなしじゃ気が済まないよ!」
「あら」
リンダはそんなハンナに手を差し出した。
「いいわ。身の程知らずの野猿に、何度走ってもわたくしが一番速いという事をわからせてあげるわ。だから、その、これからもわたくしのライバルとして挑戦してきてもよろしくてよ」
「素直じゃないな、本当に」
ハンナは苦笑いをしながらリンダの手を握った。
「でも、絶対リベンジさせてもらうよ! ライバルって言ってくれたリンダに恥じないくらい練習するし、大会六連覇した人に勝つなんて、最高の気分だろうしさ!」
「百年早くてよ、ハンナさん」
お互いの手を強く握りあう二人を見て、ソフィアが拍手を送っていた。
戦場で敵同士がお互いを認め合って手を握り合うような事は無いが、スポーツというものはこういった事が起こりえるというのは、一つ勉強になった。
生きるか死ぬか、相手の命を奪うか自分の命を奪われるかの戦場では、相手の強さに敬意を払う事はあっても、最後に立っている者は一人しかいないのだから。
こんな風にお互いに切磋琢磨しながら成長し合える関係というものに、少しだけ憧れを覚えてしまうのはないものねだりだろうか。
そんなハンナとリンダの関係が少しだけまぶしく見えた。
競技場から帰ろうとしていると、着替えを済ませて普段着の高級そうなワンピースを纏ったリンダが扇子を片手にやって来た。
「ライズさん、少しよろしくて?」
先ほどまでのリンダとは少し様相が違い、どこかよそ行きな雰囲気を感じる。
「なにかしら」
リンダは黙ったまま一枚の封書を取り出して、渡して来た。
「これは?」
私が言うと、リンダは軽く咳払いをしてからやや緊張気味に言った。
「七月にわたくしの誕生日があるの」
「そう、おめでとう」
「ありがとうございます……ではなくて!」
リンダは扇子で顔を仰ぎながら続けた。
「今年の誕生日は、少し豪勢にお祝いをしようと思っているの。十八歳になるのだし、ゲストをお呼びして」
「そう」
「船をチャーターして船上パーティーを企画しているの」
「それはすごいわね」
リンダは何を言いたいのだろうか。パーティーの自慢ならば、もっと張り合いのある人にすれば良い。
そう思っていると、リンダは少し怒ったように言った。
「もう、鈍いわね! そのパーティーにライズさんを招待したいので、来て下さいませんか! という事よ!」
私は受け取った封筒を改めて見た。
「招待状なの?」
「そうよ」
「中を見ても?」
リンダが頷いたので、封書を開けて中を見た。
上等な羊皮紙に美しい文字でパーティーの概要が書かれていた。
パーティーはリンダの誕生日である七月十二日。夕方にドルファン港を出港する、と書いてある。
パーティーの概要はよくわかった。だが、わからない事が一つある。
「どうして私なの?」
私が疑問を投げると、リンダは若干傷ついたような顔をした。
「どうしてって……その、ライズさんはわたくしの、ゆ、友人ですから」
友人。
思ってもみなかった言葉にやや驚いたが、少なくともリンダは私の事を友人と思っている事がわかった。
私の中で現状、友人という認識なのは、思いつく限りでソフィアとハンナ。
プリシラは暗殺対象だし、キャロルやスーはただの知り合い程度だろう。
強いて言えばジーンも友人と言えるかもしれないが、彼女とはなんとなく協力者と言った方がしっくりと来る。
セーラはただの話相手だし、レズリーやロリィ、クレア、テディー、メネシス、プリムも知人と言ったところだ。
そんな中でリンダが私の事を友人と言うのだから、それは友人でもいいのかもしれない。
少なくともソフィアやハンナと友人関係になってから、デメリットは今の所何もない。
私は招待状を元通りに封書に戻すと、こちらの様子を上目遣いで伺っているリンダに頷いて見せた。
「わかった。その誕生パーティーに参加させてもらうわ」
「そ、そうよね。もちろん参加されますわよね」
リンダは嬉しそうに顔を輝かせると、またお得意の高笑いを披露したが、途中で笑い声が止まった。
そして周りを見渡すと、小声で言った。
「あの、パーティーにはオーリマン卿もいらっしゃいます。きっとまた不遜な態度を取られると思うけれど、お気を悪くしないでね」
ベイラム・オーリマン。先日の王宮の舞踏会で出会った、ザクロイド家と蜜月の関係のドルファンの輸出入のすべてを支配する貴族だ。
「別に気にしていないわ。彼ほどの大貴族が、私のような小娘など相手にする方がおかしいわ」
私が言うと、リンダは明らかにホッとしたようだった。
「それでは、誕生パーティーには必ず来てくださいね」
そう言って馬車に乗り込んでいくリンダを見送り、私のスポーツの祭典は幕を閉じたのだった。