小説みつめてナイト ライズ氷解 【完結】 作:ケルティック☆タイチ
豪華客船は緩やかな速度でドルファン港を離れていき、やがて港外の海域へと入って行った。
甲板に鎮座する巨大な三本マストの帆が風を孕み、大きく膨らんでいる。
船が大きいので速度は緩やかではあるが、海を走る船特有の風が甲板に流れ込んで清々しい気持ちになる。
その素晴らしい風を肌に感じつつも私は周辺に目を配るのを怠らないようにしていた。
もっぱらベイラム・オーリマン卿の周辺は注意して見るようにしている。
オーリマン卿は供された料理にはほとんど手をつけておらず、飲み物ですら何も飲んだ様子がない。
ザクロイドのもてなしを拒否しているのか、高い危機管理能力を持っているのかはわからないが、大概の来賓が何の緊張感もなく出された料理を口にしている事を考えれば、貴族としては大した振舞いだ。
主役であるリンダはあちらこちらで来賓のもてなしに奔走しており、これでは誰の誕生日パーティーなのかまるでわからない。
上流階級の中で生きていく事の大変さと成り上がりだからこその苦労を考えると、頭が下がる思いだ。
私がオーリマン卿に注意を払っている様子が退屈そうに見えたのか、ヒューイは私の近くで料理を食べながら時折「これが美味しい」だの、「食べた事がない食材だ」だの言葉をかけてくれていたが、私はそれどころでは無いのでことごとく上の空の返事をしていたのだが、彼はそれに懲りる様子もなく今も隣でシャンパンを楽しんでいる。
「なんだか落ち着かない様子だな。船は苦手か?」
ヒューイがのんびりとした口調でまた話しかけてきた。
「別に」
私は自分でも無愛想な対応だとは思いつつも、オーリマン卿への注意を保ったまま答える。
空はすでにとっぷりと暮れていて、ほとんど雲の無い夜空に綺麗な満月が浮かんでいた。
豪華客船は間もなくエドワーズ島沖へと差し掛かろうとしており、月に照らされた島のシルエットが水平線上に浮かんでいて、反対側には少し遠くにマリーゴールドの灯りが見える。
そろそろリンダの言っていた乗船客へのサプライズプレゼントの頃合いだろうかと考えていると、海風に流されてどこからか女の歌声が聞こえた気がした。
私は常人より耳が良い自信があるが、その歌声は波音やパーティーの喧噪にかき消されてしまう。
だが、確かに聞こえた。
切なく恋を歌う、儚げで透明感のある澄んだ歌声だった。
一体誰が歌っているのだろうか。音の聞こえる方向はこの甲板ではなく、不気味なほど真っ黒な海の方なのだが。
その時、その真っ黒な海の先に朧げに浮かぶエドワーズ島から一本の光の帯が空に向かって伸びていくのが見えた。
続いて鏑矢を放ったような空気を切り裂く高い音が聞こえて、光が弾けて夜空に大輪の華が咲いた。
遅れて大きな火薬の破裂音が響き、パーティーの参加者達から歓声が上がった。
「花火か! なかなか粋な演出だな!」
隣にいたヒューイが夜空を見上げて嬉しそうな声を上げた。
花火。リンダのサプライズプレゼントとはこの事だったか。
その花火は一発で終わらず、続いて何発もの花火が夜空を彩り始めた。
この演出には流石のオーリマン卿も関心を引かれたのか、夜空を食い入るようにみつめていた。
パーティーの招待客達が花火に心を奪われる中、そのオーリマン卿に近づく姿があった。
リンダが用意した甲板専用の使用人と揃いの燕尾服を纏った男だが、挙動がわずかにおかしい。
使用人達は皆その手に銀の盆を持っているのだが、その男は盆を持たずワイン瓶を直接持っている。
他の使用人達が執事らしく髪型を油で固めて後ろに流しているのにも関わらず、その男は側頭部の髪を短く刈り上げており、襟足から細く結った三つ編みにした髪を下げており、この国の人間ではない東洋人特有の顔をしている。
「リン・コーユー!?」
私は口の中で呟き、反射的に走り出していた。
あの男は銀月の塔で私に声をかけてきた東洋人傭兵で、氷炎のライナノールとヒューイの果し合いをジョアン・エリータスと邪魔しようとして私に切り刻まれたあのリン・コーユーに間違いなかった。
ジョアンとの繋がりは把握していたが、リンダの使用人になっているはずはないし、そうなればここにいるのはゼールビスの差し金という事になる。
そして、あの手に握っているワイン瓶は乗船前にゼールビスが私に渡そうとしていた物だ。
乗客達が空を見上げる中少しずつオーリマン卿に近づいていくリン・コーユーに対し、私はハイヒールのままだが全速力で走り後ろから追い越し様にその手からワイン瓶をひったくった。
リンが驚いたように声を上げた時、私はすでに甲板の手すりに到達し力任せにワイン瓶を海に放り投げていた。
後ろの夜空で花火がさく裂し大きな音が響いたのと同時に、ワイン瓶が水柱を吹き上げながら爆発した。
やはりあれは爆弾だったのだ。
「ちくしょう!」
リン・コーユーの怒声が聞こえて振り返ると、彼は手近なワインの空瓶を片手に私に襲い掛かろうとしている所だった。
迎え撃とうと体を捻った瞬間、不意に船が大きく揺れた。
ゼールビスの爆弾によって起きた波が、この客船の船腹に真横からぶつかったのだった。
私はハイヒールだった事もあり大きく体制を崩してしまった。
対するリン・コーユーはこちらに襲い掛かる勢いはそのままに、瓶を片手に振り上げたまま肉薄していた。
このままではやられると思った瞬間、突如私の前に覆いかぶさるように影が現れた。
それはヒューイだった。
私の行動を見て取ったヒューイが、すぐにその後に続いていたのだ。
私を庇ったヒューイの頭にリン・コーユーが振り下ろした瓶が当たり、激しく砕け散った。
「ヒューイ!」
ぐらりと揺れたヒューイの体を支えようとした時、またも船が大きく揺れて傾き、意識が飛んでいると思しきヒューイの体が手すりを乗り越えて漆黒の海へと滑り落ちてしまった。
私は手すりに乗りかかり海面を見る。
ここからでは暗すぎて何も確認できない。
咄嗟に振り返りリン・コーユーの方を見る。
すでに彼は暗殺の失敗を把握したのか、はたまたゼールビスに自爆テロの実行犯にされかけた事を察したのか、反対側の甲板へと走っており、そのままエドワーズ島方面への海へと飛び込んでいったところだった。
戸惑う他の乗客とオーリマン卿を一瞥し、私は舌打ちを一つすると手すりを乗り越え息を大きく吸った。
そして、そのまま真っ暗な海へと飛び込んだ。
十五メートルほどの高さから海に飛び込み、一旦立ち泳ぎで海面へと頭を出す。
幸いな事に海水の温度はそれほど低くなかったが、濃紺のドレスが体にまとわりついて泳ぐこともままならない。
水の中でもがきながらなんとかヒールを脱ぎ捨てると、太ももに巻き付けていたナイフを取り出し、波にもまれながらドレスの裾を引き裂く。
ドレスはミニスカートになってしまったが、足が自由になった事でだいぶ泳ぎやすくなった。
燐光灯や花火で明るさに慣れていた目が闇に馴染み始め、月明かりで水面が見えるようになってきた。
だが、近くにヒューイの姿は見えない。
彼は軍の礼服を着ていた。
水を吸った礼服の重みで沈んでいるのかもしれない。
もう一度大きく息を吸うと、波の下へと潜る。
水の中は真っ暗で、透明度は高いはずだがほとんど何も見えない。
それでも下に向かって水を蹴った。
ヒューイは私を庇って海に落ちた。
こんな所で借りを作るわけにはいかないし、彼が死んでしまったらこのパーティーを企画したリンダの面子は丸つぶれだ。
彼を慕っているソフィアやハンナ、ロリィ、レズリーにも顔向けが出来ない。
それに、こんな所で彼を失うのは私自身が許せない。
ヒューイが落ちたであろう方向へ泳ぎ、海底の方へ目を向ける。
水深は大型客船が通れるくらいの深さがあるという事なので、少なくとも二〇メートルはあるだろう。
この暗さの中では海底までは見通せない。
絶望に近い気持ちが心に沸き上がるが、必死にそれを否定する。
その時、視界の隅に小さな光が目に留まった気がした。
目を凝らしてそちらの方を見ると、わずかに青い影が見えた。
心の中で彼の名前を叫び、その方向へ渾身の力で泳ぐ。
頼りない感じだった青い輪郭が徐々に人の姿を取っていく。
海底に向かって緩やかに落ちていくその影は、間違いなくヒューイだった。
一回息を継ぐために海面へ上がるのが正解なのだろうが、これ以上落ちてしまったら見つけられないかもしれない。
肺の隅に残された酸素を酷使し、一気に潜っていく。
焼けつきそうな肺の痛みを無視して右手を伸ばす。
その手がようやくヒューイの服にかかった時、目の前が暗くなりかけた。
肺だけでなく体中が酸素を求めて海面へ上がれと訴えかける。
だが、ここであきらめるわけにはいかない。
ヒューイの服の端を握ったまま海面に上がるべく上を向いた時、一瞬自分の目を疑った。
真っ暗な海面の向こうにゆらゆらと揺れる月。
その月明かりに照らされて、一人の女性がこちらを優しく見つめていた。
青く美しい髪が揺れてこちらを見る眼差しはどこまでも優しく、神話の時代を描いた壁画の女神のようだ。
纏っている薄くフリルのついた服が光を受けて広がり、細いしなやかな肢体にまとわりつき、まるで人魚のように見える。
その女性は水の抵抗など存在しないかのようにこちらに向かって泳いでくると、私とヒューイの腕を掴み海面へ向かい力強く泳ぎ始めた。
これは朦朧とする意識の中で見ている幻だろうか?
信じられない速さで海面へと到達すると、私の肺が酸素を求めて急激に空気を取り込んだ。
咳き込みながら激しく呼吸をしていると、私の隣に先ほどの女性がヒューイを肩に担いだ状態で上がってきた。
そして私を見ると柔らかに微笑んで言った。
「まだ泳げますか? 少し先に浅瀬があります。そこまで行きましょう」
その声は無垢な少女のようであり、だが大人のような落ち着いた雰囲気もあり、透明感のある美しい声だった。
先ほど船の上で聞こえたあの歌声に似ているような気もするが、今はその考察をしている時ではない。
その女性はヒューイを担いで泳いでいるにも関わらず、素晴らしい泳ぎで前を進んでいく。
私は波に翻弄されながら必死にその後を追った。
一体この女性はどこから現われたのか。少なくともあのパーティー会場にいた様子はなかった。
こんな夜に水泳をするような人はいないし、ここはシーエアーのビーチからは距離がある。
疑問はいくらでも湧いてくるが、今はヒューイが無事かどうかを確認する方が先だ。
五分ほど泳ぐと、人気のない小さな浜が見えてきた。
私は水から上がった重い体を引きずりながら、ようやく地面に足をついた安堵を味わっていた。
先ほどの女性はその細い体でヒューイを引き上げながら、浜辺の波のかからない所で横に寝かせた。
私は疲労感から肩で息をしながら言った。
「彼は無事かしら」
その女性はヒューイの脇に腰かけながら、こちらを見て優しく微笑んだ。
その姿は月明かりに照らされて非常に美しかったが、何故か今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。
「かなり水を飲んでいますが、呼吸は安定しているし大丈夫だと思います」
そう言いながらヒューイの髪の生え際を撫でる。
「ここに怪我があります。血はでていないし、大事ないと思いますが早く病院で診てもらった方が……」
「ああ、瓶で殴られていたから」
「ええ!?」
彼女は驚愕の声を上げたが、ほどなく優しい目でヒューイを見た。
「でも、助ける事が出来て良かった……もう、あんな思いはしたくないから……」
ようやく呼吸が落ち着いてきて、私は砂浜に改めて座った。
「助けてもらって、ありがとう。私の名前はライズ・ハイマー。出来ればあなたの名前を知りたいわ」
彼女はそっと立ち上がり、こちらを見た。
「ライズさん、私、人を呼んできますね。今は一刻も早くヒューイさんをお医者様に診てもらわないと」
「待って」
私も立ち上がり、歩き出した彼女の背中に声を投げた。
「今、あなたヒューイと言ったわね。彼を知っているの?」
彼女は立ち止まり、少しだけこちらを振り返った。
「……知っています。ただ、一方的に、ですが……」
「一方的に?」
「……私の名前は、アンといいます」
彼女は寂しそうな目でこちらを見ると、その瞳にうっすらと涙を浮かべた。
「……ごめんなさい!」
そう言って走り出した彼女の後ろ姿を、私は半ば呆然と眺めていた。
その後衛兵達が駆けつけてくれたが、アンと名乗った不思議な女性はその夜は帰ってこなかった。