「だっダメだよ阿久津さん、またあいつらに……!」
少年が背後から右腕を掴む。
「ううん、大丈夫です」
その手を左手でゆっくり包みこむ。
はじめてちゃんと触れた彼の手は小刻みに震えていて、指の力は驚くほど弱々しく、簡単に引き離すことができた。
きっともう、限界が近いのだろう。
「見ていて、和泉くん」
二人は、同級生だった。
両者とも内向的だから、同じクラスになって半年は一言も話したことがなかった。
ただ、図書室や本屋でちょくちょく顔を合わせているうちに、互いになんとなく意識するようになっていった。
いつからだか憶えていないけど、少しずつ好きな本や作者、そこから派生したアニメやゲームのことを話すようになっていった。
最近は行きつけの本屋で待ち合わせて、途中までいっしょに帰るのが日課だった。
そして昨日の別れ際に、彼は言った。明日、どうしても伝えたいことがあると。
まだ勇気が出ないから、伝える約束だけさせてほしい、と。
──美黎は「うん」とだけ答えて、別れた。
彼女は、はっきり思い出していた。
美黎が開いた右の手のひらには、銀のリングに黒い宝石の輝く指輪が乗っている。
結界の外に向かって歩を進めながら、眼前に掲げた左手の薬指に、
「
──瞬間。彼女の全身を、指輪から溢れた紅と黒の花吹雪が包み込む。
「阿久津さんっ!?」
驚く和泉たちの前で花吹雪は彼女の制服に同化し、再構築してゆく。
高校の
「いったい、何が……」
和泉は、呆然とその光景を見つめていた。
後ろの人々も、そしてゴブリンさえも。
ただひとり、母親に抱かれた幼い少女だけが何かに
「だいじょうぶだよママ。だってあのお姉ちゃん、プリキュアだから」
少女が口にしたのは、
「だから、みんなのこと助けてくれるよ」
花弁に包まれた黒髪が、銀髪に変じながら縦ロールを描いて腰まで伸びる。
あどけなさ残る
最後に茶色の瞳を深い藍色に変え、花吹雪は四方に散った。
同時に、彼女の両足は完全に結界の外に出ていた。
少女の言う通り
「
──こちらの世界に戻る寸前。
美黎は魔鏡の女神に、
直前の記憶はあやふやだったけど、死にかけるような状況下にある自分に、それを打破するための力が必要だと感じたから。
しかし女神は鏡の中で、苦々しい表情を浮かべる。
『何らかのスイッチで魂を繋ぎ直せば、
異なる世界では異なる
「そう、なんですね」
声のトーンを落とした彼女の、胸前に抱えられた花瓶をちらちらと見つつ、女神は付け足した。
『……まあ、いちばん単純な身体能力の底上げぐらいなら、できなくもない……』
「わかりました。それじゃあ、
我に返ったゴブリンたちが、五匹同時に美黎──
しかし感覚の研ぎ澄まされた彼女には、すべてスローモーションで見えていた。
一匹目の顔面に右の拳を放ち、二匹目の首筋を左の手刀で薙ぐ。三匹目に向かって飛び膝蹴り、着地と同時に四、五匹目の胸に左右の掌底。
──それは
一匹目、頭部爆散。
二匹目、切断された生首が宙に舞う。
三匹目、上半身破裂。
四、五匹目、同時に吹き飛んで迷宮壁に激突し、肉片も残さず
文字通りの瞬殺だった。なお
「あ……阿久津さんも、探索者に……?」
体術のみで戦うレアクラス・
「……そんな感じ、です。じゃあ、わたし終わらせて来るから」
顔だけ半分振り向いて、彼女は静かに微笑んだ。
「その後で、ちゃんと
状況がまったく掴めず混乱していた和泉も、最後の
「おねえちゃん、がんばって!」
幼い少女の声に続いて周りからも、弱々しくも激励の言葉が掛けられた。
美黎は──
ドン、という爆発じみた衝撃音を残して、黒と紅の姿は斜め上空に跳躍、その勢いのまま前傾姿勢で壁を垂直に駆け上がって──見送る和泉たちの視界から消えていった。