壁の輪郭が、上端から徐々に薄れて消えてゆく。
その上を和泉のもとに帰るため跳び越えていた
力を振り絞って立ち上がる彼女の、
同時に、それまで使っていた強大な力の反動が、帰宅部系女子である美黎に容赦なく襲いかかっていた。
薬指から、指輪が煙のように蒸発していった。
それが魔鏡の女神のせめてもの報復だったかは、定かでない。
全身が引き千切られるような痛み、動かない手足。そして霞んでゆく視界の先には、緑色の小柄な人影がいくつか見えた。
ゴブリンだ。奴らは弱者の匂いに敏感だ。
魔物は、迷宮が完全消滅するまでは存在できる。それまでに通常は三十分から一時間は掛かる。最後の瞬間まで、彼らは人間を狩るのだ。
そして今の彼女に、抵抗する力はわずかも残されていない。
──ごめんね和泉くん。伝えたかったこと、聞けそうにない。
意識が薄れて、前のめりに倒れ込む彼女を……横合いから駆け寄った誰かの腕が抱きとめる。そしてそのまま、ぎゅっと抱きしめられていた。
「ごめんなさい! でも
聞きなれた声が耳をくすぐる。並んで歩いていたとき、手が一瞬触れただけでめちゃくちゃに謝られたのを思い出す。
かすんだ視界に、柔らかな薄緑色の光が見えて、抱きしめられた全身に体温とは別種の優しい温もりが流れ込んでくる。──激痛が、嘘のように消えてゆく。
「どうして、ここに……?」
「ええと……みなさんが、追いかけないと駄目だって言ってくれて……」
周囲から「きみがウジウジしてるから」「まったく女心が分かってない」とか聞こえてきた。和泉と一緒にいた、彼が助けた人々が、背中を押してくれたらしい。
すごく嬉しかった、けどダンジョン内はまだ魔物が徘徊していて危な……ってそうだゴブリンは!?
我に返って目を開くと、自分を抱きしめる和泉の肩越しの景色のなかを、ものすごい勢いで緑色の塊──ゴブリンがふっ飛んでいき、地面を何度かバウンドしながら転がって、やがて動かなくなった。
「……え……?」
抱きしめられたまま後方に首を巡らせると、あの母親に抱かれていた幼い少女が、蒼い光に包まれた拳を真っすぐ突き出して満面の笑顔を向けてくれた。
周囲には他にも数体のゴブリンが、情けなく
後方ではその母親が、腕組みして自慢げに頷いている。
「あの子が、
「そ……そうなんだ……」
和泉は苦笑を浮かべながら、ゆっくりと体を離す。
痛みはもうなかった。疲労感はあるけど、支えられなくとも一人で立てるだけの体力は戻っている。
「阿久津さんが、ボスを?」
「うん」
「すごいね」
「ううん。力を貸してもらっただけだから」
彼の言葉で、異世界の
「……それじゃあ……阿久津さん。約束通り、伝えたかったこと、今ここでもいいかな」
「……えっ、ここで……?」
不意打ちに、美黎はゴクリと唾を呑み込んだ。……なぜか、周囲からも同じ音が幾つか聞こえた気がする。
目を向けると、全員が不自然にこちらに背を向けて、何か話したり口笛を吹いたりしている。わざとらしさに、ちょっと噴き出してしまう。
「ええと、その……僕と……」
「……はい」
「お……お……」
「お……?」
そして彼は、必死で想いを絞り出した。
「おでかけ、しませんか!? ふっ二人でっ、古本市にでも!!」
「…………え?」
それが想像していたよりもだいぶ
二人の間に、沈黙が流れる。そこにトコトコ歩み寄るのは例の幼い少女。
「もう! そこは『けっこんしてください』だよ!」
「えっ!? けっ!?」
少女が腕組みしながら言い放ったまさかのフレーズに、唖然とする美黎。
「……それはそれでさすがに早い……かな……」
「わたし、ユウヤくんとハヤトくんと、あとマサトくんからも言われたよ?」
「もっ……モテモテだね……」
「えへへ!」
軽い敗北感をおぼえつつ視線を戻すと、少女とのやりとりを聞いてか聞かずか、和泉は両目と両手をギュッと閉じたままで彼女の返事を待ってくれていた。その一途な姿がひどく愛おしく思えて、鼓動がひとつ、大きく高鳴る。
──そう。わたしは、異世界の超美形皇太子よりも、このひとを選んだ。
少し想像しただけでもわかる。彼と二人で巡る古本市は、めちゃくちゃ楽しいに決まっていた。
もしかしたら、そこで今度こそ告白してくれるかも知れないし。いいや、何ならこっちからしてしまおう。
「……うん。おでかけ、しましょ」
こうして、その日。奥手な少年と少女の距離が少し縮まって、地球上からは全てのダンジョンが消滅し──ダンジョン禍は、終結した。