彼女の産声はガスマスクに遮られ、気泡になって液中を漂った。
瞼を開いて最初に飛び込んだ最初の視界は赤みを帯びていた。とろりとした粘度の高い溶液が満ちた円筒形のカプセルの中で、彼女は始めて己を自覚した。
最初に感じたのは、大きすぎて頭を真っ白にするほどの、強烈な疑問。ここはどこで、自分は何をされていて、そもそも自分は誰なのか。何もかもが分からず、精神が混乱する。
その中においても、産まれたばかりの自分が思考できているという違和感はひしひしと感じていた。
赤みを帯びた液体に包まれたカプセルの中から見る外は、どこかのラボらしかった。明かりを抑えられた金属的な光沢のある床。用途も分からない様々な機械が壁に並べられている。
ラボには一人の男がいた。考え事をしているらしく、メモを走らせながら中央の机を回っている。彼はふと顔を上げて、彼女が目覚めた事を認めると、笑顔を綻ばせてカプセルに寄ってきた。
「やあ、おはよう三七号。目覚めの気分はどうかな?」
やけに快活な声をした老人だった。赤い液体に満ちていても、見開かれた彼の目が、全てを見透かすような黄金色をしている事が分かる。
彼は額にかけていた片目ゴーグルを装着して彼女を眺め回し、それからタンクの脇にあるらしい数値を読み取って、深く頷く。
「うん、調整はいい感じだ。既に並の小都市を動かせる程の魔力量をしている。やはり『あるべきものが欠けている』という自意識が大事らしい――すばらしい、君は人炉のブレイクスルーの一人だよ!」
「……、…………」
「ああ、混乱するのも無理はない。一定の思考力は付与しているが、君はまだまっさらな赤ん坊なのだからね。さあ、何はともあれ記念すべき誕生の瞬間だ。記念のハイタッチをしよう!」
朗らかな笑みでそう言って、老人は両手をカプセルに貼り付けた。誘われるまま、ほとんど意識もせずに、彼女は右手を差しだしてガラス越しに重ねる。
その動きに、なぜか左手が付いてこない。いつまでたっても視界に現れない。
疑問に思い、視線を傾けると、虚空が見えた。遮られて見えない筈の自分の腰と、ガラスを透過した底が見える。
意識を向けると、肩から突き出た、太くて短い、滑らかな切り株のようなものがヒラヒラと揺れた。
――腕は? 左腕はどこ?
フリーズした思考のまま、右手で左肩をさする。肩口のつるりとした突起は、自分の身体だと疑いなく確信できるくらいの鮮明な触覚があった。けれど、その数十センチから先のあるべき感触が、どこにもない。
震える目で彼女は自分を見下ろす。傷一つない滑らかな肌。ふっくらとした双丘。平らな腹。臍には栄養供給用のチューブが差し込まれている。
股から先にあるべきそれも、見つける事ができなかった。必死に動かそうと意識を飛ばすと、太股の根の方、切り株のように残った肉がもぞもぞと動くばかり。
――ない。
ない。ない。ないないないないない! 腕、足が! 無い!
そこで追いついた理解が、産まれたばかりの彼女の意識を恐怖で塗り潰した。
溶液の中で身悶える。右手がバンバンとカプセルを叩き、右腕以外の四肢はその動きに付いてこない。何も無い胴体だけの身体が、溶液の中で芋虫のように身悶える。
ごぼごぼという泡と一緒に、甲高い絶叫が、溶液内に木霊する。そうして狂躁する彼女の様子を、老人はガラスの向こうで満足げに頷きながら眺めていた。
それから、地獄で産まれた少女の、想像を絶する恐怖の日々が始まった。
老人――玩饗王ヒドゥン・レイ・スタンリーは、少女が一定の知識と社会観念を付与した状態で誕生させた人造人間であることを、得意気に言って聞かせた。そのあと蕩々と続いた、生命の魔力量を飛躍的に伸ばす『人炉』の仕組みについては、理性が付いていけずまるで覚えられていない。
ヒドゥンは最初に見せたのは、彼女の先輩に当たる三四号の『解体』だった。まだ自分の名前さえ知らない少女は、生きたまま肉体と魔力を使い潰される光景と、それが同じ人間から出たと思えない延々と続く壮絶な絶叫を耳にして、三つのことを理解した。
決して逆らわない事と、期待に答え続ける事という不文律。そして、自分が作られた道具であるという事実。
押し込められた監獄と呼ぶべき場所には、彼女の他にも沢山の被検体が、雄雌の区別もなく十数人押し込められていた。肉体のどこかに番号を彫られた彼等は、自分の足で立てる者はほんの二人しかおらず、必ずどこかが欠けていた。監獄は、両腕の無い少女の啜り泣きや、両目のない者の発狂の怒号や、脳の大事な部分が機能していないらしい壊れきった者の呻き声が常に満ちていた。
ヒドゥンは毎日のように現れては、彼女達に様々なテストを課した。それは簡単な身体検査だけの時もあれば、身体に機械をねじ込まれたり、食事も睡眠も許されずに魔力を吸い取られ続ける拷問のような時間もあった。
命令に忠実に従い、テストに満足のいく結果を出し続ける限り、ヒドゥンは本物の父のように優しかった。食事は必ず三食提供され、出来のいい作品の頭を撫で、我が子のように抱き締める事さえした。同時にヒドゥンは、それと全く同じ笑顔で、一切の容赦もしなかった。
期待に答えられなかった作品は、どれだけ泣き叫んで懇願しようと処分された。気まぐれに魔具を作り出しては、その燃料として彼等を機構に組み込んだ。子供の工作のような気軽さで、彼は人間にチューブを突き刺して機械に閉じ込め、使い潰した。
月ごとに二人ほどが送り込まれ、二人ほどいなくなった。
どこかが欠けた人間達は、ただ怯え、震える他なかった。
夢を見る事も叶わない。自由など産まれた時から存在しない。自分たちはいつか必ず壊される。なぜなら自分たちは、そのような目的で作られたのだから。
彼女たちに許されたのは、祈る事だけだった。
身を寄せ集め、ひとかたまりになって、自分に残された『自分』を摺り合わせる。
腕、足、鼓動――滑らかな肌と温みを持つそれらを触れさせあって、言う。
「自分たちは、生きている」
「生きている、人間なんだ」
そう、自分に言い聞かせる。それが、正しい生まれでもなくどのように定義されるかも曖昧な彼女達が、せめて誇示できる唯一のよすがだった。
瓦礫の旋風に吹き飛ばされ、アスファルトに全身を強かに打ち付けながら、ヴィルはその時の光景と感情を思い出していた。アスファルトを激しく転がるのに、金属の破砕する危うげな響きが重なる。
「っ走馬燈なら、もっと明るい奴を見せやがれよ……!」
魔力の漏出で火花が弾ける義手を地面に押し付け、ぐぐ、と身を起こす。朦朧とする視界に、顎から伝った血がぱたたっと赤い染みを落とす。
度重なる瓦礫の奔流によって、ヴィルの身体はズタボロだった。細かい礫に打ち据えられた全身は真っ赤に腫れ、あちこちの皮膚が裂けて鮮血を流している。
四つん這いになったヴィルの背後から、瓦礫の奔流が迫り来る。ヴィルは左手の義手で地面を殴って宙に浮き、大きな瓦礫を蹴り付けて奔流を抜け出す。その際に突き出た鉄骨の破片がわき腹をざっくりと抉り、また一つヴィルの傷を増やす。
右足は既に破砕しており、着地さえ満足にいかない。左足で地面を蹴り付けて勢いを殺し、瓦礫の散乱する地面を激しく転がる。傷つきささくれ立った神経が悲鳴を上げる。もはや痛くない場所の方が少ない。
不定形の化物となったフィッツジェラルドは、倉庫の煉瓦壁を取り込んで増長を続けていた。己を失った彼は取り込んだ瓦礫で具体的な形を作る事ができず、無数の蛇が寄り集まったような、不気味に蠢く塊になって倉庫の中心で蟠っている。
「定義、不明――自分は何だ、分からない、嫌だ、分からないのは、怖いよ――」
「ぴぃぴぃ泣くんじゃねえよ……同類と押し込まれた、クソ野郎のラボを思い出すだろうが」
「俺は何だ僕は命かわたしは生命たり得るか不明不明分からないいやだ嫌だイヤだ! 定義しろ、三七号お前はなぜ三七号だ! 定義、定義をぉぉぉぉぉ!」
「番号で呼ぶんじゃねえクソ迷子が! オレはヴィルだ。オレを産み出したクソ野郎を殺すために戦う、生きた人間だ!」
片腕片足を使い辛うじて瓦礫の奔流をいなしながら、ヴィルは吼えた。
自己を見失い、少しでも寄る辺を求めて暴れる『人炉八四号』の狂乱は、余りにも痛々しすぎ、自分に似すぎいて、吐き気がする。
ヴィルは右手で、自分の胸、そこに彫られた「我闘う故に我在り」のタトゥーを指し示す。
「ここに生きて、戦ってる! この右手で奴の面をぶん殴るまで絶対に死んでやらねえ! それがオレがオレである証明だ分かったかよ馬鹿が! 自分探しならテメエでやってろ、自分の定義を余所に委ねてんじゃねえ!」
「判読、不能、不明、わからない分からない分からない――検証継続」
ヴィルの力強い怒号も、壊れた瓦礫の怪物には届かない。フィッツジェラルドは不定形の巨体を波打たせると、幾本もの金属のチューブを矢のように放った。一瞬の判断でヴィルは全身。顔面に穴を穿とうと迫るチューブを、スライディングで躱す。
そこでヴィルは、頭上数十センチ先を横切る金属のチューブに絡み付いた〈パズスの虫籠〉が、淡い翠の光を放っているのを見た。
「しまっ――」
気付いたヴィルが戦慄するも、もう襲い。虫籠が内包していた物質が解き放たれ、突如として虚空に現れたビルの破片らしい巨大な瓦礫が、ヴィルの左腕を噛み潰した。
地面に縫い付けられ、動きが止まる。その隙は、この戦いに於いてあまりに絶望的だった。
瞬間、押し寄せた金属のチューブが雨のように降り注ぎ、ヴィルの胴体を串刺しにした。
「っが、ぐぎ、ああああぁ!?」
どちゅどちゅと肉を抉られる激痛。焼け付く痛み。肩から腰まで穴を開けられ、標本のように地面に縫い付けられる。
激痛に歪むヴィルの顔を、瓦礫を寄せ集めた巨体が覗き込んだ。あちこちから突き出た金属のチューブが、鎌首を擡げる蛇のようにヴィルを観察する。
フィッツジェラルドは金属のチューブをヴィルの身体に這わせた。傷だらけになった身体をなぞったチューブは、おもむろにヴィルの右腕に絡み付く。
ヴィルに唯一残された、人間の右腕に。
かつてない怖気が、ヴィルの魂を貫いた。
「っ……やめろ」
「反芻。右手への言及を検知――右手に自己の証拠があるか? 不明、不明」
「よせ、ふざけんな! やめろ、それだけは……!」
「検証、開始」
冷酷極まる機械的な声でそう言う。
絡み付いた無数の金属のチューブが、ヴィルの右腕に食らい付いた。ぼきゅっと音を立てるほど勢いよく、肉が喰らい尽くされる。
激痛と、己の身体が奪われる途轍もない喪失感が、ヴィルの身体を跳ね上げさせた。
「づぎ、ぎゃあああああ!!」
「組成解析。構造解析。解析、どこだ、自己はどこに、解析、解析解析解析」
「やめろ! やめろったら、この――!」
激痛に神経を焼かれながら、ヴィルは死に物狂いで身体を身悶えさせる。
その抵抗に帰ってきたのは、めぎっという破砕音。瓦礫との間に噛み潰された左腕がとうとう破砕され、接続が断ち切れる。
唐突に抵抗感がなくなり自由になった、数本の鉄線をぶら下げた己の左肩を、ヴィルは全てに突き放されたような心地で目撃した。その肩もフィッツジェラルドの押し寄せるチューブに絡め取られ、身動きを封じられる。
骨を囓られる凄まじい痛みが、ヴィルの身を跳ねさせた。バリバリと音を立てて骨が、その奥の神経が貪られる。
「っあ、いぎっ、やら、やだ――ぁがあ!! やめろ嘘だそんな、いやだ、いやだ! これ以上、オレから奪うなぁぁぁ!」
ばりばりと音を立てて、食される。解体されていく。右腕が。ヴィルに唯一残された人間らしい部分が。残酷にも磨り潰されていく。
どれだけ痛みに藻掻いても、叫んでも、機械は蹂躙を止めない。
そしてとうとう、骨の外れるごきんという音が木霊して、ヴィルの右腕が引き千切られた。己の肉体が奪われる途方も無い喪失感に、ヴィルは喉が千切れるほどの絶叫を張り上げた。
「っあああああああああ!! うわああああああああああああああああああああ!!」
「自己はどこだ。俺私の相違点はどこだ、調査調査調査調査――」
「クソ、クソクソクソクソォォォ! よくもオレの腕を、たった一つの腕を食いやがって! 殺してやるぞクソ野郎! 絶対にオレの手でブチ殺――っが!」
涙を流しながら絶叫したヴィルの額を、金属のチューブが押さえつけた。全身にチューブを突き刺され、骨が軋むほどの力で押さえつけられ、あらゆる自由を奪われた状態のヴィルの視界を、迫り来る無数のチューブが埋め尽くす。
「右腕の所在による自己定義への影響を査定、優位な差を検知」
「ひ、あが……!?」
「肉体の有無に自己の定義があるか? 不明、検証、継続……肉を削ぎ、反応を査定する」
狂気に落ちた機械の無数の口が、肉体を貪ろうと迫る。
抗いようのない死の気配が、ヴィルの心を押し潰す。
――その運命を打ち破ったのは、唸りを上げるエンジン音だった。
「ッおおおおおおおおおおおお!!」
アラン・レイ・スタンリーの繰る二輪駆動の魔導車輌が、全速力で倉庫に突っ込み、瓦礫を踏んで宙を飛んだ。乗り手を離れた魔導車輌は、大砲のような勢いでフィッツジェラルドの胴体に突き刺さり、大爆発を巻き起こした。怪物が身を捩り、金属のチューブが引き抜かれてヴィルの身体を地面に転がす。
「――ヴィル!」
爆発の余波が炎で辺りを照らす。空中で放り出され宙を転がったアランが、蹲って微動だにしない相棒に駆け寄る。彼女を抱き上げて、すぐに惨状に気づき、愕然とする。
ヴィルの身体が、ぞっとするほど軽い。その軽さが、彼女が失ったものの大きさを象徴している。千切られた右腕からは今もだくだくと鮮血がほとばしり、抱き寄せたアランの手を熱くねっとりと塗らす。
「お前、右腕が……」
「っぐ、ぅ……あ、アラン……!」
名前を呼ぶ声が震えている。炎で照らされた彼女の目尻からは珠のような涙が溢れている。
彼女は泣いていた。普段の獣のような様相はまるでなく、顔をくしゃくしゃにして子供のように泣いている。痛みにではなく、奪われたものの大きさによる途方も無い喪失感によって。
「っぐ……どうしよう、アラン。オレの腕が……ひく……オレの、たった一本きりの人間の部分が、なくなっちまった」
「……!」
「もう何もできない。クソ野郎を殴ることも、お前の手を握る事も、何も……!」
しゃくり上げ、身を捩る。唯一残された壊れかけの義肢が駄々を捏ねるように地面を擦る。
四肢を奪われた軽すぎる身体。あるべき筈の物がない、人間未満の人間。ヴィルは自分の、欠けきった身体を見下ろし、歯を食い縛って泣く。
意地を張って、虚勢を張って誤魔化してきた絶望的な事実が、右腕の喪失と共にヴィルの心を黒く塗り潰す。
最初からひび割れ、辛うじて保ってきた心が、砕ける音がした。
「こんなの、人間じゃねえ」
「ヴィル……」
「人間じゃねえよ。試験管で作られて、足も腕も取り上げられて……こ、こんな、芋虫みてえな身体で! 人間なんて呼べるかよ! っひぐ……道具だ。お、オレ、オレは、どこまで行っても道具なんだ! うぁ、ああぁ……!」
何も掴めない、駄々すら捏ねられない身を捩り、人造人間は噎び泣く。
『人炉三七号』。道具。使われるために産まれ、使い潰されて死ぬ。ただそれだけの、それ以上に価値などない存在。最初から定められたその事実が、とうとう、疑いようのない絶望としてヴィルの心を粉々にする。これ以上生きたくないと思うほどに。
その、何もかも掴めなくなったヴィルの身体を、アランは抱き締めた。
強く、強く。傷だらけの身体に走る激痛よりも強く、温もりが伝わるように。
「いまさら何を言ってるんだ、馬鹿」
「っあ、らん……」
「何度も言ってるだろ。出自なんて知った事か。産まれた理由なんてクソ食らえだ。俺もお前も、今ここで必死に生きてる。俺達が自分を誇る事に、それ以上の理由なんて要らない」
自分自身に向けて、打ち拉がれて泣きじゃくる彼女に向けて、アランは宣誓する。
二人は、共に同じ相手を恨み、復讐を誓った同盟関係だ。
アランが魔具を作り、それを使ってヴィルが戦う。
その関係は何も変わらない。これまでも、この先も。
「お前が誰より勇敢に戦ってくれるから迷わないでいられる。俺の作る魔具が正しく街を守ると信じられる――お前がいるから、俺はアラン・レイ・スタンリーという名前を誇れるんだ」
道具にあるのは『用途』だけだ。善悪の如何は、道具の使い手に委ねられる。
人を殺す魔具は、悪を退け人を守る魔具にもなる。逆もまた然りだ。
だから、アランの掲げる正義の魔導技師という称号は、アラン一人では決して為し得ない。共に正義を為す道具の使い手が絶対に必要だ。
同時に、正しく善を歩もうとする果敢な少女が、道具である筈もまたない。
共に戦うと誓った同盟関係に。魂同士が繋がった強い強い結びつきに。人間未満だとか人造人間だとかいう要素は、ほんの少しの欠陥にもなり得ない。
「戦うための腕も足も、温もりも、全部俺がくれてやる。誰にも、どんな偏見にも邪魔はさせない。ずっと傍に居て、一生を懸けて、お前が最高の相棒だって肯定し続ける」
「アラン……お、おまえ、それ……」
「俺はアラン・レイ・スタンリーだ。どう生きるかも、誰を好きになるかも、自分で決める」
そう言ってアランは、腕の中で呆気にとられる彼女の緩んだ半開きの唇に、自分の唇を重ねた。
柔く湿っぽい感触。涙の味。んむっという驚きの呻きが口腔に響く。
四肢の全てを失った彼女に、それ以上の温みと心の繋がりを伝える。
アランが顔を上げた時、ヴィルは見たことのない顔をしていた。驚きに目を見開き、顔がかぁっと赤くなり、濡れた唇をぱくぱくと開閉させている。
千切れ飛んだ右腕の痛みも、喪失感も吹き飛ばしてしまう位の、強烈なキスらしかった。
「はは。そこまで驚いてくれるなら、勇気を出した甲斐があるかな」
「な、ぁ……」
「任せてくれ。男の根性ってやつを見せてやる」
絶句するヴィルの様子に思わず苦笑して、アランはヴィルを慎重に横たえさせる。
そうして、振り向きざまに腰のレイピアを抜き、迫っていた瓦礫の巨腕に突き立てた。
澄んだ金属を打ち鳴らすような快音が頭の中に響く。時間を置き去りにする凄まじい集中の中に意識が落ちていく。
繙読、分析、規程、解読、反復――フィッツジェラルドという巨体を構成する細かな瓦礫の一粒一粒が山のように巨大に感じられる――繙読、分析、規程、解読――植物の根が土をかき分けて進むように理解の伝播が瓦礫の中を突き進む――判読、分析、規程、解読――以前に砕いたあの時と同様に、フィッツジェラルドを構成する根幹を今度こそ打ち砕くべく――
「警告、回避――分離」
無限分の一秒で行われる情報処理が、唐突に中断した。〈茫漠緻縫の針〉を突き立てられた瞬間に、フィッツジェラルドは自ら身体を切り離していた。アランに向けて迫っていた十メートル長の巨腕が、バラバラに砕けて地面に落ちる。
「……なんだ、それは」
激しいノイズを混ぜた声が響く。フィッツジェラルドの巨体が震え、次第に激しく痙攣しだす。それに対しアランは、白く輝くレイピアを手に、ヴィルを庇うように立ちはだかる。
「その反応は何だ因果は何だ、欲しい、その変容が欲しい教えろ、それを定義しろぉぉぉ!」
「他人の恋バナに口を突っ込むなよ、出刃亀野郎!」
絶叫と共に押し寄せた瓦礫の奔流に、アランがレイピアで迎え撃つ。
先端を突き立てた瞬間、〈茫漠緻縫の針〉が発動。膨大な情報がアランの脳に流れ込み、編纂していく。
スペルコードをズタズタに組み替え、自我を喪失させた絶大な威力を誇るその一撃を、フィッツジェラルドは学習していた。切先を突き立てられた瞬間に、そこに連なる部位を分離。アランの編纂はフィッツジェラルドのほんの一部を分解するだけに終わる。
フィッツジェラルドは身を捩らせ、立て続けに瓦礫の奔流を放った。ほんの少しかすっただけでも終わる。そんな一撃がアランに殺到する。アランは〈茫漠緻縫の針〉を突き立て編纂。分離した瓦礫が砕け、間髪入れずに、それをかき分けて新たな瓦礫が押し寄せる。
繙読、分析、規程、解読――膨大な情報の渦に意識を揉みくちゃにされるのはまるで轟々と落ち行く巨大な滝に飛び込むようだ――繙読、分析、規程、解読――分離、中断。息つく間もなく押し寄せる瓦礫の腕に針を突き立てる――繙読、分析、規程、解読――究極に拡大すればあらゆる生き物が細胞の連なりとなって区別が付かなくなるようにアランは自己の認識を離れて集中の極地に落ちていく――分離、中断。よろめくことすら許さず次の一撃が押し寄せる――繙読、分析、規程、解読――
ばつ、と頭の中で音がして、アランの鼻から鮮血が吹き出した。
脳味噌が焼けた石炭をねじ込まれたように熱い。よろめきかけるアランの目の前に、瓦礫の奔流が迫る。
「ッづ、んう゛ぅ!」
歯を食い縛り、アランは〈茫漠緻縫の針〉を突き立てた。意識が再び極限の集中に落ち、膨大な情報が脳に流れ込む。脳を発火させるほど熱した処理は、フィッツジェラルドの分離によって中断される。
繰り返す。常人なら一回で気絶してしまうような集中の極地への没頭を、何度も、何度も。
「――、――――――」
頭の中でジュウと音がした。視界から色がなくなり、蒙昧とした白と黒のシルエットでしか世界を認識できなくなる。
時間の感覚が掴めない。集中と解脱の繰り返しに脳が悲鳴を上げ、現実の方を正しく認識できていない。熱暴走を起こした脳が感覚を狂わせ、上下さえ判然としない。そんな状態で、アランは気合いで地面をしかと踏みしめ、押し寄せる怒濤に〈茫漠緻縫の針〉を突きつける。
「やめろ……もうやめろ、アラン! このままじゃお前が死ぬぞ!」
朦朧とした意識の向こうに、ヴィルの悲痛な声を聞いた。止めどなく溢れる鼻血はアランの服を真っ赤に塗らしている。食い縛った歯は力の抜き方を忘れ、奥歯がひび割れて歯茎に食い込む激しい痛みが焼けた脳に押し寄せる。上等だ。痛みを処理できる余裕があるなら、まだやれる。再びレイピアを振るい、無限分の一の極地に飛び込む。
「やめてくれ! 奴の狙いはオレだ、お前が巻き込まれて死ぬことないだろ! オレを置いて逃げろよ馬鹿野郎!」
「馬鹿はそっちだ馬鹿野郎! お前を置いて逃げたら、それこそ俺は死ぬんだよ!」
前後も上下も自己も他者も曖昧になった混濁する意識で、それでも確固たる決意を叫ぶ。
アランとヴィル、どちらが欠けても二人は戦えない。
ヴィルがいるから、アランは自分を誇れる。正義の魔導技師だと名乗りをあげられる。
アランにとって彼女は、人としての好きなんてとうに通り越した一心同体の存在なのだ。
「絶対に見捨てない! 死ぬ時は一緒だ、いや死んで堪るもんか! 俺はお前と一緒に戦って、クソ親父をぶちのめして、自分を誇って死ぬ! それまで絶対に死なないしお前も絶対に死なせない!」
バチバチと視界に火花が散る。視界が輪郭さえうまく結べなくなる。情報の処理に耐えかねた脳が幾つもの機能をシャットダウンさせ、アランは着実に死へと足を踏み入れていく。
それでも止まらない。死なない。
なぜなら彼はアラン・レイ・スタンリーだから。
玩饗王の息子という最悪のレッテルを貼り付けられ、それを背負って戦うと決め、必ず復讐を果たすと誓った戦士なのだから。
「産まれがどうとか関係ねえ! お前は俺の相棒だ! 俺とお前二人で一緒に戦うんだ!」
運命に抗って生きると誓った。目を背けず戦い抜くと誓った。
どれだけ傷を負っても。後ろ指をさされても、決して止まらない。
自分らしく生きる。自分を誇りに思える生き方をする。
それは、何にも勝る価値がある。全てを捧げる意味がある。
忘れるな。
忘れるな!
心に刻め!
「――俺達は、《レイヴン》だ!」
さっと煌めいた銀色の旋風が、アランの目前に迫っていた瓦礫の奔流を粉々に切り裂いた。
白銀の長刀を煌めかせたエルフの青年が、凄まじい気迫と共に剣を振るい、斬撃の疾風で全てを吹き飛ばしていく。
「四章十三節――"さあ喝采せよ、斯くて終末の焔は天高く聳え、新祖の訪れを世に告げん"!!」
爪弾くような流麗な詠唱と共に、屋根をぶち抜く特大の火球が落ちて、フィッツジェラルドの巨体を呑み込んだ。立ち上る猛烈な火柱が、アランの意識に色と理性を取り戻させる。
轟々と燃え立つ焔を前に、美しきエルフと瀟洒な魔女が立つ。
「待たせてごめんなさい、アラン、ヴィル」
「よく持ち堪えた。後は任せろ」
「はは……遅刻ギリギリの参戦は、これっきりにしてください」
皮肉を言い、アランがとうとう膝を着いた。衰弱したアランを守るように、ブレアレストが魔導書を開き、イスラが長刀を構える。
焔の中から怪物が姿を現した。ブレアレストの大爆発で瓦礫が吹き飛び溶かされ、金属のチューブが旋毛虫のように宙を舞っている。その図体はまだ見上げるほどに大きい。
「あ、ア、アァァ……!」
二人の戦士の凜々しき眼光が、怪物の心の膿を破ったか。怪物は更に激しく身を捻り、怯えるように呻く。
「よせ、よせよせよせやめろやめてくれ。見せつけるな。俺私に僕にないそれを向けるな!」
「……イスラさん」
「ああ、悪に誑かされた憐れな怪物だ。せめて丁重に弔おう」
「定義できないわからないイヤだ自分もお前らも何も分からない! 俺に近づくなぁぁぁ!」
悲痛な絶叫を放ち、フィッツジェラルドが全身を蠢かせて突進をしかける。
「二章三節――猛火は竜尾の如く艶やかに、愚者の大地を舐滅させり!」
ブレアレストが呪文を詠唱し、魔導書が奇跡を発動。地面から噴出した業火が、押し寄せる瓦礫をたちまちに溶かして押し留める。
その眩い業火の壁を、イスラが跳んだ。絹糸のような銀髪を焔に煌めかせ、彼は一呼吸のうちに、頭上に揺蕩うチューブの全てを両断する。
フィッツジェラルドを構成していたチューブが切り裂かれ、瓦礫が焼き溶かされる。己を失い発狂した彼の、死に物狂いで繋いでいた己の身体が瓦解していく。
「いやだ! いやだ! 俺私じぶん僕から奪うなぁぁぁぁ!」
半狂乱に泣き叫び、フィッツジェラルドが吼えた。胴体から強烈な翠の光が放たれる。
ゴウッ! と爆発するような勢いで、大量の物質が〈パズスの虫籠〉から解き放たれた。乗用車、道路標識、ゴミ箱、ガラス、コンクリート片――街を構成していた様々な物が、波を作るほどの勢いで解き放たれ、二人を押し潰す。
「コイツ、どれだけ蓄えて来たって言うのよ!」
「必ずここで仕留めるぞ。逃せば次は、この瓦礫の中に人間が混じる事になる!」
瓦礫はあっという間に堆く積み上がり、フィッツジェラルドを覆い隠す。ブレアレストが魔導書を開き、一帯を吹き飛ばさんと息を吸う。
「――ブレアレスト! イスラさん!」
立ち上がったアランの声が、二人の動きを止めた。
振り返った二人が見たのは、大量の鼻血と吐血で顔を赤く染め瀕死同然に朦朧としながらも、見開いた両目に誰よりも強い輝きを浮かべる、一人の魔道技師の姿。
「コイツは俺達で決着を付ける! 俺達がケリをつけなきゃいけないんだ! だから手伝ってくれ――俺に〈虫籠〉をくれ!」
ぜえぜえと息を荒げながら、それでも必死に叫ぶ。
不明瞭な指示にも、迷いなど起こらなかった。アランのその覚悟は、決意は、この戦いの行方を任せるには充分すぎた。
「私が行こう! ブレアレストは道程を頼む!」
「了解! スカイ/ホロウ、私が吹き飛ばすべきはどこ!?」
『渦のど真ん中に〈虫籠〉の光を観測!』
『まっすぐ、ぶちぬけ~』
「任せて! 二章終節――”斯くして黎明たる祖竜は告げた、『我が赫灼の瞳は罪在りし何人もの存在も許すことはない』”!」
魔導書が唸るようにページが捲れる。ブレアレストが掌を天に翳すと、その掌から、まっすぐ天を打ち抜くような輝く焔の柱が現れた。
ブレアレストが手を振り下ろし、炎の柱が彼女の眼前の直線を一瞬で焼き払う。
高熱が瓦礫の山を両断し、瓦礫の渦の中心に向かうまっすぐな路を作り上げた。その炎熱の路を、銀髪を煌めかせるエルフが駆ける。音すら置き去りにするほど凄まじい加速で地を蹴り、押し寄せる瓦礫の全てを斬り捨て押し払い、中心に向けて突き進む。
果たしてイスラの剣は、ブレアレストが穿った路を抜け、〈パズスの虫籠〉へと届いた。鮮やかな銀の剣閃が金属のチューブを切り払い、宙へと跳ね上げる。
その人智の外側の物質で作られた聖骸を、アランが受け取った。
受け取った衝撃で転げながら、アランはそれをしっかりと掻き抱き、ひた走る。
彼の等身大の勇姿を、人間の腕を失った相棒が見つめていた。
アランは倒れ込むようにしてヴィルの傍に寄った。彼女を抱き寄せ、膝の上に乗せると、抱えた聖骸に〈茫漠緻縫の針〉を翳した。
「……」
ごくり、と喉が鳴る。熱を孕んだ脳は煮え立つようで、激しい血流が耳の奥で洪水のように騒いでいる。
自分がこれから行う事の意味は、理解している。それがどれほど果てしなく、凄まじく、地獄のような苦しみを伴うものであるかも。
ばくばくと跳ねる心臓を自覚して、アランは膝に乗せた相棒を見た。
彼女はもう震えてはいない。強い光を宿した瞳がまっすぐアランを見つめている。
「……いけるのか」
「分からない。正直めちゃくちゃ怖いよ。戻って来れないかもって思うと泣きそうになる」
二人の間に虚勢は要らない。これまでも散々見せてきた情けない部分を洗いざらい見せて、アランは言う。
「だから、信じてくれ。お前ならできるって言ってくれ。お前がそう言ってくれれば、俺は自分を信じられる。何もかもに立ち向かって、お前のために打ち破ってみせるから」
まっすぐに、思うままの気持ちを吐露する。
アランが魔具を作りヴィルが戦う、二人で一人の関係だからこそ。
命を預け合う。自分自身も共に信じあう。あらゆる困難を、二人で分かち合い乗り越える。
その覚悟に、彼女もまた、力強い頷きで答えた。
「安心してぶちかませよ。オレが認めた相棒が、この程度で死ぬもんか」
「うん、ありがとう……今のうちに、大好きって言っていいか?」
「っ……後にしろよ。そういうのは、後で、二人になった時にゆっくり聞いてやる」
「分かった。じゃあ、さっさと乗り越えよう」
ぽっと頬を染めた、相棒の似合わない照れ顔を目に焼き付けて。
ふっと緊張感のない微笑を浮かべ、アランは〈パズスの虫籠〉に白銀の切先を突きつけた。
キィンと澄んだ金属音が、アランの意識を無限に引き延ばす。極限の集中へと落ちていく。
かつてこの世界に存在したとされる神々の、失われし叡智によって産み出された魔具。その文字通りに人智を越えた奇跡が孕んだ莫大な量の情報が、アランの脳に流れ込んでいく。
繙読、分析、定義、解読――それは海を呑み込むような暴挙だった。無限分の一秒の中に人生を何周したって追いつけない情報が一斉に押し寄せてくる。それに溺れる事さえ許さず直視しなければいけない。流れゆく人智を越えた叡智をただただ理解させられていく――繙読、分析、定義、解読――圧倒的という言葉さえ足りない、具象的な重ささえ持つほどの情報量が脳に押し込まれていく。ナノメートルの神経細胞の一本一本に細い針を差し込まれ押し広げられていく発狂するような痛みに止めどなく晒される――繙読、分析、定義、解読――時間を置き去りにした情報処理に反比例するようにアランの感覚は永遠に届くほど引き延ばされていく。世に命が生まれ落ち文明を作り廃れていくその雄大な流れに匹敵する永劫の時を、脳を直接火で炙られるような苦しみに浸って過ごす――繙読、分析、定義、解読――
まだ、何も掴めない。これだけ、途方もない情報の洪水に晒されて尚、何も見えてこない。聖骸を構成する物質の一片たりとも理解できず、時間はまだ〇.〇〇〇一秒も経っていない。一度始まった理解の反復は、アランが全てを理解しきるか、アランが壊れきるまで止まらない。
かんかんに熱して液体になった鉄を脳味噌に流し込まれるような強烈さだった。神々の叡智を理解する、その行為自体が世界を冒涜するようなもの。それを〈茫漠緻縫の針〉は強引に達成せしめ、何度も何度も、何度も何度も繰り返させる。脳を焼け付かせていく。
きっと、ほんの少しでも諦めがよぎれば、アランの魂は立ちどころに情報に噛み潰され絶命するか、二度と正常な人間には戻れないほどに脳を破壊されただろう。
だが、アランは感じた。
無限分の一秒に引き延ばされた時間の中でも、膝に寄りかかる彼女の温もりを。
自我などとうに消えている筈の情報の渦の中で、一途に彼を信じる心を。
アランに抱かれ、一心に見つめる彼女の存在を。
「負けんな、アラン!」
時間を越えてた彼女の叫びが魂を震わせる。
それがある限り、アランは決して迷わない。必ず乗り越えられると信じられる。
無限回の理解の連鎖? 無限に引き延ばされる意識? 永劫の時? 嘘を付け。
ただ、滅茶滅茶に長いだけだ。
出口のない暗闇で藻掻く訳でもなければ、拭えない偏見や罪の意識に囚われる訳でもない。
(だったら、怖れる理由なんて何もない)
そうだろう、相棒?
死ぬまで藻掻き続けると誓ったんだ。
進み続ける事なんて、言われなくてもずっとずっとやり続けている。
必ずあるゴールを、ただ目指せばいいだけ。これはそういう、簡単すぎる単純作業だ。
解析して、解析して解析して理解して理解して理解して理解して解析して理解して解析して理解して解析して解析して解析して解析して解析して解析して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して理解して
――ただ、古くさい壷を一つ分解するだけなんだ。
そうして、理解の連鎖の果てに、至る。
魔術組成に到達。五三二万八二七九語からなる神々の
〈パズスの虫籠〉の正体を暴ききる。内蔵された呪文が描く神々の奇跡が己の手足のように理解できる――術式詳細定義。世界樹の洞への転送機構。対象物質を規定し現存概念を切り離し転送に有される七五万七二六語の術式を摘出――解析、改竄――転送先を『無(null)』に再定義――
斯くして、魔道技師の白銀の切先は、神々の奇跡の核を穿つ。
〈茫漠緻縫の針〉――細断、実行。
アランの腕の中で、パズスの虫籠がほどけた。
籠を構成していた、複雑に絡み合った植物が、花開くようにほぐれ、ほぐれ、淡く輝く細い繊維になって宙に舞う。
植物と術式が複雑に絡み合った光の糸球、その全てがアランの理解の内に掌握されている。
神々の叡智を内包した植物は、アランの意志に従って動き、一つの形を作り始める。
寄り合い、絡み合い、切断されたヴィルの右腕に集う。
白光が収まった時、そこに新たな右手が誕生していた。
複雑に絡み合った植物の筋繊維は、荘厳な生命の息吹を感じさせながら、一つの機構としての無骨な頑丈さと精緻な可動性を誇示している。よく磨かれた樫のように艶やかな指が、ほぅと目を丸くするヴィルの意志に従って滑らかに動く。
それは植物でありながら機構だった。樹木でありながらヴィルの腕で、古き神が作った叡智でありながら、人の手に収まる魔具だった。
光が完全に収まり、同時にアランの集中の糸も途切れる。鼻も口も目も、あらゆる穴から流血させたアランが、限界を越えて熱を発する頭をぐらりと傾ける。
相棒の新たな腕が、彼に倒れる事をさせなかった。起き上がったヴィルが、崩れ落ちるアランを抱き寄せ、肩を貸して支える。
彼岸まで見えそうな朦朧とした意識の中、アランは自分の胸に宿る、小さく力強い星の輝きのような達成感と、涙混じりに囁く彼女の声を聞いた。
「よくやったな、相棒」
「ぅぃ、る……」
「けど、寝惚けるのは勿体ないぜ。せっかくのクライマックスを見逃すなよな」
背中を優しく叩かれ、顔を上げた時、ヴィルはその目に凜々しき光を宿し、眼前に堆く膨れあがる岩石の渦を見据えていた。
覚悟を固めて、拳を握る。使い方は言われずとも理解できていた。アランと結びついた絆が、言葉よりも確かに勝利への道程を伝えていた。
ヴィルの魔力を受け取った瞬間、右腕がざわめいた。複雑に絡み合った繊維の一本一本が、命を得たように蠢く。
「命懸けて生み出した創造主様にカッコ悪いとこを見せんなよ、オレの右腕――思いっきりぶちかませぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ありったけの気合いと魔力と共に右腕を振り抜く。
瞬間、ゴウッと空気を抉るほどの勢いで、腕から解けて誕生した無数の蔦が飛びだした。凄まじい速度で放射状に拡散した蔦がフィッツジェラルドに食らい付く。
瓦礫の渦に、スプーンでくり抜いたような巨大な穴が穿たれた。瓦礫を掠め取り食らい破った蔦は、展開した時と同じように、瞬く間にヴィルの右腕へと戻っていく。
「オ、ア、アアアアアァァァァアァ――――ッ」
身体に穴を穿たれた一撃は、自己を失ったフィッツジェラルドと言えど驚愕するほどの衝撃だった。巨体が身動ぎし、渦から飛びだした巨大な触手が、ヴィル達を噛み潰そうと迫る。
ヴィルは再び右手を翳し、魔力を籠めた。蔦が今度は彼女達を守る壁のように展開され、触手の攻撃を受け止める。
ヴィルの腕の中心、植物が広がる放射線の中心には、黒々とした黒点があった。光すら届かない深い深淵は、〈パズスの虫籠〉として保持じていた能力の核だ。古き神聖時代の存在が蒐集なんて馬鹿げた目的で産み出した、あらゆる物を取り込む超常の奇跡が今、ヴィルの手の内で輝いている。フィッツジェラルドの存在を構成していた瓦礫は、蔦に触れた瞬間に絡め取られ、抗いがたい力によって中心の黒い虚構の中へ呑み込まれていく。
莫大な力同士が激突する余波で、魔力を孕んだ暴風が周囲に吹き荒ぶ。
金髪を激しく棚引かせ、右腕から溢れ出る凄まじい力にビリビリと身体を震わせながら、ヴィルは自分に凭れさせる相棒に言った。
「見てるかよ、アラン。お前の作品は、最っ高にイカしてるぞ」
「……そりゃ、いつものことだろ」
「っはははははは! ああそうだな! お前は本当に、いつだってオレの最高の相棒だっ!!」
笑い、その笑みをギッと獰猛に輝かせて。ヴィルは爆発的に魔力を引き上げた。彼女の感情の昂ぶりに応えるように蔦が一気に勢いを上げ、押し寄せる瓦礫を逆に食い破って浸食する。フィッツジェラルドが身悶える隙を突き、大砲のように蔦を伸ばして巨体に風穴を開ける。
フィッツジェラルドの膨大な質量は、もはや物の数ではなかった。ヴィルの右腕の吸収能力は文字通りに無限の容量を持ち、片っ端から瓦礫を削り取っていく。
「不可解――損耗甚大、損耗――自分が壊れる分からないまま壊れていく。いやだ、いやだやだやめろ! 消えたくない、分からないまま終わりたくない!」
子供のような悲痛な声を張り上げて、フィッツジェラルドが瓦礫を積み上げた身体を蠢かせた。彼の主体である金属のチューブが、逃げ道を求めて這いずる。
その逃亡を、爆炎と剣戟が遮った。ブレアレストの魔術が広範囲の炎熱でチューブを纏めて焼き払い、風のように疾走したイスラが、長剣で片っ端から切り捨てていく。
「これ以上、何も壊させはしないわ」
「哀悼の意は示そう。諦めて滅びを受け入れるがいい」
「っあ……あああぁぁぁ……!」
逃げ場を失い呆然とするフィッツジェラルドを、ヴィルの放った蔦が貫いた。根を張るように浸食し、瓦礫を削り取っていく。
穴の空いた水槽のように身体が消えていく。自分を構成していたものが失われていく。
「分からない、分からない分からない演算不能懐疑懐疑懐疑。死とは何だ死ぬべき自我はどこにある定義不能僕は私は自分は、何だ、どうなる、いったいどこへ――」
演算機構がエラーで真っ赤に染まる。終わりいく恐怖を感じるのに、そう感じる自分を定義できない。
産まれた時から人間でなく、僅かな肉体すら失い、組み込まれ、壊されたスペルコードの残骸が産んだ自我らしきもの。そんな人炉八四号の残滓が今、音を立てて削られていく。定義できない曖昧な魂が、それでも終わりを直面して悲鳴を上げる。
――自分は消えるのか?
――自分すら定義できないまま。己を見失ったまま
――このまま、何一つ分からずに終わるなんて――
爆炎、剣戟、無限の浸食と吸収。
それら破壊の渦が、ふっと止んだ。
抵抗すら止めて震えるばかりだったフィッツジェラルドが、疑問に身を捩らせる。
自分と認識できるものは、もう一塊の瓦礫しか残っていなかった。核となる金属のチューブは僅かな接続を残すのみで、もはや身動ぎして逃げ出す事すらできない。
意識と認識できるものはもう千切れかけ、度々寸断していた。そのわずかな残滓に、声がかけられる。
「……よぉ、生きてるかよ」
人間と呼ぶには様々な物が欠けた女性が、フィッツジェラルドの前に立っていた。壊れかけて火花を上げる左足で大地を踏みしめ、顔中血塗れの男が左半身を支えている。
二人とも壊れかけだった。あちこち擦り切れ血塗れで、痛みと疲労でボロボロ。風が吹けば倒れ、そのまま死んでしまいそうだ。
そんな満身創痍の状態で、それでも二人はそこに立っていた。疲労でブルブル震える唇を、強気に吊り上げて笑っている。
とうとう一本きりの「人間らしさ」さえ失い、代わりに貰った樹木の右腕を突き出し、女性は言った。
「来いよ。喧嘩しようぜ」
「――――――――」
それは死にかけであることなど微塵も感じさせない、獣のような活力溢れる誘いだった。
己の中の何かが、震えた気がした。定義しえない、けれど始めて疑問の介在しない、確信に近い情動に、フィッツジェラルドが動く。
ガラガラと音を立てながら、瓦礫が盛り上がる。残り僅かな自分を必死に奮い立たせ、あちこち取りこぼし、崩しながら、出来の悪い工作のように悪戦苦闘し――辛うじて人型と言えるような、不格好な形を作り出す。
辛うじて繋いだ瓦礫の足を、前に踏み出す。歩く衝撃だけで身体が崩壊しそうになる。それでも一歩、一歩、前へと進む。
どれだけ遅くても、みっともない一歩でも、目の前の人間未満の彼女は、一度も目を逸らさずに見守り続けている。そこに辿り着きたいという、説明のつかない気持ちが、切れかけの意識を繋ぎ合わせ、足を踏み出させる。
あっという間の、けれど永遠のように感じる時を経て、瓦礫の怪物は彼女の前に辿り着く。
言葉を語る機構は存在しない。
だが、不思議と、やるべき事は分かっていた。
瓦礫を組み合わせた不格好な人型は、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
今すぐに崩れ落ちそうにブルブルと痙攣する、拳とも呼べない瓦礫の先端を、毅然と立つ女性の肩にぶつけた。
ごつ、と小さな音。仰け反らせる力すらない、ただ触れさせただけの、情けない一撃。
それでも、それを受けた彼女は、ふっと唇を綻ばせ、笑った。
「やるじゃねえか、弟分」
瞬間、フィッツジェラルドの中に何かが芽生える。
不明瞭で実体を持たず、今の彼には形容し難く――それなのに余りにも力強く、眩くて、温かい――本能を揺さぶり胎動させる何か。
自分に対して使われた呼称が、壊れるほど苛まれていた迷いを嘘のように吹き消していた。
胸を打つその感情が『己』であると定義した次の瞬間、固く握りしめられたヴィルの拳が、フィッツジェラルドの瓦礫の頭を打ち抜いていた。
瓦礫の人型は、一切の抵抗もなく崩れ去る。
延々と苛まれ続けた疑問に、一つの解が得られた。その充足感を宿し、フィッツジェラルドは、フィッツジェラルドとして、僅かに残った己という自我を、瓦礫と共に風に散らした。