RAVENS   作:オリスケ

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第6話

 

 

 ──文明は、道具と共に進化してきた。

 文明は道具を使って外敵を排除し、土を耕し作物を育て、生活を豊かにした。

 より優れた力を、より手軽に、誰もが使える。文明とはつまり、道具の進化の歴史だ。

 有史以来つねに人々に寄り添ってきた魔法もまた、魔石、杖、魔導書、スペルコードと、道具の進化の歴史の道程に組み込まれている。

 数千年形を変えず在り続けるヒトと違い、道具は常に進歩を続けてきた。道具がヒトに文明の進歩を促した。

 故にこうとも言える──道具とは、常にヒトの手に余るものだ。

 魔具製造に携わる魔導技師は、酒の席になると、自分たちの職業を誇る言葉としてこんな言葉を口にする──救済も終焉も、道具によって齎される。

 現代に於いて、その終焉を司る存在こそが、彼だった。

 玩饗王、ヒドゥン・レイ・スタンリー。

 世界で最も優れ、最も狂った魔具発明家がいま、アランの目の前で晴れやかな笑顔を浮かべて、上機嫌に両手を広げている。

 

 

「テオス・フラナガン! あいも変わらず使い古された魔術を思考停止状態で使い、牛歩のようにとろとろとした進歩を続けているらしい。しかし進歩には違いない、人類の栄華の最先端の空気はやはり心が躍る! そう思うだろう、アラン!」

 

 

 親しげに呼びかける。溌剌な声が、胸を打ち抜かれるような怖気をアランにもたらす。見開かれたアランの目は、ヒドゥンの凄絶な黄金色の目に射貫かれたように動かせない。

 

 

「おいおい、確かにサプライズな登場ではあるけれど、少し驚きすぎじゃないかね。そら、久しぶりのパパだぞ! もっと喜んでくれたらどうなんだ、ええ!?」

「……何を、しに来やがった……!」

 

 

 ようよう、唸るように声を絞り出す。

 動揺から持ち直したアランの胸に沸き上がったのは、烈火のような怒りの感情だった。ギリと歯を食い縛り、視線を刃物のように尖らせて睨み付ける。

 アランの様子に、ヒドゥンは寂しげに眉尻を下げ、肩を竦めて見せた。

 

 

「なるほど、これが反抗期か。僕らには無縁だと思っていたんだがね。趣味も合ったし、確かに魂も通じていた」

「ッどの口が言いやがる、クソ親父! 何をしに来た、今度は一体何を企んでやがる!」

「企むって! おいおいよしてくれよ──決まってるじゃないか。愛する息子の様子を見に来たのさ! どうやら魔具への情熱は失われていないみたいだね。父としてとても嬉しいよ!」

「黙れ! お前に親父面される謂われはねえ!」

「そうツンケンするな。どれ、魔具も持ってきているんだろう? 即席の授業参観だ。お前の傑作を、パパに見せてくれたまえ!」

 

 

 次の瞬間、壁面のコンクリートが粉々に砕け散り、ヴィルが飛びだしてきた。弾丸のような速度で飛びかかり、義手の左手を振りかざす。

 

 

「くたばれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 

 これまでと比べものにもならない、混じり気のない殺意を噴出させた、全身全霊の拳。

 それを、ヒドゥンの背後にいた巨人が受け止めた。

 衝撃を何倍にも増幅させて放出する左手の機構が発動するも、巨人は腰から金属のチューブを突き出すと、それを地面に突き立ってアンカーとして、衝撃を真っ正面から受け止めた。

 凄まじい爆発が立ち込めていた土煙を吹き曝し、巨人の姿を露わにする。

 それは人ではなかった。拳の先から胴体も、恐らく内臓にかけても、全てが艶やかな金属で構成されていた。顔は鷲を彷彿とさせる獰猛な兜で覆われており、その奥に人の顔が存在するかも分からない。金属製の筋繊維を無数に束ねた腕は太く、ヴィルの全身全霊の拳を受け止めて微動だにしない。

 ヴィルの姿を認めたフィッツジェラルドが、突然吼え立つように哄笑した。

 

 

「っははははははははは!! 今日はなんて奇跡が重なる日だ! お前に再開するとは思ってもみなかったよ、三七号!」

「ッオレを、番号で呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 咆哮と同時に、ヴィルは義肢の機構を発動。巻き起こした爆発で上体を捻り、強烈な回し蹴りを巨人に叩き込んだ。拘束から逃れた左腕で、今度こそ吹き飛ばさんと拳を握る。

 その土手っ腹に、巨人の足裏がめり込んだ。ずぐっと内臓がへこむ気配。ヴィルはコンクリートに背中を強かに打ち付け、ぺしゃんこにされた肺から空気を絞りだす。

 

 

「ヴィル!」

「ごほ、ぉ……ああああぁぁっ」

 

 

 唸り声を上げながら、ヴィルは立ち上がる。その腹は痛々しい真っ赤な跡を滲ませていた。溢れた涎が顎を伝い、右肩の『37』の入れ墨が苦しげな呼吸に合わせ上下する。

 ぱち、ぱち、と乾いた拍手。うっとりと恍惚な表情のヒドゥンが、にこやかに唇の端を持ち上げる。

 

 

「素晴らしい、素晴らしいよアラン。今僕は、君が産まれて以来最高の喜びに打ち震えている! 僕の息子が、僕の作品と共に、魔具義肢として活躍しているなんて! ひと目見れば分かる、アレからは君の凄まじい情熱を感じるよ!」

「ッ人を指さして『アレ』なんて言うんじゃねえ! オレはヴィルだ。それがテメエを殺す女の名前だぁ!」

 

 

 傷付いても衰える事のない殺意を剥き出しに、もう一度ヴィルが飛びかかった。豹よりも俊敏な動きで、まっすぐヒドゥンの顔面に拳を突き立てようと迫る。

 その挙動に、再び巨人が食らい付いた。見た目からは想像もつかない速度でヴィルの拳を跳ね上げ、お返しに鋼鉄の拳を突き出す。

 ヴィルは義足の爆轟を起動させ、わざと姿勢を崩した。仰向けに倒れ込んだ、鼻先紙一重の空隙を、鋼鉄の腕が薙ぎ払う。ヴンッ! という猛烈な空気の唸りはまるで大砲のようで、ヴィルの頭骨などスナック菓子のように砕いてしまうに違いない。

 

 

「しゃらくせえ!」

 

 

 ヴィルは姿勢を崩した格好のまま、左手の義手で地面を殴りつけた。

 衝撃がヴィルを跳ね上げる。真上に突き上がるような軌道。ぐっと折り曲げた金属の膝が狙うのは、巨人の顎。

 ヴィルの天才的な戦いの本能によって繰り出された一撃に対し、巨人は驚きも見せずにぐっと上体を振り上げて、鋼の兜で迎え撃った。

 金属同士が打ち合う、目覚ましく甲高い轟音。

 ──その後に響いたのは、ヴィルの膝に亀裂が走る残酷な音と、悲鳴だった。

 

 

「が、ぁぁぁ!?」

 

 

 押し負けたヴィルが、地面に強かに打ち付けられる。その膝には亀裂が走り、ヴィルの流した魔力が溢れてバチバチと魔力光を弾けさせていた。外れた機構が擦れ合う異音がアランの耳にも聞こえる。

 痛々しい悲鳴すらも楽しい観劇だと言わんばかりに、上機嫌なヒドゥンが言う。

 

 

「せっかくだから紹介しよう。三七号、彼はフィッツジェラルド。実に八四号まで数えて辿り着いた、君達『人炉』の完成体だ。さあフィッツ、君のお姉さんに挨拶してあげなさい」

「──了解」

 

 

 低くくぐもった、年齢も分からない電子音が響き、フィッツジェラルドが動いた。巨体を揺らし、未だ横たわるヴィルに迫る。

 

 

「ッ金属木偶が、触んじゃねえ!」

 

 

 迫る巨体に向けて、ヴィルが義手を突き出す。それをフィッツジェラルドが鷲掴みにした。

 あっと思う暇もない。次の一瞬には、まっすぐ伸びたヴィルの左腕目がけ、斧のように重たい肘が振り下ろされていた。

 轟音。破片の舞い散る雨のような金属音。

 木ぎれのように呆気なく、ヴィルの左手がへし折られた。

 自分の身に響いた衝撃が何なのか理解できず、ヴィルは目を丸くして、二の腕の途中から断ち切れて巨体の腕に収まった自分の腕を見る。

 

 

「ッテメ──」

 

 

 激昂したヴィルの次の行動を、フィッツジェラルドは完璧に予想していた。義足の爆轟を唸らせて飛び上がったヴィルの義肢に、持ち上げた足を振り下ろす。

 杭を打ち込むハンマーのような一撃が、ヴィルの膝から先の金属をもぎ取った。砕け散った破片が痛々しい音を立てて舞い散る。

 

 

「うあああぁぁ!?」

 

 

 直接の痛みはない。だが余りに呆気なさすぎる四肢の喪失は、ヴィルの精神を大きく揺さぶる。バランスを崩し地面に倒れこむ、その背中を、フィッツジェラルドの足が抑え込んだ。

 めき、と肋骨の軋む音。ヴィルの食いしばった歯から苦悶の呻きが零れ出る。一本だけになった義足も踏みつけられ、抵抗すら許されない。

 

 

「ご、ぁ……!」

「ヴィルッ!!」

「ああ、よしなさいアラン。危ないから」

「相棒を離せ、化物が!」

 

 

 弾かれたようにアランが飛び出した。ポーチから取り出した球形の魔具をフィッツジェラルド目掛け投げつける。

 フィッツジェラルドは視線すら寄越さなかった。彼の肩の筋繊維を構築していたチューブが、突然生き物のように蠢き、投げつけられた手りゅう弾を絡め取ったのだ。続いて巻き起こった爆発の威力は全てチューブに吸収され、破片の一つも溢さない。

 

 

「な──がうっ」

 

 

 目を見張るアランの鳩尾を、蛇のように飛びだしたチューブの束が穿った。まるで小石でも蹴るように、アランは呆気なく吹き飛ばされる。

 

 

「だから言ったのに。一介の魔導技師なら、只人が道具に勝る訳がないと分かるだろうに」

 

 

 勝手に転んだヤンチャな子供に呆れるように、ヒドゥンはこともなげに言う。

 それから彼は、踏みつぶされたヴィルと、周囲に散らばる部品を眺め、ほう、と考え深げに息を漏らした。

 

 

「戦闘義肢としては脆いな。けれど稼働性には目を見張るものがある。相当丁寧にスペルコードを編んでいるね」

「っかは……は、なぜ。この……ぉ……!」

「もっと詳しく見たいな。フィッツ、()()()()()()()()()()()()()

「了解」

 

 

 フィッツジェラルドは短い応答を一つだけ返した。それがどれほど残酷極まる命令かを理解した上で。

 鋼鉄の腕がヴィルの残った義足の足首を鷲掴みにすると、それに凄まじい力を籠め始めた。

 メリ、と裂ける気配。ヴィルがぞっと顔を青ざめさせる。

 

 

「な、待て……ふざけんな、オイ!」

「────」

「ぁ、ぎ……待てって……! あ、よせ、やだ、やめろ、やめろ、やめろってば!」

 

 

 身を捩り、叫んでも、機械の巨人の動きは止まらない。力は微塵も揺るがない。

 そしてとうとう、メリメリと裂ける感覚が臨界点を迎え、ちぎれる。

 金属の義肢が、太腿の肉ごと引き抜かれた。

 

 

「っがああああああああああああああ!? っああ、う゛あ゛あああああああああああっ!」

 

 

 ちぎれた腿の断面から鮮血がほとばしる。皮膚を強引に裂き、接合部ごと肉をもぎ取られる想像を絶する痛みに、ヴィルが吼えた。

 身悶えする右腕一本になった女の体を、フィッツジェラルドが蹴り飛ばした。壁にぶち当たり、ガクガクと痙攣する彼女にはもう目を向けずに、引き抜いた義足をヒドゥンへ差しだす。

 

 

「ふむ……スペルコードは七四〇〇語といった所か、手書きの記述は相当苦労しただろう。手の回らない所は大胆に省略し、結果的に稼動の自由さに繋がっているね。うん? 節に骨材を使っているのか? ──ああ、なるほど資金に制限があるのか! コストパフォーマンスまで追求しているなんて凄いじゃないか!」

 

 

 ヒドゥンはとうとうと語る。こびり付いた腿の肉もボタボタと滴る鮮血もまるで意に介さずに。まるでテストの採点のように、それが親子の最良の交流だと言うように。

 

 

「荒削りで雑さムラさがあるが、それをカバーするだけのセンスがある。何より節々に、魔具に真摯に向き合った情熱が見られる! やはり君も優秀な魔導技師だよアラン! まったくスタンリーの血は争えないね!」

 

 

 諸手を挙げて喝采したヒドゥン。彼が持った義足の血がぱたたっと飛び散る。

 ようよう起き上がったアランが、凄まじい剣幕でヒドゥンを睨み付けた。

 

 

「黙れ……俺の魔具を、お前のようなクズの道具と一緒にするな……!」

「恥ずかしがることはない。お前は僕と同じだよ。だってスペルコードの筆致さえ似通っている。素材の組み方からスペル構築のクセに至るまで、類似点を列挙してあげようか?」

「ふざけんな! 俺は街を、皆を救うために魔具を作っているんだ! お前みたいに道楽で人を殺したりなんかしない!」

「ああ、違う。それは違うよアラン。道具にあるのは用途だけで、正義なんて後付けの呼称に過ぎない。まして人の生死や倫理感なんて脆い観念で付けられた善悪に、どれほどの価値があるというんだ。魔導技師なら理解して然るべき初歩中の初歩だぞ?」

 

 

 今まさに一人の四肢を三本潰し、善悪の観念など存在しないと自称せしめた男は、無念そうに首を振り、籠手に覆われた左手の人差し指を一本立てた。

 

 

「いいかいアラン。用途こそ万物を測る不変の価値だ。その点に於いて、今の文明はまだ塵芥の価値しか有さない。このフラナガンの街が孕む価値なんて、そこに転がる神代の玩具にも劣るのだよ」

「──アラン、そのクソに虫籠を渡すな!」

 

 

 ヴィルの声に、アランがハッと呼び覚まされる。〈パズスの虫籠〉は眼前、ヒドゥンの足下にある。

 アランは意を決して飛びだした。背負っていた盾を構え、ヒドゥンに向けて突進する。どこにでもぶち当たれば、巻き起こった衝撃波がヒドゥンを吹き飛ばせる。

 ここは建設中の高層ビルの中。外まで弾き飛ばされれば数十メートル下まで真っ逆さまだ。アランにとって目の前にいる男は、それを考慮するに値しない程に憎い敵だった。

 アランの怨敵は、歯を食い縛り突貫する彼に向けて、やれやれと肩を竦めてみせる。

 

 

「礼儀がなってないぞアラン。パパの話は最後まで聞きなさい」

 

 

 そう言ってヒドゥンは、籠手に覆われた左手を翳した。

 盾と籠手が激突する。バウンサーフォングの皮膚が衝撃を受け、何倍にもして放出する。

 その一瞬前、アランはヒドゥンの籠手が淡い白色に光るのを見る。

 その後、視界は意味を失い、意識が一瞬ブラックアウトする。

 衝撃が盾の内側で巻き起こり、盾を粉々に吹き飛ばしたのだ。全身を打たれる痛みとともに、アランが遙か後方へと吹き飛ばされる。

 

 

「がっ……は……!?」

「自壊率二%か。シンプルな盾でこれとは、大分急造だね? 忙しいかもしれないが、手を抜くのは技師としてはいただけない。作品全てにこだわりを持ってこそ一流だよ、アラン」

 

 

 何が起きたのか分からなかった。いや、何かは分かる。魔具の暴発だ。でも何故? まるで魔具が、ヒドゥンの手によって意図的に暴発したみたいだ。一体奴は何をした? 痛みに混乱する脳に、疑問がぐるぐると渦を巻く。そしてヒドゥンは疑問に答えるような優しさを持たず、痛みが引くまで待つ余裕も与えない。

 ヒドゥンは傍らに転がっていた〈パズスの虫籠〉を手にすると、アランに言う。

 

 

「そうがっつくんじゃない。そんなに血眼にならなくてもいいよ、何故ならこれは、君のために用意した聖骸なのだから」

「……俺の、ために……?」

「そうとも! そもそもテオス・フラナガンに来たのだって、お前に会うためなんだから!」

 

 

 呆然と目を見開くアラン。ヒドゥンが凄絶な黄金色の目を愛おしげに細め、彼を見据える。

 

 

「正直不安だった。徒労に終わる覚悟もしていた。だって僕の元を離れて十年になるんだ。ちゃんと生活できているだろうか、理解者は得られているだろうか、魔具に嫌気が差していたらどうしようと悶々としたものだが……蓋を開けてみればどうだ! 君はこの街で魔導技師として在ってくれた。まるで父の後を追うように!」

「ッ──」

「魔具の技術も良い。見たところ、三七号のスペックを四一%まで引き出している。独学であの義肢を産み出したとすれば賞賛に値する。背後の血の滲むような努力を思えば涙が溢れそうになるよ!」

 

 

 そうしてヒドゥンは、両手を広げて喝采した。アランの前に立ちはだかるようにして、凄絶な瞳で睥睨する。

 

 

「合格だ! 僕はお前の中に、魔導技師として更なる高みに登る資格を見た! お前ならきっと、世界の根幹に至るだけの素質がある! なぜなら僕の息子なんだから!」

「っダメだ、アラン……飲まれるな。逃げろ……!」

 

 

 血の池に全身を横たえながらヴィルが言う。アランは答えられない。視線を逸らす事さえできない。言い知れない恐ろしい何かが眼前に迫っている事を悟り、身体が震える。

 アランに残されたのは、魂だけ。

 煮えたぎる怒りの炎を目に宿し、せめてその恩讐を、ヒドゥンに突きつける。

 

 

「俺は、アランだ。アラン・レイ・スタンリー……フラナガンを守る《レイヴン》の一員だ」

「……」

「お前の息子だ。だけど、お前みたいな狂人と一緒にするな。俺はお前とは違う。お前をぶちのめす事を心に誓った、正義の魔導技師なんだ……!」

 

 

 ギリ、と割れんばかりに歯を食い縛り、凄絶な笑みを真正面から睨み付ける。

 父はそれを、柔らかな微笑みで受け取った。未熟さや虚勢さえも愛おしいと言うように。

 

 

「情熱、義憤、そして未知への畏れ……燃えるようなそれは、人を前へと進ませる良い力だ」

 

 

 そう言ってヒドゥンは、手にした〈パズスの虫籠〉の蓋を開き、アランに向けて翳す。

 神代の魔具の内部にある真の虚空を、アランは目にした。

 

 

「君ならきっと、地獄のような試練を乗り越え、僕の域に登り詰められるだろう。期待しているよ、我が息子よ」

 

 

 果てしない黒に、アランの意識は釘付けになる。

 それは無だった。何者の存在も許さない、真の無からなる闇。

 その無に引かれていく。視界がぐっと引き寄せられるような感覚がし、黒一色に塗り潰される。あらゆる感覚が引き延ばされ、希釈されていく。己を構成する全てが黒の中に落ちていく。引きずり込まれる。底の無い闇に落ち、落ち続け、小さくなっていく。

 彼の身に訪れたその超常の恐怖を、傍らに倒れていたヴィルは認識する事すら叶わない。

 瞬きの内に、アランの姿は消えていた。虫籠の内側がアランに向けられたとほぼ同時に、彼は消滅していた。そよ風程度の余波さえ残さずに。

 

 

「……、…………は」

 

 

 時を飛ばされたような不条理な光景に、声にならない息の漏れがヴィルの喉を鳴らす。

 ヒドゥンが〈パズスの虫籠〉を閉じ、一度その表面を愛おしげになぞる。

 それから彼は踵を返し、フィッツジェラルドの肩を叩いた。機械仕掛けの巨人が、彼を肩に乗せる。

 

 

「さあ行こうフィッツ! 仕事はまだ沢山あるぞ、次は君の披露宴の準備だ!」

「了解」

「な……待ちやがれ! アランをどこにやった!」

「なに、運がよければすぐに会える。それまでお前も元気でいてくれ、三七号! お前に会えた事は嬉しい驚きだったよ!」

 

 

 血相を変えたヴィルが吼えるも、ヒドゥンはそよ風のように聞き流す。

 冗談のように晴れやかな笑顔。それにめり込ませるための腕も、足もない。唯一残された右腕を必死に動かしても、上半身をずりずりと引き摺り、冷たいコンクリートに血の染みを広げるだけだ。

 

 

「クソ! ふざけんな、戻ってこい! 俺と戦え、アランを返せクソッタレぇぇぇぇぇぇ!」

 

 

 声を大に叫んでも、戦う術を持たないヴィルにとっては、虚勢でしかない。

 機械仕掛けの巨人に乗った玩饗王が、ビルから飛び降り、姿を消す。

 朝日の差し込む煤けたコンクリートの洞穴に、ヴィルの咆哮が虚しく響き渡った。

 

 

 

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