「とりあえず扉は開けたままにしておくから」
そう言って俺は扉を全開にした。部屋の窓も細く開けてあるので、風の流れをかすかに感じる。
「もう大丈夫だって言ってるでしょ。そんなことより早く始めてよ」
「じゃあ座るけど、いい? キツそうだったらすぐにやめるからね」
「ありがと。でも本当にもう大丈夫だから。変に気遣われるほうがやりにくいんですけど」
菜々花はむっつりと腕を組んで、そんな憎まれ口を叩いた。けれど、俺が菜々花の目の前に座ると、少しだけ体を強張らせたのがわかった。口元にも緊張が見られるが、それを不機嫌さで上書きするように口をへの字に曲げた。
「菜々花は相変わらずだね」
「なんのことよ」
「ええと――男嫌いのこと」
「はあ? うぬぼれないでよね。男がどうとか関係ない。私はリーダーに対してこうなだけ」
「そっか。素直じゃないのはツンデレキャラってやつのせいだっけ?」
「男って他人を自分に都合よくカテゴライズするのほんと好きよね。そういうのキモいから」
「わかったわかった。じゃあ話を進めるけど、最近お父さんについてはどう?」
「なんでここでアイツの話になるのよ」
菜々花はギョッとしたような顔を浮かべた。父親の話に慣れていないせいだ。菜々花の心が準備できるまで黙って待っていると、何度目かの深呼吸の後、菜々花は口を開いた。
「そうよね。そういう目的の会話なんだから、避けては通れないか」
「うん。慌てなくていいから、ゆっくりやろう」
「一応ありがとうって言っておく。父親の話よね――そうね、別に変わらないわ。嫌いなものは嫌い」
「じゃあ男嫌いはどうかな。少しはましになったって言っていたけど」
「それも相変わらずよ。リーダー以外の男は苦手なまま」
「苦手?」
「うん。怖い」
「そっか。菜々花は俺なら大丈夫と思ってるんだね」
「現にこうやって話せてるじゃない。これが証拠」
「菜々花は俺を使って男嫌いを克服しようとしていたよね。その効果があったってことかな」
「そういうことになるわね」
「じゃあ試してみようか。ちょっと立ってみて」
「何するつもり……?」
俺は席を立って菜々花の隣に立ち、菜々花にも立つよう促した。そして両手を広げた。
「俺の体を使わせてあげるから、試してみてよ」
「試すって何を?」
「なんでもいいけど、とりあえずハグからかな」
「嘘でしょ。リーダーと抱き合うとか嫌すぎるんですけど」
「その嫌悪感を切り分けようって話。好きでもない他人との触れ合いが嫌なのか、俺のことが嫌なのか、男嫌いに由来するものなのか」
菜々花は奥歯を噛み締めながら立ち上がり、しばらくためらってから、意を決して俺の胸に身を預けた。預けたといっても両手を体の脇で固く握りしめたまま、顔はよそを向いている。
「はいどうぞ。抱き締めたいならすればいいじゃない」
「じゃあ腕を背中に回すからね」
俺はそう告げてから菜々花の背中に腕を回した。菜々花は相変わらず棒立ちのままだ。
「菜々花も俺の腰に腕を回してみて」
「……」
「菜々花?」
「わかってる! わかってるからあんまり急かさないで!」
菜々花の怒鳴り声がくぐもって響いた。それから、菜々花はおそるおそる俺に腕を回した。体に力が入っているのは抱き合うことに慣れていないからじゃなかった。
「どんな気持ち?」
「すごく嫌。一刻も早く離れたい」
「そうなんだ。俺は菜々花に触れていてすごく落ち着くよ」
「それはリーダーが特殊なだけでしょ」
「じゃあ想像してみて。相手が俺じゃなくてきららだったら?」
「きららなら平気。というか結構ふつうにハグしたりするし」
「君たち本当に仲良くなったよね。俺はリーダーとして鼻が高いよ」
「はいはい、その節はどうも!」
「じゃあ他の男だったらどうだと思う?」
「思い切り蹴り飛ばしてるわよ」
「もし仮にその男がお父さんだったとしたら、きっと菜々花は何もできないと思う。自分は人形になったんだって、そう言い聞かせてごまかして、心と体が離れてしまうんだ」
「そうかもね。でもリーダーは違う。私にはリーダーしかいないってワケ。だから、私の男嫌いをなおしてよ」
菜々花は俺の腕を振り払い、縋るような目を向けた。
俺たちは菜々花の男性恐怖症を克服するためという名目で、しばらくデートを重ねていた時期がある。お互いに気持ちがあったわけではなかったが、はっきりいうと付き合っていたのが実態だ。けれど、当然だが交際している二人に訪れるロマンティックな出来事などはない。あくまで菜々花が男慣れをするというのが目的だった。二人で過ごす時間が増えるうちに菜々花の態度も変化していったが、それは俺に慣れただけであって、他の男に対しては相変わらず恐怖と嫌悪を滲ませていた。
つまり菜々花にとって俺は男でも女でもない、ちょうど真ん中くらいの存在でしかないということだ。俺に慣れたところで菜々花の男性恐怖症になんの影響もないだろう。だから、俺しかいないという菜々花の思い込みは危険だ。今の菜々花は俺に依存しようとしているだけだし、もし俺から離れたとしても次の依存先を探すだけだ。そして菜々花の魅力があればそれはたやすく見つかるだろう。
「菜々花はさ、男が嫌いなのにずっと男がいる環境に身を置いてきた。そのせいで、ただでさえ弱ってた心がもっと傷ついてるんだ。今の菜々花に必要なのは穏やかでストレスのない安心できる環境、嫌なことを考えなくて済む環境。つまり周りに男がいない環境なんだよ」
「そんな世界がどこにあるのよ」
「だから、菜々花が俺を使って男に慣れるって方法自体が間違ってたんだ」
「だから何? 私にとって男はリーダーだけ。それ以外は人間ですらない。私に選択肢なんかない」
「嫌いなものをずっと食べ続けてたらアレルギーみたいな拒否反応を起こすだろう。それと同じことになる」
「男のことなんて大嫌い。でもリーダーがいなくなるのは嫌なの!」
「大袈裟だよ。俺は別にいなくなったりはしない」
「そんなのは綺麗事よ。男と女が一緒にいるためには付き合うしかないじゃない。私はリーダーを繋ぎ止めるためならなんだってする」
菜々花がそう息巻いた。一歩も引かないぞと態度で示していた。だから俺はシャツを脱いで上半身裸になった。
「ちょ、ちょっとリーダー! 何してるのよ!?」
「菜々花の言う男女の関係ってやつを知りたいからさ。菜々花も知りたいだろ。早く上着脱いで。なんなら手伝うけど?」
俺が冷たく言い放ってやると、菜々花は顔をぐしゃぐしゃに歪めて、憎しみのこもった目を向けた。
「いいわよ。やってやろうじゃない」
半ば意地になったように、菜々花は制服の脇に隠れているファスナーを上げ、脱いだ上着を椅子の背もたれに掛けた。インナー姿になった菜々花は胸を隠すように体の前で腕を組んだ。俺が何も言わずに見つめていると、奥歯に力を入れた表情になり、ついにインナーも脱いだ。そして菜々花はブラ一枚で仁王立ちするように俺を睨みつける。
「はい、脱いだわよ! これで文句ない!?」
「合格。じゃあ次はハグね。おいで、菜々花」
俺は両手を広げて菜々花を待った。菜々花は心底嫌そうな顔を浮かべて、俯いたまま俺の胸に顔を付けた。俺は菜々花の肩の上から背中に腕を回した。体に直に触れると、菜々花はさらに体を固くした。
「どう、落ち着く?」
「そんなわけないでしょ。早く終わってほしい」
「俺は落ち着くよ。人肌に触れると安心する」
「……。で? 次に私は何をさせられるわけ?」
菜々花の恨みがましい声が懐からくぐもって響いた。俺は菜々花を胸に抱いたまま少し押して、机の上に腰を下ろすよう促した。菜々花は割と素直に机の上に座り、俺は菜々花の足の間に立った。菜々花は足を閉じようとしたが、構わず体を菜々花に寄せた。
「これが菜々花の考える男女の営みでしょ。俺なにか間違えてるかな?」
「……間違えてない」
俺は菜々花の背に手を回して、机の上にゆっくりと寝かせた。俺が菜々花の上に覆い被さる形だ。菜々花は足をしきりにもじもじとさせていて、俺の視線から逃れるように上半身をくねらせた。
「痛い?」
「痛くない」
それから菜々花の口元に顔を寄せると、菜々花は顔を横に向けてキスを拒んだ。すると菜々花の形のいい耳と暗い穴が目の前に見えた。
「キスはしないんだ?」
耳元で囁く格好になり、菜々花は気持ち悪いものを見たときのように肩をすくめた。
「やりたいんでしょ。早くやりなさいよ」
「菜々花の望んだことじゃなかったっけ?」
「どうでもいい」
横を向いた菜々花の頬をすくい上げるように触れると、俺の手を避けるように反対側に顔を向けた。菜々花の肩から脇腹に手を這わせると、触れたところにびっしりと鳥肌が立った。菜々花の肩を抑えて、スカートの中の下着に俺の下半身を押し込むように当てると、菜々花は両手で顔を隠した。
「菜々花、どうしたの」
「うるさい!」
「まだ何もしてないよ?」
「あんた変態なわけ!? こんないじめるような真似してないで早く終わらせてよ!」
そう叫ぶ菜々花の声に怒りよりも恐怖や悲しみのほうが多く混ざっている。顔から手を引き離してやると、菜々花はボロボロと涙を流していた。
「菜々花はさ、気の強さが長所でもあり短所でもあるんだよ」
「どういう意味よ」
「俺の方が気が弱いってこと」
俺は菜々花の上から離れて、インナーを菜々花に手渡した。
「なによこれ。しないの?」
「できるわけないだろ」
「あんた何言ってるのよ。じゃあ私はなんのためにこんな思いをしたのよ!?」
「セックスをするとかしないとか、それ以前の問題なんだよ。菜々花は俺を男として拒絶してる。自分でそれを認めないと始まらない」
「そんなこと言ったって、あんたに他に女ができたら私のことが邪魔になるでしょ。だから私はあんたの彼女になるしかないの」
「それがたとえ自傷行為のようなものだったとしても、俺を繋ぎ止めるためならやむを得ないって? 俺は菜々花が男性恐怖症を克服できるかもしれない唯一の可能性だから?」
「そうよ。今はこんなだけど、あんたとしてるうちに慣れてきて克服できるかもしれない。それとも私を抱く勇気が出ない?」
「あのさ、菜々花。それはセックスに慣れるだけで、克服とは違うと思うよ。どんなに殴られ慣れても痛いものはずっと痛い。それと同じ」
「正論言わないで。ダメかどうかは試してみなきゃわからないじゃない」
「試してダメだったら菜々花の心に取り返しのつかない傷がつくだろ」
「私がいいって言ってるんだから、あんたは黙って腰を動かしてればいいのよ」
「うん。菜々花が言うように、そんな関係を続けたら本当にそうなると思うよ。きっと菜々花は自分の体で男を支配しているって考えに囚われてしまう。男なんて馬鹿ばかりだ、やらせてやればすぐに尻尾を振る、セックスなんて大したことない、自分はもう男性恐怖症を克服したんだって」
「別に、それで私が楽になるならいいじゃない。何か問題でもあるわけ?」
「菜々花はきっとこう思う。だから父親なんて大したことない。所詮は浅ましい『男』に過ぎないって」
「今だってあいつのことはそう思ってるわよ」
「それじゃあ恐怖症と嫌悪感は消えない。それどころか、男に縋ってる状態でしかない。嫌いな『男』に縋っているから、父親の呪いは強くなる」
「あんたが何を言いたいのか、全然わからないんですけど?」
「菜々花が解放されるには、父親を許すしかない。そして傷ついた自分も許すんだ。そしていつか忘れてしまえばいい。過去は決して消えないけど、一生支配されてやるほど価値のあるものじゃない」
「……あいつを許すなんてできるわけない」
「うん。できるわけない。だから距離を置かなくちゃいけない。前に菜々花は暴露療法だなんて言って俺を使ったけど、そんなものに逃げていないで、ゆっくりと時間をかけて治すんだ」
「あのときはあんたも計画に乗ったじゃない」
「軽率だった」
「……本当にそれだけなの?」
「方法は悪かったけれど、菜々花と親しくなれて良かったと思ってる。それに、あのときの菜々花と仲良くなるには他に方法はなかっただろうし」
「悪いことばかりじゃなかったって言ってくれてよかった」
そう言うと菜々花はようやく手に持ったままのインナーを着た。それから椅子に掛かっている上着に手を伸ばした。
「正直に言う。あんたと抱き合って、あんたに触れられて、人肌が落ち着くって意味が少しだけわかっちゃったの。それがすごく気持ち悪くて、自分のことが許せなくなりそうだった。これがもし治るのだとしたら、そこにどんな世界が広がってるんだろうって思う。私の前に現れたのがあんたでよかった、あんたがいてくれて良かった――いつかそうやって言いたい。だから、私のそばにいてよ」
「いるよ。いなくなったりしない」
「本当に?」
「もちろん。菜々花は何も悪くない。菜々花は一人きりでずっと頑張ってた。菜々花はもうひとりじゃない。大丈夫だよ」
そう言うと、菜々花の大きな瞳から涙が一筋零れ落ちた。それをきっかけに床が大きく揺れて、空気が割れるように振動した。そして沖に菜々花のココロトープが現れた。灰色の砂利の上にところどころ雑草の生えている空き地のような土地と、そこに建っている二階建ての古びたアパートが菜々花のココロトープだった。
「あれは私の家ね。それもかなり昔――私が子供の頃の家。あの中に、きっと私が一人でいるのね。思い出すなあ。辛い。怖い。悲しい。ムカつく。あの頃の私にはそんな思い出しかない」
「きっと菜々花は昔の自分に会いに行くんだね」
「あのさ、リーダー。私はいまはこんなだけど、十年後にはちょっとはマシになってるよね?」
「当然だろ」
「言ったわね。信じるから。だからリーダーも逃げずに付き合いなさいよね」
「わかった。約束」
「約束」
そして俺と菜々花は小指を絡ませて約束を交わした。それから菜々花は両肩を回して、手強いであろう自分のココロトープを睨みつけた。