ノックもなく静かに扉が開いた。そして、少し俯いたままのアレシアが無表情のまま引き戸のレールを跨いだ。
「あまり気が進まないわ」
アレシアはぽつりと言って、静かに椅子に腰を下ろした。
「前にも言ったと思うけど、私は死を受け入れているし、歓迎もしている。そんな私からココロトープなんて現れるはずがない」
アレシアは言い終えてから深いため息をつき、机に落としていた視線を俺に向けた。
アレシアはこの世界に生きている大勢の人間と同じように、愛する人との悲しい別れを何度も経験している。それを受け入れるためか、死は平等であり、灰は平等をもたらすものだとの考え方を持っている。この考えはアレシアの信じる宗教の影響でもあるから、考えを変えてもらうというのは難しいのかもしれない。けれど、アレシアの抱える孤独は彼女の死生観からのものだけではないような気がしていた。アレシアはもっと深い孤独を抱えているという確信がある。
「思い出すよ。詩帆とのエーテルスワップでアレシアが死にかけたことをさ。あのあと詩帆が寝ずに看病していて、アレシアは一命を取り留めたんだっけ。君たちの強い繋がりはあの一件がきっかけだったね」
「そうね。何故かしら。エーテルを交換したことで私の中の何かが変わったのかも」
「何がきっかけになるかなんてわからない。君たちが強いバディになってくれてよかったよ」
「そうね」
「遡ると、アレシアが詩帆からもらった星の砂を捨てたことがきっかけだからね」
「あら。よく知っているのね」
「当たり前だろ。詩帆の買い物に付き合わされたんだから」
「へえ。詩帆とずいぶん仲が良いみたい。自慢かしら?」
「アレシアにはこれが自慢に聞こえるんだな」
「……別に。さあ、本題に入りましょう」
アレシアがルーマニアに伝わる古い話を俺に語ってくれたことがある。ある独身の羊飼いが命を狙われていて、遺言を羊に託す話だ。
その羊飼いは、もし自分が死んだら残された家族には結婚して遠くに行ったと伝えて欲しいと言った。
これはアレシアの信じる宗教が、人生に必要なものは洗礼と結婚と死であるとしていることから、羊飼いは死ぬ前に結婚したから人生を全うできたのだと、残された者に伝えるのが目的の遺言だそうだ。羊のミオリツァの物語として広く知られている物語ということだ。
アレシアも同じように考えているようで、彼女の買い物に付き合わされたときにウェディングドレスの店に立ち寄っていたことを思い出す。結婚するまで自分は生きていられないと悟ったアレシアが、死後に着せて欲しいドレスを俺に見せていたのだ。
けれど違和感が拭えない。はっきりいってアレシアは美人だし、それに部隊が強くなり、エーテル枯渇によるクイーン化のリスクも減ったのだから、死後のことを考えるより生きて結婚することを願ったほうが合理的に思える。なにも諦める必要なんてないのだ。最後の願いとして俺にドレスを託したのなら、俺も責任持って看取る覚悟はあった。けれど、あのときのアレシアからはそんな前向きな思いを微塵も感じなかったのだ。
そして、俺はその理由に心当たりがあった。
「――洗礼と結婚と死によって女の人生は完成する。それが主の教えよ。愛する者たちはみんな神の御許に召された。だから次は私」
「でもアレシアはまだ結婚していないじゃないか。諦めたのかな?」
「リーダーは忘れてしまったのかしら。一緒にウェディングドレスを選びに行ったでしょう。死んでしまってもドレスを着ることで既婚者とみなされて、私も天に召されることができるのよ。みんなそうして送られたの」
「それなら結婚するまで生き延びることを考えたほうがよくない?」
「……」
アレシアの瞳にはっきりとした怒りの色が浮かんだ。そのほかに軽蔑や絶望のような暗い光を宿した複雑な目で俺を睨みつけた。
「ごめん。意地悪な言い方をしたね」
「それがどのくらいひどい言葉なのか、本当に理解している?」
俺は覚悟を決めた。
これから言うことは、アレシアを追い詰め、心の中に土足で踏み込み、大切なものを勝手に引きずり出して、彼女を深く傷つけるものだ。
けれど他の方法を俺は知らない。憎まれても仕方がない。俺は、俺のエゴをアレシアに捩じ込んでココロトープを吐き出させなくちゃいけないからだ。
「理解してるよ」
俺が口を開くと、アレシアの体が強張った。けれど、アレシアの瞳にどこか期待するような光が浮かんだような気がした。
同性愛は聖書で否定されている。ゆえに現在でも多くの国で禁止されている。これが俺たちの生きる世界の現実だ。日本でもそうだし、ルーマニアはもっと厳しい。
そしてアレシアはカミングアウトこそしていないが、ほぼ間違いなくレズビアンだ。そう考えると今までのアレシアの行動すべてに合点がいく。
アレシアにはロマの少女の幼馴染がいた。ロマというのはジプシーの言い換えだ。差別的な呼称を避け、今ではロマと呼ばれている。ジプシーは差別的な扱いを受けることが多く、ルーマニアではツィガニと呼ばれている。余所者という意味合いの言葉らしい。アレシアが幼馴染のロマの少女をツィガニと呼ぶのは、アレシア自身も世界から疎外されているような孤独を抱えているからだろう。アレシアは日本人の父とルーマニア人の母から生まれたミックスだ。この両親から生まれる子は多くが黒目黒髪になるのだが、アレシアは金髪碧眼に白い肌で生まれた。誰にも似ていない容姿だ。そんな自分をミックスではなくハーフと自称するのも孤独から来るものだったのだろう。
アレシアの元バディである亜美は、アレシアが自らの手で殺したと言った。クイーン化してしまったのだから仕方がないとしても、誤解を生みかねない表現だ。なぜそんな表現をしたのだろうか。どんな思いで自ら手にかけたのだろうか。その役を他の誰にも譲りたくなかったからかもしれないし、亜美自身が望んだことなのかもしれなかった。ただひとつ言えるのは、アレシアは亜美に特別な繋がりを感じていたのだろうということだけだ。それこそ幼馴染のロマの少女と同じくらいに。その痛みを、アレシアは誰にも見せずにいる。
そんなアレシアが人生を全うするには、男性と結婚するか、独身で居続けるかしかない。レズビアンであるアレシアが女性と結婚して人生を完成させるというささやかな願いは、宗教や法律や倫理で禁止されている――こんなことが罪になるのが俺たちの生きる世界の現実だ。
「アレシアがドレスを着た姿をみんなに見せてあげてもいいんじゃないかな。きっとすごく綺麗だと思うよ。そして、アレシアも隣に立つパートナーも幸せそうに笑ってるんだ。そんな未来を想像してみてよ」
「あら。覚えていてくれたのね」
「忘れるわけがないだろう。あの後ちゃんと調べたんだ」
「そう……。褒めてあげるわ、リーダー。そうね、心残り」
「アレシアは死ねればそれでいいだろうけど、残された俺たちはどうなる。残される者の痛みはアレシア自身が誰よりもよく知っているだろう」
「その痛みも私ほどではないでしょう。だから、私のことなんか忘れるように努力しなさい」
「アレシアは、ギリシャで同性婚が法的に認められたのを知ってるかい。ローマ教皇は司祭が同性カップルへ祝福を与えることを許可したよ。世界はとてつもない速度で変化していってる」
「もちろん知っているわ。そして、議論は割れているし、それが争いの種になっていることも」
「けれど、もう変化してしまったんだ。変化はどんなに逆らってももう戻りはしない。日本ではまだ同性婚が認められていないけど、一方でパートナーシップ制度はほとんどの自治体が認めている。アレシアは好きな人と暮らす上で婚姻と同等の権利を得られるんだ」
アレシアの表情が少しだけ変わった。言葉は口にすることで強さを増す。共感する相手がいればさらに強く、それが本当の思いであれば具体的な力となる。アレシアが自分の口で言えないなら、俺が代わりに言う。
けれどアレシアは思いを振り払うように首を振った。
「でも愛する人と結ばれないなら意味がない。そもそも私のような人間が愛し、愛される人と出会えること自体が奇跡的な確率なのよ」
「アレシア。君はワンナイトの相手を欲しがっているの?」
「それもいいわね」
「茶化さないで」
「……ごめんなさい。リーダーの意図はちゃんとわかっているの。でも反抗したくなってしまう。あなたのように何の咎めもなく暮らしている人が妬ましい」
「俺はまだ誰とも付き合ったことがないけど」
「何言ってるの。よりどりみどりじゃない」
「それだと性が合えば誰でもいい、みたいな言い草に感じるけど?」
「合うかどうかなんて付き合ってみなくちゃわからないでしょ」
「それ、自分に好きな人がいたとしても同じことが言える?」
「……」
「言えないよね。好きな人と結ばれるのが一番だもんね。だからそういうことなんだ。誰かと結ばれるのは決して当たり前じゃない。確率がどうとか、そんな問題じゃない。それは君が一番よく知っているだろう?」
そう言うと、アレシアは口を引き結んで黙りこくった。アレシアの胸中にロマの少女、亜美、そして詩帆がよぎっているのかもしれなかった。
たとえ性が合わなかろうと、好きなものは好きなんだ。俺がもしアレシアに恋をしたら、それは悲劇でしかないというのか――そんなはずがない。ごくありふれた失恋にすぎない。
アレシアの孤独は、アレシアの信じる宗教に自分が否定されていることが原因だ。まるで自分で自分を否定するような矛盾を抱えてしまうことになる。もし世界の再構築に成功したなら、アレシアが自分のままで笑えるような世界を俺は望む。
「詩帆はまだ生きているよ。俺が絶対に死なせない。アレシアは詩帆に伝えなきゃいけない思いがあるんじゃないのか?」
アレシアは黙ったまま視線を机の上に落とした。
「死ぬのはその後だっていい。今のアレシアはまるでただ怯えて逃げているだけのようにしか見えない。怯えて、逃げて、ウェディングドレスを着て形だけ人生を完成させたことにする。それもひとつの生き方だろう。
けれどね、アレシア自身がその決断に疑問を抱いてしまっているんだろう。
だって詩帆は生きているもんな。
思い出してくれ、アレシアの願いは『私は自分の人生をやりきった、それでもダメだった、ならせめてウェディングドレスを』という強い思いからの決断だったはずだ」
「リーダーはその言葉がどれだけ残酷かわかっているの? 私に苦しみ続けて生きろと言っているのよ。他人でしかないあなたになにがわかるの!」
「大丈夫だって。アレシアは案外惚れっぽい」
「急になによ。それに、ぜんぜん慰めになってない」
「誰かに恋してるうちは死のうなんて思わないだろ?」
「……」
「それとも、詩帆に恋してるいま、死にたいとまだ思っているのかな?」
「答える義務なんてないでしょう」
「繰り返しになるけど、世界は変わり続けているし、アレシアの恋する気持ちだって消すことはできない。それに、失恋は誰だって辛いんだ。その辛さなら誰とでも分かち合える」
「ふん。死者への痛みも分かち合えるというのかしら」
「アレシア。俺たちはみんな大切な誰かを失って今ここにいるんだよ」
「私は生まれた瞬間から世界に疎外されているの」
「アレシアはもう一人じゃない。わかってるだろ」
「……うるさい」
「残される痛み、悲しみは君が一番よく知ってるはずだ」
アレシアが自ら望んで死ねば、遺された者に痛みと悲しみをもたらす。その相手が詩帆や俺たちだということが、アレシアにとっては無視できない重さになっていてくれればいい。
「はぁ……。リーダーはいつからこんなに口がうまくなったのかしらね」
「必死ですから」
アレシアが諦めたように軽い口調で言った。強張っていた体をやや弛緩させ、椅子に両手をついて、顎を少しあげて挑発的な顔をした。
「リーダーの言葉だけど、ほとんどは虚しく響いた。でも、心が打たれたことも事実。だから協力してあげるわ」
アレシアが言うと、大地が揺れ、空気の割れる音が響いた。突風がアレシアの髪を巻き上げた。アレシアは目を逸らすことなく、沖に現れた自分のココロトープを見つめていた。
沖には荘厳な黒い教会が海面に建っていた。時計台の上に鐘楼のある、ゴシック建築の教会だった。灰のようにも見える雪が絶え間なく降り続いていて、どこか悲しそうな佇まいだ。
「ありがとう、アレシア」
「……それにね、私はまだ詩帆と話していたいのは事実なの。だから、私の代わりに心を代弁してくれて感謝するわ。ありがとう、私たちのリーダー」
アレシアがふっと笑った。
「いいことを教えてあげるよ。詩帆は奥手だけど、押しに弱い」
「ちょっと待ってリーダー。私の楽しみを奪うつもり?」
「失礼しました」
「抜け駆け禁止だから」
「はい?」
「詩帆に手を出すときは、必ず前もって私に言いなさい」
「あはは……」
「詩帆は魅力的だから惹かれる気持ちはとてもわかるわ。それにね、私はリーダーが思うほど狭量じゃないのよ。わかった?」
「もういいから行けって……」
「私が質問してるの。ねえリーダー、わかった?」
「わかったよ、わかりました。詩帆に手を出すにはアレシアの許可が必要! 肝に銘じました。これでいい!?」
「お利口さん。あなたのそういうところ好きよ、リーダー」
そう言って笑うアレシアは蠱惑的な妖精にも見えた。
「じゃあいってくるわ」
「うん。ちゃんと向き合えそう?」
「自覚してしまったんだもの。認めるしかないじゃない。行ってくるわ、古い友人のところに。あのとき感じていたものの正体がなんだったのか、今ならよくわかるから」
「わかった。頑張れよ」
「最後に、リーダーは私を惚れっぽいと言ったけれど、本当はとても一途なのよ。意外かしら?」
アレシアはそういうと意地悪に笑い、俺の返事を待たず部室を後にする。扉が閉まる直前、アレシアの踵がスキップを踏むような軽やかさで舞うのが見えた。
アレシアは心にたくさんの言葉を秘めている。
教会から正午を告げる鐘の音が、アレシアの心を表すように高らかに騒がしく鳴り響いた。