ヒナちゃんと先生がいちゃつく話です
ドレスヒナ実装から毎晩コツコツ書き続けて終わったので投稿します

以下SS掲示板でも同じ内容で投稿してるので明記しておきます
https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1722081337/54-

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頑張れヒナちゃん

ヒナはどうしてここにいるのか思い出せなかった。

視線を向けると、横倒しになっているホワイトボード。

意味のわからない模様でぐちゃぐちゃに落書きされていて、落っこちたマーカーやイレーザーがあちこちに散らばっていた。マーカーから外れたキャップが、足元に転がっている。

ここがどこかすらもよくわからない。

頭に靄がかかっているようで、書類がたくさん積もっている机があるが、それを見ていると頭が痛くなる。

空調の単調な音がずっと続いていて、それをガーッと破って、淹れたてのコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。よろよろと首を傾げながら目を向けると、先生がマグカップを持ちながらちょうど席につくところだったので、ヒナは、惹きつけられるようにフラフラと、一歩一歩、散らばっている書類を踏みしめて歩いていった。

背後に立つ。肩越しに覗くと、先生の視線の先にある紙面は、謎の言語で埋め尽くされていた。

目をゴシゴシと擦る。

 

「擦り過ぎたらダメだよ、ヒナ」

 

先生が急に振り返った。

子どものようでいて、どこか大人びて、いつもの安心させてくれる笑顔。戸惑い、先生のことをただ見つめて、

 

「先生。私はどうしてシャーレにいるの?」

 

と、尋ねた。

 

「どうしてって?」

 

「だって…その…だから…」

 

息がかかりそうなくらいに近くで、先生とヒナは見つめ合っていた。どぎまぎするヒナに先生がささやく。

 

「ヒナ」

 

「うん…?」

 

「どうしたの…?座りなよ」

 

隣の机と椅子を見ながら先生が言う。

先生が身を乗り出して、片手を椅子の背もたれにのせて、後ろにころころと椅子を引いた。そのままこちらをゆっくりと、上目遣いに窺ってくるので、ヒナは視線に負けて、おずおずと先生の隣へ座った。

先生は満足そうに頷いてから、机に戻って仕事を続けた。

 

「…」

 

ヒナがこっそり先生を見上げると、先生は大きく口をあけていて、白い奥歯が見えて、ドキッとした。

 

「ちょっと待っててね」

 

あくびを噛み殺しながら先生が優しく笑う。

 

「すぐに相手できるから」

 

「…」

 

今更ながら、部屋に時計がないことに気がついた。規則正しい針の音は聞こえてこなくて、さっきからずっと、空調の非現実的な響きが延々と続いている。

 

きまりが悪かった。指をもじもじ動かして、先生を遠慮がちに見上げる。

 

「あの…先生、悪いのだけど、私、本当に忙しくて…」

 

「ところでゲヘナでの引き継ぎは終わった?」

 

「…え?」

 

「ん?」

 

先生と目が合う。

 

「ヒナは風紀委員長を辞めて、これからずっと、シャーレで私と二人きりで働くんだよ?」

 

「…」

 

「永遠にね」

 

…?

 

「…」

 

 

ヒナが心の底から戸惑って、瞬きを繰り返していると、心配そうな声で、

 

「さっきから様子が変だね…大丈夫?熱でもある?」

 

先生の指先がおでこに触れた。

 

「えっ?」

 

そのまま前髪をかきあげて、おでことおでこをこっつんこしようとする先生。

 

「えっ、ちょっ…、だっ、大丈夫だからっ…ええと、うん、そう、だった…わね…?え?そう…だったの?ん?んええ?」

 

先生の顔がとても近い。息遣いの音さえ聞こえる距離で、小さな声でぼそぼそ話しかけてくる。

 

「…調子が悪いなら、書類の山は放りだして、二人だけのシャーレ就任歓迎会でも開こうか?」

 

「あっ…えっ?えっ?」

 

「なーんて、でも後でちゃんと開きたいよね。今日は早めに終わらせて、一緒に買い出しへ行こうか」

 

「え、え」

 

「何でも食べたいものを買ってあげるよ」

 

先生は微笑んでから、また仕事に戻った。上機嫌に口笛を吹いている。

 

ヒナは前にかざした手の置き場に困って、意味もなく上げたり、下げたりしていた。

 

「???」

 

シャーレで、働く?私が?

 

ヒナは何もない机に手を置いて、神経質に表面を指で何度もさわる。視線はずっと、先生のことを見上げていた。

 

…先生と、一緒に?

 

「ヒナ」

 

唐突に先生が呼ぶので、ヒナの心臓がドキンと跳ねた。

 

「え、な、な、なに…?」

 

謎の高揚感に羽をパタパタと動かしつつ、先生が続けて口を動かすのを、ヒナはじっと見つめていた。

 

「ヒナ、あのね…」

 

「なに…?」

 

先生が書類から目を離す。ヒナはドキドキしながら先生の顔を見つめていた。

 

「実は…」

 

 

ジリリリリ!ジリリリリ!

 

 

目を開けると見慣れた濃い灰色の天井がそこにはあった。目覚まし時計が今日もまだ陽の出ていない朝を告げていた。

 

「…」

 

ヒナはいつもよりも緩慢に腕を動かして、乱暴に騒音の元を叩いた。

 

ジリッ…。

 

セミが死んだように音がやんで、部屋の中は早朝の静けさに包まれた。

ヒナはゆっくりと上体を起こして、見慣れた自分の部屋の中を見回した。しばらくの沈黙の後に事態を理解すると、息を大きく吸い込んで、

 

「…はぁぁぁぁぁぁぁ」

 

とても大きなため息をついた。

心底がっかりしたようなため息だった。

 

「はぁ…」

 

カチコチと時計の針の音が耳に入ってくる。

規則正しく一定で、まだ寝ているのかと急かされているように思えて、ムッとして眉をひそめた。

 

重たい布団を剥がして、極度の倦怠感がその小さな身体を支配しようとするのを力尽くで押さえつけながら、床に脚を降ろした。

 

「…めんどくさい…めんどくさい」

 

亡霊のように呟いて、言葉と裏腹にテキパキと身支度を整える。薄暗い部屋を歩き回り、すぐに外に出られる状態になって身の丈ほどある銃器を抱えると、朝食も食べずに、陽が昇りかけてる外をスタスタと歩いていった。

 

早朝の学園にはまだ誰も登校していなかった。

人のいない執務室へ入り、登校しているうちに陽は少し高くなっていて、カーテンを開くと弱々しくぼんやりした光が部屋の中へ差し込む。

自分の机の側に銃器をおいて、引き出しを開けると、書類の束が覗いた。そこから取り出した書類をどさりと机上へ落とし、一度に取り切れなかった分をまた掴んで、持ち上げる。置いて整えて、また取り出してから、机に積んでいくと、机上を埋め尽くす書類の山ができた。

すべて昨日持ち越した書類だった。

…うんざりする。

 

「…新しく書類が増える前に、できるだけ減らしておかないと」

 

独り言をつぶやきながら、乱暴に引き出しを閉じた。

 

今日はいつものメンバーがいない。

外回りの仕事を手分けしているのだ。今日はずっと、ヒナは一人で執務室に籠もり切って、机にこんもりと積み上がる書類仕事を終わらせる予定だ。

毎日毎日片付けてもきりがない報告書の数々。

 

「…はぁ」

 

書類に目を通しながら誰もいない執務室に遠慮の無いため息が響く。

机に積もる書類を少しずつ、山をスコップで削るように減らしていく。

不機嫌そうな鋭い眼光を紙面へすべらせて、優先度を高、中、低の順番で割り振っていく。

 

「…高、高、中、高、中、高」

 

ここゲヘナで問題が起きない日はない。

ゲヘナにひしめく問題児たちが次々と厄介事を巻き起こしては、報告書となって風紀委員会にやってくる。おまけに生徒会である万魔殿は風紀委員会を目の敵にして、やたらと上から圧力をかけてくるので、そのたびにヒナが対処しなくてはならない。

 

「高、高、低、高、高、高」

 

こうした揉め事への対処は風紀委員会も日常茶飯事で慣れたものであるが、たまに問題の発生件数がピークを迎えてキャパオーバーを引き起こしそうになるので、そのたびにヒナが無理やりなんとかしているのがいつものことだった。

 

「…ああ、面倒くさい」

 

ヒナの口癖だ。

書類と格闘しているうちにいつの間にか陽が真上を過ぎていて、ヒナのお腹から小さな音が鳴った。

 

「…はぁ」

 

フラフラと席を立つと、棚の中からアコが常備しているサプリメントをいくらか口の中へ放り込んで、またすぐに席に戻って書類との格闘を続けた。小柄であることを差し引いても到底この仕事量に見合うエネルギー量ではないが、ヒナは砂を噛むようにしてサプリメントを飲み込んだ。

 

机を埋め尽くしていた書類が半分以上片付いて、ヒナがぽっかりと空いたスペースを見て一息つくと、

 

「失礼します!」

 

風紀委員の一人が前が見えないくらいの書類を持って執務室へ転がり込んできた。

 

「…」

 

「委員長…あの、これ…今日の分です…」

 

「…ありがとう。そこに置いて」

 

「はい…」

 

空いたばかりのスペースがあっという間にまた埋め尽くされて、なんなら溢れて床にまで侵食し、机の上も横も書類で溢れかえってしまった。

 

「あ、あぁ〜…私が持ってきたせいで…」

 

「いやあなたのせいではないから」

 

「すみません、すみません…失礼します…」

 

申し訳無さそうな細い声でよろめきながら、部屋を静かに出ていった。

 

「…」

 

眉間にシワを寄せて目を瞑っていると、ヒナのスマホが鳴った。

 

「…イオリ。どうしたの?…温泉開発部がまた?…わかった…うん。すぐ行く。それまで持ちこたえてて…わかったから、待ってて。うん。すぐに行くから…わかった、一旦落ち着いて」

 

通話を切ってすぐに傍らに置いてあった銃器を手にとって、今日中に片付けなくてはいけない書類を残してヒナは執務室を出ていった。

 

 

部屋の電気を消してベッドへ倒れ込むと、ヒナの小柄な身体を受けて、布団がぼさっと軽い音を立てた。パジャマの上から肩にかるく羽織っただけの上着がはずみで片方から外れる。布団へうつ伏せになっていたヒナは、身体を芋虫のように動かしていって、ようやく枕に頭を乗せた仰向けになった。

 

「…寝たくない」

 

寝れば明日が来る。明日が来れば仕事をしなくてはいけない。だから眠くても寝たくない。けれども厳密に言えばとっくに日付は変わっている。

 

「…」

 

ヒナはすっと目を閉じた。少しでも早く寝ればその分だけ明日の体力が回復する。10秒も経たずに意識が混濁していった。

そのうちに、ヒナの子供のような寝息が聞こえてきた。

 

 

 

「今日も大量だね…っと」

 

机の上にドスンと置かれた書類を、ヒナは隣で頬杖をついて眺めていた。机を覆わんばかりの書類の山。

 

「連邦生徒会も人使いが荒いのね…」

 

「あっちもあっちで忙しいから…」

 

崩れそうになる書類の山を整えながら先生が言う。ヒナは先生を上目遣いに見て、薄く笑った。

 

「…残りの書類持って来るの、手伝う」

 

「ありがとね」

 

「先生一人に運ばせたりしないわ」

 

ヒナは立ち上がってすぐ、先生の隣に並んだ。大きな銃器を背負った少女が、丸腰の大人である先生の隣にいるのは奇妙なようでいて、ここキヴォトスではもう馴染んだ光景だった。

ここでは生徒の誰もが銃を持ち歩いている。あらゆる身分を問わず、必需品のように。小さな歩調に合わせて長い銃身が揺れていた。

 

「銃、ガンラックに置いてこないの?邪魔でしょ」

 

「…なんか、必要な気が、して」

 

「言っておくけど今日は一日、書類祭りだからね」

 

「祭り?」

 

「ひたすら書類を処理していくだけの祭りなんだけどね、そうしたら毎日が祭りだって思えて嬉しいんだなあ…」

 

ぼんやりとした先生の言葉に笑っていいかわからず、ヒナが気遣わしそうにしつつも、

 

「…私は、それほど憂鬱でもないけれど」

 

「へえ。どうして?」

 

「…だって」

 

ヒナが先生を見上げて、聞こえないようにとても小さな声でつぶやいた。

 

「誰とするかが、問題、というか…」

 

「それもそうだね」

 

「なっ、聞こえて…もう、先生!」

 

「ははは」

 

楽しいひとときだった。

持ってきた書類を仲良く分け合い、ヒナは自分の担当分を机に置いて、次々と処理済みの箱に回していった。てきぱきと仕事を進めていく。作業中、書類を眺めながら、ヒナは思案気にペンを唇に当てた後、隣にいる先生へ声をかけた。

 

「先生…ちょっといい?この書類についてなのだけど」

 

「ん?」

 

先生の頭がこちらに傾いて、肩と肩が触れそうになる。少しだけ緊張してしまうが、仕事中なのでなるべく意識しないようにする。お互いの息遣いがわかるほど近くて、先生の声が耳元で聞こえた。

 

「ああ、これはこっちで対処しないとだね」

 

「…合同訓練に関してなら私にも知見があるから、言ってくれれば相談にのるけど」

 

「そうだね…いや、うん、大丈夫だと思う。私に任せて」

 

「そう。それならいい」

 

「…ヒナちゃんは頼りになるねぇ」

 

からかうように囁かれて、ヒナは顔をかすかに赤くした。

 

「から、かわないで、先生…」

 

「二人きりだからいいじゃん」

 

「ふっ、二人きりって…もう、真面目に仕事して!」

 

「ふふ」

 

先生は楽しそうにクスクスと笑っている。ヒナは恥ずかしくなって、先生の顔を見れなかった。

 

「仕事に戻るから…」

 

「あれっ、でももうお昼だね。ヒナ、ご飯にいこうよ」

 

「…じゃあ、先生は、先に食べてて。私はキリの良いところまで」

 

「私は一人でご飯を食べるの?」

 

「…えっと」

 

「ヒナちゃーん…」

 

「…………わ、わかった、から…ヒナちゃんはやめて…恥ずかしい」

 

「やった。休憩、休憩」

 

ニコニコと笑っている先生に、ヒナは目を伏せた。

 

「先生は、もう…」

 

口の端が微妙に上がってしまう。いつもこうなのだ、この人は。

かなわないなと思いながらため息交じりに立ち上がる。しかしふと、思い出したかのように自分の荷物に視線をやった。

 

「…」

 

上着を取っている最中の先生を視線で追い、つばを飲み込む。一歩踏み込んで近づいたが、先生が振り返って、たたらを踏む。

 

「それじゃあ、いつものお店にする?それとも今日は奮発して…」

 

「…あの、先生」

 

「ん?なに?」

 

「その…えっと」

 

「…?どうしたの」

 

「…っ」

 

ヒナが頬を染めながら、先生のことを見上げた。

 

「お弁当を作ってきたのだけど…食べる?」

 

「…えっ?」

 

「…前、作ってほしいと言っていたから…冗談まじりだとはわかっているけれど、その、日頃、先生にはすごくお世話になってるし…だから、ちょうどいいと思って…あの」

 

「…」

 

「…せ、先生?」

 

おそるおそる見上げてくるヒナに、先生はボソリと呟いた。

 

「可愛すぎる」

 

「えっ」

 

「ヒナちゃん可愛い」

 

「…茶化すのなら捨てるけど」

 

「待って待って、やめて。嬉しいよ、ぜひ食べてみたい」

 

「もう…」

 

慌てて言い繕う先生を、ジトッとした目で見つめた。

 

「…じゃあ、あげる」

 

ソファに並んで座り、渡されたプラスチックの箱の蓋をテーブルの上で外す。中には、色とりどりのおかず。もう一つの区画には真っ白なご飯が詰まっていた。

 

「栄養バランスには、気を遣ってるから、安心してほしい…」

 

ヒナが不安そうにしながら言う。先生は嬉しそうに弁当を眺めていた。

 

「すごく美味しそうだ…食べるのが楽しみだね!」

 

「…〜っ…先生は、大げさなのよ…大した工夫もない、面白みのない、弁当なのに」

 

震えた声でブツブツとつぶやきながら、先生に渡したものと同じ内容の弁当箱を開ける。

 

「いただきます」

 

「…」

 

先生が手を合わせて箸を持つのを、ヒナは真剣に窺っていた。タコさんウィンナーを先生が口に運ぶ。先生が、満面の笑顔を浮かべた。

 

「うん、うん…美味しい!美味しいよヒナ!」

 

「…切れ込み入れて、焼いた、だけ」

 

「ヒナの愛情を感じられて一層美味しい…」

 

「ばっ…な、何を言ってるの…!まったく、先生はまったくもう!」

 

「幸せだ」

 

噛みしめるように弁当を食べている先生をしばらく見届けた後、自分も食べてみた。

 

「…」

 

結構、美味しく感じた。

 

 

「さて、お腹いっぱいで元気が出たことだし、午後の仕事も頑張ろっか」

 

「ええ」

 

腕まくりをする先生の傍ら、ヒナはかがんで二人分の弁当箱を荷物にしまい込んだ。弁当箱をさっき、二人でかるく洗った。

 

「…♪」

 

ヒナが機嫌良さそうに席に座って、それを見て先生は笑う。

 

「この量の書類を前にして、ずいぶん余裕だね?」

 

「いつものことでしょう?」

 

「頼もしい。夜までに終わらせたいね」

 

「そうね」

 

「そうだ、終わったら、ご飯に行こうか。ヒナは、何が食べたい?」

 

「それなら…この前先生と行ったラーメン屋、美味しかった」

 

「決まりだ。じゃあ頑張ろうか」

 

「うん」

 

「…」

 

「…」

 

「…ヒナがいてくれて良かった」

 

「…え?」

 

「いや…こんな量の仕事、一人だったらもっと惨めな気分になってたから。ヒナが来る前は実際そうだったしね…」

 

「…先生」

 

「…改めて言うのはなんだか照れくさいけど…これからもよろしくね、ヒナ」

 

「…っ」

 

先生の言葉に、ヒナは胸がいっぱいになった。なぜだか声を出したら泣いてしまうかもしれなかったが、それでも頑張って先生にお返しの言葉を紡ごうとした。

 

「あのね、先生…私も…」

 

 

ジリリリリ!ジリリリリ!

 

…ガシャン!

 

「…」

 

乱暴に目覚まし時計を止めて、ヒナは枕にうつ伏せになった。枕元に置いてあるクッションに爪を立てて、あらん限りの力で握りしめていた。

 

「ぐ、ぐぅぅ、うう、ぐ」

 

巡航ミサイルが直撃したときよりも苦しそうなうめき声を上げて、力を振り絞ってベッドから這いずり出た。ドサッと身体の落ちる音がする。

 

薄暗い部屋の中、時間をかけて立ち上がった。

 

「…先生、どこ?先生」

 

眼の前の鏡に、頼りない光量でヒナの顔がぼんやりと浮かび上がった。表情はよくわからなくて、パジャマ姿の輪郭だけがおぼろげに見えた。

 

「…顔を、洗わないと」

 

ヒナは冷静に呟くと、よろよろとふらめいて歩いていった。

 

 

 

「委員長」

 

「…なに?」

 

「なにと言いますか…お加減があまりよろしくないご様子なので…」

 

「お互い様でしょう」

 

「はぁ…」

 

そっけなく返されて、アコは、まじまじとヒナのことを見つめた。

 

「…まあ、こんな忙しさでは無理もありませんが」

 

いろいろなものを飲み込んだように曖昧な顔をして、ヒナのことを眺めている。ヒナはそっけない感じで、

 

「そんなことより、はやくして。報告の途中だったでしょう」

 

「あ、申し訳ありません…ええと」

 

言われてアコが慌てて紙をめくった。廊下を前から生徒たちが歩いてきて、アコはさりげなく手元の部外秘資料を隠すように閉じた。すれちがう生徒たちはのんきに他愛なくお喋りをしていて、それを濁った目で見送りなから、ぽつりとアコは呟いた。

 

「こんな移動中で、慌ただしくて恐縮ですが」

 

「時間がない」

 

「…はい」

 

アコの声はかすれていた。朝にヒナへ挨拶をした時から全然発声に力がなかった。ぼさついている自身の髪の毛の部分を無意識になでつけつつ、資料を忙しくめくる。

 

「えー、それでは昨日に発生した温泉開発部の、大規模な暴動につきまして概要だけでも、取り急ぎ要点を」

 

昨日、イオリからの救援要請を受けてヒナが飛び出していった事件だった。すぐに鎮圧されはしたが、後始末にアコたちがほぼ夜通しで奔走していた。それで、その件について万魔殿から説明を要求されているのだった。

 

アコが早口で事実をかいつまんで説明するのを、ヒナは歩みを緩めることなく耳を傾けた。

 

「委員長に制圧していただいた後、主格を筆頭に特別牢に収容済みで…」

 

「被害は?」

 

「学園内の複数の建物が半壊、一部道路に大穴が空き復旧まで通行止め…委員長に途中で食い止めて頂けたとはいえ、酷い状況です」

 

「…復旧にはどれくらい時間がかかる?」

 

「見通しが立っておりません…連中が仕掛けた爆発物がまだ残っているとの情報もありますし…まずは、その撤去から始めないと…かなりの威力だと思われるので二次被害が出ないよう慎重に事を進めなくてはならず…」

 

「はぁ…」

 

「今朝に脱獄騒ぎが発生しましたが、それは対応済みです…ただ見張りの増員が必要かと。いっそ椅子に縛り付けて転がしてやろうと頑丈なロープを発注済みで、届いたら私の手で」

 

「それよりも、他に今日中の仕事がたくさんあったと思うのだけど」

 

「…えー、あの、まあ、そうですね」

 

モゴモゴと口を濁すのを見て、ヒナがため息をついた。

 

「万魔殿に回せるものは回して」

 

「アハハ…!さすが委員長、面白い御冗談です!」

 

「…」

 

「今日だってあのタヌキ共がッ!今回のことでまた文句をグチグチグチグチ言っていてッ!余計な手間をこちらに押し付けてきてッ!わざわざ委員長まで呼びつけて!!」

 

「落ち着いて…今からマコトと話をつける時に、なんとかいろいろ押し付けてみるから…」

 

「毎回毎回、足を、引っ張ってきて…!」

 

「だから落ち着いて…」

 

アコの手が怒りでぶるぶる震えていた。

 

「フーッ…!フーッ!」

 

乱れる息をなんとか落ち着けようとして、ガギッ、ガギギッ、と、歯を食いしばって、その後、風船から空気が抜けるように、深いため息を吐いた。

 

「…私だけでは話が通じず…委員長にまた余計なご負担をかけさせてしまうのは、遺憾この上ないです」

 

なんだか哀愁が漂っていた。丸まった背中に、ヒナはできる限り優しい口調で話しかけた。

 

「…マコトの扱いは慣れてるからすぐに終わらせる。今、イオリから救援要請が来てるのを待ってもらってる状態だから、急がないとね」

 

突然、アコが顔をグリッと向けてきた。

ビクッとして、ヒナは眉をひそめる。怖かった。

 

「…なに?」

 

じいっとヒナを見つめている。

いつもよりヒナの声色に力がなかった。

普段からこっそりヒナの体調を観察記録しているアコには、最低値に近いことが理解った。

でも、それはそうだろうと思った。

いくらなんでもこんなギチギチにスケジュールが詰まっていて、何かあれば委員長委員長と現場に呼ばれて。

その小さな体にどれだけの責任を背負っていることか。

胸のうちに膨れ上がる使命感とともに、ぎゅっと拳を固く握りしめる。

 

「わかりましたっ!」

 

「なにが…?」

 

ヒナは不気味がっていた。

 

「不肖この天雨アコが!後でなんとか時間を作って委員長のお手伝いを…!」

 

「いらない」

 

「ええ…?」

 

「無理だから。いいから自分の仕事に専念して。私がすべて責任持って終わらせる」

 

「…あの、委員長、ですが、いくらなんでも!」

 

アコのポケットに入っていたスマホがいきなり震えた。

 

「ああーッ!」

 

アコが発狂した。

 

「アーッッッ!!」

 

「うるさい」

 

「すみません」

 

「仕事のこととは決まってないでしょう」

 

「ですがスマホを開けばだいたい悪い知らせばっかりで…たまには嬉しいニュースを聞きたいものですがっ!?」

 

「…休校とか?」

 

「原因がなんだとしてもですか?」

 

「…」

 

「…」

 

アコがため息を吐いてメッセージを確認する。

傍らでヒナがしょぼついた目つきで天井を仰ぎ、残っている仕事の優先順位の割り振りを考え始めた。

疲れた。

 

今日はこれからまず、マコトと話をつけたらイオリを助けて、事後処理は任せる。昨日残した書類仕事…の前に、今日湧いて出てきた緊急の案件の判断…いや今日追加される書類の対応を…いくらなんでも一日が24時間である限り無理。明日に回すしかない。最悪。

寝不足のせいか頭がいつもよりも回らなかった。

 

そもそも夢見が良くなかった。

あの、現実へ引き戻されるときの内臓がひっくり返るような不快感。尋常ではないストレス。あんな夢を見るなんて、疲れている。本当に疲れた。面倒くさい。

 

大きなため息が出そうになって、ぐっとこらえる。

今日も忙しい…。

でも、頑張らないと。

 

思考がまとまらず、気合で軌道修正を試みているところ、さっきから静かになっているアコが気になった。

 

アコは、スマホをじーっと眺めていて、そのあと何もなかったかのように、スマホをしまい込んだ。

しかし眉根が不機嫌そうに寄っている。

 

「…はあ」

 

ため息も吐いた。

ヒナはそれをじっと観察した後、

 

「アコ。トラブルなら、ある程度判断を任せるけれど、もし手に負えないことなら早めに…」

 

「え?いえ、事件性はなかったです…」

 

「…じゃあ、なんの用件だったの?なんだか、顔色が暗いようだけれど」

 

「…えっと」

 

「…?」

 

「…先生から、だったんですけど」

 

「え?」

 

その言葉だけで、ヒナの心臓がドクンと疼いた。鼓動と連動しているかのように羽がバサバサと動きだした。

 

「…せ、先生?どうして?」

 

「ヒナ委員長の手伝いをしていただこうかと、この前依頼を出していて…」

 

「ぇ、えぇっ…?そんな、勝手に」

 

声が急に高くなった。

 

「まあ断られてしまいましたけど」

 

「あっ、そうなんだ」

 

すごく低くなった。

 

「あちらもあちらで今かなり忙しいらしくて、だから…っ!?」

 

アコの表情に緊張がはしる。

 

「えっ…な、何…?」

 

「…いえっ、委員長、その…すごい…しょ、んぼり…され…て…ます…な、と」

 

「…」

 

アコが、気遣うように伺ってきた。

 

「…や、やっぱり、もう一度、頼み込んでみましょうか…?」

 

「…………」

 

ヒナは真っ赤になっていた。

 

「〜〜〜っ!アコッ!!」

 

「はい」

 

幸いにも、通行人は誰もいなかった。アコは気まずそうに目を閉じていた。

ヒナは震える声を絞り出した。

 

「っ、きっ、気軽に、先生に、頼らないで…!」

 

「は、はい…」

 

「せ、せ、先生だって忙しいだろうし…わ、私達のことで…その…」

 

「はい…」

 

「あの…あれが…あれで…」

 

「い、委員長?」

 

「た、確かに!!最近会えて無いし、お互いに忙しくて…会いに行く口実も、なくて…口実がなかったら、会いに行く勇気すら…私には…なくて…」

 

「委員長…!?」

 

語尾に近づくにつれて細くなって、ゆらゆら揺れる、少女の心だった。

 

「…〜っ、と、とにかく!」

 

心臓のところをギュッと掴んで、乱れてしまった息を落ち着ける。

 

「駄目だからっ…!」

 

「だ、駄目でしたでしょうか…?」

 

「決まってるでしょ…!」

 

「委員長…」

 

「…いくら忙しくたって」

 

ヒナは厳しい目つきで床を見つめた。それは自分にも言い聞かせているようで、「いくら会いたくたって…」と、言わんばかりだった。

 

「先生に、迷惑をかけたくないから…」

 

服の裾をぎゅっと握りしめている。

そんなヒナの様子を見て、アコはふと真顔になった。

 

「…委員長に気を遣わせるだなんて、大人のくせに」

 

「…は?」

 

あんまりな言いようについ、むっとして食いかかった。

 

「…アコだって、わかるでしょう?先生が今、どれくらい忙しいのか」

 

「承知の上で依頼してます」

 

ヒナが厳しい視線をよこす。

 

「アコ?」

 

「ですが。先生の意に沿わないとは思いません」

 

「先生に無理を」

 

「何も相談されずに問題の起きた後で、間違いなく悔やむのがあの人でしょうし」

 

言われて、言葉に詰まる。

 

「まあ、生徒全般に対して同じ態度なんでしょうけど…そういう意味では、私は先生を信頼しているんですよ」

 

「…」

 

「まあ、断られましたけど」

 

アコが、へっ、と品のない笑い方をする。

 

「どうせあの人のことだから、いろいろなことを無駄に抱え込んでいるのでしょうね。いつも段取りが悪くて、苦労しているところを見るとムカムカするんですよ」

 

「…」

 

「いつも大人ぶって、本当に忙しいんだったらそういうの、メッセージを送るなと言われたほうがよっぽどマシなんですけどね。無理してまで返信に期待してませんし、こちらとしても」

 

「…」

 

「それで私が忙しいんじゃないんですかって訊いたら、アコと話すのは気分転換になるだなんて言ってきて、おべんちゃら!そのわりに通話、あの人からかかってきたことなんてないんですけどね、いつも口ばっかりで、嫌になって…」

 

「…」

 

「…でも、まあ、先生が本音で言ってくださっていることは私にはわかってますから、意図は伝わってくるのでやぶさかではないといいますか、悪い気自体はしない、といいますか?」

 

「…」

 

「そ、それでも私はもう少し…素直に頼ってくれたほうが、嬉しいんですよね…」

 

「私は何を聞かされてるの?」

 

「え…?」

 

「なに…?」

 

「え…」

 

「…」

 

「…寝る前とかに…先生に、私の愚痴を聞いてくださって…いて」

 

「え…?」

 

「あ…」

 

「…」

 

「…」

 

「…」

 

「…えーっと…先生が、ヒナ委員長のご様子をしきりに気にされていて…」

 

「…」

 

「委員長のことが、とても心配だと、仰っていて…」

 

「…頼むから、余計なことを言って先生に心配をさせないで」

 

ヒナは咳払いをした後、優しい笑顔をつくってアコに向けてあげた。

 

「…アコの言いたいことは、わかってるつもり。アコが心配してくれてるのは素直にありがたい、とは思う」

 

「委員長…」

 

「…だからといって、現実的に、大事な線引があるのはわかるでしょう?」

 

諭すような口ぶりに、アコが憮然とする。

 

「…それは、まあ」

 

「先生を頼りにしてるのはもちろんだけど…先生は一人しかいないんだから、生徒の誰かが配慮してあげないといけないし…」

 

「それが委員長である必要はありませんよね…?」

 

「負担になりたくないの」

 

ヒナは疲れたため息をついた。

 

「…ほら、さっさとマコトと話をつけて仕事に戻ろう。きっと最終的にはこっちの予算が削られる話になるだろうけれど」

 

アコは渋面を作って、やがて、諦めたように目を伏せた。

 

「…そうですね。なんなら後で、こちらから先生に借りを作りにいってあげてもいいですしね」

 

「そうね…先生の仕事を久しぶりに…手伝いに…」

 

「ええ、きっと泣いて喜びますよ」

 

「ふふ…そうかな…」

 

 

「予算どころじゃない!風紀委員会なんぞ解散だ!解散!」

 

「はぁ…?」

 

「…」

 

マコトはふんぞり返って自席から怒鳴ってきた。高級感のある木製の机を前にして、ふかふかの椅子に座っている。机上の猫が呑気ににゃあと鳴いた。

 

「…理由をお聞かせ願えますか?」

 

空気が張り詰めている。

アコの声は、気の弱い人間なら竦んでしまうくらい冷え切っていた。

 

「風紀委員会が解散して困るのはそちらでは?万魔殿だけで問題児たちをどうにかできる算段でもあるのですか?」

 

「…ふん!ゲヘナに無能はいらん!それだけの話だ!」

 

フスーっと鼻息を漏らして、苛立たしげにマコトはアコたちを睨んでいる。

負けじとアコが慇懃無礼に睨み返す。

 

「お言葉ですが、今回の被害のことであればこれでも最小限に抑えた結果です。風紀委員に連絡を受けた時点ですでに多数の建造物が損壊し、制圧時に発生した破壊は被害を拡大しないようやむを得ない処置で」

 

「違う、違う…誰も建物のことなど話してない。まったく、お前らは血も涙も無いのか?壊れたら作り直せばいい物よりも大切なことがあるだろう?」

 

「…?人的被害は温泉開発部員と風紀委員を除けば皆無なはずですが」

 

「バカが!お前らの目は節穴なのか!?」

 

マコトが握りこぶしで机を力いっぱい叩いて、机の上にいた猫が驚いてマコトの顔を引っ掻いた。

 

「うああっ、やめろライオンマル…うえっくし!誰か、ライオンマルを丁重にどこかへ連れてってやれ!」

 

「…」

 

アコがバカを見る目を隠そうともせずに鼻水をかむマコトを眺めていた。控えている生徒が持ってきたゴミ箱に丸まったティッシュを放り投げて、マコトはまたアコたちをじろりと睨んだ。

 

「…人的被害は皆無?そんなわけがないだろう?うちのイブキが、大事な大事な可愛いイブキがお前らのせいで怪我をしたんだぞ!」

 

「…イブキちゃんは現場付近にいなかったはずですが」

 

「お前らの戦闘音にビックリして転んで膝を擦りむいたのだ!おお、可哀想にイブキ…」

 

「…無茶苦茶ですね。何を要求したいのか手短に言ってくれませんか?そちらと違ってこちらは忙しいので」

 

「くっ、相変わらず生意気な奴らだ…まあいい。それで、イブキの怪我の責任で風紀委員会の解散…と、言いたいところだが、まあ寛大な心で許してやってもいい。その代わり臨時の訓練を実施して、直ちにその仔細を報告書にまとめろ。改善が見られない場合は厳罰に処す」

 

「…改善?目的は?何のために実施する訓練だと?」

 

「そんなものはお前らで考えろ」

 

「はぁぁ?」

 

「キキキッ!おおそうだ、お前たちの委員長が責任を取ると言うなら何もかも不問にしてやってもいいぞ。なあ、空崎ヒナ!お前の悔しがる顔が見れればこちらの溜飲も下がるというものだ!」

 

「付き合ってられません!私怨丸出しじゃないですか!?委員長、もう…」

 

「…わかった」

 

「委員長!?」

 

今まで黙り込んでいたヒナが、あっさりと難癖を受け入れるのを見て、マコトが面白そうにニヤリと笑った。

 

「ふん、今日はやけに聞き分けがいいな。それで、何がわかったというのだ?責任を取るという部分か?どうやって責任を取るのだ。イブキに土下座でもするか?おお、それなら観客を集めて盛大に催しものとして」

 

銃声が響いた。

アコが轟音に耳をふさいで、控えていた取り巻きの生徒が「ウワーッ」っと叫んで、マコトは椅子から転がり落ちた。

天井に向けていた銃口をおろして、静かになった部屋の中で、ヒナが口を開く。

 

「訓練の目的は人質を想定した、統制の取れた中規模程度の敵の制圧。数日中に実施して、報告する。それでいい?」

 

ヒナの鋭い眼光にさらされて、マコトはみっともなく椅子にしがみついていた。ヒナの低い声が続く。

 

「これ以上を望むのなら、それなりの対処をする」

 

「ふ、ふん、わかった、わかった!それでいいからあっちへ行けぇっ!」

 

情けない叫び声を背に、さっさと部屋を出ていくヒナに慌てながらアコが続く。

 

「委員長!臨時の訓練だなんて、こんな忙しいときに無茶です!」

 

「訓練内容は半年前に実施したものを流用する。指揮は私が」

 

「…」

 

「人員の選定は任せる…はやくイオリを助けに行こう。大丈夫、私が全部なんとかする」

 

スタスタと前を歩いていくヒナの後ろ姿を、アコは心配そうに見ていた。

 

「委員長…」

 

 

 

『ヒナ』

 

「なに、先生」

 

『逃げた子たちの逃走経路を割り出してるから、しばらく待機してて』

 

「うん、わかった…ごめんなさい。全員は倒しそびれて」

 

『十分。ヒナはよくやってくれたよ。あとは、倒した子たちは拘束して…』

 

「もうやってる」

 

『さすが。頼りにしてるよ』

 

「任せて」

 

通信を切ると、ヒナはアジトにされていた建物から拾い上げた縄やその他諸々を使って、コンクリートの破片まみれになっている不良生徒たちを次々と縛り上げていった。

 

「ぐぅっ…」

 

意識が辛うじて残っていた不良生徒の一人が、ヒナに掴まれてうめき声をあげた。朦朧としているのか、抵抗する力は小さく、ヘイローの姿も不安定だ。

縛り上げて、建物のすぐ外へ放り投げる。のびた数十人がすでに建物の入口ら辺に転がっていた。

 

「〜♪」

 

最後の一人を縛り上げて、建物の外へ出ると青空が眩しかった。不良生徒を放り投げて、腕を上げて伸びをしてから、壁にもたれかかって空を眺めた。澄んだ海の色だった。先生と見た海を思い出す。

 

「…ば、化け物が」

 

うめき声に視線を向けると、先程かすかに意識を残していた生徒が地べたに這いつくばって、頭上にヘイローを現しながらヒナのことを睨んでいた。

 

「こっちが何人いたと思ってる…?」

 

「統制の取れてない烏合の衆なら、何人いても同じ」

 

「…ありえねぇ、ぐぅっ」

 

地面に転がって呻くのを、ヒナは飽き飽きして眺めた。

 

「…言っても詮無いことだけれど、あまり面倒事を起こさないで。私も先生も忙しいんだから」

 

「先生…?ま、まさか、お前、シャーレの…」

 

「…シャーレの?」

 

「…シャーレの番犬、空崎ヒナか…!?」

 

「…番犬?」

 

「噂になってるぜ…シャーレの先生に手を出したら、ご主人様思いのワンちゃんに噛まれるってなァ…!」

 

「…番犬。先生の?」

 

ヒナは言葉を反芻するように目を閉じた。

 

「…」

 

悪くなかったようだった。

 

「何笑ってやがる!番犬ってより狂犬じゃねぇか…!」

 

「…それだけベラベラ喋られるなら、もう少し有益な情報を吐き出してくれる?」

 

「ヒィッ!」

 

「…酷いことはしない。あなたも先生にとっては大事な生徒の一人だから…私は先生ではないけど」

 

「何でも喋るから許してくれぇ…ぐえぇ!」

 

「覚えておいて…先生に仇なすものはこの私、シャーレの空崎ヒナが容赦しない、と…」

 

「ひえぇ〜!」

 

 

「先生」

 

のびた不良を尻目に、通信機を作動させる。しばらくのノイズのあと、先生の心配そうな声が返ってきた。

 

『…ヒナ?どうしたの?何かあった?』

 

ヒナが弾んだ声で喋る。

 

「あのね、えっと…捕まえた奴から他の拠点の情報を訊きだした」

 

『さすがヒナ、助かる!』

 

「…うん」

 

『じゃあ、とても頑張ってくれたヒナには』

 

「ご褒美をくれる?」

 

『…ワンパターンかな?』

 

苦笑して頭をかいてる姿がありありと頭の中に浮かんだ。

 

「ううん、何度だって嬉しいよ。それなら、先生。時間をちょうだい。今度は、私がいいお店を、見つけたの」

 

『…そっか、わかった。楽しみにしてる』

 

「うん」

 

ヒナはとても幸せそうに微笑んだ。先生の気まずそうな声が続く。

 

『…他には、ない?』

 

「…他?」

 

『だって、ヒナはいつも、本当に頑張ってくれてるから…本当に、四六時中、寝る間も惜しんで…』

 

「先生の役に少しでも立てるなら、それでいい」

 

『少しどころじゃないよ…』

 

先生は情けない声を上げる。

 

『ヒナに頼ってばかりだ。私は…』

 

「あなたのそばにいられるだけで、幸せだから、いいの」

 

『…もっと我儘を言っていい。ヒナはそれだけ頑張ってくれてる。何でも言っていいんだよ』

 

「…なんでもって?」

 

『なんでもだよ。ヒナのためなら、キヴォトス征服だろうとなんだろうと、絶対に叶えてみせるから!』

 

ヒナはおかしそうに、くすくすと笑った。

 

「本当?」

 

『本当に』

 

「それなら…」

 

『…それなら?何でも言って』

 

「…なんでも?」

 

『なんでも』

 

「…」

 

『…』

 

「それなら、これからも一緒にいてくれるって、約束が欲しいな」

 

『…もちろん、約束するけど…それが、我儘なの?』

 

「これ以上の我儘なんて無いよ、先生。だってね、私は先生のことが」

 

ジリリリリ!ジリ

ドゴォン!ガシャーン!カランカラン!

 

「…はぁっ!はぁっ!」

 

壁にぶつかって再起不能になった目覚まし時計をしばらく見つめてから、ヒナは呆然と自室を見回した。

 

「せ、せんせい…?」

 

夢から醒めて意識がハッキリし始めると、ヒナはポロポロと涙を零した。

 

ここにいるのは寝不足で疲れてるヒナだけ。

 

「…ううう」

 

心がポッキリ折れてシナシナになったヒナは、泣きながら布団にモゾモゾと戻った。

今すぐ寝れば夢の続きが見られるかもしれない…夢の中の私はシャーレに所属していて…先生が私のことをいつも褒めてくれて…仕事は大変だけれど先生と一緒だから楽しくて…。

 

…すうすうと、寝息を立て始めた。

 

スマホの通知が、鳴った。

 

「…」

 

薄目を開けて、ちょっとの間無視したが、諦めて起き上がると、スマホを手に取った。

 

先生からの連絡だった。

 

「…!」

 

一気に目が覚めて、慌てて、確認する。

 

『おはよう。最近大変なんだってアコから聞いたよ。たまたま時間が空いたから、今日だけでも手伝えればと思うんだけど、どうかな?』

 

「…」

 

ちょっと迷って、返事を送った。

そうやってからしばらくの間、ヒナは先生のことを考えていた。

 

薄暗い空気の中、学園内はまだ静かに眠っている。

徐々に明るくなり始めてきた空を眺めながら、ヒナが歩いていた。

 

「…」

 

思えば今まで朝焼けをまじめに見たことがなかった。

驚くほどに鮮やかで赤く、静かな暗い空気の上で輝いていた。

だから、どうということもないけど。

眠気でぼんやりとした目にしみる。

 

「…」

 

建物の前にはすでに先生が待っていた。

 

「やほ」

 

「…お、おはよう」

 

久しぶりなのに、まったく久しぶりでない気がする先生の顔を直視できずに、ヒナは視線をそらした。

 

「こんな朝早くから、ごめんなさい…」

 

「ううん、こちらこそ急にごめんね。時間が空くって言ったけど、実は午前中までだけでね…」

 

胸が締め付けられる。

 

「たまたま時間が空いたって…無理をして空けてくれたんでしょう?」

 

「…そんなことないよ」

 

「アコが、また先生に連絡した?」

 

「…まあ」

 

先生はちょっと言葉に詰まってから、苦笑した。

 

「何でもするから、ヒナ委員長のことを助けてくださいとは言われたけど」

 

「…何でもって」

 

「いや、何もさせないよ。本当に。アコはなんか、勝手にヒートアップしてたけど…ヒナが大変なんだったら、多少無理してでも駆けつけるよ」

 

「…そう」

 

ヒナが、先生を見上げた。

先生は、優しくヒナを見下ろして楽しそうに笑う。

 

「朝早くこうして二人でいるのって、なんか良くない?」

 

「…なんかって?」

 

「朝焼けが綺麗だし。空気も美味しい」

 

「…そう?」

 

「そうだよ、いつもは…っと、時間がないんだった…はやく入ろっか」

 

「…うん」

 

先生について歩き、それからヒナは後ろを振り返った。朝焼けが先程と同じようにまぶしかった。

 

「…」

 

先生がコーヒードリッパーを操作すると、機械の唸り声が響いた。ヒナは書類を手にガサガサとまとめていく。

 

「私にしか判断できないものがほとんどだから、先生には種類に応じて整理してほしくて…今、用意するから、待ってて…」

 

「うん」

 

先生がカーテンを引いて、窓をカラカラと開ける。仄暗いままの部屋に、忙しない鳥の囀りや、遠くの車の音がかすかに聞こえてくる。ふんわりと外の空気の匂いが流れ込んだ。

部屋に二人だけでいると喉が少し窮屈で、やけに気恥ずかしくなる。なんだか夢のことを思い起こさせて、妙に緊張してしまう。書類を手に持っていると、先生が2人分の淹れたてのコーヒーを持ってくるのに気がついた。

 

「先生、席はここ、使って…」

 

「ありがとう…はい、ヒナの分。ブラックでよかったよね?」

 

「う、うん…ありがとう…」

 

「よーっし、じゃあ頑張ろっか」

 

「うん…」

 

各自席に座って、それからは二人して黙々と仕事を続けた。必要以上の言葉は発さずに、書類を処理していく。ヒナは先生のことが気になったが、わざわざ来てくれたのにこちらが集中してないのは申し訳ないので、生真面目に机に向かった。

 

窓の外からちらほらと、登校しだした生徒の声が聞こえ始める。陽は空に昇っていた。床を照らす光もすっかり明るい。

 

ヒナが、すぐそこにいる先生を見る。

先生の服はいつもよりもくたびれていて、書類に向かう目を時々しぱしぱとさせながらも、すごく真剣に書類整理を続けていた。

 

その姿を見ているだけで、ヒナの胸がいっぱいになって、もっと頑張ろうと思った。

 

あっという間に時間は過ぎていった。

先生がゆっくりと伸びをした。もう昼を回っていて、食堂へ向かう生徒たちの声が聞こえてくる。

何事にも終りは来る。

先生が申し訳無さそうに言った。

 

「あとちょっとしたら別の用件があって…最後まで手伝えなくてごめんね」

 

「そんなことない、本当に助かった。先生だって、すごく忙しいはずなのに…」

 

「ヒナはいつも頑張ってるからね」

 

先生がヒナの頭をポンポンと叩いて、軽く撫でた。

 

「あ…」

 

「それじゃあ、もうそろそろ行くね」

 

「うっ…えっと…」

 

「ん?」

 

「…いや…先生も…仕事、頑張って」

 

「うん」

 

部屋を出ていく先生に大した事も言えないまま、ヒナはただ見送ろうとする。控えめに手を振っていた。先生がドアノブを握る。

 

「…」

 

扉に手をかけたまま、先生がピタリと止まった。

 

「…?」

 

ヒナが怪訝そうに見るが、そのまま十秒間くらい指一つ動かなかった。

 

「…」

 

やっと動いたかと思うと、扉へもたれかかるように前のめり、今度は振り子のように後ろへぐらりとよろめいた。

 

「…っ!?」

 

ヒナがとっさに手を伸ばして、背中を支えた。ずしりと両手に重さを感じる。

 

「先生!?ど、どうしたの!?」

 

背中に向かって声を張ると、先生は苦々しくうめいて、「ごめん、足がもつれて」とだけ言った。

 

「足がもつれて…?」

 

「もう、大丈夫だから…よっと」

 

ぎこちなくヒナの手から背中が離れて、徐々に体勢を戻していった。そうして十秒間動かずにいてから、前へ一歩を踏み出す。酔っ払いが頑張っているかのようだった。やっと扉に手をかけて、息をつくと、

 

「…ヒナ?」

 

後ろから腕を掴まれて動けなかった。抵抗する余地が微塵もない程度に力強く、指が肌に食い込んでいた。

 

「痛い、かなーって…ヒナちゃん…?」

 

先生の声はもはや弱々しかった。鋭い視線が先生の背中を射抜く。

 

「先生。どれくらい寝てないの?」

 

その声色は、とても平坦だった。いろいろなものが押しつぶされて整地されたかのようだった。

先生はつばを飲み込んでから、声を絞り出す。

 

「…うん、ええと…」

 

「正直に言って…」

 

目を泳がせていたが、やがて圧力に耐えきれなくなってボソボソと自白を始めた。

 

「…3」

 

「3?」

 

「日」

 

「…どうして私のこと手伝ってるの!?」

 

「はい…」

 

「休んで!!」

 

「でも、まだ仕事が」

 

「先生?」

 

「ごめんなさい」

 

「…連絡が必要なら、私がするから!」

 

「いや、生徒にそんなことはさせられない…」

 

「先生」

 

振り返った先生を、腕を掴んだまま扉に押し付けて、真正面から見据える。

先生は、申し訳無さそうな表情でこちらを見ていた。

 

「…っ」

 

「ヒナ」

 

「…とにかく、私につかまって。ソファで悪いけど」

 

「ちょっと、休むくらいでいいから」

 

「喋らないで」

 

「…ごめん」

 

「ちがっ、だから…もう…!」

 

「うう…」

 

「…〜っ」

 

担ぐようにしてソファまでたどり着くと先生を横たえさせる。ぐったりとしていた。先生の顔は病人のように血の気が失せていた。

 

「…」

 

「…あの、立て続けに他の子のところで、トラブルが起きちゃって…」

 

「私は、先生に無理をさせてまで手伝ってほしいとは思わない」

 

「返す言葉もないや。ごめん」

 

「…前にあんな事を言ったから、私、余計に先生を心配させてる?」

 

小さくて遠慮がちな声でつぶやいた。

 

「そうじゃない。そうじゃないんだよ、ヒナ」

 

「隈ができてる」

 

ヒナは悲しそうに言った。それを聞いて、先生が「言い辛いんだけどね…」、と力なくつぶやいた。

 

「ヒナにも酷い隈があるんだよ」

 

「…」

 

「…ごめん。私の身体が2つあればよかったね」

 

ヒナは、泣きたくなった。

 

「………ホットタオル、持ってくるから、待ってて。先生」

 

ヒナは先生の手を大事そうに握りしめてから、立ち上がり、カーテンを閉めて部屋を薄暗くして、静かに扉を開ける。

 

「…じっとしててね」

 

「うん、どこにもいかないよ…」

 

「…」

 

扉をゆっくり閉めると廊下を走って、風紀委員用の生活品がまとめられている部屋へ急いだ。棚から重なって置いてある清潔なタオルをひっつかみ、側にあった洗面器の中に放り込んだ。先生のいる部屋にすぐ戻って、ポッドからちょうどいい温度のお湯を張り、タオルを半分それに浸す。

ソファの脇に洗面器を置いて、タオルのお湯に浸った部分で乾いた部分を包んで絞る。それから丁寧に畳むと、ぐったりと横になっている先生に声をかけてから、目の上にホカホカのタオルをゆっくりのせた。人肌よりも少し高くて心地よい温度で、ヒナの小さな指先が動いて、端を丁寧にのばす。

 

「…ヒナ、ありがとう」

 

先生の声はふにゃふにゃしていて、本当に疲れているのだということが伝わってきて辛かった。

 

「それに、今日は本当にごめんね。助けるつもりが世話になって…先生失格だ…」

 

「…」

 

「こうならないように気をつけてたんだけどなぁ…」

 

先生の弱音にヒナの胸が苦しくなる。

 

「…」

 

指先が先生の頬に触れようと動いた。しかし先生が丁度身じろいだところで我に返って、やめた。

疲労のこもった息を吐き出しながら、立ち上がろうとしているのか、ソファの背を確かめるように何度も掴んでいた。

 

「体調が回復したら、行くね…ずっとここで横になってて、ヒナの邪魔はしたくないし…」

 

上半身を起こすことができなくて、何回もうめいていた。

 

「…ちょっとやること済ませたら、ちゃんとしたところで横になるから、心配しないでね」

 

「…」

 

「うー…」

 

このまま何も言わなかったら、本当にどこかへ行ってしまうつもりなのだろうか。

ヒナは怖くなった。

 

「先生。ここで、安静にしていて」

 

「でも…」

 

「…私が言えたことではないけれど、体調管理をまずはしっかりして」

 

「…仰るとおりです」

 

「責めたいわけじゃないの…先生がみんなに頼りにされてることは、よく知ってるから」

 

「はい…」

 

「…でもね…先生の体が第一で」

 

「そうだね。ちゃんとわかってるよ」

 

「…」

 

物騒な考えがほんの一瞬だけ頭によぎった。

 

『まあ、生徒全般に対して同じ態度なんでしょうけど…そういう意味では、私は先生を信頼しているんですよ』

 

そうだね、アコ。こういう人なんだよね。

 

苦しくなった。

先生のことが心配で怖かったし、自分が生徒の一人でしかないのだと、大事に思われているのはわかっていても、身勝手にもそれが怖くなった。

少しだけ恨めしくて、先生に甘えたくなって、気づかれないくらい控えめに髪の毛を一本つまんだ。

 

「…」

 

ヒナはそのまま何も言えずに、先生の髪の毛を指先ではさんで黙り込んでいた。指の腹で無心に髪の毛をこすっている。なんとも言えないが、悪戯をしているようで悪くない気分になってきた。

そのうち、先生が噴き出した。

 

「…?」

 

「ヒナ…くすぐったいよ」

 

「…」

 

気づかれているとは夢にも思ってなかったので、慌てて先生から手を離す。声がみっともなく震えていた。

 

「ご、ごめん…ごめん!ごめん、あの…!」

 

「てっきり、撫でてくれるのかと」

 

「…えっ、せっ、先生?」

 

「人に触れているとリラックスするんだよね。オキトキシンだっけ?」

 

「いや、あのっ」

 

「人肌が恋しいなぁ」

 

「…〜っ、ぅ」

 

「一生のお願いだよ、ヒナ」

 

「…いやっ、まぁ、私なんかでも、先生の役に、立てるのなら、嬉しいけれど」

 

「やった。ありがとう」

 

「〜〜っ……」

 

耳まで赤くなっていた。

 

そうして、何度目かの躊躇の後、待ち構えている先生の頭を、大事そうに撫でた。

 

「あっ…きく〜…」

 

「…」

 

しばらくそうやっていた。

 

ヒナは先生のことを撫でられて嬉しそうな表情をしていたが、それでも先生がぐったりしている姿を見ているうちに、またさみしげな表情になった。

先生の髪を、丁寧に撫でつける。ボサボサしていた。跳ねてるところを整える。

 

「…先生は…もっと自分を大切にして。いつも、無茶ばかりして」

 

「そうかもね」

 

「…私なら、十分気にかけてもらってるから」

 

「足りないくらいじゃない?」

 

「生徒一人にきりがないでしょう…何人いると思ってるの?」

 

「それでも、私は先生だからね」

 

「…先生が思うほど、私は子供じゃないのよ?」

 

「…そう?」

 

「そうなの。だから、あまり心配しないでいい」

 

「そうかな?」

 

「先生。私はね」

 

ヒナが優しい声で喋る。

 

「あなたと、穏やかに話している時間が、すごく好き」

 

そう話すヒナの表情は少しだけ緩んでいた。

 

「先生が楽しそうに話しているのとか、聞くのが楽しくて。わたしのつまらなくて、なんでもないことを、先生は楽しそうに聞いてくれる」

 

「…」

 

「…でも、それで先生に無理させるなら、そんなのはいらない」

 

「…ヒナ」

 

「たまに我儘を聞いてくれれば、それだけで私は嬉しいの」

 

「…たまに?」

 

「うん。先生が元気でいてくれない方が、困ってしまうから」

 

ヒナは優しく微笑んで、先生の頭を撫で続けた。

 

「いつもありがとうね、先生」

 

しばらくの沈黙。

先生が無言でいきなりゾンビのように起き上がったので、ヒナはびっくりして思わず手を引っ込めてしまった。

 

「せ、先生…?」

 

ホットタオルがはずみで落ちた。先生はそれを拾って、時間をかけて丁寧に畳んだ。その間タオルをじっと見つめていた。

 

「…今の私はただの情けない先生で、偉そうなことは言えないけどさ」

 

「…?」

 

「私が、ヒナの力になりたいんだよ。言ってしまえば私の我儘だ」

 

「…」

 

「ていうか、ヒナの子供みたいな我儘を聞くのが一番気持ちいいんだから」

 

「は?」

 

「だから…ううん…そうだなあ」

 

先生は考え込むようにまたしばらく黙った。

頭をかいてから、小指をそっと、ヒナに突き出した。

 

「…?」

 

「約束をしようか」

 

先生が言う。

 

「…どんな?」

 

ヒナが聞き返した。

 

「私達が、ずっと一緒にいられるようにって」

 

「………………」

 

「無茶をしがちな私達が、無理をしないように。自分のことを何よりも大切にするって、約束をしようか」

 

「…あ、ああ?」

 

「最優先で守ってね。ヒナと私との特別な約束だよ」

 

「…それは、先生も、ってこと?」

 

「うん、自分を大切にするよ。そうじゃないと約束にならないから」

 

「…それなら、まあ…でも」

 

「ヒナ、もう隈を作ったらダメだよ?」

 

「…う、うん、でも、先生」

 

「どうしたの?」

 

「…」

 

「ほら、指切りをしようか」

 

「…」

 

突き出される小指に、おずおず触れると、固結びのようにきゅっとつなげられた。ぷらぷらと上下に揺らされる。

 

「ゆーびきーりげんまん。嘘ついたら、針千本のーます」

 

「…」

 

「ゆーびきーった!よしっ!」

 

「…」

 

「心配しないで」

 

小指を絡ませながら、先生はまっすぐに笑いかけてきた。

 

「ヒナとの約束なら、絶対に守るよ」

 

「…」

 

先生は小指を外し、ヒナの頭をぽんぽんと叩いた。

そして空中に腕を伸ばして、大あくびをした。

 

「さあて、私はこのまま寝させてもらおうかな。実はもう限界を超えてて…リンちゃんには後で謝り倒せばいいや、スマホの電源切っちゃお…ふっふっふ」

 

「…先生、大丈夫?」

 

「大丈夫だよ…あ、ヒナは自由にしてていいからね。でも、ほどほどに」

 

「うん…」

 

「おやすみ、ヒナ」

 

「…おやすみなさい」

 

先生は倒れ込むようにソファに寝そべると、すぐに眠り込んだ。無防備な寝顔だった。

規則的な寝息の音だけが部屋の中で聞こえてくる。

やがてヒナは、毛布を持ってきて、安らかに眠る先生にそっと被せた。物音厳禁の張り紙を作って、目立つように扉の前に貼った。

机に戻って、書類仕事の続きに取り掛かろうとして、ヒナは、黙り込んだ。

 

「…」

 

そのうち立ち上がって、歩いて、ソファの傍らで立ち止まった。

部屋の中に柔らかい風が流れ込んで、カーテンがゆっくりはためいていた。

 

「…うん。これからも、ずっと一緒にいてね」

 

先生の頭を撫でる。

 

ずっと、そうしていた。

 

 


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