カリカリとシャーペンの黒鉛が紙を擦る音が二つ響く。同じ音のはずなのにまるで違う音のように聞こえるのは筆圧の違いか、音源からの距離の違いか。あるいは、片方の音源が俺の持っているそれから発せられているからだろうか。人間、自分の声は骨伝導で聞くことができる関係で他人が聞いているそれとは違って聞こえるものだ。手に持ったシャーペンの筆記音も同じように違って聞こえるのかも――
「……おい、ちゃんと仕事しろ」
途中まで巡らせていた、横道に逸れた思考を放棄し、机に向けていた顔を上げて対面に視線を投げる。
長テーブルをくっつけた先に座るこの部屋の主はこちらに目を向け――崩した姿勢のまま渋面を作った。
「ちょっと休憩しましょうよぉ。疲れた状態でやっても終わんないですって」
「もうそんなこと言える状況ですらないんだが?」
心底疲れた声でだらしなくパイプ椅子にもたれかかり、天井を見上げるのはここ、生徒会室の現主たる一色いろは。その姿は初めて会った頃に比べれば社畜感こそ上がったものの、なんかこう、根本的に成長してねえと言わざるを得ない残念さを醸し出していた。
まあ、そもそもこの社畜な姿も自業自得なのだが。
まず大前提として、総武高校の生徒会はそこまで忙しいわけではない。つうか、普通高校の生徒会なんて教師と生徒の繋ぎ役程度のものだ。忙しくなるときと言えば文化祭や体育祭、あとは去年の卒業式でのプロムのような自主企画のときくらいのものであり、こんな年度初めから忙しくなることはない。
そう、普通であれば。
「まさかこんな面倒な仕事を寝かせていたとはな……」
こいつ、先月教師から新入生向けの資料作成を頼まれていたのだ。まあ資料作成と言っても、用意してもらった資料を一つにまとめるという雑用レベルのものなのだが。
どんな簡単な雑用でも、仕事に使える時間が少なければ激務と化す。
〆切――明日。
「あはは。いやあ、すっかり忘れてました」
仕事に取り掛かったのは――今日だ。
「……手伝うのやめようかな」
「あー! 待ってください! 見捨てないでください! やりますから! 真面目にやりますから!」
あろうことか受け取った資料の中身すら一切見ていなかった生徒会長。他の役員は各々個人的な用事で既に学校に居らず、奉仕部に泣きついてきたというわけだ。
まあ、今日は俺以外全員用事でいなかったんだがな! くそ、のんびり読書して帰ろうなんて考えず、俺も直帰していればこんなことには……。
過ぎたことは仕方がないので、俺の気まぐれによるダイスロールファンブルについては飲み込む。
しかし、それと一色が真面目に仕事をしないのは別である。ちゃんと仕事しろ。なんなら資料の必要箇所抽出俺の方が進んでるじゃねえか。
「それはせんぱいの仕事が早いんですよ。社畜適正高すぎなんですよね、せんぱい」
「……お前は文化祭実行委員会で地獄を見ればいい」
「えっ、こわっ!? 文実ってそんなやばいんですか!?」
いや知らん。あんなのガチャみたいなもんだから、うまくSSR引ければのんびりできるんじゃねえの? まあこのガチャ、確率表示存在しないからSSRが存在するのかすら知らんが。
夏休み後に待っている地獄(予定)にひとしきり震えた一色はため息を漏らし、手元のプリントに視線を落とす。
未だにやる気の感じられない、しかしさっきよりはマシなシャーペンの音が聞こえてきたことを確認して、俺も自分の資料に視線を落とした。
「ああぁぁ、疲れましたぁぁ」
「まだパソコンでプリント作る作業が残ってるけどな。そこまでは手伝えんぞ」
「そんなぁ……」
死刑宣告でも受けたのかと思わせる悲痛な声を漏らす一色だが、パソコンでのプリント作成なんて完全にソロミッションなのだから諦めてほしい。作業的に明日の放課後中には終わるだろう。
そのことは一色も理解しているようで、大きく伸びをすると、自前らしいケトルに水を入れだす。
「なに? 帰らんの?」
なんでくつろぎだしたこいつ。
「今から出ると駅でそこそこ待ちますし、それならちょっと休憩してから帰ろうかなと」
「そうなのか」
雨の日以外電車使わないし、そもそも俺とこいつでは通学で使う路線が違うから、なんとも気のない返事が漏れた。
ココアの準備をしているらしい一色をしばらく眺め、パイプ椅子に浅く座り直し、鞄から読みかけの小説を取り出す。
「あれ? せんぱいこそ帰らないんです?」
「ま、いつ帰っても同じだしな」
「へー」
ふ、ありがたく思うがいい一色。これもひとえにマイラブリーエンジェル小町から「遅い時間に女の子を一人で帰しちゃダメだよ」と教育されたおかげなのだ。そうでなければ「殺人鬼と一緒の部屋にいられるか。俺は部屋に帰らせてもらう」などとのたまう推理小説のキャラばりに爆速で帰宅をかましていただろう。や、それだと俺死んじゃうな。よくゾンビ呼ばわりされてるから半分死んでるようなもんかもしれんが。
「はい、どうぞ。……どうかしました」
「いや、なんでもない。サンキュー」
自傷ダメージをこらえつつ、差し出されたカップを受け取って唇を潤す。甘いココアの風味が鼻腔を抜け、ほう、と安堵にも似た息を漏らした。
ココアって不思議だよな。飲むと謎の安心感がある。コーヒーや紅茶ではこうはならないし、緑茶は似た心地になるが、ココアほどではない。やはりカカオになにか秘密があるのだろうか。
産地はガーナとかインドネシアだっけ? 現地の人に会ったら感謝を伝えよう。なお会う機会は今のところ皆無である。
軽く含むようにココアに口をつけ、書籍のページをめくる。一色は長机に身体を預け、スマホをペタペタと弄っている。
聞こえるのは、校庭から届く運動部が片付けをしているらしく声と紙がこすれ合わさるかすかな音だけ。
……なんだか、去年の奉仕部を思い出すな。
小町が部長となり、奉仕部は今年も継続することになったわけだが、去年に比べると随分雰囲気が変わったと思う。
去年はぼっちの俺と雪ノ下に挟まれた結果、オセロが如く由比ヶ浜が合わせる事が多かったのに対し、小町というコミュニティワイルドカードが出現したことで会話の頻度が爆増したのだ。女三人集まれば姦しいとはよく言うが、実質小町と由比ヶ浜で姦しいを体現しているのが我が部活である。
それが悪いとは思っていないのだが、ふと昔の雰囲気が恋しくなるのは、あの時を好ましく思っているからだろうか。それともただの懐古主義だろうか。
答えのない問いを頭の片隅に浮かべながら、物語を読み進める。
「? どうした?」
「えっ、や、なんでもないです」
ふと顔を上げたときに一色と目が合う。首を傾げて問いかけると、視線を逸らされてしまった。
らしくない動きが物珍しくてその様子を眺めてみる。居心地悪かったのか、しばらく視線を泳がせていた一色はあ、と小さく声を漏らすといつものあざとい笑みを浮かべる。
「ねえせんぱい、知ってますか?」
「何? 豆しば?」
「は?」
「え?」
去年小町と同じやり取りしたなと思いながら返答したら、重低音を投げつけられた。直前の声との温度差が夏場の外と冷凍室くらいあったんだが? なんで怒ったのこの子……え、まさか豆しばをご存知でない!? いやどうだろ。知らん奴は知らんのかもしれない。けどテレビCMにもなっていたわけで……まあ、ああいうゆるキャラも無数にいるからなぁ。
「……仕切り直します」
「あっはい」
完全に明後日に伸びていった思考を引き戻される。
「ねえせんぱい、知ってますか?」
あ、そこからなのね。
「なにが?」
「わたし、来週誕生日なんですよね」
……なにかと思ったらそれかよ。ずっこけなかった俺を褒めてもらいたい。
「知ってるよ、んなこと」
「え、なんですかお前のプロフィールなんて完璧に把握してるアピールですかちょっとうれしいですけど流石に完璧に把握されるのは気持ち悪いので口外するのはやめてくださいごめんなさい」
「ねえ今気持ち悪いって言わなかった?」
ため息をついたら直後にため息案件が湧いてきた件。まさかの事態にため息がコリジョン起こしそうになったぞ。や、ため息がコリジョンってなんだ。ボタン連打されて頭のセリフだけ喋るゲームキャラか?
そもそも、俺が誕生日を覚えているのは十割お前のせいなんだが。
「雪ノ下の誕生日とか小町の誕生日とか、全く関係ない日とか事あるごとに誕生日アピールしたのはお前じゃねえか」
そう。この一色いろはとかいう後輩。事あるごとに自分の誕生日を伝えて来ていたのだ。その頻度サブリミナルが如し。いや、あれはテレビや動画配信サイトで流れてくるCMレベルの亜種だな。CMで自分の誕生日を教えてくる一般高校生……怖くね?
画面越しに誕生日を伝えてくる一色を想像して恐怖している俺をよそに、当の一色はむふー、と笑みを浮かべる。そこはかとなくうざい。
「せんぱいにはこまめに伝えておかないと、聞いてなかったってはぐらかされるのがオチですからね。これだけ何度も言っておけば流石にそんなこと……や、忘れてたって言いそう」
「俺の評価低すぎでは?」
まあ、一切否定はできないんだがな!
さすがはあざとさ一本で食ってきた女、一色いろは。人のことをよく見ている。俺がわかりやすいだけ? ちょっと何言ってるかわからないですね。
「というわけでプレゼント期待せずに期待してるんで、よろよろでーす!」
うぜえ……。
こういうときにわざわざ舌ペロ+ピースなんてポーズを決めるのが一色いろはが一色いろはたる所以と言えよう。最早身体に染み付いたポージング、実家のような安心感、親のポージングより見たポージング。もっと親のポージング見……いや、かーちゃんが似たようなポーズ取るとこなんて見たら、俺は冨岡義勇と一緒に腹を切る覚悟を持つが?
つうか、期待せずに期待するってどういう状態なんだよ。
「はあ、もう準備はしてるから交換できねえんだよなぁ。期待はすんなよ」
脳筋ゴリ押しなオリジナル技を持つ男を巻き込んだことなどおくびにも出さず、後輩のテンションを受け流す。
「え、ぁ……」
「…………?」
会話のキャッチボールを拒否したことで軽快な追撃が来ると想定していたら、なんか予想と違う反応が来て、こちらも言葉に詰まる。なんだその呆けた表情は。俺が誕生日プレゼント用意してるのがそんなに意外……かもしれねえ。少なくとも去年までの俺なら絶対買ってない自信がある。
「あ、あれですか? 小町ちゃんにせっつかれて一緒に買いに行ったとか」
「いや、普通に一人で行ったけど」
場所? 安定のららぽです。むしろららぽしか知らん。無知な俺を許してほしいが、無知を知っているからむしろ偉くないか? 褒めてくれソクラテス大先生。
「あ、そう……」
せっかく再起動したのにまた呆けられてしまった。なんだこの噛み合わなさは、なんかむずむずしてこちらまで居心地が悪い。
いやまあ、居心地が悪いと言っても不快とかそういう類ではないのだが。
「……」
「……」
…………。
わりい、やっぱつれえわこの空気。
「……帰るか」
「そ、そうですね!」
カップの底に残っていたココアだまりを飲み干して席を立つ。一色も同じように飲み干したカップを片付けると、鞄を掴んでついてくる。
生徒会室の施錠をする後輩の後ろ姿を眺めながら思い浮かべるのは、自室の隅に置いているラッピングされたプレゼントの姿。
はてさて、俺のセンスはこいつのお眼鏡に適うのだろうか。