炭治郎たちが向かった山、那田蜘蛛山へと続く道を軽快に走り抜ける。辺りは既に暗くなり始め、麓はもう完全に陽が届いていない。
「この先の山か」
『ハイィ……目ノ前ノ山デスゥ……』
暗くなってきてよく見えないが、目の前には大きく、そして異様な雰囲気を漂わせる山がある。
オーストリア兵が潜むアルプスの山々でも、もう少しおとなしかった。
「うん?──うお!?」
車を意気揚々と走らせ、いざ入山──といったところで、千尋は急ブレーキを踏んだ。山に続く道の真ん中に、人影のようなものが見えたのだ。
見るとそれは鬼殺隊の隊士であり、頭の色から、それが我妻隊士であることに気がつくのに、そう時間はかからなかった。
「おい、こんなところで何をしている」
「え、──アアア橘さん!!来てくれたんだすねェッ!!!」
「喧しい!!」
「痛い!?」
鼻水を垂れながら胸に飛び込もうとした我妻を千尋は容赦なく殴り飛ばした。彼はあまり鉄拳制裁を好まないタチではあったが、どうも新人たちにはつい手が出てしまう。
「それで、貴様はこんなところで何をしている。竈門たちはどうした」
「そ、それがぁ……」
泣きべそをかきながらだが、我妻はしっかり千尋に状況を説明した。
曰く入山前、道の真ん中で倒れていた隊士を助けようとしたところ、その隊士が何かに引っ張られるように山に引き摺り込まれるのを見てしまい。それで腰が抜けてしまったそう。炭治郎と嘴平はそれでも勇敢に山に向かい、それからは分からないと。
「俺……嫌われてるんですかね。普通、仲間置いて行きますかね」
「説得と任務続行を天秤にかけた結果だろう。ほら立て、一緒に行くぞ」
「あ、橘さんは説得してくれるんですね」
「部下を励ますのも上官の役目だ」
千尋はドイツの戦場を思い出した。たしかドイツ軍では、前線から逃げ出した兵士の背中を撃つ部隊が存在しているとか。なぜそれを今思い出したのかは分からないが、とにかく我妻を奮い立たせた。
「我妻、お前はなんと言われようと、あの最終選別を突破した栄えある鬼殺隊の隊士だ。その鬼殺隊隊士がこんな場所で腰砕けになってどうする」
「……俺、最終選別突破はしたんですけど、ずっと逃げてばかりだったし、失神しても運良く鬼に食べられなかっただけで、本当の戦場行ったら間違いなく死ぬんですけど」
「大丈夫だ。第一、あの選別会場でそんなに運のいいことが起きたなら、お前はそういう星の元に生まれたということだ」
「いや、俺ちょっと前まで女に貢がされて借金まみれだったんですけど。それでその女も別の男と駆け落ちしちゃったし」
「ならその分のツケが今になって帰ってきたと思えばいい。お前ならやれるさ」
「でもぉ……」
いつまで経ってもうじうじとする我妻に痺れを切らした千尋は、仕方なしにとある交渉をした。
「よしわかった。我妻、お前確か禰豆子に好意を寄せていたな」
「は、何言ってんですかあんな美少女を前に好意を寄せない方がおかしいでしょアンタタマ付いてるんですか」
「ぶっ飛ばずぞ貴様」
千尋は抜刀寸前で理性を取り戻し、咳払いをして話を戻した。
「もしお前が勇敢にこの山に入って任務を達成した暁には、私から竈門に、禰豆子の髪をひとふさ分けてもらうよう話そう」
「髪?」
「ああ、私は最近まで欧州にいてな。そこで、妻や恋人の髪を持ち歩く兵士をよく見た。なんでも、愛する人を少しでも感じられたらと、女性側からの粋な計らいらしい」
「ッ!」
実は千尋も既婚者で妻の髪を持ち歩いていることは秘密だ。
「どうだ?きっと竈門も、お前が勇敢に任務に行ってくれるなら喜んでくれるだろう」
「はい行きます!!禰豆子ちゃんのためなら鬼なんて十百、いや千まで斬り殺して──アアアアアアアアア!!!」
「うるっさ」
突如として我妻は砲撃の音よりも大きい声で叫び始め、千尋は耳を塞いだ。一瞬気合いの雄叫びかと思ったが、どうも違う。何かとんでもないことを思い出したかのような叫びだ。
「禰豆子ちゃん炭治郎の野郎が持って行きやがったアアア!!」
「いや、禰豆子と炭治郎は兄妹なのだから共に行動するはずだが……」
「とんでもねぇ炭治郎だ!!ほら行きますよ!!とっとと鬼をぶっ殺して禰豆子ちゃんを助けるんだ!!」
「お、おう」
いきなりやる気に溢れた我妻に引き気味の千尋だったが、やる気に溢れる分ならいいことなのでとりあえずそのままにした。
だが急激に上がったやる気は、急激に下がると、千尋は知っていた。
「ほら、早く歩け。トロトロ歩いていると、そこを鬼に狙われるぞ」
「うううぅ……怖いよぉ……」
さっきまで千尋を振り切れそうな速度で山の道を走っていた我妻だったが、今では幼子でも追い越せそうなほど著しく歩速が低下している。ひっきりなしに周りを見渡し、刀に縋って内股で歩いて。それではダメだと言っても、我妻は恐怖を乗り越えられなかった。
「なんで橘さんはそんなズカズカ歩けるんですかぁ……」
「ズカズカなど歩いていない。周囲の警戒を正確に素早くやって歩くんだ」
我妻のように周囲をとびきり警戒することは悪いことではない。ここは鬼の縄張りであり、そこを進むということは鬼に向かって進むということである。そして何より、縄張りへの進行が順調であるということは、敵の待ち伏せに突っ込んでいくということでもある。
そのため我妻のように周囲をずっと警戒している兵士が一人は必要なのだが……我妻の警戒は少しばかし過剰であった。
「いたっ!」
「気をつけろ。山は鬼だけでなく虫もいる。虫を媒介に感染する病気もあるから、患部をできるだけ水で流せ」
「は、はい」
「しっかし、本当に虫が多いな。蜘蛛ばかりだ。それに臭い。刺激臭というかなんというか」
「あとカサカサうるっさいんですよね!一生懸命生きているのはわかったからもっと蜘蛛らしく静かに動いてくれませんかね!!」
「それを私に言ってもしょうがないだろう。こんな気持ちの悪いところ、さっさと鬼を殺して山を降り──」
その時、千尋は言葉を失った。悲鳴を上げようとしたが、気持ちの悪さのあまり声が出なかった。だがその代わりに同じところを見た我妻が声を上げてくれた。
二人の視線の先には、蜘蛛の体に禿げた人間の頭部、所謂『人面蜘蛛』がいたのだ。下半身が蜘蛛で上半身が人間の『蜘蛛人間』くらいなら任務で見たことがあったが、巨大な蜘蛛の体に人の頭をそのままくっつけたかのような、率直に言って気持ちが悪い生物はここまで見たことがなかった。
千尋はその気持ち悪い生物をすぐに射殺しようと拳銃を構え──すぐに下ろした。いや、下ろされた。
我妻が千尋の右腕を掴んだのだ。
千尋は初め、我妻は怯えて右腕に縋ったのだと思った。
「だ、ダメです……そ、
だが違った。恐怖で狂ってしまいそうだった我妻は、冷静にそれを人か鬼かを見極めて見せた。
千尋は思いの外冷静であった我妻を褒めようと頭に手を伸ばす──
──ガサッ
「ギャアアアア動くのね!!?」
我妻はまた千尋を振り切らんばかりの速度で山を駆け抜けた。多分その速度は、千尋の愛車シルバーゴースト号の初速より速いだろう。
それはそうとして。
「待て!この状況で単独行動するバカがいるか!」
千尋も千尋で、我妻のみを心配してそれを追って走る。走る──が、千尋は我妻が、臭いの元、つまり元凶となる鬼の元に向かっていることに気がついた。
おそらく、我妻は無我夢中で走るあまり、運悪くそっちに走ってしまっているのだ。
そして一分も走らぬうちに、その場所に辿り着いた。蜘蛛の糸のようなもので小屋が宙に浮いていて、その横には蜘蛛のなりかけが四人浮いている。一人痙攣していて意識はあるようだが、おそらくすでに正気ではない。
そして何より刺激臭がとてつもない。硫黄やアンモニアなどともまた違う、喉を焼くような痛みを伴う臭いだ。単純に言って臭い。今すぐにでもガスマスクを付けたいが、そんなものは持ち合わせていない。手拭いで鼻を覆ってもまだ強烈な臭いが鼻をついた。
「油断するな我妻。ここが敵の本陣だ」
「は、はい──っひ!!」
千尋が我妻に喝を入れると、それと同時に浮いている小屋から大元と思わしき蜘蛛人間……否、蜘蛛鬼が逆さ吊りで出てくる。さっき見た人面蜘蛛よりもずっと大きく、全身に毛が生えていて先ほどの人面蜘蛛よりもずっとずっと気持ち悪い。
何よりこちらを小馬鹿にするように細めた目が気に食わない。
「ギャアアアアアアアアア!!俺!お前みたいなやつとは口効かないから!!」
「あ、おい、私の後ろに隠れるな!動きづらいだろ!」
我妻はその蜘蛛鬼を見てすぐに千尋の隊服を掴んで隠れた。
「くふっ、隠れても無駄だぜ。そっちの奴はともかく、お前はもう負けている」
「喋んなよ!嫌いなんだよお前みたいなやつ!」
「くふふっ、手を見てみな」
そう言われて、千尋は手を見た。確かに我妻の手は所々紫色に変色し、皮がむけて肥大化している。毒の症状だと理解するのにそう時間はかからなかった。
感染者である我妻も目視するまで気が付かない、極めて自覚症状の出にくい厄介な毒。
毒の血鬼術は、千尋が最も苦手とする異能であった。大抵の血気術は元となる鬼を殺せば無害化される。珠世のような幻覚を見せる血鬼術なら珠世を殺せば幻覚は消える。
だが毒は違う。一度体に撃ち込まれれば鬼を殺しても体の毒が消えることはない。マッチの火を消したところで、それから燃え移った火が消えることはないように、毒の血鬼術は一度打ち込まれれば血清を作るまでは無毒化できない。
「さっき蜘蛛に咬まれたろ?お前も蜘蛛になる毒だよ。四半刻後には俺の奴隷となって地を這うことになる。時間が進めば目眩と吐き気、さらに進めば全身が縮み激痛が走って失神する。それで目が覚めた時には──」
「ギャアアアア!!……うん?ギャーーーーッ!!」
蜘蛛鬼からの懇切丁寧な説明の途中で悲鳴を上げた我妻は、足元にさっきの人面蜘蛛が集まっているのを見てさらに悲鳴を上げ木の上に逃げた。
「……逃げても」
「ハイハイ無駄ね!わぎゃってんのよ!そんなこと!!うるせーようるせぇんだよ!!どうせ俺は炭治郎のように勇敢になれないし、伊之助のように馬鹿正直にも、橘さんみたいに強くなれないよ!!でも俺だって頑張ってるんだよ!なのに最後は禿げた化け物になんの!?嘘でしょ!?嘘すぎない!?……オェっ」
我妻は木の上でひどく怯えていた。ガタガタ震え、戦意を失ってしまったように見える。きっとあのままではストレスがかかりすぎて失神していまいかねない。
「お前も大変だなぁ、あんな臆病で惨めったらしい部下を持って。お荷物だろ?そうだ、アイツを差し出せば、お前は見逃してやる」
蜘蛛鬼はそう千尋に言った。
「……」
確かに今の我妻はみっともなくて刀を持つにふさわしくない、いわばお荷物だ。鬼を目の前に背中を見せて泣き叫び、気絶してしまうような者はとっとと鬼殺隊から追い出した方がいいかもしれない。
「確かに我妻はみっともない。惨めったらしい、雷一門の出来損ない、鬼殺隊の恥晒しだ」
「そうだろそうだろ」
「コイツら新人隊士にはずっと手を焼いている。一人は重大隊律違反者で、一人は服や箸もまともに着れない馬鹿、一人はそこで恥知らずだ。出来損ないのコイツを、お前が引き取ってくれるか」
「ああ引き取るさ、多くの鬼狩りがこの山に入って奴隷が減ったんだ。さぁどっかに行け」
千尋は一泊置いて──怒髪天を貫いた。
「断る!出来損ないのクズでも私の大切な部下だ。戦いから逃げるし、恥も外聞もなく泣き叫ぶ、根性もない私の大切な部下だ。私の『大切な荷物』なんだ。私は決して、一度背負った荷物を下ろしはしない」
その瞬間だった。千尋の背後から凄まじい速度で何かが追い越すと思ったら、遅れて落雷のような凄まじい踏み込みの音が聞こえてくる。その音源が我妻であると分かるのはそう時間はかからなかった。
蜘蛛鬼は強力な毒を吐いて牽制するが、既にそこに我妻はいない。千尋も目で追えるかどうかの、神速の抜刀術であった。
雷の呼吸 壱の型
以前、新人隊士の調査と称し、我妻の育手である桑島慈悟郎氏を訪ねたことがある。
以下はその会話である。
『彼奴は強いがとびきり臆病でな。刀を抜こうせんのじゃ』
『刀を。それは大変ですね。刀を抜けないのであれば、後方支援に回るよう、私から話を』
『いやそれには及ばん。抜かないだけで『抜けない』訳ではない。あとは本人のやる気次第じゃ』
『それにしても……
『だが基礎はしっかりしておる。雷の呼吸は壱の型が全て。壱の型が使えないからいかんという訳ではないが、儂ゃ善逸にはそこまで落胆はしておらん。むしろ問題は獪岳……いや、これは関係ない話じゃな』
『我妻隊士の戦績には私も目を疑いました。入隊して半月、討伐数は三十。新人隊士の討伐数の
『ハッハハ、そこまで褒めるでない。だがな花柱。彼奴の力量を見誤るのではないぞ。彼奴の一番の武器は──』
霹靂一閃
──諦めの悪さじゃ
「斬られた!?あんな恥晒しに!?毒が回って何も──」
蜘蛛鬼の首が飛び、地面に転がった頭部を拳銃で撃ち早々に消し炭にした。それから拳銃をホルダーにしまい、高く跳躍し力尽きて落下する我妻を受け止める。
すでに全身に毒が周り、顔周りの皮膚が毒で爛れている。すぐに治療しなければ危険な症状が出始めていた。
「おい、分かるか我妻。指を目で追え……くそ、無理か。いいか我妻、聞こえているかどうかは知らんが、今から貴様にアドレナリン注射を行う。薬物などの中毒歴は……喋られないか」
千尋は懐から一本の注射器を取り出して、戦場で見慣れたアドレナリンを打ち込んだ。
アドレナリンは、蜂毒などの虫刺されや食物アレルギー、薬物などに起因するアナフィラキシー反応に対して用いられる自己注射薬。少しでも毒の巡りを遅らせ、治療を間に合わせることが目的だ。
「ああクッソ、解毒剤が必要か!雀、ありったけの隠を呼べ!一人くらい衛生が」
「──その必要はありませんよ」
突如現れた人物は蝶のような羽織を着ていて、月の光にあたって鮮やかに光る髪をしていた。顔に浮かべた笑顔は薄気味悪くて知らない表情であったが、千尋はこの女を知っていた。
「毒の血鬼術に効く解毒剤です。アドレナリン注射はいい判断ですが、それだけでは足りません。まぁこの解毒剤は私しか持っていませんけど」
「……胡蝶しのぶ」
「はい、お久しぶりです橘さん」
蟲柱・胡蝶しのぶ。千尋が最も嫌いな女だ。
「帰国なさってたんですね。激戦と呼ばれたヨーロッパの戦場を生き延びたとは驚きです。そのまま向こうにいてもよかったのに」
「私も貴様が柱になったと聞いて、ついに産屋敷殿は耄碌したのかと思ったぞ」
千尋の記憶にあるしのぶは丙の位で、柱など雲の上の階級であったはずだ。それにこんな薄っぺらい笑みは貼り付けられていなかった。男児三日会わざれば刮目せよというように、同じく女も少し見ないだけでこうも変わるか。
「……その肩章、衛生部隊長か。ならばここは貴様に任せよう。この者の名は我妻善逸。雷の呼吸の使い手で、育手は桑島慈悟郎殿だ」
「はいありがとうございます。ではさっさとどこかに行ってください。治療の邪魔です」
「言われなくても貴様の側にはいたくない」
千尋は立ち上がり、山のさらに奥深くへと歩みを進めた。
ふと、なぜここに柱がいるのかと疑問に思った。現状この山には、二人の柱がいることになる。
しのぶは千尋の帰国に驚いていた。つまりしのぶにとって、ここに千尋がいるのは予想外のことであった。確かにここは激戦地で、並の隊士では太刀打ちできない。だが柱が一人で派遣されることはない。
かつて胡蝶カナエの単独任務が狙われたことから、任務で遠方に柱が派遣される際、必ず二人一組で派遣される決まりとなっている。つまり、しのぶがいるということは、もう一人、千尋以外の柱がこの山に来ているということだ。
柱──鬼殺隊のでも、とびきり鬼への憎悪と殺意に満ちた人物だ。
そんな連中が禰豆子とそれを庇う炭治郎をみたらどう思うだろうか。間違いなく、その場で斬首される。それだけは回避する必要がある。
千尋は冷や汗をかきながら、山の中を疾走した。
大正コソコソ噂話 千尋の嫁
千尋はアルプスの戦場で出会った夫婦の一人娘を嫁にもらった。年上嫁で外国人という異様な結婚(当時の価値観)であったが、意外にもご近所付き合いはいい。日本になれぬ妻のために千尋専用の隠を何人か引き抜き、妻の世話係を任せている。ちなみに隠の給料は千尋負担。