「ふざけるな!」
昼下がりの蝶屋敷に花柱橘千尋の怒号が響く。彼の声は非常に通るもので、昼寝をしていた患者や周辺をたまたま通っただけの通行人も、その声に驚き飛び上がった。
何事かと多くの隊士や関係者たちが声の方に走る。炭治郎たちが千尋の元に辿り着いた時には既に人の壁ができていて、その壁の奥から、千尋としのぶの口論の様子が聞こえてきた。
「前々から図々しい女だとは思っていたがここまでとは思っていなかった!見下げた奴だ!」
「それはこっちの台詞です!人のものを盗んでおいてよくもぬけぬけと!」
「だから盗んでなどいないと言っているだろう!どうせ貴様のことだ、管理を怠り紛失しただけだろう!それを私のせいにしようとは下衆な女め!」
「どう考えても貴方しかいないんです!貴方があの部屋から出るまでは必ずありました!あの部屋のは誰にも入れるなとアオイとカナヲに言いつけてあるんです!あの部屋を出入りしたのは、私と貴方以外いません!」
「私はカナエ殿の許しを得て部屋に入ったし、貴様は今まで任務で栗花落も今は任務中だ!私以外が部屋に出入りしていないとどうして言い切れる!少しは足らぬ頭を働かせて言え!」
以前から二人の不仲は有名な話で、顔を合わせれば嫌味を言い合うと評判だったが、どうも今回の口論は様子が違う。一触即発、柱合会議裁判での実弥と千尋のやりとりを見ているようだった。
見かねた炭治郎が人の壁を掻き分け、二人の間に入る……が、
「な、何があったんですが?」
「貴様は黙っていろッ!」
「竈門くんは下がっていなさい」
二人は炭治郎を一瞥もすることなく弾く。他の隊士たちも炭治郎に触発されなんとか仲裁しようとするも、柱同士の言い争いに首を突っ込めるだけの勇者はおらず、場の空気が悪くなっただけだった。
だが諦めの悪さなら鬼殺隊一と言われた炭治郎はしつこく口論の理由を聞いた。それで、ついに千尋が深いため息をつき、炭治郎にことの経緯を話した。
「私はコイツに用があってこの屋敷を訪れたが、不在だった。この部屋で待つようにとカナエ殿に言われ、言葉通りに待っていたんだ。するとどうだ、このクソ女が研究していた毒を盗んだと言いがかりをつけてきて、今こうなっている」
「部屋は誰も立ち入れるなとアオイとカナヲに言っておいたんです。それなのにこの人が部屋から出てきて、その上研究していた対鬼用の毒のサンプルが無くなっていたんです。それも一番純度が高くて、完成させるのに一番苦労したのが!」
「お、落ち着いてくださいしのぶさん……橘さん、本当に毒を盗んだりしていないんですか?」
「私はそんなもの盗んでいない。カバンを隅々まで探ってくれてもいいぞ」
「では失礼して……」
炭治郎は突き出された肩がけのカバンを、千尋の言葉通りに隅々まで探る。しのぶの言う通りならそれらしきものが見つかり、千尋の言う通りならこのカバンは彼のもので溢れているはず……
「……」
そうして隅々までカバンを探った炭治郎は一呼吸おいて、
「それらしいものはありませんでした」
途端的に告げた。すると今度は、しのぶが炭治郎からカバンをひったくるように奪い、千尋の断りも得ずにカバンを探り始めた。
だが結果は同じ。出てくるものは予備の弾薬や着替え、銭湯食料に包帯だけで、毒物らしき物は見当たらなかった。
「もういいだろう。さっさとカバンを返せ」
身の潔白を証明し、まるで勝鬨をあげるかのように声を発した彼はカバンを奪い返し、これみよがしに鼻を鳴らして、さらにしのぶをさらに見下して言った。
「これに懲りたら人を疑う前まず己から疑うことだな」
「……っ」
炭治郎はしのぶから遺憾の匂いを感じ取った。
たしかにしのぶ目線で言えば毒を持ち出した犯人は千尋だったかもしれないが、それはあくまでもしのぶ目線の話にすぎず、多角的に状況を見れば彼ではないこと分かったはずだ。この匂いは、そんなことも分からない自分に向けた匂いだろう。
しのぶからすればこの状況は面白くないし、千尋からしても時間を無駄にした上に濡れ衣を着せられたわけだ。
「……っはい、すいませんでした」
「ああ、以後気をつけろ」
だが二人とも大人だ。謝罪は述べるし、誠意を受け取ってそれを認めた。
もう終わりか。そう思い、炭治郎や他の野次馬隊士たちも解散の意向を見せる──その時だった。
「でも、疑われるような行動をとる貴方にも原因があるでしょうに……」
それはしのぶにとってただのボヤキのつもりだったのだろう。事実、その言葉が耳に入ったのは炭治郎と千尋だけだったわけで。
それにしのぶからすれば買い言葉に売り言葉だったのだ。その上、最近思うように実験の結果が出ず焦り、そうしてようやく成功した毒がなくなっていて、強くストレスを感じてしまったものだ。
大人びているしのぶとて、まだ多感な十八の娘。不満の一つや二つ、口からこぼれ出てしまっても不思議ではない──だが、相手が悪すぎた。
「──なんだと……?」
「そこを退け竈門!この物狂女、一発撃ってその腐った根性叩き直してくれる!離せ貴様らッ!」
「ダメです!落ち着いてください!」
「黙れッ!素直に誠意を見せていればよかったものの、これ以上私の名誉を汚されて落ち着いてなどいられるかッ!」
「落ち着いて!誰か!もっと隊士を!」
「退けッ!貴様らには関係ない話だッ!」
☆★☆
しのぶの一言に激昂した千尋は、治療機関内でありながら拳銃を抜き、それをしのぶに突きつけた。炭治郎がそれに気が付き間に入り、野次馬隊士たちが千尋を抑えなければ、たちまち発砲していただろう。
その行動は異常なまでの報復に達していたことは本人も認めているものの、その原因が胡蝶しのぶの口滑りであったことは炭治郎としのぶ自らが証言しており、一週間の停職と当分の接近禁止が言い渡された。
接近禁止故、お互いに使者を使わせることで謝罪をし、一件は落ち着いた。
だが二人の溝は果てしなく深まり、仲良く手を取り合うことは絶対にないと皆腹の底で思っており、事実当の本人らもそう思っていた。
そこで千尋は、停職期間を利用し、妻と共に刀鍛冶の里を訪れた。無限列車戦で粉々になった刀ができたというので、取りに来たのだ。
「到着いたしました」
「ご苦労。しかしなぜ妻にも目隠しを?妻は日本語を喋れない」
「そういう規則なんです。ご容赦ください」
刀鍛冶の人間ではない千尋はもちろん妻のアドルフィーネにも目隠しをされ、その上愛車のシルバーゴーストを他人に運転され、千尋は少し不機嫌だった。
「『行こうアドルフィーネ。まず里の長に挨拶しないと』」
「────」
ただ刀を取りに来ただけではあるが、まずは里の長に挨拶をしなくてはいけない。
「どうもコンニチハ。ワシ、この里の長の鉄地河原鉄珍。里で一番小さくって一番偉いのワシ。畳におでこつくくらいに頭下げたってや」
「ご無沙汰しております、鉄地河原殿。こちら、私の妻のアドルフィーネです。オーストリア人で未だ日本語が喋られませんで、挨拶はご勘弁を。こちら、西部戦線で手に入れた嗜好品です。私も妻も嗜みませんので、どうぞ」
千尋はワインとドイツタバコを差し出し、鉄地河原の機嫌をとった。彼は歳の割には愛煙家であり、また酒豪だとも聞いている。
この里の長である彼の機嫌は取っておいて損はない。
「うんうん。別嬪さんな嫁さん捕まえたんやね。アドルちゃん。この子は若いけど立派な戦士や。でもちーっとだけ背伸びしすぎの子や。だからしっかり癒したりや」
「あ、あの鉄地河原殿。妻は日本語が分かりませんので、これで……『アドルフィーネ、部屋に戻っててくれ。仕事の話に入る』」
「──」
そう言ってアドルフィーネは立ち上がり、部屋の外に向かって歩き出した。
すると彼女は部屋を出る前に立ち止まり、こちらを向いて
「……シツレイ、シマス」
片言だったが、確かにそう言った。
それを聞いた千尋は首が痛むほどの速度でアドルフィーネの方を向き、ガマのように大口を開けて驚愕した。
確かに千尋は彼女に日本語を教えていたが、休日の暇な時に教えているくらいで、まだ五十音を教えているくらいだ。
「……馬鹿な」
「彼女、日本語を理解しとったようやで。さっきもワシの話を聞いてたとき、何回も頷いとった。大方、アンタを驚かせようっちゅう魂胆やったんや。可愛げがある子やね」
「……ええ、自慢の妻です」
アドルフィーネは、千尋が思っているよりずっと賢いようだった。
それはさておいて、鉄地河原の側近が千尋の刀だと言って刀を差し出す。鞘は煌びやかなニッケルメッキで切羽や柄の鮫皮巻きに桜葉の彫物。どこをとっても美しい。
美術品を見るような手つきでそれを抜いてみると、抜いたそばから無色だった刀身が鮮やかで濃い桃色に変わって行き、悪鬼滅殺の代わりに掘られた万朶の桜がよく映える。
もちろん、刀で重要なのは美しさではなく斬れ味なわけで──
「千尋くん、ほれっ!」
「───ッ」
鉄地河原が突如として宙に投げた紙の方向を一瞬で見極め、即座に刀を振るう。
空中に浮かんだ紙を斬ることは熟練の侍でも難しい。空中の紙は張りがなく撓ってしまい、刀の振るう向きに従ってしまうのだ。
だが、一流の剣士と一流の刀があれば決してその限りではなく、現に鉄地河原が投げた紙は、綺麗に二つに分かれた。
和紙特有の長い繊維すらも一刀両断し、紙は地面に落ちる寸前でハラリと別れた。
「ほっほっほ。だから柱に刀を渡すのが楽しみなんじゃ」
「全く、試し斬りならすでに終わっているでしょうに」
「君のような素晴らしい剣士は里に駐在しておらんのよ。定職期間中とはいえ、ゆっくり過ごすんじゃ。あの子、相当君のことが心配らしい。しっかり休ませぇや」
そう言われて振り返ると、障子の奥にアドルフィーネの影が見えた。どうやらまだいたらしい。
千尋は鉄地河原の言う通り、アドルフィーネを連れて部屋に戻る。
もう夜も遅いというのに、里は活気付いていて、彼方此方で鉄を打つ音が聞こえる。
初めはうるさいと思っていたが、段々とと音に慣れ、さらには部屋に入るとほとんど聞こえなくなった。里の者も騒音に悩まされ、防音技術も上がったようだ。
「───」
「『今から温泉に行くんだよ。セーチェーニ温泉のような絶景があるわけじゃないが、泉質が良いらいい』」
セーチェーニ温泉とは彼女の生まれ国オーストリア=ハンガリー帝国にある大温泉だ。
元々オーストリア=ハンガリー帝国は温泉大国として有名であり、欧州にも温泉や風呂に入るという文化は昔から存在していた。わざわざ彼女をここに連れてきたのは日本の温泉を味わって貰いたいからだった。
「───」
「『ここの温泉は色んな効能があるらしい』」
刀鍛冶の里は、戦いで傷ついた隊士らの保養地としての顔も持ち合わせており、その効能は多くの隊士がまた入りたいと言っているほどだ。
千尋はここの温泉に入ったことはないが、煉獄や宇隨からその話はよく聞いていて、一度は入ってみたいと思っていた。
二人は服を脱いで身体を洗って湯船に浸かる。
熱い。ぬるい湯は返って疲労が溜まってしまうが、ここの温泉はしっかり熱く、疲れがすぅーっと抜けていった。
なるほど、これは病みつきになる隊士が多いのも納得がいく。
「『ここは雲が薄く、星がよく見えるらしい。夜にもまた来よう』」
とても良い温泉で、二人の機嫌が良くなっていく。
ここ数日、上弦戦や柱合会議、しのぶとのいざこざと連続したストレスに疲弊し余裕がなかった千尋のだったが、心清々しいものへと変わっていく。
だが心休まるひと時に、悪気はない乱入者が。
「この声、橘さんかしら!こんにちは橘さん!」
温泉に設けられた男女を分ける仕切りの向こうから、聞いた事のある声が聞こえてきた。
誰だっけと記憶を掘り出す前に、声の主は「私です!甘露寺蜜璃です!」と元気いっぱいに自己紹介をした。
甘露寺蜜璃──鬼殺隊の恋柱。二人しかいない、女性の柱の一人。使用する呼吸は『恋の呼吸』なる炎の呼吸から派生した全く聞いた事のない呼吸。桃色と毛先の緑。胸元のボタンをシャツごと大きく開けている、既婚者としてはあまり接したくないファッションセンスの持ち主だ。
なお後日、そのファッションは鬼殺隊被服係の恥と呼ばれる前田の仕業と知り、千尋は彼に発注していたアドルフィーネの服を全て中止にした。
「煉獄さんから話を聞きました!かつて橘さんも煉獄さんのところで修行してたから、私たち兄弟弟子だって!」
確かにそんな話もあった。
欧州戦線に行っていたとき、杏寿郎からいくつも手紙が届いた。
多くは父や弟、鬼殺隊の近況などが語られたが、中に甘露寺に関する文言があったのも覚えている。
まず弟子が出来たと手紙が届き、その次の手紙でその弟子が独り立ちして柱になったと書かれていたときは、付近に落ちてきた迫撃砲よりも驚いたものだ。
「アドルフィーネ、少し静かにしていてくれ……そうだな。私も元は煉獄一門の門下生だった」
「ですよね!だから私、いつか話してみたかったんです!でもその前に、橘さん戦争に行っちゃったって聞かされて……」
「私も君とは話してみたいと思っていたんだ。煉獄からの手紙によく君のことが書かれていた」
もちろん嘘であるが、千尋と甘露寺がまともに会話したのはこれが初めてだった。
彼女が恋柱に任命された際の柱合会議は千尋が戦場を駆け巡っていた頃の話だし、柱合裁判ではまともに話す機会もなかった。
「そういえば橘さん、この前の柱合会議大変でしたね。軍事施設襲撃の報告に……珠世さんの件も」
「……ああ。不死川のせいで散々手こずったが、理解は得られた。最終決戦に向けて、珠世殿は必要最低限の戦力だ」
しのぶと千尋の衝突の数日前。
千尋は司令部庁舎襲撃事件の報告のため、産屋敷家の開催ではなく、千尋個人として自宅で柱合会議を開催した。
まず会議では、千尋が柱たちに謝罪を述べた。司令部庁舎の襲撃は予測できたはずだった。近衛兵の介入はとっくの昔に鬼に知られているはず。産屋敷とは違って場所が隠されていない司令部庁舎は、鬼にとっての格好の的だった。
だというのに、千尋は鬼が愚かだと、近衛兵の司令部の場所など特定できないと思い込み、これといった対策を取らなかった。その結果、司令部の高級将校三人を殺された。
これは軍と鬼殺隊の協力関係を揺るがしかねない事件。全て自分の失態だと、産屋敷家を初めとする鬼殺隊上層部に謝罪を述べたのだ。
それから千尋は必要な協力者だと柱たちに珠世と愈史郎を紹介した。勿論、反発は大きかった。特に不死川を始めとする鬼への憎悪が大きい者たちだ。
だが千尋とてそれを想定していない訳では無い。珠世と出会ってから進めていた裏工作と情報操作により、千尋は珠世の過去を全て消し去り、新しい物に置き換えた。珠世という女性は、鬼舞辻を憎みながらも奴の懐に潜り込み、復讐の機会を伺いながら数百年間人を喰らわなかった、誇り高き大和撫子になったのだ。
その捏造された珠世の過去に、柱たちは刀を置いた。
同時に千尋は密かに外に合図を送り、珠世に斬りかかろうとした柱を狙撃するために控えていた狙撃手を木から下ろしたことを、柱たちは知らない。
「私は珠世さんも愈史郎くんも信じるわ!だって二人を見てるとキュンキュンしてくるもの!」
「そう言ってくれると助かるよ」
キュンキュンとやらが何かは知らないが、甘露寺は比較的穏健派、竈門兄妹の裁判の時だってその姿勢を見せた。
意外にも、千尋と彼女は考え方が似ているのかもしれない。
「甘露寺、君はよくここに来るのか?」
「ええ、私の刀って特殊でしょ?だからお手入れの都合でよく来るの」
甘露寺の刀は日輪刀であることに変わりはないが、極めて精巧で精密に、それでいて特殊な技法なようで、里の長である鉄地河原にしか作れない。
その上手入れも複雑で、甘露寺自身でも難しいようで、彼女は度々この里を訪れているらしい。
「……甘露寺、少し話を聞いてくれ」
「はい?」
「唐突な話で申し訳ないが、刀鍛冶の里は、あとひと月足らずで戦場になる」
「はい!?」
千尋はお湯からあがり、岩に腰をかけて話した。
今現在、千尋が鍛冶師や陸軍兵と協力して進めている作戦──誘蛾灯作戦だ。
作戦の全貌としては、鬼を特大の情報という光で誘い込み、鬼殺の炎で滅する作戦。
その情報という光というのが、刀鍛冶の里だ。刀鍛冶の里はいわば鬼殺隊の生命線。後方支援と侮ることなかれ、彼らなくしては、鬼殺隊は鬼を殺すことは出来ない。
軍需工場で日輪刀の製造は始まっているが、どうしても百年の歴史を持つ刀鍛冶産の品質には劣ってしまい、安心して鬼を狩るにはこの里は必要。それ故に産屋敷は刀鍛冶の里の場所を徹底的に隠し、鬼に特定されないようにしている。勿論、鬼もそのことは分かっているわけで、一定数の鬼が産屋敷家の特定ではなく刀鍛冶の里特定に動いていることを千尋は知っている。
光は強ければ強いほど、多くの虫を呼び寄せ、きっと凶悪な虫も呼ぶだろう。
「待って待って!?それじゃあ、刀鍛冶の里の人たちを巻き込むってこと!?」
「いや、鍛冶師たちは空里の方に設備ごと移ってもらう予定だ。設備と人が同じなら、刀鍛冶の里の機能は保てる」
鍛冶師の代わりに里に駐在するのは、鍛冶師に扮した近衛兵たちだ。顔を隠している鍛冶師は、偽装するには最適な相手だった。
だがきっと、光に惹かれて来る虫は雑魚ばかりじゃない。上弦が来ると千尋は睨んでいる。そうなれば、精鋭無比の近衛兵とはいえ相当な被害が出るだろう。上弦との戦闘には、柱が必要だった。
「今その、里に駐在してもらう柱を選定中だ。もちろん私も駐在し指揮を執るが、私だけでは力不足。最低でも三人、多くて四・五人の柱が必要だ」
西部戦線の英雄である千尋は、戦闘において有効な攻撃を行うためには相手の三倍の兵力が必要となると考えていた。
実際、戦理的に見て防御は攻撃よりも有効な戦闘行動であり、後に『攻撃三倍の法則』と呼ばれる法則も出来上がる。
誘蛾灯作戦で動員予定なのは、柱三から五名と一般隊士五名、近衛兵一個中隊の締め百七十名だ。何体の鬼が送られてくるか分からないが、上弦の鬼を中心の鬼軍が結成されるはずだ。おそらく、その上弦の中には畑中亮もいるだろう。
なので、可能な限り大きな戦力が必要なのだ。
「甘露寺、君はこの作戦をどう見る。この里をよく知る君の意見を聞きたい」
「う、うーん……私に作戦の善し悪しは分かりません……」
ガクっと、岩に腰かけていた千尋の体勢が崩れた。分からないのであれば、今までの話はなんだったのか。
「ま、まぁ、作戦の善し悪しが分からなくてもいい。細かいところは私や入山が決める。私が聞きたいのは、君の要望だ。あの設備が欲しいとか、あの装備が欲しいとかあるだろう」
「う、うーん……あ、ご飯はいっぱい欲しいです」
「食料か。大丈夫だ。一個大隊分の食料を用意してある」
飢餓の苦しさについて、千尋は熟知しているつもりだ。
欧州大戦の主な戦場、塹壕では落ちてくる砲弾や飛んでくる弾丸に脅えながら、泥水や鼠を避けて飯を食わなくてはならず、当然その飯も極わずかだった。
特にドイツは酷かった。主にイギリスの経済封鎖のせいであり、ドイツ国民約八十万人が飢餓で死んだとされている。その余波は千尋たち協商国側にも届き、ドイツ侵攻の際、かなりの食糧難に陥った。民間の農民から野菜を分けてもらう時もあったし、死体から戦闘食料を漁ったり、酷い時にはドイツ兵の死体を煮たり焼いたりすれば食べられるのではないかと仲間たちと真剣に話した時もあった。
食料は戦闘時の士気を維持し、高める効果もある。甘露寺はそれを言っているのだろう。
「その一個大隊分っていうのはよく分からないけど、いっぱいってことね?」
「ああ、おおよそ五百人分だ──」
「足りないわ!!」
意気揚々と日本軍の補給事情を話そうとした千尋を、甘露寺の大声が遮った。
足りない?何が?
「その中隊って、どのくらいなの?」
「だいたい百六十くらいだな。大隊が約五百人程度だから、一人あたり四人分食べることが出来──」
「だから、足りないの!」
えぇ……と千尋は困惑した。
これでも補給としてはありえないほど支給される。戦闘時の食料など、食べられれば幸福くらいなのに、一人あたり4人前食べてもいいなど、前線の兵士が聞いたら発狂しそうなものだ。
「いい橘さん?!その誘蛾灯作戦に来る軍人さんって、男の人ばかりなんでしょう?!」
「そ、そうだな」
「ならもっと多くのご飯が必要だわ!みんなお仕事で疲れ果ててるのに、それっぽっちのご飯しか食べられないなんて可哀想よ!一杯のお茶碗を四人で分けることになってもいいの!?」
「そ、それはダメだ!」
千尋は飢餓の苦しさを思い出し、大きな声を出した。
塹壕の中での飢餓は、それは苦しく冷たくて寂しいものだった。もう二度と、あのような経験を、日本人にさせてはならない。そう思ったのだ。
「よしわかった。一個連隊分の食料を用意しよう。陛下から頂いた近衛兵を飢えさせてはならん!甘露寺、君の助言感謝する」
千尋は目から鱗でも言うような反応で甘露寺に感謝を述べた。
しかし不思議なことに、甘露寺からの返答はない。彼女のことなら、元気いっぱいに「はい!」と返事すると思うのだが……
「甘露寺……?」
「──きゅう……」
「か、甘露寺!?おい!返事しろ甘露寺!」
大声で呼びかけるが、甘露寺から返事はない。
「『アドルフィーネ!向こうに行って一人の女性を介護してくれ!私は彼女の隠を呼んでくる!』」
「──!!」