老いたる王、ゴッドフレイに訊ねた者がいる。
若かりし日の御身と現在のゴッドフレイ王、どちらがお強いのですか、と。
ゴッドフレイの武勇を目にし、深い敬愛を懐いていたが故の問いかけだったのだろう。しかしそれは王たる者に対するには余りに不敬である。
しかしその者にはある程度の不敬が赦されていた。
老王は気を悪くした様子もなく、かといって聞き流してしまうでもなく、真剣に考え込んだ。
そして、答えた。
「今の私には経験がある。老練さ、老獪さとでも言えるものがな。……だがそんなものは、嘗ての私には不要だった。確信を持って断じよう……」
若き日のゴッドフレイ。全盛期の己は、老いた王に数倍する強さだった。王の答えに瞠目した若者に老王は苦い貌をする。若者に対してではなく、自らの老いを煩わしいと思い。
同時に。過ぎ去りし日を懐かしむ、老人らしさを滲ませて述懐した。
「私の全盛期は――暴竜ベール。奴との対峙から始まったのだろう」
† † † † † † † †
すうぅぅぅ……ぅ……と。
雑音が、消えていく。
空より暗黒の星の如く襲来した暴竜は、標的としていたはずの神人を忘れ。大地の上に雄々しい山脈の如く屹立する英雄は、担ぐ神輿である女を忘れた。
怒れる破壊者と蛮地の勇者は、互いが掛け値なしに最高の好敵手であると、目と目が合った瞬間に齎された甘い交情の末に認める。様子見は不要、最初から全身全霊を擲たねば敗れる、と。
背に噛みつき苛み続ける怨敵の双頭が、強靭な顎を動かし牙を剥く。本領を発揮しようとした暴竜を抑え込もうとしているのだ。だがそれが生じさせる激痛と屈辱すらも、激しく煮える闘争本能を熱する薪とした。背に露出した自身の骨から炎雷を迸らせ、もがれた両翼を再現していた暴竜は、千切られた左脚の代わりに尾を支えとして大地に降り立つ。
咆哮。
地面までも揺らす狂騒に返されるのも、咆哮。
暴竜ベールの雄叫びに呼応し、返礼として原始の轟音を口腔より放ったのは人中のゴッドフレイ。蛮地の勇者の始祖たる英雄は王の正装を纏ったまま、暴虐の幻像として蒸気を放出している。
対峙した暴竜の、残留思念にも似た情動が微かに蠢いた。
可視化された闘気とはなんの冗談だ。彼以外の人間なら細胞の一片も残らぬほど高じた体温が、暴竜の炎雷にも劣らぬ熱を表しているのだぞ。あの人間はどうやって人の形を保っている、どうして矮小なはずの生命が、あんなにも小さな器にあれほどの力を秘めていられる。
懐いた驚嘆混じりの感想は、ただの雑念として消滅した。
残ったのは純粋な闘争心。
種族は違えど同一の存在に対する
だが、両者は決定的に異なる者達だった。
何に怒り、何を破壊しようとしたのか。暴竜は怒りを糧に古竜の王へ挑んだ反逆者だ。
しかしこの英雄は違う。怒りではなく我欲で戦う巨悪でしかない。たとえ黄金樹の名の下に華美な誉れを得ようとも、彼にあるのは命懸けの闘争に明け暮れたいという想いだけだ。
似てはいる。けれど、根本で違う。竜と人、憤怒と貪欲。共通しているのは種の中での立ち位置だけであり、共有しているのは一騎討ちの宴だけだった。
――狭間の地に在ってすら幻想的な光景だった。
数多の飛竜と人の軍が激突し、坩堝と神肌という異形同士がぶつかり合う中で、巨雄と巨竜が相対している。後に一枚の絵画として、そしてタリスマンとして模されるに相応しい絵図だ。
対峙し、静止した両者の闘志が燃え上がっていく。一帯の気温が余波のみで劇的に上がり、陽炎が揺らめいて空気が燃えた。竜の炎雷が地面を割って噴出し、英雄の肉がギチリと力を溜める。
そして遂に、臨界へ達した。
雄叫びはあった。だが、互いの
モノクロの灰世界で、伝説的な決闘が始まった。
「■■■■■■■■■■――ッッッ!!」
二度、地面が砕けた。瞬刻の間、先んじたのはゴッドフレイ。殺意を込めて踏み鳴らした地面が乱杭歯のように割れ、指向性を持った衝撃波と共に敵手に食いつく。
だが、僅かに出遅れて始動したベールは、ゴッドフレイの地鳴らしの衝撃波に怯みもしない。小山の如き巨躯、大質量である暴竜の見かけからは想像もできない突進によって地表を捲り、至近距離から放たれた大矢よりもなお速く、標的目掛けて疾走したベールの機動力は破格である。
ベールは背部の翼の根本より露出した骨髄に、炎雷を槍の形に放出して突き出す。古竜の王の鱗を貫き血を流させた必殺の業。迎え撃つは地鳴らしを予備動作として王斧を振りかぶった英傑。突き出された炎雷の槍と、流紋の大斧が正面から激突した。本来は不定形の炎雷が大斧とまともに接触する事はない、だが彼の王斧は神人マリカの祝福を施された逸品。炎雷の槍と反発し合うように干渉して、鬩ぎ合いを成立させた。
弾ける炎雷の火花。崩壊していく流紋の大斧。弾けた火花、炎雷の余波が英雄の体皮を焼き、一部の皮膚が肉から剥がれ捲れ上がるのも気にせず、目と鼻の先で凶竜と勇者が視線を交わした。満面に笑みを湛えた戦闘狂は、ベールの凶相を目に焼き付け――己の突貫を得物の一撃で止めた勇者を竜が視る。
並外れた力と力の正面衝突は轟音と破壊を周囲に撒き散らし、両雄の脚を完全に止めた。しかし正義に味方しただけの巨悪は、強引に一歩、踏み込んだ。瞬間、ベールはまたしても見る者の目を疑わせる機動力で跳び退き様、残った右脚を起点に体躯を旋回させ、筋肉の塊である尾を鞭の如く振り抜いた。
ゴッドフレイは破損した王斧が自意識に働きかけ、再精製を待つのを意識の片隅に置きつつ、豪快に自慢の拳を振りかぶっていたのだ。そこに叩きつけられた尾の一撃がゴッドフレイをまともに捉えて、彼の巨体を藁のように吹き飛ばした。尾の一撃が直撃したのを知覚したベールは炎雷の翼で飛翔した、敵は空を飛べぬ人間、空から一方的に焼き殺すつもりだ。
しかし吹き飛んだゴッドフレイから笑みは消えない。効いたぞ、竜よ! 吼えた英雄は両足で地を削りながら慣性を殺し、片足を軸に回転しながら王斧を再精製して勢いよく投擲した。
まさか砕いたはずの得物が復活するとは思わず、まして擲たれるとは思いもしなかったベールは、この投擲に対応できず顔面へまともに受けてしまった。怪力無双たるゴッドフレイの、渾身の一投を無防備に受けたのだ。僅かに傾いだベールは、一瞬、意識を手放してしまう。それは実に数百年ぶりにも及ぶ、意識の断絶。直後に目を覚ましたベールだったが、彼は自らが墜落し掛けているのに気づくと、久しく覚えなかった危機感を呼び起こした。
気に入った! 自らの得物の性質、性能に喝采を叫びながら好敵手が大きく跳躍していたのだ。墜落していっていたベールの体に取りついた勇者が、地をも揺らす剛力で以て、情け容赦なく、そして一切の手加減なしに、全身全霊の剛拳をベールの眼球に叩きつける。
片眼が潰れる感触。暴竜ベールは絶叫しながら炎雷を迸らせ、頭を振り回して勇者を振り払わんとするが、ゴッドフレイは離すつもりはなく渾身の力でしがみついている。振り払えぬ――本能的にそう察したベールの判断は苛烈なものだった。墜落する勢いに乗り、敢えて加速して地面に突撃したのだ。
ゴッドフレイは暴竜の質量と速度による地面との接触に酸素を吐き出し、肺を空にする。吐血した彼は生涯ではじめて自らの骨が軋む音を聞いた。更に炎雷にも間近で焼かれ視界が明滅する。
死ぬ。このままでは死んでしまう。最初の好敵手に幾百、幾千も切り裂かれても健在だった肉体が死の危機を訴えた。まるでもう一人の自分に殴打を重ねられているかのような親近感に、蛮地の勇者ゴッドフレイの魂は歓喜する。これだ、これを求めていた。死を身近に感じる激闘を。
ゴッドフレイが死力を尽くす。ベールの眼窩に突き刺していた拳の先に王斧を再精製し、脳にまで届くほど深く突き刺した。言語を絶する痛みでベールの意識が散漫になった途端、彼はベールの顔面に膝蹴りを叩き込んで得た反動で無理矢理に距離を稼いだ。
自らの脳に王斧が突き立つ感触が、ベールに死を意識させた。だがまだ死なぬ、化け物じみた生命力で意識の実像を結び直した暴竜が、眼前に着地した英雄を強靭凶悪な顎で噛み付いた。
躱せぬ。目の前に広がった、暴竜の口腔。柱のような上下の牙を、両手で掴んでなんとか防ぐ。力は完全に拮抗していた。グググ、と噛み砕かんと顎を動かす暴竜と、グギギ、と己の歯を砕きながら踏ん張る英雄の力が。しかし、ここで種族間の差が出る。暴竜は食いつけぬ拮抗状態をよしとせず、閉じられぬ口腔から炎雷のブレスを吐き出したのだ。逃れられないゴッドフレイは、これを正面から食らってしまう。
英雄が、勇者が、神人の伴侶が絶叫する。断末魔の叫びに近い。見守っていたマリカが堪らず聖印を用い、王を癒やさんとした。だが、ゴッドフレイはまだ死んでいない。彼は全身を地獄の業火に焼かれてなおも闘争心を萎ませず、むしろ一層強く燃え上がらせて炎雷のブレス、その奥へ身を投じたのだ。
ブレスを吐く以上、ベールも顎の力を緩めずにはいられなかったのである。そこに活路を見い出したゴッドフレイは、自らが焼き尽くされるより先に暴竜の口内に入り分厚い舌を掴んだ。そして生物の反射として、ベールが嘔吐の感覚に襲われ炎雷が弱まったのを見計らい、口内より出るなり力任せに引き出した竜の舌を千切り取ってしまう。
両雄はもはや叫びすらしない。
ベールの精神は痛みを凌駕した。
ゴッドフレイの神経は好敵手にだけ割かれた。
全身が焼けただれ、それでも人の形を保つ『力』の体現者。
僅かとはいえ脳を破壊され、片目を失い、舌を千切られてなお死なぬ竜種の頂点。
――何かを叫び、脇目も振らず飛来した何者かの赤雷の薙刀がゴッドフレイを狙う。
横槍だ。
しかし、何かがゴッドフレイの肩を踏んだ。
古竜セネサクスが暴竜の危機に馳せ参じようとしたのを、影従マリケスが好機と見てゴッドフレイを足場にしたのだ。空を飛び回る古竜に、飛べぬ黒獣は苦戦を余儀なくされていたらしい。
ゴッドフレイは大きく跳躍した黒獣を一瞥し、ベールは駆けつけようとした古竜を横目に見た。反応は、それだけ。再び対峙した人と竜の頂点達は早くも限界に近づいている自分を認識する。
満足のいく力を発揮できるのは後少しの間だけであり、あとは下り坂に入って、だらだらと愛撫を重ねるだけの不毛な戦いになると察したのだ。それは、無粋である。だから、これまでだ。
「――もっと、早くに。そして、最初に戦いたかった」
(…………)
惜しむように、ゴッドフレイは呟いた。溶け落ちた鎧の名残りを払い、無手で相対する。
ベールはゴッドフレイと戦う前から深手を負っていた。それで戦闘力が落ちている訳ではないにしても継戦力は激減しているだろう。ベールが深手を負ってさえいなければもっと長く戦えた。相手の状態を鑑みて、こんなにも決着を早めようと急ぎたくなかった。ゴッドフレイは恨む。自分よりも前に、こんなにも強いベールと戦った存在を。
暴竜は人間の嘆きを見て、どこまでも闘争を希求する様に共感したのか。今まで以上に、自身の背に齧りつく双つの頭を、怨敵を憎んだ。そして、暴竜は無造作にゴッドフレイに迫ると、無防備に背を向ける。ゴッドフレイはなんのつもりだと訝しむが、なんとなく意図を察して失笑した。
なるほど、悪くない。我らの最後に
ゴッドフレイは、得難い好敵手の背中に飛び乗り、彼に噛みつき苛み続けている無粋な輩の残滓を睨みつけた。そしてその顎を蹴り砕き、無理矢理に双頭を引き剥がすと地面に捨てる。
勇者が暴竜から飛び降りると、ベールは振り返り目礼する。長年己を憤怒に駆り立てた重荷から、ようやく解放されたとばかりに――否、己の最期に無粋なノイズが混じらぬようにできたと、暴竜は久しい清々しさを思い出す。嘗て何も想わず飛んだ空を回想して――炎雷が、迸る。
ゴッドフレイは軽薄な笑みを消した。そして、満身より力を集め、握り拳を掲げる。ベールもまた姿勢を低くし、顎を閉じ、力を溜めた。渾身の、最後の攻撃のために。
数秒。あるいは、数時間。ともすると数年もの間、睨み合っているかのような緊迫感。
どちらともなく、同時に地を蹴った。自らを炎雷の槍として一直線に突撃したベールは、まさしく怒れる破壊者の残照である。嘗て古竜の王に深手を与えた、暴竜ベール最大の攻撃だ。
対するゴッドフレイの進撃は、なんの雑念も秘めぬ純然たる力の結晶。生まれ持った力のみに屹立する強者の自負が、如何なる小細工も許容せず、混じり気のない純粋な力の塊を解放した。
その交錯は、血と肉と、命の煌めきに彩られていた。
暴竜の巨体に、大きな風穴が空いている。
巨雄の肉体から、片腕が失われている。
崩折れた暴竜を背に、掴み取った心臓を蛮人は見た。
「俺の勝ちだ、ベールよ」
脈々と蠢く心臓が、思念を醸す。喰らえ、貴様にはその資格がある、と。
よかろう。ゴッドフレイは頷いて、暴竜の心臓を一口に飲み干した。
流れ込む様々なもの。ゴッドフレイは、一際強く脈打つ己が心臓の鼓動を聞いて、そのまま仰向けに倒れた。力を残さず使い切ったのだ。気持ちよく、眠れそうだとゴッドフレイは思った。
「破壊者の追憶」
喰らい尽くした心臓を介し、ゴッドフレイに刻まれた暴竜ベールの追憶。
嘗て、エルデの王に挑んだ竜がいた。何かへ怒り、破壊せんとした凶竜が。
共に傷つき倒れたベールは、自らの背に食いつき続ける怨敵の首に怒りを募らせ、末に邂逅した英雄との死闘の中で怒りを忘れた。
前史の痕跡に、古竜は無辜なる善だった証はあるか。飛竜が悪だと明かせる印はあるか。
古竜が善でなく、飛竜がただ敗者となったに過ぎないのなら、凶竜と謗られし者はなぜ怒る。
強すぎた怒りで記憶まで摩耗し、真実はベールにも思い出せない。だが一つの執着があった。古竜の王にしてエルデの王。嵐の王たるプラキドサクスとの再戦である。
誓いは、確かに勇者へと受け継がれた。
「勇者のタリスマン」
黄金律成立以前、凶竜を破った勇者の姿を模したタリスマン。
全ての近接武器による与ダメージを最も大きく上げる。
古竜の王に叛いた反逆者の怒りは、対峙した好敵手との一騎討ちにて鎮められた。暴竜ベール、彼は自らを敗死に追いやったのが、縁もゆかりもない勇者であることを救いと捉えた。
力こそ、王の故である。有り余る力に王たるを見い出したベールは、その心臓を与えた。いつか共に挑まん、古竜の王へ、嵐の狭間にて。